一難さってまた一難正直ありえない
「大丈夫だった、ユー君」
「お前は、クロナ」
血が滴り落ちる大鎌を手にし、豊満な胸を優の顔に押し付けようとしている少女。彼女を目にした途端、生前のとある記憶が一気に蘇ってきた。いきなり優の自室に押しかけ、彼を殺そうとした自称死神。彼女が急接近しているのだ。
「危ないところだった。もう少しでまた死んじゃうかもしれなかったわよ。勝手にいなくなるなんてダメだかんね」
「勝手もクソも死んだから仕方ないだろ。っていうか、死神がいるということは、ここはやはり死後の世界か」
今更ながら仮説を確定させた。死後の世界ならば死神が跋扈していてもおかしくはない。
「死神ならこの世界の事知ってるんだろ。あの犬は何だよ。いきなり俺を襲って来たんだが、別に悪いことはしていないはずだぞ」
すがるように訴えるが、クロナは涼しい顔をして首を傾げた。
「知らないよ。あんなワンちゃん初めて見たもん。ぶっ殺したのもユー君が殺されそうになったからだし」
「白を切るな。確か、俺を殺そうとしていたよな。一体何を企んでいるんだ」
「もう、疑り深いな。とにかく私の話を聞いてよ」
「人殺しの話なんて聞けるか!」
一度命の危機を脱したことで優にはいくらかの余裕ができたようである。啖呵を切ると脇目を振らず逃げ出した。
「ちょっと、ユー君! 待ってよ」
追跡しようとするクロナだが、行く手を野犬によって阻まれた。うろたえていたようだが、仲間を斬首されたことでクロナが敵であると認識したようだ。二体同時に飛びかからんとクロナの周りを取り囲んでいる。
不満そうに頬を膨らませたクロナだったが、デスサイズで地面を叩くと、ビシリと野犬を指差した。
「ユー君ときちんとお話しなくちゃダメなんだから、ワンちゃんと遊んでいる暇はないの。頼むからどいて。言うこと聞かないと殺すよ」
小さい子供に言い聞かせるようにクロナは怒ってみせる。だが、野犬の興奮は収まる気配はない。野生生物において、相手が可愛い女の子だから容赦しようなんて概念は存在しない。相手がおいしそうな肉片である限り、本能のままに貪りつくすだけ。まして、相手は己の群れの仲間を屠った仇敵だ。撤退なんて選択肢はあり得なかった。
クロナがただのか弱い女の子だったらここでジエンドだっただろう。松島トモ子でない限り、この状況で生還できる見込みはない。しかし、クロナがただの女の子でないことは先刻証明済みであった。
「えっと、君たちの寿命は……うん、もう切れてるね。よかった、まだ寿命があったならめっちゃ面倒だったから。これなら殺しても問題ないもんね」
痺れを切らした野犬が飛び掛からんとしているにも関わらず、クロナは悠長に死神手帳のページをめくっている。そこら辺にいる野犬の寿命まで記載されているとは万能すぎるが、特段留意する必要はないだろう。ついに牙を向けて来た野犬どもに対し、クロナはデスサイズをきらめかせた。
それは一瞬の出来事だった。「もう、デスサイズが真っ赤になっちゃったじゃない」と不満を漏らして武器を格納する。歩き去っていったあとには三体の犬の首なし死体が転がっていた。彼女がデスサイズの一振りで絶命させたというのは説明するまでもないだろう。
「さて、ユー君を探さないと。まさか、こんな事態になるなんて予想外だったもんな」
そう言いながらクロナは顎に手を添える。優は与り知らぬことだが、今の彼女に優を殺す意思はない。なぜなら、とある事情でクロナは「優を殺したくても殺せない」状態に陥っているからだ。どうしてそうなったかを説明すると長くなるので、別の機会に譲ろう。差し当たってクロナの課題は一刻も早く優と再会することだ。野犬どもを瞬殺したので、さほど時間は経っていないはず。
しかし、優は忽然と姿を消してしまっていた。彼が逃げたと思われる方角に走っていくが、一向に鉢合わせしない。姿を隠せるような場所がなく見通しがいいので、かくれんぼをしているのならすぐに発見できそうである。なのに、完全に視野から消え失せるなんて妙だ。
「ユー君! どこにいるのー! いるなら返事をしてよー!」
大声で呼びかけるが返事はない。そもそも、自分を殺そうとしている相手に呼びかけられて返事をするようなお人よしはまずいない。
「どうしたものかな。肝心のユー君ミツケールは壊れちゃったし」
嘆きながらクロナはコンパスを取り出す。処刑するターゲットの位置を教えてくれる便利アイテムのはずだが、「この世界」に来てからてんで見当違いの方角を指し示すばかりだ。優と早々に再会できたのは奇跡のようなものだった。
当てがないままクロナは高速で飛び去っていく。足を地に付けずに移動できるので間違った表現ではない。ただし、高速で移動したことは彼女の失態だった。なぜなら、優は野犬が殺された現場から割と近い位置にいたのだから。
それは数分前のことであった。クロナが野犬と交戦を始めた直後、優は彼女から数百メートル離れた地点を走っていた。クロナの異常な機動力は承知しているので、ほんの時間稼ぎにしかならない。それでも、大人しく殺されるのを待っているのよりはマシだ。とにかく前だけを見て足を動かしていたところ、突然全身が地面に呑み込まれた。
事態を把握できず、目を白黒させる優。脱出しようにも転落した衝撃で腰を痛めたらしく、なかなか起き上がれない。トラップに引っかかってしまうなど、不運もいいところだ。
しかし、むしろ優にとっては幸運だったというべきかもしれない。抜け出そうと四苦八苦していたところ、頭上をものすごいスピードで駆け抜けていく影があったのだ。巨大な鎌を握っていたことからクロナだと認識する。
実は、優がトラップにかかった辺りに穴が開いていたのだが、クロナもまた前だけを注視していた。足元の確認がおろそかになっていたので、穴の存在を見逃していたのだ。
脅威が通過したことに優は安堵する。しかし、まだ別の問題が解決していない。優が引っかかったトラップは間違いなく落とし穴だ。罠の種類はどうでもよく、重要なのは誰がいかなる目的でこんなふざけたものを設置したのか。その答えは数十分後に判明することとなった。
「ありゃー、予想外だべ。まさか、人間がかかるなんて思ってもみなかったべさ」
田舎言葉を丸出しにして何者かが落とし穴に接近してくる。新たな敵かと優は身構えるが相変わらず武器は無い。
「おめえ、大丈夫だか。ほれ、おらの手に捕まるべ」
何者かは気さくに片手を差し出してくる。のんびりとした口調といい、どうやら悪意は無さそうである。とはいえ、油断は禁物だ。優は慎重に手を握ろうとする。
そして、救世主たりうる人物を拝見した時、開いた口が塞がらなかった。全身の皮膚がところどころただれており、練っておいしい例のお菓子を塗りたくったような色をしている。アロハシャツと短パン、麦わら帽子としゃれこんでいるが、右の瞳孔は目玉がこぼれ落ちんほど大きく見開かれ、にっこりと笑った口の中には所々欠けた歯が生え並んでいた。
敵意が無さそうとはいえ、人間に備わった先入観とは罪なものである。優は腹の底から声を絞り出して絶叫していた。
「ゾ…ゾンビだあああああああああああ‼」
もはや優のメンタルは限界だった。ついでに体力も限界を迎えていた。ここで仰向けに倒れたことで優の意識は一旦途切れることとなる。