【短編】如何にして薔薇の造花はその役目を終えたのか。
日に焼けた茶色い葉。葉脈は浮き出てしまい、生命の勇ましさなんて感じられない。それでもそのバラが毒々しい──それまた日に焼けた美しい花を持つのは、それが偽物だからだった。
まずはその茶色く変色してしまった茎を書こうと鉛筆を動かそうとしたとき。
「またそれ書いてる」
後ろから西柳の声がした。どうやら外でデッサンをしてきたらしい。手に持っている画用紙には電線の上に佇むカラスたちが描かれていた。
「西柳も相変わらず動物ばかりじゃないか」
「先輩のお花好きほどじゃないです」
西柳 美園──この美術部で一番絵が上手い。その特有の色彩感覚は恐怖を覚えるほど冴えていて、きっとそのガラス玉と勘違いしそうな綺麗な目の玉には自分と違う世界映っているのだろう。その世界が美しいのは彼女が数々のコンクールで入賞していることから明らかだ。
「相変わらず綺麗ですね。先輩もコンクールに出せばいいのに」
乾燥中の別の薔薇の絵を見て西柳は言う。天才としての素質を持ちながらそれを嫌味に感じさせずに聞けるところが、西柳の美点だった。しかしそれを素直に聞き入れられないのは僕の欠点だった。
正直に言えば、僕は彼女に嫉妬している。彼女がコンクールで入賞する度に、才能の差というやつを思い知らされる。
「まぁ後ろ向きに考えておくよ。少し外に出るよ」
「またお花探しですか? 好きですねぇ」
最近は屋上に逃げ込むことが多くなっていた。ここに絵の題材にちょうどいいモチーフが無いことが分かっているからだ。つまるところ僕はサボりたくて屋上に来た。
その日は違った。午後四時、僕はそのコントラストに眩暈した。強い西日に、影の黒。
フェンスに寄りかかる彼女は太陽を背にしていた。一瞬、細めた目の先には彼女が座っているだけだった。長い影が僕の足元まで来ていた。
立てた膝から伸びる手先にだけ当たる太陽の光は、確かに生命の象徴だった。しかしそこから辿ったところにある、暗い躰は物言わぬアンスリウムのようだった。
彼女は人でありながら、植物のようであった。それはきっと良いことではないのかもしれない。
気付けば僕は画用紙にその情景を描いていた。
ふいにその瞑られた目から長く伸びた睫毛の先に、太陽の光がかすった。
「誰?」
「隣のクラスの泉。美術部の」
それから数十分の間、二人の間に会話は無かった。鉛筆一本の即興デッサンにしてはうまく描けたと思った。
風が吹き、彼女の長い髪がさらわれた。そこに僕に足りない何かがあった気がした。この瞬間を描こうと、網膜にその景色を刻み込もうと努めた。しかし彼女の隣にあった松葉杖が屋上のコンクリートの床にぶつかる音でその景色は吹き飛んだ。
二人の目が合う。彼女の瞳はブラウンだった。多分、水彩なら茶色と黄色を混ぜるとそれっぽい色になる。しかしそれよりも目の下のクマが気になった。
「何を描いていたの」
「あげるよ。これ」
スケッチブックの一ページを破り取ると彼女に押し付けた。なんてことはない。このまま美術室に帰って西柳にこの絵を見られることを恐れただけだった。
「じゃあ僕、戻るから」
そう言って立ち上がった僕に彼女は聞いてきた。
「私、こんなに悲しそうな顔してた?」
「そうじゃないと描かないよ」
昔から暗い絵しか描かない子供と言われていた。中学の時、コンクールで入賞した絵は『青少年の陰鬱とした未来への戸惑いがよく描かれている』と評された。それからというもの中学での僕のあだ名は『インウツ』君になった。
「誰?」
「同じクラスの泉。美術部の」
次の日も西柳から逃げるために屋上に行くと彼女がいた。人を描くのは例のコンクール以来かもしれなかった。
昨日と同じようにスケッチブックに鉛筆を走らせる。
「泉って、あのインウツ君でしょ?」
「そう。陰鬱な絵しか描かない暗いやつ」
今日の会話はそこまでだった。一通り満足のいくデッサンが終わり、彼女に声をかけようとしたところで彼女が静かに眠りに入っていたことに気付いた。
昨日見た、濃い目の下のクマは決して彼女の隣に飾ってある松葉杖とは無関係ではないだろう。
せっかくだし色でも塗ろうかと僕は水彩絵の具を取りに美術室に戻った。
それからも何日か雨の日を挟んでではあるが奇妙な交流は続いた。
「ねぇ、何で私を描いてるの?」
「さあ? 描きたいと思っちゃったからかな」
「楽しい?」
「造花の絵を描いているよりは楽しい、かもしれない」
「花の絵は楽しくないの?」
「楽しくないかもしれない」
「西柳、僕もコンクールに出すよ」
西柳はそれを聞くと手に持っていた絵筆を落としかけた。西柳はまくしたてるように言葉を連ねた。
