姉の小さな手
「親指と人差し指を直角に広げて、それぞれの指の先同士を結んだ長さの1.5倍が、丁度良い箸の長さ、らしいよ」
徹の向かいで揺れる長めの箸と、その箸を操る小さな手に、現在書いているレポートの内容を話す。
「そう、なの?」
その小さな手の持ち主、徹の向かいで夕食を食べる姉の梓は、徹の言葉で持っていた子供用茶碗をテーブルに起き、自身が持っている箸をまじまじと見つめた。
「確かに、私には少し長いわね、この箸」
近くの百均では、この長さのしか売ってないんだけど。兎の絵が描かれた可愛らしい色の箸を眺めて息を吐き、再び子供用茶碗を手にした姉の、飾りの無い小さな爪と短く太い指を、好ましく見る。その小さな手で、姉、梓は、何でも器用にこなす。掃除や洗濯や炊事はもちろん、社会人として働いている小さな会社の事務全般も、子供のような、小さく丸い手で。
小さい頃に母を亡くし、今は亡き父方の祖父母が暮らす少し寂れた郊外にある団地の一角に移住してからずっと、働く姉の、少し危なっかしいがそれでも万事巧くいくその小さな手だけを、徹はずっと見ていた気がする。姉が作った炒り鶏の、一口大に千切られたこんにゃくを噛みしめながら、徹は小さく頷いた。姉と同じように、徹も祖母から家事の全てを教わったが、姉と同じようには美味しい夕食を作ることはできない。
と。
「徹の手なら、百均の箸でも大丈夫なのね?」
唐突に、向かいにあったはずの小さな手が、徹の目の前に現れる。
「やっぱり、男の子の手って大きくて骨ばっているわね」
呼吸を失い、硬直してしまった徹の無骨な手に触れる、姉の柔らかな指先の温かさを、徹はただただ愛おしく感じていた。
夕食後。
気を取り直して、居間の隣にある自分の部屋でレポートに向かう。
歴史の中の『ものの計り方・度量衡』について調べまとめること。それが、徹が現在取り組んでいるレポートの内容。そのために大学の書庫から引っ張り出してきた資料の古い匂いを探りながら、徹は慎重に、PCのキーボードを叩いた。
『長さ』を測るだけでも、昔から様々な工夫が凝らされてきた。古代エジプトやオリエントでは、cubitという、肘から中指までの長さを単位としていた。足の長さを一単位としていた時代もあったし、穀物の大きさで長さを測っていた時代や場所も、世界のあちこちにあったという。もちろん、手を基準とした、長さを測る単位も。
姉の手を、『尺』や『咫』、『束』などといった手を使った古代の長さの単位の基準にしてしまったら、どうなるか。同じ長さのものでも計測結果はやたらと長くなってしまうだろう。キーボードを叩く、姉とは全く異なる長い指に息を吐く。あの、柔らかく器用で飾り気の無い指を気にするようになったのは、いつの頃から、だっただろうか? 幼い頃はまだ同じくらいの大きさだった姉の手が、だんだんと小さくなっていくように感じた頃、だから、おそらく徹の背がぐんぐんと伸び始めた、高校生くらいの頃から、だっただろうか? いやその前から、徹にとって、姉のあの小さな手は、守るべき対象だった。近所の上級生にからかわれていた姉を見て激怒し、倍以上の体格を持っていたその上級生に飛びかかっていったことを、徹は苦さとともに思い出した。
とにかく、レポートを仕上げることが先。気持ちを無理に、PC画面に向ける。
隣の部屋から小さく、テレビドラマらしい音が聞こえてくる。姉が、洗濯物にアイロンをかけながら見ている推理ドラマが終盤に差し掛かっている、緊迫がみえるその音を無理に引き払うために、徹はPCの音楽プレイヤーを起動し、ヘッドホンを耳に当てた。
PC画面を見直して、レポートに誤字脱字が無いことを確かめる。
〈終わったぁ〉
大きく伸びをしてからヘッドホンを外すと、静寂が徹を包んだ。
