冴氏
真夜中。
小腹を空かせた冴氏は寝床にしている狭い空間でゆっくりと手足を伸ばした。
この時間、この家の女主人はぐっすりと寝ている。食べ残しの処理にはうるさい彼女だが、仕事で忙しいとみえて部屋の掃除には余り力を入れていないから、昼間見つけた埃の塊が今もまだ部屋の隅に転がっているだろう。そう見当をつけて、冴氏はそろそろと壁を這い、開けた台所に出た。
と。
不意に、眩しいほどの光に包まれる。
目も開けていられないほどの光に戸惑ったのはほんの一瞬。次の瞬間、ちょうど水を飲みに起きてきたらしいこの家の女主人と冴氏の目があってしまった。
冴氏を見たときに普通の女から出る悲鳴は彼女の口からは漏れなかった。その代わり、彼女の持っていたプラスチックの計量カップがものすごい勢いで冴氏に向かってくる。冴氏は持ち前の反射神経でその攻撃を逃れると、一目散に元居た暗がりへと逃げ込んだ。
再び隠れ家に潜んでやっと、冴氏はほっと溜息をついた。
余りにも狭すぎる為か、彼女の攻撃はこんなところにまでは追ってこない。とりあえず、自分の身は護れたのだ。
が。
〈……さて、どうしよう、か〉
冴氏は隠れ家で頭を抱えた。確かに、今のところは無事だが、女主人にこの姿を見られてしまったのだ。彼女が駆除行動に出ないとも限らない。せっかく今まで、彼女に見つからないようにこの快適な空間で暮らしてきたのに。そう思うと、自分の迂闊さが恨めしかった。こうなったら、彼女がさっきの出来事を『寝ぼけて幻覚を見たのだ』と思ってくれるのを祈るしかない。
それから三十二時間後。
激しい空気音といつもよりせわしない足音に、冴氏ははっとまどろみから目覚めた。と同時に、息が詰まるような空気が隠れ家を襲ってくる。
〈ま、まさか……!〉
まさか彼女がこんなに早く報復行動に出るとは。
間断なく襲ってくる死の霧に、冴氏の意識はゆっくりと闇の中へと堕ちていった。
それから何時間経っただろうか。
暗闇の中で、冴氏はゆっくりと目を覚ました。
生きている。手足のしびれはあるが、どうやら、薬剤量の不足により何とか生き延びたようだ。しかし予断は許されない。薄れてはきているが、薬剤はまだその効果を保っているように思えた。
〈とにかく、逃げよう〉
ゆっくりと隠れ家から這い出る。そしてそのまままっすぐに、光のほうへ向かってその麻痺した羽を広げた。
だが。
冴氏の羽音を、耳聡い女主人聞き逃す筈がなかった。
いきなり、何か固いものが冴氏に向かってくる。いつもなら逃げられる距離と方向だったが、やはり、痺れた手足ではどうにもならなかった。
衝撃と共に全ての感覚が遮断される。冴氏の意識は、今度こそ、永遠の闇の中へと堕ちていった。