髪を洗う人
「あなたの髪を、洗いたい」
いきなり、見知らぬ人から面と向かってこんなことを言われたら、誰だって引くだろう。だが、奈月は逆に、無言で自分を見下ろす青年の顔を、まじまじと見上げてしまった。
衝撃で動けないのが半分、青年の真摯な瞳に見入ってしまったのが半分。土手の右側を流れる川の水音が、奈月の耳をすり抜けていった。
「こらこら」
左側から上がってきた、嗄れた声に、我に返る。
「ちゃんと説明せねばいかんと、あれほど言っただろうが」
同じタイミングで奈月から目を逸らした青年と奈月との間に割って入ったのは、小柄な老人。
「すまんの、娘さん」
白い髪が、大きく揺れる。
「なりだけ大きくなってしまった奴でな、こいつは」
背後の青年を見上げた老人に釣られて、再び青年を見上げる。先程までの鋭さが消えた瞳を下げる青年に、奈月は小さく口の端を上げた。
「頼んで悪いが、こいつの願い、聞いてやってくれぬか」
土手の斜め下、小さな住宅が並ぶ間に見える赤と青と白の看板を指差し、老人が小さく頭を下げる。
髪を洗ってもらうくらいなら、問題は無いだろう。顔を上げた老人に頷くと、嬉しげに土手を駆け下りた大柄な青年の後ろから、奈月も土手を下りた。
老人と青年が営む理容院は『川辺』という名だった。
老人と青年の名字だろうか? それとも、川縁にあるから『川辺』と名付けたのだろうか? 奈月が首を傾げる前に、青年は店の奥にある、美容院と同じシャンプー台に奈月を案内した。
何も喋らない青年に促され、滑らかに光る大きな椅子に下半身を乗せる。椅子の背に上半身を乗せるとすぐに、古い色にくすんだ木の天井が視界に映った。
いつもの美容院のシャンプー台よりも、良い椅子だな。あっという間に良い具合に固定された頭に、口元がほころぶ。聞こえるのは、水音のみ。ふわりと漂う水蒸気にも、奈月の髪を濡らす青年の指にも、飾り気が無い。髪の毛を引っ張られる痛みも、痒いところに手が届いていない不快感も、無い。あっという間に終わってしまったシャンプーに、奈月の感想は一言だけ。……上手だ。
「済まないね、娘さん」
元の形に戻った椅子の上で、青年に髪を拭いてもらっている奈月の前に再び、件の老人が現れる。
「良かったら、お代はいいので髪も揃えていってくれ」
あっさりとした老人の言葉に、奈月も気安く頷いた。
「あいつ、小さい頃から人の髪を洗うのが好きでね」
使い込まれ、良く手入れされた鋏で、量が多い奈月の髪の端を切り揃えながら、老人が言葉を紡ぐ。
「でも、ここは理容院だから、髪も短い客が多くて、あいつには物足りなかったんだろうな」
店を飛び出していったのは今回が初めてだが、普段から青年は、理容院の客が途切れる度に、仕事を放り出して理容院の窓から土手道を歩く人々を、人々の髪を眺めていた。老人の説明に、奈月は思わず微笑んだ。
「あんたの髪で、あいつ、気が晴れたみたいだ」
客は奈月しかいない店の中を丁寧に掃いていく青年の方に首を傾けた老人が、奈月に頭を下げる。
「あんたさえよければ、あいつに、髪を洗わせてやってはくれないだろうか、娘さん」
お代は、要らないから。老人の声に、古い鏡に映る青年の、落ち着いた瞳を確かめる。別に、髪を洗ってもらうくらいなら問題は無いだろう。再びの思考に、奈月は今度は大きめに頷いた。
それから、一週間に一度、奈月は『川辺』に通うようになった。
奈月の髪を洗う青年は、常に無言。奈月の髪のどこが気に入ったのかすら、分からない。青年の、髪を洗う技術力だけは、確か。分かっているのは、ただそれだけ。
まあ、良いか。さっぱりとした頭で理容院を出る度に、また来週も来ようと決心する。人に髪を洗ってもらうのは、気持ちが良い。上手な人ならば、尚更。
目的も無く、惰性のままに仕事場とワンルームマンションを往復しているだけの奈月には、髪を洗うことに情熱を注いでいるように見える青年が、時折眩しく映る。だから、……惹かれるのかもしれない。理容院に行かない日、悲しそうに窓から外を見つめる青年に通勤路である土手道から手を振りながら、奈月は心が上がるのを感じていた。
そんなある日。
仕事に出掛ける前に流し見をしていたテレビに、見知った光景が映る。これは、まさか、あの理容院?
「警察によりますと、……」
呆然としてしまった奈月の耳に、あくまで平静なアナウンサーの声が響く。どうやら青年は、奈月よりも度胸が無い人に、声をかけてしまったらしい。
事件の結果を、仕事場に向かう途中で確かめる。
人混みで荒らされた土手の斜め下、見慣れてしなった理容院の扉は、二度と開くことが無かった。
青年と老人は、どこに行ってしまったのだろう。沈んだ心に、流れる川音が響く。どこか、優しい場所で、ずっと髪を洗っていて欲しい。小さな願いを、奈月は川に流した。