姉は、もう眠ったのだろうか? シャワーを浴びるために自室を出る。居間を挟んで徹の部屋の向かいにある姉の部屋から明かりが漏れていることを見て取ると、徹はそっと、姉の部屋の戸に手を掛けた。
「早く寝ない、と……」
明らかに本を読んでいて寝落ちしている、ベッドの上で俯せになった姉の身体から伸びる小さな手と、その小さな手が握る文庫本に、微笑みがこぼれる。小さく丸い手から文庫本を取り上げ、近くの机の上に置くと、徹は静かに、姉の部屋の電気を消した。
「よう、岩崎」
肌寒かった背中が、不意に熱を持つ。
振り返らずとも、大学の授業で一緒のグループになっている青木が徹の背中にのしかかっていることが分かった。
「おまえ、確かこの前二十になったんだよな」
グループのメンバーのもう一人の男子、植村が、徹の横に居ることを確かめてから、青木の声に頷く。今週のグループワークの課題は、既に提出したはずだ。ちゃらい見かけに反し、この二人は授業にも真面目に出席し、個人レポートに関しても多いと文句をこぼしつつも一人で仕上げてしまう。この二人と同じグループで良かった。それが、徹が大学生活でほっとしている、殆ど唯一の事柄。
「今日、暇か?」
青木の声に、再び頷く。
「だったら、俺たちと合コンにつきあってくれ」
合、コン? 突然の、きらきらとした言葉に、思わず目を瞬かせる。
「急に用事ができたとかで、一人面子が足りないんだ」
青木の言葉を補足する植村の言葉に、徹は小さく首を捻った。今日は、徹が夕食当番。二人に付き合うのであれば、姉の許可が要る。
「ちょっと待って」
背中の青木の重みを感じながら、上着のポケットから携帯端末を取り出す。武骨な指で素早くメッセージを作成すると、止まる指に違和感を覚えながら姉の連絡先を指定した。
すぐに、メッセージが戻ってくる。
「合コン? 良いじゃない」
あくまで明るい文章に、徹の唇は知らず知らず歪んでいた。
「今日は外で食べて帰るわ。合コン、楽しんで」
メッセージの半分で、携帯端末を乱暴にポケットにしまう。
まだのしかかっている背中の重みに向かって、徹は承諾の頷きを返した。
青木と植村に連れられて向かった居酒屋は、禁煙のはずなのにどこか紫煙の匂いが漂っていた。
その、視界がぼける場所にある掘り炬燵風のテーブルに座り、男子二人が次々と発する注文にかくかくと首を縦に振る。初めて口にしたビールは、どこか生温く、そして一息で飲み干せないほど苦かった。テーブルに並ぶ食事も、普段食べるものより塩気が多い。美味しくない。ストレートな感情を隠すために、徹は少しべとつくメニューを手に取った。
「お酒、何か頼むの?」
不意に横で響いた、明るい声に、顔を上げる。先程までは確かに徹の向かいに居た、ほっそりとした頬に柔らかい前髪を垂らした女子が、徹の横で徹が手にするメニューを覗き込んでいた。
「意外にカクテルの種類多いね、この店」
確か、授業では徹たちのグループの隣に座ることが多いグループ所属の女子の一人。名前は、何だったっけ? メニューをなぞる細い指の煌めきを見つめないよう、徹はそっと、メニューからテーブルの方に目を移した。
「ジン・トニックみたいにすっきりしたものの方が良いかなぁ。でも、もう食後って感じもするからカルーア・ミルク頼んじゃおうかなぁ」
「詳しいの?」
それでも、しなやかな女性が発する、小さいが明瞭な知識に好奇心を覚え、思わずそう、口にする。
「何飲んでるか分かった方が楽しいじゃん」
ある意味不躾な徹の問いに、赤い唇が微笑んだ。
「カクテルっていうのは、基本となるお酒にジュースとかシロップとかを混ぜたものね。この辺り、オレンジ・フィズとかはジンってお酒がベース。ラムやウォッカ、ワインがベースのカクテルもあるのよ。飲む目的や所要時間によってもグラスとか、色々違ってくるし」
