第三話 『油』④
伊豆さんが、俺に用意した寝床は地下にあった。
台所のキュウリの漬物壺をどけると、板張りの床にわずかに切り込みが確認できる。そこを五分ほどの力で叩く。すると、バインッと五十平方センチメートルくらいの正方形の板が、跳ね上がった。そのまま板は、頭上を飛び越え、左後方に落ちる。入る人に当たらないように計算されているわけか。
板の無くなった床を見てみると、暗闇のなかに薄っすらと木の段差が見える。隠し階段だ。旧武道館にもこのような隠し部屋はあったが、ここまで凝った仕掛けはなかった。さすがは忍者省といったところか。
階段を一歩一歩慎重に下っていく。転倒でもしたらどこまで落ちるのか、想像もつかない。俺の鼻が台所の床と水平になったとき、さて、この入口はこのままにしておいていいのだろうかと気づいたが、はめなおす方法がわからない以上はどうにもならないと諦める。
上から差し込む光は明かりとして頼りにならない。火の使えた文明は松明というものを作りだせたそうだが、残念ながら再現不能のロストテクノロジーである。神術型は旧人類の技術を復活させられるが、それでも火の使用にだけはたどり着かない。なにが新人類だ、まったく。
埃はない。室温も外と変わりない、単調な階段。おり始めて三十秒ほどが経った。そろそろ足が平な地面につかないと、不安になるころだ。と、足が沈む。恐る恐るしゃがみ、地に手を付けると柔らかな感触。これは、布団だ。ようやく寝室に到着したようだ。布団は誰かが敷いていてくれたのか。
ゆっくり体を倒していき、枕らしきものに顔をうずめる。そこで、靴を脱がなければいけないと思い、足をよじる。靴下まで脱ぎ、足の指を広げる。臭気が空に逃げる。
仰向けになると、正方形の光が消えていることに気づく。耳を澄ますと足音。木のきしむ音は小さく、音の主の体重の軽さがうかがい知れる。
「奈保さん……もう寝ましたか?」
伊豆の声である。それはそうだ。この場所を知っている人は忍者省に何人かいるかもしれないが、ここで俺が寝ているのを知るのは伊豆だけだろう。
「起きていますよ、伊豆さん」
立ちあがろうとすると、そのままで聞いてください、と止められる。
「ここは蜜月の壺、という部屋です。男女の密会の場として古くからこの屋敷に伝わっています」
「はあ……えっ」
えー。ええー。えええー。えっどういうこと。
「ある人からアドバイスを貰いまして……強引さも、時には必要だって」
伊豆さんはそう言うと、口を閉じる。俺もなにをいっていいのかわからない。暗闇に静寂が訪れる。
入口が閉ざされたということは、もうこの部屋には誰も入ってこないだろう。つまり二人きり。邪魔はない。地下にあるので、音は漏れない。何をしたところでばれない。
邪な考えが脳を支配していく。俺は衝動を抑えるため、拳を固く握った。この手が開かれたとき何が起きるのか、それは俺にもわからない。
サンジェルは伊豆を大切にしろ、と言っていた。奴に同意するのは癪だが、確かにこんなに俺によくしてくれる人は、大切にしなければいけない。大切にする、とは……愛さなければいけないのだろうか……。蟻沢さんは俺たちをカップルだと冷やかしたが、まだ会って少ししか経っていない。そんな相手と一線を越えるのは、ためらわれる。俺は、ここでどうすればいいのか。
苦悩していると、伊豆さんが沈黙を破った。その声は酷く冷たかった。
「すみません、奈保さん。実はさきほどまでの話、盗み聞きさせていただきました」
現実に引き戻される。頭を振って、残った煩悩を覚ます。そうか、あの時伊豆さんもいたのか。まったく気が付かなかった。さすがエリート忍者といったところか。無論、風太さんへの皮肉である。
「三日後の作戦、全国から腕に覚えのあるものが集まります。忍者省……伊豆の忍者も参戦します。身内贔屓するつもりはありませんが、彼らは強いです」
「……そうですか」
言わんとしていることを、なんとなく察する。布団の中で足が痺れた。
「任せていいんです、そういう強い人たちに。あなたでは、力不足です。おそらく……生存率はないに等しい」
「…………」
見栄を張っていたつもりだったのだが、俺の弱さは、ばれていたらしい。それはそうか。奇森倶楽部でも伊豆さんに頼って逃げることしかできなかったのだから。
伊豆さんの声の位置は時折変わる。動きながら話しているのだろう。しかしそんなに広い部屋ではないと思うのだが。
「私はあなたが死ぬのを見逃せないです。どうか、作戦への参加はとりやめてください」
本当に、なんていい人だ。かつてここまで俺を心配してくれた人が何人いただろう。
「それはできないお願いです」
だが、俺には珍しく、即答する。どこから出てきているのか、スラスラとつづく言葉が口から零れる。
「俺は、戦わなければいけないんです。胸を張って生きるために」
