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ピアノマン

作者: 布施鉱平
掲載日:2017/11/08

 私がよく行くバーの名前は『ピアノマン』という。

 

 繁華街の外れにある、古びた小さなバーだ。

 

 六十を越えて見えるマスターが、一人で切り盛りしている。

 

 マスターはひどく無口だし、酒の種類も少ない。

 

 つまみもナッツだけだ。

 

 だが、置いてあるピアノと、それを弾くピアノ弾きは素晴らしかった。

 

 ピアノ弾きは、マスターよりも歳を取って見えた。

 

 髪も髭も真っ白で、よれよれのワイシャツから覗く腕は、折れそうなくらい細くて、筋張っていた。

 

 彼は枯れ枝のような腕を目まぐるしく動かし、心を揺さぶる曲を弾いた。

 

 悲しい曲の時は涙を流し、明るい曲の時はとても楽しそうに。

 

 私は彼の演奏に惹き込まれるように、ともに涙を流し、ともに楽しんだ。

 

 一曲弾き終わると、彼はその度に荒い息を吐き、肩を上下させていた。

 

 ピアノの演奏に、全ての力を使い切っているようだった。

 

 それでも、彼は何度か深呼吸をすると、またピアノを弾き始める。

 

 そんなことを、バーの閉店時間まで繰り返すのだ。





 あのピアノ弾きが死んだ。

 

 その噂を聞いたとき、私は無理もないと思った。

 

 彼は命をすり減らすような弾き方をしていたのだから。

 

 だが、私は自分の目で確かめずにはいられず『ピアノマン』へと向かった。

 

 店の前にたどり着くと、扉には閉店を知らせる紙が貼ってあった。

 

 店を閉めた日付と、簡単な挨拶だけが書かれている。

 

 無口なマスターらしい、簡潔な文章だった。

 

 やはり、あのピアノ弾きは死んでしまったのだ。

 

 私は、何かを失ってしまった思いを抱きながら、店を離れようとした。

 

 だが、店の中から漏れてくる音に気づいて、足を止めた。

 

 振り返り、無意識に扉に手をかける。

 

 鍵はかかっていなかった。

 

 ゆっくりと、扉を押し開いていく。

 

 酒の匂い。

 

 オレンジ色の照明。

 

 そして、ピアノの音。

 

 僅かな隙間から、『ピアノマン』の世界が広がっていく。

 

 だが、私の目に飛び込んできたのは、いつもの光景ではなかった。

 

 椅子とテーブルが端の方に積み重ねられてがらんとした店内に、ピアノだけがいつもの場所に置かれていた。

 

 そのピアノの前に座っているのは、あのピアノ弾きではない。

 

 マスターだった。

 

 ウイスキーの入ったグラスを横に置き、太い腕をゆったりと動かして、優しい曲を弾いている。

 

 マスターは私の姿に気が付くと、寂しげに言った。


「これでも、昔はピアノ弾きだったんです」

 

 そして、私に見えるように袖をまくると、大きな傷跡の付いた腕をかざした。


 私は、自然と椅子を運び、カウンターの前に座っていた。


 マスターの演奏が続く。


 優しいけれど、切ない音色だ。


「あいつの死を、悲しまないでやってください。あいつは、ピアノマンになれたんですから」


 マスターは低い声で、呟くように言った。





 それからしばらくの間、私は、ただ黙ってマスターの演奏を聴いていた。


 素晴らしい演奏だった。


 だが、あのピアノ弾きのように、私の心を揺さぶることはなかった。


「ピアノマンとは、何なのですか」


 私は、初めて口を開いた。


 マスターの細い目が、一瞬だけ私を見て、またすぐに前を向いた。


「ピアノマンはね、全てのピアノ弾きの目標なんです」


 マスターは演奏を止めることなく、そう言った。


「音楽って、心に残るでしょう。それは、演奏している人間の魂が、音に乗って入り込んでくるからなんです。

 ですが、いずれその音楽は、聞き手の魂に取り込まれて、別のものになってしまう。思い出そうとすれば何度でも頭の中に流れますが、もうそれは別の音楽なんです。

 演奏した人間の奏でたものではなく、聞いた人間が頭の中で奏でたものになってしまう」

 

 ピアノを弾いたまま、マスターは続けた。


「ピアノマンはね、音に乗って頭の中に入り込むと、そのまま居座ってしまうんです。そして、一日中好き勝手にピアノを弾いています。

 普段は邪魔にならないように小さな音で弾いていますが、望むなら、いつでもそれを聴かせてくれるんです」

 

 そう言うと、マスターは演奏を止めた。


 店を、静寂が包む。


「さあ、目を閉じて、頭の中の音に耳を傾けてみてください。あなたの中にも、きっとあいつがいるはずですから」


 言われた通りに、私は目を閉じた。


 自分の呼吸する音だけが聞こえてくる。


 だが次第に、静かなメロディが流れてきた。


 その音は次第に大きく、力強くなっていく。


 あの、ピアノ弾きだ。


 間違いなく、何度も聴いた、彼の演奏だった。


 それはすぐ傍で演奏しているかのような鮮明さで、私の心を揺さぶった。


 よれよれのワイシャツを着た、枯れ木のようなピアノ弾きが、私の頭の中ではっきりとした形を取り、にっこりと微笑んだ。


 目の前にいる。


 私は思わず目を開いた。


 ……もちろん、そこに彼の姿はなかった。


 そして、マスターがピアノを弾いているわけでもなかった。


「これからも、あいつをお願いします」


 マスターが、深く頭を下げた。


 私は静かに会釈を返し、また、目を閉じた。


 私の中のピアノマンが、待ってましたとばかりに、演奏を再開した。 

ビリージョエルのピアノマンを聞いていたら、なんだか書きたくなって書きました。

内容は、歌詞とは全く関係がありません。

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