「本当ですか!? 何で出す気なんですか? あっ……私当てますね、薔薇ですか? こないだ先生に買ってもらったやつ」
「残念、外れ」
「やっぱり王道のヒマワリ?」
「違う」
「むむぅ……チューリップですかね」
彼女に大人しくスケッチブックを見せる。そこにはここ数週間で描かれた柊奈央のデッサンがあった。
柊奈央と僕の関係は友好そのもので、昨日ようやく柊奈央の絵でコンクールに出展することを本人に承諾をもらったのである。
西柳はスケッチブックの一枚一枚を真剣な顔をして見始めた。
「君は嫌いだろ?」
言ってから対象語が『柊奈央』と勘違いされると思い、僕は口早に『こういう絵』と付け加えた。西柳はそんなことを気に留めずに絵を見ていて返答はなかった。
「──悲しいです」
「何故?」
「…………」
彼女は答えなかった。
西柳はその顔をゆがめた。僕であれば間違いなく涙を描き加えるその顔で彼女は小さく言った。
「嘘つき」
僕が聞き返す暇もなく、彼女は帰りますと吐き捨てて美術室を後にした。わけも分からず僕はスケッチブックの柊奈央を見た。陰鬱な絵という評価は間違いないだろう。
或いは、西柳のあのガラス玉の瞳であれば。この一瞬の中に、何か希望に満ちた明るい色彩を見出せるのだろうか。
翌日のことである。我らが部室には異様な緊張感が漂っていた。
美術室には僕と美術部の顧問である関先生、そして西柳と柊がいた。自分以外が女性という空間は少し居心地が悪かった。こないだ買ってもらったヒマワリの造花を見て気持ちを安らがせる。
僕が席に着いたのを見て関先生は話を始めた。
「泉、知ってる? 一年が二年に殴り込みをかけた話」
「……まさか知り合い二人が当事者とは思いませんでしたが」
昼過ぎにこの校内を駆け巡った話を聞いて、この学校もそんなに荒れてきたかと悲観していたのは記憶に新しい。それがどうやらこの二人のことだと知ったのは、放課後に職員室に呼び出されてからだった。
「二人は知り合いだったの?」
「いや全く。いきなりこの子が教室にやってきて、絵のモデルを降りろっていうからさ。『別に私と泉の勝手でしょ』って返したら殴られた」
柊がここ、と指指した頬は少し青くなっていた。確かに、非力な西柳が殴ればその程度の怪我だろうという塩梅の軽傷、いや微傷である。
柊の証言が嘘であることは明白だった。西柳美園という女は間違っても他人のことを殴れる女じゃない……と思う。しかしそれを証明すべき当人は未だに泣きじゃくるばかりだ。
「西柳本人がこの様でさ。とりあえず関係者っぽかったし、西柳が懐いているお前を呼んだわけだ」
それは遠回しにお前が西柳から事情を聞き出せということだった。
「西柳、昼ご飯は食べたか?」
回答は首を横に振って示された。
「そうかじゃあ全部終わったらあのラーメン屋にでも行こう」
回答は首を縦に振って示された。
「全部、自分で話せるか?」
──回答は一言でなされた。
「先輩が、一生私を描いてくれない気がして、見てくれない気がして。悔しかったんです」
陰鬱な先輩のままでいちゃうんじゃないかって。
西柳美園と出会ったのは今年の4月である。当時、僕は彼女が中学生向けのコンクールを片っ端から受賞した天才ということを知らなかったのだ。
体験入部で描いた薔薇の絵に色を塗りたいというから、断る理由もない僕は水彩絵の具を貸した。彼女は最もその中で絵の具の残量の多い橙色を手に取った。
「それ、橙色だけど大丈夫?」
「大丈夫です」
彼女は薔薇の増加のしなびた日焼け具合を、鮮やかな橙の色で表現して見せた。あぁ、これには勝てないなと僕は認めざるを得なかった。
「君はもう僕より絵が上手いよ。色使いが僕よりも鮮やかで気持ちいいね。明日から部長の座をあげてもいいぐらいだ」
しかし彼女は不満げだった。
「先輩は人は描かないんですか?」
美術室の壁に飾ってあるのは大半が僕の絵ばかりで、それはデッサンの正確性を関先生が評価してくれて、また花の絵が並んでいるというおしゃれさを美術室に添加するために飾られていた。
「僕って暗い絵ばかり描くからインウツ君って呼ばれててさ。生き物って生命的なモチーフだから描こうとすると筆が止まるんだよね。植物、こういう造花ばかり描いてるよ」
「じゃあ先輩が人を描く気になったら私を最初に描いてくれますか?」
少し顔を赤くして頼む西柳に、それは構わないけどと返した。彼女は約束ですよと、念を押した。
まさか天才少女がそんな約束にこだわるとも思って気にも留めなかった。そして僕は陰鬱さの中に美を見出してしまった。何の目的もなく屋上に佇む女生徒が、その頬を撫でる髪をくすぐったそうに撫でつけるその一瞬を美しいと思ってしまった。
