石川優芽-5
しん、と静まりかえってそのままチャイムが鳴ったのを覚えている。誰もが声を出さず、ギギ……と力のない音を鳴らしてそれそれが席についた。
授業中でも、みんなの気まずさを感じていた。ぴりりと教室の空気に亀裂が入っている。次の休み時間になっても皆が緊張を解せないでいた。あたしは机の下で拳を握り、ただただ考えていた。陽子に嫌われたくない、と。
「おーい、どうしたのよぉ。何か今日みんな元気ないじゃない」
担任の井川先生が教務手帳を教卓に置き、少しため息をついた。何より明るいのが大好きな先生だ。どんよりとしたこの六年一組の雰囲気を察し、授業を少し止めた。
「何かあった? 言ってごらんなさい」
事情を知らない男子たちが隣の席や後ろの席を向き、思い思いに話し始める。対照的に女子たちの空気は重い。悪いことをして見つかった後のような、各々が下を向いて押し黙っていた。
ふむ。井川先生はひとつ小さく頷き、「喧嘩でもあったかしら。じゃあ、とりあえず国語が終わってからホームルームで聞くわね」と言い、ちらりと陽子の方を見た。リーダー格のあなたに頼るわよ。そういった目配せに感じた。
陽子がホームルームで弾劾する。あたしたちを……。あたしは顔をこわばらせ、頭に入ってこない国語の教科書をただ眺めていた。
「はい、じゃあ、さっき雰囲気おかしかったわよね。何かあったなら言ってごらん」
井川先生が陽子へ目を向ける。だが、陽子は下を向いたまま井川先生と目を合わせない。
「なにも……ないの? 先生、言ってるやろ? 気になることは我慢せずに言うたが良いって……」
それでも、ホームルームで陽子は何も言わなかった。担任の井川先生は不満げだったが、誰からも提言がなければ仕方ない。
バンッ
教壇に教務手帳をわざと音を立てて置き、ホームルームを終わらせようとした。
ほっと息を吐く。一応、やり過ごすことはできた。そう思った時だった。弱々しく前の方の席から手が挙がったのだ。晶紀だった。
「……先生……」
晶紀は泣いていた。
「えっ、どうしたんよ、柴田さん」
井川先生が慌てて終わろうとした雰囲気を戻す。がたりと椅子が引かれ、晶紀はゆっくりと立ち上がった。
「あたしたち、月島さんをいじめていました」
男子がざわざわと騒ぎ始める。対照的に女子は静かだった。陽子だけがしっかりと背を伸ばして座っていた。
「……そうなのね。月島さんはもう転校してしまったから、今さらどうしようもないけど……。それを正直に言った柴田さんは偉いと思うわよ。けど、柴田さん、何で今なの?」
晶紀は何も答えなかった。ただ、しくしくと泣き、立ち尽くしている。井川先生は困った顔をして生徒をぐるりと見渡した。ギギギ……。井川先生が驚いて椅子の鳴った方を見ると、悠子が立った。続いて、凉子が、京香が、静かに席を立つ。男子たちは騒然としている。
「今、立っているみんながそうなのね。分かったわ」
いいから座りなさいと、井川先生が両手を下に向けて晶紀たちに促した。
ギギギ……。
やっと、あたしは立った。
「先生……」
「なに? 石川さんもなのね」
「いえ、あたしが全部やりました」
よく分からない涙が頬を伝っていた。心の奥がホッと軽くなっていた。随分と身勝手だ。月島楓にとってなんと失礼であるか。そう思うが、あたしは自分が犯人ですと言うことで、ずっと抱えていた重しが取れたような感覚を覚えた。涙は、そんなものが色々混じりあって流れたものだと思う。
放課後、あたしは一人で家路を急いだ。足元で、ちぎれたレシートとよれた葉っぱが風で舞っていた。月島楓にひどい思いをさせて、追い出した。結局、陽子にも嫌われた。あたしも舞って、どこかへ行ってしまいたいと思った。
「優芽ちゃん!」
後ろから突然叫ばれて飛び上がりそうになった。振り向くと、気まずそうな顔をした京香たちがいた。あたしが小学校に入ってからずっと、仲良しだった四人。
四人とも、出会った頃とは違う怯えた目を向けていた。
「ごめん、もう辛かってん」
凉子が泣きながら言った。月島楓をいじめ出してから、あたしたちの関係も変わってしまった。晶紀はずっと泣いている。
「あたしこそ、ごめんやで」
あたしは心の底からそう言った。
「付き合わせてしもうて、ほんとにごめん」
あたしも涙を流しそうになった時、京香たちの後ろから、近づいてくる人影があるのに気付いた。
「……あ」
声を漏らすと、陽子が泣きじゃくる晶紀の頭に手のひらを乗せ、軽く撫でた。陽子はそのまま京香たちを掻き分けて、あたしの前に立った。ゆっくりと陽子の右腕が上がった。
ぶたれる。
あたしは目を閉じた。しばらく首をすくめたまま、頬が叩かれるのを待ったが、一向に痛みは感じない。恐る恐る目を開けると、やるせなさを含んだ笑みを浮かべる陽子の顔があった。
「ほんとはビンタしたい。あたし、カッとなってまうしね。んでも、楓ちゃんがおったら、そんなんしたらあかんて言われんねん。やから、ビンタなんかせえへんよ」
陽子はずっとあたしより大人だった。頬を叩かれる方よりよっぽど心には痛みが走った。
「あんな、小三の頃、あたしら七人でよう遊んだやろ? そん時、楓ちゃんから、あたし、これもらっててん」
陽子は一枚の紙をあたしたちの前で広げた。あたしたちの似顔絵が小さく描かれていて、似顔絵の隣に角ばった文字が並んでいる。よく見ると、あたしたちの似顔絵はオリオン座と同じ配列を成している。
オリオン座の真ん中の星に陽子が描かれ、その右隣にあたし、反対側に月島楓の似顔絵がある。四方を京香、凉子、晶紀、悠子の似顔絵が囲んでいる。
似顔絵の横に記された文字を読んであたしは絶句した。
『ゆめちゃん ゆめちゃんは陽たんのとなり ゆめちゃんは陽たんと仲良くなりたい。だから、一ばん近いここ』
他にも京香たちのことが紹介のように書かれてある。優芽ちゃんと仲良しで、でも他のみんなとも仲良くしたい。だから、気をつけてあげて。そんなことが書かれていた。
「あたし、特にこんな小三の時なんか、誰がどんなこと考えてるなんて気にしたことなかってんよ。でも、楓ちゃんがいっつもこうやって教えてくれてたん。楓ちゃん、優芽があたしと仲良くなりたいからって、わざと離れたりしててんで。あたしら七人でおる時、決まって楓ちゃんは話の後にあたしに耳打ちしてた。今の言い方冷たいから、優芽が傷つく、とか。……優芽も晶紀も京香も凉子も悠子も……そんな楓ちゃんをいじめたんや。……それだけ、心に留めて、心ん中で謝らなあかん。あたしはそう思う」
オリオン座に配されたあたしたちの似顔絵はにっこり笑っていた。晶紀の涙が紙にぽとりと落ちた。次々に京香たちが泣き出し、あたしも泣いた。嗚咽を漏らし、楓ちゃんをいじめた自分を心の底から憎んだ。