母と子、泡沫
「ねぇお母さん、どうしてボクにはお父さんがいないの?」
その質問は、本当にただ純粋に疑問だったから。
母を困らせようと思ったとかそんな事はなかった。
けれども母にはやはり困った質問だったのだろう、と今ならわかる。
同世代の友人がいたわけでもない。自分の周囲は大人ばかりで。けれどその大人たちの会話からなんとなく、本当になんとなくで疑問を持ってしまったのだ。
今度こどもが産まれるなんて話してた人。
両親にいい暮らしをさせたいと言って自分には何だかわからない難しい仕事をしていた人。
親が死んでしまった人と、子が死んでしまった人。
周囲にいた大人たちの会話から、こどもには母親と父親がいるものなのだと学んだものの、じゃあどうして自分にはいないんだろう? と思ったのだ。
もしかして既に死んでいるのだろうか。それなら仕方ない。
けれど、もし。
もし生きているのなら。
どうしていないんだろう?
自分一人で考えたところで答が出るはずもない。
答をしっているのは母なのだから、知るためには聞くしかない。
だからこそ、その質問は必然だった。
母は、今ならわかるが当時はどうしてか困ったように眉を下げ、そんな質問を投げかけたボクをそっと抱きしめた。きっと顔を見られたくなかったのだろう。当時はそんな事思いも浮かばなかった。けれど今ならわかる。その質問がいつかされるであろう事を母は理解していた。けど母の予想していたその日はきっともっと先だったはずだ。
幼いボクを抱きしめたまま、かすかに震える声で、それでもどうにか平静を保とうとして母は――
ごめんなさいね。
お母さんが悪いの。
お母さんがね、あの人から逃げたのよ。
そんな風に言っていた。
「逃げたって? お母さん、何か悪い事しちゃったの?」
やめときゃいいのに幼い頃のボクは大変頭が悪かったのか、何にも考えてないだろう言葉を口に出す。考える時間もなくノータイムで思った事を口に出すとか今なら……いや、今でもたまにやらかすけど、それにしたって当時の方がもっと酷い。
そうね。
誰が悪いかって話になると、私が悪いわ。
悪い事をしたとまでは思ってないけれど、あの人からすれば悪いのは私なの。
あの人を騙したのは私。
あの人を裏切ったのも私。
本当の事を言う勇気を持てなかったの、私は。
流石にここまで言われたら、もうそれ以上何も言えなかった。もっと早くにその場の空気を把握して余計な言葉を紡ぐのをやめればよかったのに、母を追い詰めたのは紛れもないボクだ。
あの人に会う事はもうきっとないけれど、それでも私には貴方がいるから。
それでいいの。
……お父さんに、会いたい?
本当は気になった。気にならなかったらそもそもどうしてお父さんがいないのなんて聞いてない。
会えるなら、会ってみたいな。
けれどその言葉は口に出せなかった。
だしたら、何だか酷く母を悲しませてしまいそうで。
だから、抱きしめられた状態のままそっと首を横に振った。
そんなボクの態度に母はホッとするでもなく、ただ一言、ごめんねと謝るだけだった。
その後は、いろんな話をしてくれた。
主にボクの父親に関する話だ。
母から語られる父の話。
聞けば聞くほどどうして母は父から離れてしまったのか。余計に疑問が深まった。
だって、どうしたって母はまだ父を愛している。母から聞いた父だって母の事を悪くは思っていないようにみえる。これで父が母を嫌っているのであれば、逆に凄い。何もかも信じられなくなりそうな勢いで人間不信に陥りそうだ。
でも、きっとそうじゃない。
そう思えた。
そうなるとやっぱり疑問は同じところをぐるぐると回る。
だって、母の語る父であるならば。
母が離れる必要なんてどこにもないように思えてしまうから。
だから、母が意図的に語っていない何かがあるのだと気付いてしまった。
気にはなるけれど、流石にそれを聞く事はできなかった。聞いたら絶対困らせてしまうから。もしかしたら泣かせてしまうかもしれない。
母が父の事を語るその声は、とても幸せそうで、でもとても辛そうで。
既に聞きづらい事を聞いてしまっている。これ以上、表面上は平穏を保とうとしている母を追い詰めたくはなかった。
その後は……その後はどうしたんだったか。
確か……
その後の事を思い出そうとして、そこでルフトは目を覚ました。
そうして夢かと理解する。起き上がり家の中を見回すも、何かの用事で出ているのか家の中にどうやら今は自分一人だけのようだ。