「そっかそんな約束してたね。忘れていたよ、ごめん」
まず僕は西柳に謝罪した。その約束を破ったのは確かに自分だった。それで彼女が柊を殴りにいった経緯は謎ではあるが、まずは素直に謝罪した。
「柊、どうやらまったく悪くない君を巻き込んでしまったのは僕みたいだ。ごめん」
「大した怪我じゃなかったしね、気にしてないよ」
柊は既に松葉杖生活は終わり、最近は暇で放課後に駅前のショッピングセンターをぶらついているとは、本人の談である。
もはや柊本人はこの一件についてさほど興味がないようで、髪先をいじりながら手持無沙汰だった。
「ところでこの後のラーメンに私もついていっていいかな?」
結果としてその突拍子もない提案は問題の解決を早めた。西柳は首を縦に振った。
それを見て関先生は問題が解決したと判断した。
「あとは泉に任せて良さそうね」
夜の職員室には関先生だけがいた。
「ラーメン食べに帰ったんじゃないの?」
関先生は夜ご飯だろうカップ麺を指さしながら聞いてきた。
「どうだった? 女子二人とのラーメン」
「二人とも相性はいいようで、すぐに打ち解けてましたよ」
本題に入るぞ、という意思表示に関先生の目を見た。彼女の眼は疲れ切った大人の眼をしていた。
「美術部を辞めようかな、と思いまして」
「あー、はいはい。どこにやったっけな」
――関先生は麺をすすりながら机の上の方にある紙を一枚渡してきた。退部届と題されたその用紙は、顧問の名前を含めて全て記入されているようだった。あとは自分の名前だけを書けばいいようになっていた。用意の良さをいぶかしんで関先生を見る。
「西柳はやっぱり化け物だったね。陰鬱だの言いながらも真面目にやってる泉は遠くないうちにめげると思っててさ。別に運動部じゃないんだし気軽にやめて構わないよ」
「4月の時点でめげてましたよ。――ただ最近、描いていたモチーフが少し楽しかったんです。でも逆にそれは普段描いている絵は楽しんで描いているんじゃないです。だから多分、どちらにせよコンクールが終わったらやめていたと思います」
「ま、楽しくもないのに無理に絵を描くことはないさ。二人にはちゃんと言っておくんだよ。特に西柳」
僕は曖昧に笑った。
意外にも、西柳は僕のところに殴り込みに来なかった。匿名の手紙で屋上に呼び出された。誰かは明らかだ。
「歯、食いしばって。殴ったことなんてないから、加減できなかったらごめんね」
そう言って、加減もクソも何も無く殴られた。
「あの子、泣いてたよ」
そして何故か泣いているのは柊の方だった。
「……殴った側が泣いているとどうしていいのか分からないね」
「私を描くのは楽しい、って言ってくれたから学校に行こうと思えたのに!」
「皆、可哀そうな目で私を見てくるけど、屋上だけではただの一人の人間として扱われたから!」
「走れなくなって、悲しいんだって気付かせてくれたから!」
「……だから、絵のモデルになるのも悪くはないなって思ったの。だからこれはその罰金、罰金ね」
「結局僕はインウツだったんだ。陰鬱なものを陰鬱にしか描けない、そういう存在だったんだ」
「それはよく知らないお偉いさんが決めたことじゃん!」
ぐうの音も出なかった。
「そういう存在だったんだ、……そういう存在だったんだ。きっと偉い人が正しかったんだ。そう大人が全部正しかったに決まってる」
僕が柊理央について知っていることは少ない。将来を約束された陸上選手であったこと。夏前の練習中に大けがを負ったこと。そしてそのせいで彼女は二度と走れなくなったこと。詳しい病状こそ知らないが、彼女の怪我は地元紙でも取り上げられて、学校でも彼女は悪しきハードワークの成れの果てとして晒し者だった。全中新記録という称号がどれほどなのかはよく知らないが、西柳に匹敵する才能の持ち主だったことは間違いなかった。
「先輩、早く。ここですよ」
西柳のよく分からない誘いを受けたのは完全に罪悪感からだった。
3年の夏になり受験勉強が本格化すればするほどあの半年に満たない美術部が懐かしい。もう少し上手く立ち回れていれば、と思う毎日を過ごしていた。
「競技場が指定されてたからサッカーでも見るものだと思ってたよ」
「ほらあそこです」
午後二時、僕はそのコントラストに眩暈がした。揺らぐ太陽の光の中、堂々と躍動せんとする彼女を誰が陰鬱としたアンスリウムに錯覚するのか。
全員がスターティングポジションに着く。時間をおかずスタートのブザーがなる。
トラックを走る彼女を描きたいと僕は思った。
削ったもの:西柳の美術室チョウチョテロ事件