ジンは、杜松の実を加えた蒸留酒。ラムは、サトウキビから作られる蒸留酒。姉が良く読む外国文学にしばしば出てくる単語だ。
「カルーア・ミルク、のベースは?」
「カルーア・コーヒー・リキュールっていう、コーヒーの風味にバニラの甘みを加えたリキュールがあるの」
まだ手にしているメニューの上を踊る細い指に、姉の小さな指を重ねる。その指に踊るきらきらとした光は、ネットでたまに目にする『ネイルアート』と呼ばれるものなのだろう。白い部分が見えないほどに短くしている姉の、手と同じように小さな爪は、光らない。それでも、飾り気の無い姉の爪の方が愛おしく思えてしまうのは。
「ねえ、何か飲んでみる?」
不意の声が、耳を叩く。
「あ、うん」
忙しなくなった鼓動を押さえながら、徹は、細く光る指に小さく頷いた。
次の日。
自分の部屋で起きあがった徹を襲ったのは、これまで経験したことの無い、頭痛。
「二日酔いね」
唸り声をあげながら居間に顔を出した徹に微笑む姉の姿が、昨日の居酒屋での光景と同じようにぼんやりと霞んで見える。
「今日は土曜日だから、水としじみ汁を飲んで寝てれば良いわ」
よろよろとテーブルの前に座った徹の前に置かれた、湯気の立つ汁茶碗を透かすようにして、それを用意してくれた姉の小さな手を見つめる。カクテルのことを際限なく話してくれた女性――後で、意外に面倒見の良い植村から『斉藤千夏』という名の人だと教えてもらった――の細く光る指も綺麗だったと、正直に思う。だが、飾り気の無い姉の指の方が、徹には好ましく思える。しじみ汁をすすり、昨日のことを茶化す青木からのメッセージを携帯端末から読み取りながら、徹は小さく呻いた。千夏という名の、あの細くしなやかな手の女子と付き合うのも、悪くないかもしれない。でも、それでも。頭の痛みが増した気がして、徹は今度は大きく呻いた。
その時。携帯端末に届いていたもう一つのメッセージに、ようやく気付く。徹と姉の梓を自分の両親に預け、自分は世界を飛び回っている父からだ。仕事が一段落したのでそのうち帰る。帰ってくるのかどうか分かりかねるメッセージに、徹は思わず口の端を上げた。
と。
「徹」
小さく沈んだ、姉の声が、徹の耳を強く叩く。
「父さんが帰ってくる前に、逢ってほしい人がいるんだけど」
ああ。頭の痛みが、全身を駆け巡る。徹がいくら愛おしく思っていても、姉は、あくまで姉。いつかは。
小刻みに震えて見える姉の小さな手に、自分の心を、何とかして偽る。
「良いよ」
ようやく絞り出した声は、姉にはどう聞こえただろうか? そのことを確認する余裕は、徹にはなかった。
姉の、職場の先輩だという、山中という男性は、徹よりも大柄な男だった。
その男性の、徹よりも大きな手に乗せられた姉の小さな手を脳裏に浮かべながら、徹は自室のベッドに突っ伏した。
今日、一緒に食事をしただけだが、あの山中という奴は、良い奴だと判断できる。生意気な感情のまま、徹は小さく首を横に振った。結婚は、徹が大学を卒業するか父が日本に腰を据える気になった頃まで待つと、姉も、山中という男性も言っていた。その気遣いすら、徹を苛立たせるには十分だった。
だが。姉は、姉。いつかは、……別れなければならない。
気怠げに、携帯端末を手に取る。この間の合コン以来、千夏という名の細い手をした女子と、小さくメッセージのやりとりをしている。カクテルを好む千夏が行きたがっていた、入るのに躊躇するバーという店に、溜めっぱなしのバイト代を使って誘ってみようか。そう思いながら携帯端末を操る徹の手に重なった、姉の小さな手の幻覚に、徹は携帯端末を放り投げた。




