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折茂陽子-6

 突然すぎて、あたしは言葉を失った。頭が真っ白になり、混乱する頭のまま、両足は筋肉を一気に収縮させてそのまま強く床を蹴り、駆け出した。



「陽ちゃん、いつも遊んでくれて本当にありがとうね。ほんとに」


 おばさんは玄関先で涙ぐみながらそう言った。

 楓ちゃんは奥から出て来なかった。


 あたしは、お母さんから陽たんが引っ越しすると聞かされて、楓ちゃんの家へと走ってきていた。ちょっと待ってと止めるお母さんの声を背中に置き去りにして。

 全速力で通りを抜け、のろのろ走る自転車の合間を縫って、汗が落ちるのも気にせず、光の速さで駆けた。

 それなのに。

 あたしは楓ちゃんに会いたかったのに、楓ちゃんは玄関まで出てきてはくれなかった。あたしは玄関先でのおばさんのありがとうしか聞けなかった。


「楓ちゃん!」


 あたしは楓ちゃんがいるであろう奥へ向かって叫んだ。あたしは楓ちゃんに会いに来たのだから。それでも楓ちゃんから返事はなかった。


「何でやのん? 一昨日給水塔で会ってたばっかやん! それなら何で一昨日に言うてくれへんかったんよ。楓ちゃん!」


 あたしがもう一度そう叫ぶと、隣の部屋の扉が開いた。


「うるせえよ、ガキ」


 ぼさぼさの髪を掻きながら、大人の男の人があたしを睨んだ。あたしの目には涙が滲んでいた。


「あ、すみません」


 おばさんが申し訳なさそうに隣人に頭を下げる。あたしには、こんな頭ぼさぼさのおじさんなんて関係なかった。


「楓ちゃん!」


「うるせえって、ガキ!」


 あたしは睨みつけた。頭ぼさぼさのおじさんが少し怯むのが分かった。


「……陽ちゃん、ごめんね」


 だが、声むなしく、おばさんの小さな声とともに、楓ちゃん家の玄関扉はゆっくりと閉まった。

 結局、あたしは楓ちゃんの声さえも聞くことはできなかった。


 翌日、楓ちゃんは風のように去ってしまった。学校に来ていないことを確認して、あたしは全速力で下校した。嘘であって欲しいとの願いに、僅かに希望を込めて。

 楓ちゃんの家のチャイムが応答することはなかった。扉の向こうで、しん、とする音が聞こえていた。本当に転校してしまった。頭でそう理解しようとしても、現実を受け入れられなかった。


「お母さん! 何ではよ言ってくれへんかったん!」


 あたしは帰るなりランドセルを投げつけ、お母さんへ怒鳴った。

 返事はしばらく無かった。カタリ、カチャリ、と食器の音だけがリビングに響いた。


「……ごめん。……わたしも本当に昨日聞かされたんよ」


 お母さんは何かを隠した。あたしはそう思った。頭がぐちゃぐちゃになって、時計がぐるぐる回っているように見えた。この針が反対に回れば良いのにって、そんなことを思っていた。


 独りでてんとう虫公園のてんとう虫の上で風に吹かれていた。二台のブランコには幼い兄妹が乗っていて、それを柵に腰かけたお母さんが愛しそうに眺めている。

 別れを惜しむ暇すらなかった。このてんとう虫の背中で色んなことを楓ちゃんから教えてもらった。あんまり勉強ができない楓ちゃんに勉強をたくさん教えた。テレビの話をたくさんした。楓ちゃんが持ってきた図鑑で、一番かっこいい恐竜を決めた。


「陽たん、時々パスした方がいいよ」

 楓ちゃんがそう言うと、次の日の体育では必ずあたしたちのチームが勝った。


「楓ちゃん、漢字には成り立ちがあるんよ。漢字覚えるんちゃうくて、どんな形が漢字になっていったか覚えたらええかも」

 あたしがそう言うと、楓ちゃんは翌日の漢字テストで80点を取った。

 あたしたちは小さなお互いを補完し合い生きてきたのだ。これからもずっと続くものだと信じていた。

 もう、楓ちゃんはいない。補完し合えないのはもう仕方ない。でも、一言だけ言いたかった。


「ありがとう、楽しかったよ」


 五年生もあとは三学期を残すのみとなった。明るいのが取り柄だったあたしは、落ち込んだまま三学期を過ごした。楓ちゃんが転校して寂しかった。それも、ある。

 ただ、頭の中には違う考えがあった。楓ちゃんは転校したくて転校したのだろうか……。あたしは、三学期の間ずっとそれを考えていた。




「陽子、ちょっとこっちおいで」


 夕食を全て平らげてソファにもたれていた。六年生の二学期も半ばを迎えた頃、お母さんからあらたまったように呼ばれた。宿題のこと? 何かしただろうかと不安になりながらお母さんへ応える。


「ん、なに?」


 お母さんは真剣な顔をしていた。テレビを消して、珍しくダイニングにお父さんと並んで座っている。

 嫌な予感がした。


「なに?」


 ことりと小さく音を立てて椅子を引いた。あたしを呼んだのに、二人ともがその用件を伝えるかどうか迷っているようだった。顔を見合わせ、お父さんが口を開いた。


「仲良くしてた楓ちゃんのことだ」


 お母さんの辛そうな顔が胸にとくんと響く。


「本当は、楓ちゃんと楓ちゃんのお母さんから止められてたんやけどね……」


 お母さんが一通の手紙を差し出した。あたしが楓ちゃんにあげた誕生日プレゼントのキャラクターと同じ封筒だ。


「陽子には正義感を持って生きてほしい。今、知っておいた方が良いと思った」


 お父さんがあたしに目で合図して、そのかわいいキャラクターの封筒を開けるように促した。


『高こう生の陽たんへ』


 声が出なかった。楓ちゃんの特徴的な角ばった字が罫線にしっかり乗っている。あたしと練習した字は全て漢字で書かれてあった。内容は、頭に入ってこなかった。ところどころにあたしの名前があった。


『陽たんにめいわくかけたくないから……』


 そんな言葉がいくつも並んでいる。じっと、あたしは楓ちゃんの字に目を落としていた。次第に手紙を持つ両手が震えてくる。お母さんがそっと告げた。


「楓ちゃん、ひどいいじめにあってたんよ」


 手紙はよく見ると、端のほうが波打っている。消しゴムで何度も消した痕がある。楓ちゃんが必死に書いた手紙だと分かった。そりゃ、そうだ。あたしたちは幼稚園からずっと一緒だったんだ。どうやって楓ちゃんがこの手紙を書いたのか、あたしにはよく分かった。目から溢れる涙を腕で拭きながら書いてくれたんだ。手に取るようにその情景が浮かんでくる。

 楓ちゃんはいじめられていた。あたしは、助けてあげられなかった。楓ちゃんはひどいいじめにあっていたんだ。それなのに、この手紙にはいじめのことが書いてないじゃないか。あたしは腕の震えを止めることができない。誰にいじめられたのか、書いてないじゃないか。こんなにも優しい楓ちゃんを、何故あたしは救ってやれなかった。あたしは初めて大声をあげて泣いた。

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