第三話 『油』①
「奈保ちゃん、行くよ」
風ちゃんの正拳突き。覚えたての構えから繰り出される未熟の一撃は、容易に見抜けた。手のひらの摩擦をあげ、迫るこぶしを包み込む。そして、勢いよく右に払う。
風ちゃんは流された拳に巻き込まれ、体勢を崩し、そのまま転倒する。
「大丈夫?風ちゃん」
僕は彼女に手を差し伸べる。風ちゃんは、えへへ、と照れ笑いし、僕の手をつかみ、勢いよく起き上がる。
稽古の休憩時間、道場の端で僕は風ちゃんの相手をしていた。
「まだかなわないなあ、奈保ちゃんには。でもいつか超えるからねっ」
人差し指を僕の頬に突きつける風ちゃん。いつか。僕を追い越すとしても、それは一瞬のこととなるのではないだろうか。僕は風ちゃんに憐みと、同時に小さき者に対する愛おしさを感じていた。
武功会の戦闘訓練生は家柄によって武道の修行の取り組み方が異なる。
僕のような幹部の家系に生まれた者は、なんの制約もなく、一日中ひたすらに修行を積める。
しかし、風ちゃんのような家柄の者は、道場の掃除、防具や包帯など備品の点検など雑務の一手を引き受けるうえ、組手もやられ役に徹することになっている。
同年齢で、幹部とそれ以外の者とに実力差が開くことが多いのは必然である。性差がなくとも、彼女が幹部級の戦闘員と同等の強さを手に入れることは並みの努力ではかなわないのだ。
しかし、滋養風犬は逆境に立ち向かう意思を固めた。
彼女は夜稽古のあと、皆が寝静まる頃に、兄に時間外稽古をつけてもらっている。
風犬の兄はいわゆる天才であった。その男は、少ない修行時間で、効率的に技術を吸収し、十五を迎えたときには、幹部以上の実力をつけ、現在は師範代となった。風ちゃんは、そんな彼に教えを乞うのが強くなるための最短ルートだと考えたのである。
「風ちゃんは、なんで強くなりたいの?」
僕には、理解できなかった。炎帝政権下のこの時代、至って平穏である。武功会は有事の際政府に兵の要請をされるが、武功会の創立から現在まで、前例がない。武功会を出て、警察省に入る者には相応の戦闘力が求められるが、風ちゃんはそのつもりもない、と以前言っていた。
だから僕は疑問を持っていた。なぜ彼女が強さを求めるのか。
風ちゃんはんー、と唸り、水筒に口をつける。なかなか口を離さず、回答を遅らせる。
実はこの質問は初めてではなく、毎回はぐらかされている。彼女はなぜか頑なに、これを秘密にしているのだ。
しかし、この日はどういう風の吹き回しか、それらしい回答をしてくれた。風ちゃんは床に腰を下ろし、傍らに水筒を置く。
「なーんかさ、強くなれば、自由になれるような気がするんだよね」
「自由?」
「うん。お兄ちゃんはさ、強いから、師範代になれた。偉くなれた。お兄ちゃんより強くなれば、もしかしたら、もっと偉くなれて、自由になれるんじゃないかなって」
「……ふうん」
当たり前だが、彼女は今の待遇、立場に不満を持っているようだった。本部所属とはいえ、幹部との格差は大きい。彼女は底辺から抜け出そうとしていたのだ。
しかし応援の言葉が、出てこない。今の弱い風ちゃんのままが好きだ。頼られたい。上の立場であり続けたい。そんな欲求が、僕のなかには巣食っている。
「髪伸びてきたなあ、そろそろ切らないと」
風ちゃんはタオルを取り、汗を拭く。時計を見ると休憩時間はもう終わりそうだ。僕も慌てて水を飲む。のどの潤いを感じながら、横目で風ちゃんを眺める。今はまだ、か弱い少女。意地悪な気持ちが湧いた。
「伸ばしてみたら?髪」
「えー?でもつかまれたら危ないし」
だからだよ、という言葉を飲み込む。
「でもさ、長い方が可愛いと思うよ」
きょとん、とする風ちゃん。そして顔を赤らめる。そのとき、稽古再開の声が道場に響く。壁にもたれかかった兄弟子たちが腰をあげ始める。
「……考えとく」
風ちゃんは、照れ笑いしながら、立ち上がった。
〇
