折茂陽子-2
今思えば、最初の違和感は小学校三年生のとある日に訪れていた。
家のおもちゃでひと通り遊ぶと、お互いに外で遊びたくなった。目と目を合わせるだけで同じ意見だと分かる。
「おばさん! 楓ちゃんと公園行ってくんね」
「うん、もう暗くなるから一時間したら帰ってきてね。楓、時計が五時になったら陽ちゃんと帰ってくるんよ?」
楓ちゃんが住む団地の階段を駆け降りると、まだまだ太陽はぎらぎら降り注いでいた。通りに出ると、アスファルトと土と草の匂いが次々に鼻を襲った。
楓ちゃんは首からぶら下げた大きな時計を見た。おばさんが書いた「いちじ」「にじ」「さんじ」といった字がベゼルに貼られている。まだ楓ちゃんは時計を読めない。その訓練だろう。
「陽たん、向こうの公園に行こう」
赤い自転車に跨がった楓ちゃんはおそらく、ここから少し遠い公園を指差した。
あれ? またか。
あたしはこの時、小さくそう感じたのを覚えている。
「あ、うん。てんとう虫公園やんね。いいよー。楓ちゃんさ、最近てんとう虫公園好きやんな」
「うん、うちはあっちが好き」
楓ちゃんの家からすぐのところに織笠町第一公園という公園がある。大きな時計台と大きな滑り台、ブランコは六つもある。あたしたちは知り合った頃からずっと第一公園で遊んでいた。遊具もたくさんあるうえに、喉が乾いたら水飲みもちゃんとある。だが、いつからか、楓ちゃんは第一公園ではなく、家からずいぶん離れたてんとう虫公園を好きになった。
「空いとるし」
楓ちゃんはてんとう虫公園を好きな理由を笑いながらそう言った。その時は第一公園を嫌いになったとは言わなかった。
てんとう虫公園には二台だけの木製ブランコと小さな滑り台、それにてんとう虫の形をしたコンクリート製の山だけがある。当時は真っ赤なボディーに大きな黒い斑点が綺麗に塗られていたのであろう。今のてんとう虫は、ところどころ色が剥げて痛々しく見える。
あたしたちはそのてんとう虫に昇って、何することもなしにお喋りをしていた。
見上げた雲が遠くの空へ消えた頃に、思い出したようにブランコに乗る。草むらへ駆けると、小さなバッタやてんとう虫を探して指に乗せては跳んでいく姿を見守った。その度に楓ちゃんから、てんとう虫の名前をたくさん聞いたものだ。小さな時計台の針が五時を差しそうになると、あたしたちは慌てて滑り台を滑った。それはそれで楽しい時間ではあった。
だが、いつもいつもだと、やっぱり他の遊具でも遊びたくもなるとのだ。てんとう虫公園が定番になってきた三年生の終わり頃、あたしはさすがに飽き始めて楓ちゃんに訊ねた。
「なあなあ、楓ちゃん。今度は久し振りに第一公園で遊ばへん?」
少しだけ楓ちゃんは答えに迷ったようだった。
「んー、あっちはブランコも順番待ちやし、うちはてんとう虫が好きやわ。陽たん、つまらん?」
「んーん、ええけど……」
幼稚園の頃からずっと一緒。けれど、小学校三年生から徐々にあたしたちの会う場所は限られ始めていた。楓ちゃんの家とてんとう虫公園。学校でも時折ふらりと楓ちゃんは、あたしたちから離れるようになっていた。
何でだろう? その疑問はまだ湧いていなかった。
あれは五年生になったいつかのことだった。
あたしの交遊関係は広がっていき、幼稚園から続いていた楓ちゃんとの同じクラスも、この五年生でついに途絶えていた。それでも、あたしは楓ちゃんといると落ち着いた。決まって金曜日だけは必ず楓ちゃんと遊んでいた。
