折茂陽子-3
ある日、同じクラスの石川優芽があたしに話しかけてきた。
「陽子な、この前さ、てんとう虫公園おらんかった?」
「ん、おったよー。何で?」
優芽はにやにやとしながら、前の石橋くんの席に平然と腰をおろしている。教室の隅にいる石橋くんが、恨めしそうに優芽へ向かって口を尖らせているのが見えた。
「月島さんと一緒やったやろ?」
「楓ちゃん? んあ、一緒おったよ」
「せやんな! やっぱりやんな」
優芽はそう言うと、石橋くんの席をガタンと乱暴に鳴らして教室の後ろへ向かった。ランドセル置きの棚に数人で腰かけ、何やらきゃっきゃと話し込んでいる。
石橋くんは口を尖らせたまま、斜めになった自分の席を戻してどさりと腰かけた。しばらくして、優芽たちは隣のクラスへわあわあと駆けていった。楓ちゃんのいるクラスだった。
そういえば、いつからか優芽たちと一緒にいると、楓ちゃんはそっとあたしを離れるようになっていた。
「楓ちゃんは合う合わんがはっきりしとるかもしれんねぇ。特に大勢の時は楓ちゃん苦手かもしれんね」
お母さんがそんなことを言っていたのを覚えている。昔は楓ちゃんにあたし、それに優芽たちも含めて七人くらいで遊んでいた。大勢がやっぱり苦手なんやろな、とその頃は思っていた。
その日は楓ちゃんと遊ぶ金曜日だった。放課後、あたしはランドセルを置いて楓ちゃんの家に向かう。今にも雨が降りそうで、今日は楓ちゃんのお家でゲームかなぁ。そんなことを思いながら通りを駆けた。
楓ちゃんが住む団地はところどころ外壁が剥げて、至るところに恥ずかしげもなく下着が干してある。住民のほとんどは高齢者だった。オートロックの無いガラスの片開き戸を強く押す。とっても重くて、身体を預けるように押した。楓ちゃんの家は三階だ。コンクリート打ちっぱなしの階段は隅っこにエフロレッセンスが出ていて、どこからか水が染み出している。斜めに曲がった「3」の表示版を確認して、廊下を進む。
306号室の前に立つと、嫌な感じがした。なんだか、そんな気がしたんだ。
ピンポーン
チャイムを鳴らすと、玄関扉の向こうに人気があるのが分かった。しばらくの静寂を待ち、あたしはもう一度チャイムを鳴らした。
ピンポーン
あ。
あたしは小さく声を漏らした。玄関扉の向こうから人気が消えたのだ。俯いて待っていると、細く扉が開いた。
「……陽ちゃん、ごめんね。楓、熱が出ちゃったのよ」
おばさんはそう言って困り顔をしていた。
おばさんが嘘をついているのが分かった。その嘘があたしは嫌だった。楓ちゃん! そう叫ぼうとする喉元を抑えて、あたしはおばさんに向けて笑った。
「うん、じゃあ、楓ちゃんにお大事にって」
「うん……陽ちゃん。……ありがとう」
おばさんは嬉しそうに泣きそうにそう言った。よく分からない。それでも、あたしは奥にいる楓ちゃんを呼ばなくて良かったと思った。楓ちゃんがそうしたかったのだから。
とぼとぼと家路につき、ただいまと玄関扉を開けると、お母さんは誰かと小声で電話をしているようだった。
あたしがリビングへ入ると、お母さんはひとつ間を置いて「おかえり」と言った。「あれ? 帰ってきたの?」ではなかった。
「遊ばれへんかった。楓ちゃん、熱出たみたいやわ」
「……そうなん? 楓ちゃん、大丈夫かねぇ」
取り繕うようにお母さんはお米を研ぎだす。
「うーん、なんか……ほんまやろか」
「何が?」
お米を研ぎながらお母さんはこちらを見ない。
「ほんまに体調悪いんやろか。なんか、おばさん嘘ついとったかも。そんな気がする。あたし、知らんうちに楓ちゃんに悪いことしてもうたんかな」
お母さんはそこで初めてあたしの顔を拝んだ。小さく笑い、「それはないわ」と言った。「どっちのこと?」とあたしが問うと、お母さんは少し考え、「あんたが悪いことしてもうたんかなってのはないわ」と応えた。
ふと、壁に目がいった。カレンダーが貼ってある。夏休みの名残のまま過ごしていたが、いつの間にか九月の半ばになっていた。あたしは不審なお母さんのことを忘れ、別のことで頭がいっぱいになった。
「大変や、お母さん! デパート連れてって」