序章 和人
もうおしまいだ。このガキには全てバレている。
見たところ、高校生ぐらいだろうか。ずぶ濡れだし、私服なので分かりにくいが顔立ちからしてそんなものだろう。
殺すか?いや、殺したって必ずバレるに決まってる。そもそもこんなもので殴って人は死ぬのか?いや、でも殺さないと……
殺す、殺さないの堂々巡りを繰り返すうちに、何となく冷静になってしまった。
振り上げてしまったこの懐中電灯を、俺は恐らく振り下ろさないだろう。
追い詰められているのに、俺の人生で何の役にも立たなかった理性というか、道徳心のようなものがここで出てきたのか。
はっきりしたのは、俺には人殺しはできないという事だ。
ため息をつきながら、腕を下ろす。
「……もういい。分かった、ごめん。とりあえず話をしよう。いや、させてくれ。俺は警察には絶対に捕まりたくないんだよ」
懇願すると、ゆっくりと彼女は元の姿勢に戻っていった。
俺を睨んでいる訳ではないが、何とも言えない淀んだ目でこちらを見ている。
「いえ、こちらこそすみませんでした。アタシも通報する気は元々ありませんよ」
「ああ、そうか、そうなんだ。それは良かった、本当にありがたいよ」
自分では努めて冷静に言ったつもりだが、内心は動揺していた。
さっき警察を呼ぶと脅してきたのはコイツだ。だから俺はカッとなった。
なのになぜ今さら、通報をする気がないなんて言うんだ?
全くわけが分からなかった。
「代わりにお願いがあるんです。聞いてくれたら、通報はしません」
「何だ?俺にできることなら何でも聞くよ」
その言葉に、彼女は淀んだ目のまま少し微笑んだ。
「では、すみませんけど人を殺してくれませんか?」