序章 ミヅキ
真夏とはいえ、傘もささずに歩いた体は少し寒い。アタシは、あの家にいるのが嫌で嫌で衝動的に飛び出した。
誰にも会いたくなくて、自殺スポットとして有名なこの場所に来たのだ。
ここなら夜中に見かけるのは、せいぜい自殺者ぐらいだろう。まず会うことはないだろうが、万が一出会っても逃げればいい話だ。
この一本道を抜けると、自動販売機付きの小さな休憩所がある。そこで温かいコーヒーを飲みながら一休みするつもりだった。
ところが、向かう途中で木々の隙間から光るものが見えた。「何だろう」と思いながら何気なく歩み寄っていく。
アタシがモゾモゾと動く二つの影をスマホのライトで照らすと、そこには青色のカッパを着た男がいた。顔しか見えないが、成人男性のようだ。
男の右手は、恐らく自殺者であろう首吊り死体のポケットに突っ込まれている。
男は驚いた顔でこちらを見ながら固まっているが、私も同様の顔をしていることだろう。
「逃げなきゃ」とすぐに思ったが、足は痙攣して動かなかった。悲鳴すらあげられず、ただ呆然と見つめ返すしかできない。
「あ、あの……!」
突然の大声に、アタシの肩は跳ね上がった。
父親や学校の先生以外に大人の男と話す機会はあまりない。
同じクラスの遊び慣れているユリなら、アタシのようにはならなかったのかもしれない。
「違う、違うんだ。これはそういうんじゃなくて!」
「あの、手、まずその手を離したらどうですか?」
震える声で指摘すると、男ははっとしたように急いでポケットから手を抜き取った。
その衝撃で死体は、ギシギシと軋むような音をさせながら大きく揺れている。
「それ……死んでる人ですよね?」
「ああ、えっと、あれだ。そう、俺はここで自殺者がいないか見回っていたんだよ。たまたま遺体を見つけてね、身元確認ができるものを探していたんだ」
たぶん、嘘だ。もしかしたらこの人は警察官かもしれないけど、掃除用のゴム手袋をはめて死体を物色するなんて聞いたことがない。
「君は何でこんな所に?見たところ学生っぽいけど、もう夜の一時を回っているし何で出歩いているの?」
少し平静を取り戻してきたのか、男はわずかながら高圧的になってきた。
だが、襲ってくる気がないなら今がチャンスだ。
あえてこの男の嘘に乗って、アタシは安全に家に帰る事もできる。
無知な女学生を装い、一回頭を下げて立ち去ればいい。
むしろ今逃げ出さないと、何をされるか分からないという状況だろう。
「まあ、今回は見逃してあげるから、もう帰りなさい。気をつけてね」
男の声は耳に入らない。
何故か突然、別の考えが脳裏をよぎったからだ。
『この男を利用できないか?』
かねてより、アタシにはどうしてもやらなければならない事があった。
だが、それはただの中学生にすぎない自分には到底無理な事だった。
しかし、この男がいればどうだろう。アタシの望みは、叶えられるのではないだろうか。
この状況を利用して、この男を脅迫するのだ。
唾を一回飲み込んでから、アタシは覚悟を決めた。
「あの、今死体をあさってるのを見たじゃないですか」
「いや、だからね、俺はそういうんじゃなくて身元を」
「死体から物を盗ったらまずいのは、誰でも知っていますよ。わかってますよね?なんなら、今警察を呼びましょうか?」
そう言ってスマホを使うふりをしたが、自分の行動が誤りだった事を確信した。
なぜなら、男が必死の形相で持っていた懐中電灯を振りかぶったからだ。
終わった。アタシは心底後悔しながら、目を瞑った。