相変わらずてんとう虫に昇って、何の話をしている時だったか。そこまでは覚えていない。テレビの話でもしていたのかもしれない。ふと、公園の入口から人の声がした。あたしは入口に背を向けていて、声の主が誰なのかは分からなかった。
楓ちゃんは突然すっと首を引っ込めて、小さな声で言った。怯えているように見えた。
「あ、陽たん。給水塔行かへん?」
そう言ったとたん、楓ちゃんはてんとう虫の背中を公園の入口とは反対方向に滑り降りた。こっちこっちとあたしへ手を振る。慌てて楓ちゃんの方へ滑り降りて後を追う。楓ちゃんは何かから逃げるように、公園周りを覆ったゴールドクレストを掻き分け、公園を出た。そのまま駆け出していく。
「ちょ、楓ちゃん、待ってえよ」
遠くにベージュ色の給水塔がそびえ立っている。てんとう虫公園からはポツンと点のように見える。あんな高いところまで。給水塔なんか行ったら暗くなる前にお家帰って来られへんのちゃうかな。そう思っても、楓ちゃんは早足を緩めてくれそうにない。
路地を曲がり、近道で擁壁を昇って、坂道の住宅街を駆けたところでようやく追いついた。楓ちゃんは普段あたしよりずっと足が遅いはずなのに、その時の楓ちゃんは速かった。やはり何か恐ろしいものから逃げるように。汗が飛び散り、息が切れる。
何も喋らず駆ける楓ちゃんとただ並んで走るうちに、給水塔の真下まで来ていた。
「着いたぁ」
やっと楓ちゃんはホッとしたような眼差しをあたしに向けてくれた。二人で顔を見合せ笑った。返事しようにも、息が切れて声が出ない。二人一緒に給水塔の螺旋階段を昇った。あたしも楓ちゃんもぜえぜえと低い息を切らしていた。
給水塔のへりに着いて足を投げ出し、二人で胸を大きく膨らませる。
「……つ、疲れたわぁ……楓ちゃん」
途切れ途切れに言いながら楓ちゃんに顔を向ける。
「はあ……はぁ……。やね。ごめんやで。でも、ここ、陽たんに見せたかったんよ」
真上を見上げたままの楓ちゃんは、嘘っぽくそう言った。横目に見えた楓ちゃんの唇は小さく震えていた。
夕暮れの空に白い月が顔を見せていた。二人で息が整うまで寝そべっていると、いつの間にか楓ちゃんの唇の震えは止まっていた。
「陽たん、見えるやろか。星、ほら、ちょっとだけ見えてるわ」
楓ちゃんは言った。
「楓ちゃん、そんなんより、帰らんと怒られるで」
「ん、ダッシュで帰ったら大丈夫やよ」
仕方なく楓の指差す空を眺めた。小さな薄い星が浮かんでいる気がした。ほんのり赤っぽく見える。
「あれ、アンタレスやわ」
あたしの目線に気付いたのか、楓ちゃんは薄く光る星を見つめて言った。
「アンタレス?」
「うん、さそり座の星。陽たんの誕生日10月25日やろ? やから陽たんの星やよ。しかも赤い星。アンタレスこそ陽たんの星やわ」
楓ちゃんが嬉々とした表情で空に目を細めている。
「そうなんや、よう知っとるね楓ちゃんは。学校でも星好きや言うてたもんね」
「うん。うちな、星が好きなんよ。ひとつひとつ、めっちゃ距離は離れてんのに、こっちから見たらみんな一緒やろ? 星って仲間としてみーんなおんなじ。うちはそれが好きなん。憧れやわ」
あたしは楓ちゃんの言葉の意味が分からずに、うん、とごまかすように頷いた。
「ええなぁ。ちゃんと居場所があって。星は逃げたりせんでええ。ずっと同じ場所で地球が回るのをじっと見てはる」
そう言って楓ちゃんはすっくと立ち上がった。見上げた楓ちゃんの向こうはいつの間にか夜の空だ。
「帰ろか」
「うん、帰ろ。怒られるわ」
「うん、ごめん。でも、陽たんに星見てもらえて嬉しいわ。また来よう」
「うん!!」