桜冷めて
春なのに真冬の戸外のように冷え冷えとした病室に、そっと滑り込む。
幾つもの機械に繋がれた姉の身体は、健康な人間がただ眠っているだけであるようにしか見えない血色の良さで、簡素なベッドの上に横たわっていた。
病室中の機械が発する単調なバイタルサインを総無視し、そっと、姉の、女性にしては太い首筋に触れる。乾いてがさついた肌の下に感じるのは、冷たさだけ。人としての温かさは勿論、生きているのであれば必ず指先に触れる筈の脈拍さえ、姉の身体からは感じることができなかった。
姉は、故郷から遠く離れた小さな地方大学に准教授として勤務していた。出口を整えないまま大学院だけ重点化された昨今の状況下で、二百以上の大学や研究機関に履歴書を送り、やっと得ることができたこの職を、姉は本当に大切にしていた。だからこそ、退職した教員の補充をしない所為で次々と押し付けられていく専門外の講義も、少子化なのに定員を減らさない為に増えている本来なら大学に行けないレベルの学生に対する指導も、姉は一言も弱音を吐かずに受け入れて、本当にきちんと真面目に大学業務をこなしていた。
その姉が、研究室で倒れているのを発見されたのは、新学期が始まったばかりの四月の初め。大学附属の病院に運ばれた時には既に絶望的な状態だったという。だが、姉の所属する大学は、姉が附属病院に収容されたことを幸い、とんでもないことをやってのけた。既に息絶えた姉に特殊処理を施し、あたかも生きているように仕立て上げたのだ。
学部に関しては規定は無いが、大学院においては、所属する大学院生を指導する資格を持つ教員を最低何人配置しないといけないという人員数が法律で定められており、何年かに一度、その数が満たされているかどうかの認定が行われる。退職した教員の後任補充を行わなかったが為に教員の定員を満たすことができないまま、この五月に大学院の資格認定を受けないといけなくなった大学側が、苦肉の策として、姉を「生きている」と偽装し、人員数に関するチェックを潜り抜けようと考えた。それ故に、姉は今もこの場所に横たわっている。
両親は、大学側からの多額の金に目が眩んだのか、この件について何も言わない。でも、自分は。……耐えられない。姉を見殺しにした奴らが、許せない。
だから。
ただ静かに、姉の小柄な身体に繋がった機械とコード類を一つずつ外す。そして、全てから自由になった姉を、持って来た柔らかい毛布で丁寧に包んでからそっと抱き上げ、病室を出た。
用意しておいたレンタカーの後部座席に優しく姉を乗せ、ただひたすら夜の空虚な通りを走って辿り着いた先は、静かな山の中腹。その、うっそうと茂る木々の間にある、昼間のうちに掘っておいた深い穴に、冷たい姉の身体をそっと横たえた。
「これで、良いんだ」
独り頷いてから、姉の身体に土を掛けて埋める。その小さな身体が見えなくなり、堪えきれず嗚咽に似た息を吐いた視界に映ったのは、白い欠片。……雪? 目を瞬かせてから、首を横に振る。幾ら北国でも、この時期に雪は降らない。そう思いながら顔を上げると、見事な大樹が宿した白い花弁が、柔らかい風に揺れているのが見えた。
山桜の根元に姉を葬ったことに、初めて気付く。
草花に興味が無かった姉が、唯一知っていた花が、山桜。偶然とはいえ、これは。
しばらく呆然と白い花を見詰めてから、自然にこくんと頷く。姉はきっと、自分のしたことを許してくれるだろう。
涙が、頬を濡らす。
そして。
彼の者の行方は、この日を境に、闇の中へと消えた。