鼻にあたたかい水が入り込む。驚いて顔をあげる。まつげから滴る水を拭い、状況を確認する。しかし周りの風景は真っ白で、なにも確認出来なかった。
そして思い出す。ここは温泉で、これは湯気だ。俺は寝こけて、危うく溺れるところだったらしい。
蟻沢さんが転送先として指定したのは、第五ドーム都市、金沢である。この都市は炎帝府管轄の忍者省の所在地であり、伊豆の故郷である。
奇森倶楽部で遭遇したのは、何だったのか。それはわからないが、目撃者であり生存者である俺たちを群衆が追ってきたということは、壇上にいた、おそらく群衆の指揮者であるあの奇術師にとって、俺たちは生かしてはおけない存在だったのだろう。
俺たちは、今後あの奇術師に命を狙われることが想定される。安全な場所にかくまってもらう必要がある。
そこで蟻沢さんが最適だと判断したのが、ここ金沢である。
赤レンガ倉庫でみた奇術師。あのような異能の力を操る人間は、そうそういない。
もし、あの奇術師が、武功会本部の襲撃者と同一人物であるなら、六大企業所在都市は、避難場所として確かな安全性はない。
そのため、蟻沢さんは武功会のある東京より、炎帝府との結びつきも強く、伊豆が所属している組織もあるこの地に逃げ込んだのだ。
俺は温泉を囲む岩に背中を預ける。湯気の向こうに目を凝らすと木々が顔をのぞかせた。
金沢は温泉の湧く唯一の都市である。伊豆家はその資源を利用して旅館経営もしている。しかしこの露天風呂に、俺以外の入浴客はいない。
伊豆が忍者省に、奇森倶楽部での出来事を報告したことで、各都市にこの情報が共有され、炎帝府から市民に外出自粛令が敷かれた。そのため、本日の予約客は皆キャンセルしたそうだ。
なお、電話のような通信手段は現在の人類は開発していないので、伊豆家の使者が予約客のもとへ直接キャンセルかを尋ねに行ったという。ご苦労様な話である。
それにしても、だ。
またしても俺はすることがない。
伊豆に勧められるまま、こうして温泉につかっているが、この不甲斐なさを思うと、この極楽を素直に享受することができない。どうしようもない焦燥感が身を焦がす。……しかし、湯のなかで夢を見るあたり、十分リラックスできている。自分が責任を負わなくていい立場にいることを、心の奥では安堵しているのかもしれない。
いや……見た夢の内容からすると、やはり完全に晴れやかな心地ではないか。
「……のぼせる前にあがろう」
眠ってしまったせいで、どのくらいの間湯につかっていたのかわからないが、脱水症状が出てきたので、撤退する。岩場に手をかけ、水面から上半身を浮き上がらせる。
すると、目線の位置が変わったことで、湯気の向こう側に人影を発見する。はて、貸し切りという話ではなかったのか。
「おっ?奈保ちゃんいたのか」
聞き覚えのある声。
というか、蟻沢さんだ。長髪をタオルでまとめている。そして、体は一糸まとわぬ姿……。
「あれ、混浴でしたっけ、ここ」
平静を装いながら、ゆっくりと湯の中に体を逆戻りさせる。蟻沢さんは、子供のころから知る、性の対象となりえない女性ではあるが、一応股間に異常が起きていないかを確認する。そして、確認の結果、肩までつかることが吉だと判断した。
「いや?てか、ここ女湯な。お前入るとこ間違えたな」
「あれ、そうでしたか」
普通なら脱衣所で気づくところ、今日に限ってはほかの客がいないが故に、女湯に侵入成功してしまっていたらしい。人がいなければ、侵入成功の旨みはないのだが。
「あがるとこだったんじゃねえの?」
「いえいえ、もうちょっと入っていきますよ」
この状態で立ち上がれるわけがないだろう。蟻沢さんのことだ。俺の異変に気づいたら、いじり倒すに決まっている。長年会っていなかったが、彼女の本質は昔のからかい気質のままなのだ。
「しかし、久しぶりだなあ。お前と風呂入るのも」
蟻沢さんが平泳ぎでこちらによってくる。すいすいと迫る女体に、羞恥心を通り越して、恐怖心を抱く。蟻沢さんは裸を見られて何も感じないのか……?