不覚にも色々と考え込みすぎて知恵熱出して倒れるとか、正直恥ずかしすぎるがやらかしてしまった事はもう今更どうにもできない。
幸いにも共に行動しているメンバーは誰一人としてルフトが倒れた事に否定的な反応をしなかった。
その事に関して、どういう反応をすればいいのだろうか。
役立たずと罵られるのも腹立たしいが、けれどもしょうがないよね、と受け入れられるのも何かが違う気がした。我ながら面倒くさい性格だというのは理解している。
思えば幼い頃はあまり身体が頑丈じゃなかったから、季節の変わり目にはよく体調を崩していた。そんな時は母が付きっきりで看病してくれていたっけ……
母と引き離されてから体調を崩した後の事は思い出したくもない。
上半身を起こして、何となく枕に触れる。
冷たすぎないがひんやりとした感触は確かにある。魔法で冷やされたそれは熱を持った頭を適度に冷やしてくれていた。それはまるで昔、熱を出した時に母が額に触れてくれた時のようで。
あの時の母の手も、ひんやりして気持ち良かった。
汗をかいてしまった身体を拭いてくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた母。昼も夜も付きっきり。
生憎と今は仮面をつけたままだから、額に浮かぶ汗を拭うなんて事にはならなかったけれど。
でも、こっちの意思に関係なく勝手に外されてしまうかもと内心で思ってはいたのだ。そうなったらどうしようかとも。
しかし実際はそんな事にはならなかった。あくまでもこちらの意思を尊重されていた。
定期的に汗を魔法で乾燥させてくれたので、べたつくといった不快感もない。
魔法って、そんな事のために使うようなものだったっけ……? と思ったけれど、それがなければきっと今頃は服を脱がされて直接身体を拭かれていた可能性が高い。
仮面を外されるのも、人前で肌を晒すのもどちらも御免被る事だったので彼が看病を買って出てくれた事に感謝すべきなのだろう。
内心少々複雑ではあるのだが。
ルフトの目から見たルーカスは、到底人付き合いを喜んでするようなタイプには見えなかった。常に共にいるハンス相手であってもどこか一線を引いているように見える。だからこそ、そのハンスよりも関わった時間がもっと短いルフトの看病なんてするはずもないと思っていた。
実際その思いはあっさりと裏切られたけれど。
「なんなんだ……意味がわからない……」
もっと冷淡な人であればよかった。
それこそ最初、ハンスを腰ぎんちゃく呼ばわりした時のような態度をずっと続けていてくれれば。
そうしたらこちらもそれはそれ、と割り切れたのに。
今現在、誰も家の中にいないのもあってルフトは仮面をそっと外した。そうして目のあたりを拭う。
まだ、体調が本調子ではないのかもしれない。変に涙脆くなっていて困るな、なんて言い訳を浮かべながらごしごしと乱暴に拭って、そうして仮面をつけなおそうとしたところで――
「ルフトくん加減はいかがですか――っと」
一切の悪気がなさそうなハンスがドアを開け、そうして家の中一人佇むルフトを見てしまった。
「あ……」
気まずそうなハンスの声。
見られた。
見られてしまった。
そう判断したルフトの行動は早かった。
速やかにハンスに近づいてまずはドアを閉める。
そうして直後に――
「ぐあっ!?」
容赦なくハンスを殴り飛ばした。閉められたドアにぶつかって後頭部を強かに打ったハンスはその場で踏み止まる事もなくずるずると頽れる。
「今見た事は誰にも言うなよ。約束できないならこの場で殺す」
なんで、と言いたげなハンスがかろうじて顔を上げてルフトを見上げたが、そのなんで、の疑問に答えてやる義理はない。ただただ冷ややかな声で告げて、ハンスの反応を見る。
ハンスもルフトが本気で言っているというのだけは理解できた。ここで約束できないと言えば、本当にルフトはハンスを殺すだろう。
ハンスとしては殺されるような事なのか……? と思ってもいたが、余計な発言は己の寿命を縮めるだけだと理解できていた。だからこそ、どうにか痛む頭にこれ以上の衝撃がこないよう気を付けながら小さく頷く。
その場しのぎであったとしても、とりあえずはそれでよかった。
何事もなかったようにルフトは仮面をつけなおす。
そうして手荷物の中から傷薬を取り出した。
「生憎ボク、魔法は得意じゃないのでせめてこれ、使ってください」
声だけはとてもにこやかに。
しかし仮面の奥の視線は冷ややかに。
ハンスもそれに気付いていたのだろう。震える手で差し出された傷薬を受け取っていた。