「殺しが胸を張れますか?例の奇術師は生け捕りにする計画らしいですが、操られている人たちは、まだ生きているかもしれないのですよ。この作戦は成功しても、鎮圧と称した虐殺として、作戦の参加者は民衆に蔑まれます」
「…………」
報酬の高さはそういう理由か。
風太さんは……気づいていないだろうな。もしかしたら、警察省で風太さんは浮いていて、失脚させるために今回の作戦の指揮官に任命されたのではないだろうか。蟻沢さんは、それに気づいていたのかもしれない。だから、作戦立案の側に立って、風太さんのサポートに回ろうとしていた……。
そうなると、確かに、俺には理解と、覚悟が足りなかったらしい。
だが、それでも。俺の行動原理はたった一つでいい。
「伊豆さん、俺は幸せになるためなら……俺たちが幸せになるためには、他がどうなってもいいと思っています。村八分はどんとこいです。どのみち武功会がなくなって後ろ盾なんてない。生きるためには、なりふり構っていられないんですよ」
「俺たち、とは滋養風犬さんのことですか」
「はい。俺は、あいつのためになら外道に落ちます」
いま、俺は考えて話していない。勝手に声帯が使われているようだ。長らく忘れていたが、本音で話すときは、考えている言葉がそのまま口から出ていくから、頭にもやもやが残らないのだ。久々の感覚を面白く思う。
「こんなことを言うのはなんですが。……風犬さんの、なにがいいんですか」
伊豆さんの疑問は、もっともである。滋養風犬の長所は、武術の才能以外には、ないといえる。性格面でいえば、打って変わって最下層の人間だろう。自己中心的で、他者が傷つくこと、他者を傷つけることに、なんの感情も抱かない。
一言でいえば、風犬は欠陥品である。
だからこそ、俺は彼女が好きなのだ。
俺が構わなければ、孤立してしまう弱い存在。俺が見捨てれば、独りぼっちになってしまう女の子。
歪んだ思想ではあるが、俺は自分より下の人間を愛することで、心の安定を保とうとしているのだ。
……ふん。
まったく、くだらない人間だ、俺は。
「あいつは、最高ですよ。伊豆さん」
そして、俺は最低なのだ。
「そうですか…………」
残念そうな伊豆さんの声。
「例えば、ですけど」
突然、伊豆さんの声色が変わる。さっきと違い、あたたかい。
「私がいまここでプロポーズしたとして。それに答えてくれれば伊豆家の婿として一生困らず生活できると知ったら、その決断は変わらないですか
」
思わぬ発言に、俺は動揺し、起き上がろうとする。
……が、からだが動かない。
「……ええ、変わりません」
異常事態に、声が上ずる。冷静に、格好よく返したかったのだが、異変に気付いてしまい、それどころではない。あれ……どうしてからだが、動かないんだ?
指先は動かせる。だが、腕は持ち上がらないし、ひざは曲がらない。この感覚はなじみがある。あれだ。監獄での拘束具だ。三年ものあいだ、苦をともにした友とここで再開できるとは。嬉しくない。
「そうですか……勝ち目がない、のは私も同じってことですか」
落胆したような溜息が顔にかかる。あれ、そんな近くにいるのか。暗くて見えない。
「あの、伊豆さん。もしかして俺縛られてません?からだの自由が奪われているかなーって」
「ああ、すいません。もうすぐ終わります。縛り終わります。奇術型は特性上、関節には詳しいですから時間はかかりませんよ」
特性、というのは奇術型の技術器官「奇球関節」のことだろう。というか、本当に縛られていた。強引さって、誰だよそんなアドバイスしたのは。
誰も入ってこない地下の隠し部屋。からだはがっちり縛られている。この状況、つまり。
なるほどなあ。俺、監禁されているぅ。
「伊豆さん、だから、俺三日後には出なければいけないのですが」
「はい。残念です。説得しようと思いましたが、決意は固そうです……」
「え、ではこの縄?金具?拘束を解いてくれませんか?」
違いますよね。納得してくれたというのなら、拘束解きますよね。
「奈保さんの覚悟は、しかと受け止めました。もう止めません。しかし、奈保さんが弱い事実は変わらず、殉職する可能性は依然高いままです。だから、この三日間はこの部屋で、一緒にいてほしいのです」
細い腕が俺の胴に絡みつく。伊豆の体温がじんわりと伝わってくる。
「伊豆さん……」
「おやすみなさい、奈保さん」
直後に、耳に寝息がかかる。横になって、ノータイム。相変わらずの瞬間睡眠である。
「……」
動けないこの肉体。どうにもならないなら、仕方ない。
……俺も寝るか。
目を閉じると、風犬の顔が浮かんだ。病院に置き去りにしているが、大丈夫だろうか……。まあ、大丈夫だろうな……。本当のところ、俺がいなくても、あいつは、無問題なのだ。
そのうち、意識が遠のく。深い眠りに全身が沈む……。
監禁半日後、俺はきゅうりをつまみ食いしにきた蟻沢さんに救出された。
伊豆は、蜜月の間に入っていたことを、大人に怒られていた。