蟻沢さんは俺の鼻先数センチのところで止まると、沈黙した。長い付き合いのある相手ではあるが、無言で見つめられると、さすがに緊張する。そして、彼女は口を開く。
「お前、でっかくなったなぁ」
ぽん、と俺の頭に手を乗せる蟻沢さん。体のこわばりが無くなる。。昔のまま、なのだ。彼女は。気さくで、心優しい女性。俺の前では彼女は相も変わらず素敵な年上を演じてくれる。
蟻沢春。北海道出身の呪術型女性。彼女は俺や風犬とは違い、一般的な中流家庭に生まれた。それは、この時代において、楽な道が用意されていないことを意味する。
中流と呼ばれる者と上流階級の間にある格差は凄まじい。中流の者は全人口の四十パーセントといわれているが、彼らのほとんどは年中働いて、ようやく人らしい生活ができるほどの貧困状態にあるのである。
さらにその下、下流の者に至っては、決まった寝床すらない生活を送っているほど、この世は不平等な仕組みとなっているのだ。
そんな環境に生まれた蟻沢さんは、物心ついた頃から、親の仕事、お呪い牧場傘下の農園の手伝いを始めていた。
そうしなければ、一家は生きていけなかったのだ。保育園や学校には、行けなかった。しかし、彼女には学問の才能があった。好奇心、探求心、そしてもの覚えのよさ。一級品になりうる要素の詰め合わせ。両親は娘が成長するにつれ、次第に持て余すようになっていった。
十二の時、彼女は親元を離れ、学問施設の多い東京に移住。両親は、娘の将来に投資したのだ。炎帝府立の学校には家柄を理由に入学が許されなかったが、私立の最高峰、武功会傘下学校法人、「蔦塾」にしますさささ首席で入学し、学問に励むに至った。
俺と蟻沢さんとはこのころからの知り合いである。風犬の兄に連れられ頻繁に通っていた喫茶店で、蟻沢さんがアルバイトをしていたのだ。
「はじめて会ったときはガキだったけど……いや、やっぱり今もガキだな、うん」
会話の糸口を探して、思いつかなかったらしい。蟻沢さんは、俺の真横の岩に腰を落ち着けると、大きく息を吐いた。そうだ。この感じだ。蟻沢さんは。いつのまにか、俺の股間は休眠状態になっていた。やはり、本人に言ったら怒られるだろうが、蟻沢さんには性的興奮は起こらないほど、身内なのだ。
「ああああ。ヤバい。脱水症状出てきたかも」
天を仰ぐ蟻沢さん。見ると、顔の赤みが濃い。
「ええ?大丈夫ですか?いつから入ってるんですか」
「一時間くらい、かな。風呂の外にあいつが待ち構えててな……。上がれねえんだよ……。なんなんだ、今日は。懐かしい顔がそろいも揃って」
あいつ……? 蟻沢さんを待ち構える……?
「ああ、はい。来てるんですか。風太さん」
「ン……。よくわかったな」
わずかなヒントだったが、誰を指しているのかはすぐにわかった。蟻沢さんとは長い付き合いではあるが、共通の知り合いは指で数えるほどもいない。その中で蟻沢さんが渋い顔をして思い浮かべるのは、件の男に限る。
風犬の兄、風太である。
「じゃあ、俺挨拶してきます。何年かぶりですし」
ザバアア、と立ち上がる。と、ここで隣の女性に気をさく。
「お、おお……。そっちも、それなりに成長してるな」
「あ……すいません」
そそくさと、俺は浴場を後にするのであった。