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『殿』という人

 重い振袖を、翻す。

 『お屋敷』とは名ばかりの、石垣だけは頑丈な丘の上に建つ狭く傾いたあばら屋は探し尽くした。だが、千古が主人と仰ぐ人物の姿は、どこにも、無い。と、すると、やはり。共に主君を捜す老齢の爺に断りを告げると、千古は小さな丘を駆け下り、丘の麓に広がる小さくも賑やかな町に降り立った。……いた! 予想通り、千古の主人、『殿』は、町外れの、諸国へと通ずる街道と町の大通りとが交わる場所にある小さな茶屋の店先に座り、店を切り盛りする年増の女将とたわいない話をしながら昼間だというのに濁酒を喰らっていた。

「殿っ!」

 その殿の真正面に立ち、赤くなっている殿の後退しかけた額を睨む。

「昼間っからこんなところで油を売って」

「おお千古か」

 その千古の甲高い声をものともしない風で、殿は千古に普段通りの、人好きのする笑顔を見せた。

「ここに来て一月、小姓姿も板に付いてきたの」

「なっ」

 言葉で不意を突かれ、自分の頬が熱くなるのを止めることができない。それでも。

「そ、そんなことよりっ!」

「団子食うか?」

 丁度、茶屋の女将が店の奥から持ってきた串団子を示され、ごくりと唾を飲み込む。甘辛いたれがとろりとからむ香ばしい匂いの串団子は、千古の故郷では口にもできない一品。だが、しかし。今の千古は、殿の小姓。誘惑に負けてはいけない。目の前の串団子から頑張って目を逸らすと、千古は腹に殊更、力を込めた。

「ははっ、頑張るな」

 その千古の髪を、殿の手がぐしゃぐしゃにする。日々武器を手にしているその手は、大きく、固い。殿のその手に触れられると、何故か、身の置き場が無くなってしまうような気持ちになってしまう。千古はそっと、殿から再び目を、逸らした。

「団子は、屋敷に帰ってからにするか」

 その言葉と共に、小さく温かい包みが、千古の両手に乗せられる。

「爺が、呼んでいるのだろう? 帰るぞ」

 殿の言葉に小さく頷くと、千古は、ふらつき気味の殿の背中を静かに追った。

 それにしても。賑やかな町を、町の人に声を掛け、そして町の人に声を掛けられて共に笑う殿の背を見ながら、小さく息を吐く。千古が殿の小姓になって一月なら、殿がこの町の領主となって一月、しか経っていないことになる。なのに、殿は既にこの町のことをすっかり把握してしまっているらしい。中肉中背、どこをどう見てもくたびれたおっさんにしか見えない殿だが、中身は、これまでの領主とは違う。揺れる背が頼もしく思え、千古は静かに微笑んだ。

 千古は、ここから二刻ほど歩いた場所にある山沿いの土地を支配する、小さな土豪の娘。この町や、父が差配する領土を含む範囲を新たに支配することになった『桜谷の大殿』の命で殿がこの場所に赴任してきた際、相次ぐ戦乱で妻と全ての息子を失ってしまっていた千古の父は、人質兼身の回りの世話をする小間使いとして、たった一人残った娘、千古を殿に差し出した。

「別に、女性は必要としないのだが」

 初めて殿と対面したときの、殿の困り顔は今でも覚えている。まだ若い頃、奥方と幼い娘を亡くしてから、殿はずっと独り身で過ごしてきた。殿が幼い頃から世話を焼いている爺からそう聞いたのは、しばらく経ってからのこと。

「ま、賢そうだし、小姓として仕えてもらうか」

 その殿の一言で、千古は、女性の小袖姿から小姓としての振袖袴姿となった。まだ伸ばしていなかった髪は、元結を結うのに丁度良い長さだったし、振袖が重く扱いにくいことを除けば、袴姿は裾の捲れを気にしなくて良い分走り易い。お屋敷に寝泊まりしている千古と爺だけで飯炊き以外の様々な雑用をこなす必要はあるが、時々仕事をさぼり、町の方に行ってしまう殿の悪癖だけに注意すれば、千古の仕事は、故郷で病身の父の手伝いをして畑作に精を出すよりも断然楽、だった。

「ところで」

 屋敷への丘を登る途中で、殿が尋ねる。

「爺は俺に何の用があるんだ?」

「分かりません」

 千古の方を振り向かない殿の問いに、千古は正直に答えた。

「しかし、先程、大殿の使いと名乗る男がお屋敷に来ました」

「そうか……」

 殿の背が、不意に伸びる。どうしたのだろう? 千古が訝しむより早く、おそらく殿の帰りを待ち侘びていたのであろう爺の怒声が耳に響いた。

「殿っ! 何処へ行って……」

「大殿は、何と?」

 その爺の叱責を制し、殿が簡潔に爺に問う。

「明日、城に来てほしいと」

 すぐに、爺の簡潔な答えが聞こえてきた。

 桜谷の大殿が床に伏したことを千古が耳にしたのは、五日ほど前。病は回復したが、今後のこともあるので殿と話がしたいのでしょう。爺の言葉に、千古もこくんと頷いた。大殿の信頼篤い殿だから、このような時にこそ頼りにされるのだろう。

 と。

「爺。今すぐ暇を出す。国へ帰れ」

 腕組みを外した殿が、不意に、長年仕えてきているはずの爺に残酷な言葉を吐く。そして。

「千古、おまえもだ。その団子を食べたら、父の許へ帰れ」

 突然の、冷酷な言葉。

 千古は呆然と、屋敷の中に入る殿の背を見詰めることしかできなかった。


 その日の、夜半過ぎ。

 千古は一人、屋敷の奥、殿の寝所の前に立った。

 殿の真意が、分からない。千古はともかく、爺にまで残酷な言葉を吐くなんて。確かめねば。その想いだけで、千古は、夕方に屋敷を去ったと見せかけて戻ってきた。

「殿!」

 一声かけて、襖を開く。次に千古の目に入ってきたのは、薄暗い寝所の、少しだけ膨らんだ布団に光る刃を突き刺した、黒装束の男の姿。

「殿……!」

 驚愕で、動けない。千古に気付いた凶客が、ゆっくりと、千古の方へ短刀を振り下ろす様を、千古はただ呆然と、見詰めていた。

 次の瞬間、千古の前に、見慣れた背が現れる。

「やはり、そうか」

 その声と共に、殿は、血の付いた槍ごと千古を抱え上げた。

 背に回された殿の、確かな腕に、ほっと胸を撫で下ろす。それでも声が出なくなってしまった千古を抱きかかえたまま、殿は厩の外に繋いであった自身の乗馬に跨がり、無言のまま馬腹を蹴った。

 そしてそのまま、月明かりの道を走る。

「殿……」

 やっと千古の声が出たのは、走り疲れた馬に水を飲ませる為に道沿いの小川で殿が馬を止めた時。

「怪我は無いか?」

 普段通りの優しい言葉に、こくんと頷く。しかしながら。

「さて、どうするか」

 千古の頭を撫でながらの、思案する殿の言葉に、千古の背は無意識に震え始めた。

 街道を行き来する人々の噂から、殿は、心服する大殿が亡くなったことを察していた。殿が度々諫言を吐いていた跡継ぎの若殿が、そのことを隠してしまったことも。若殿は必ず、煙たく思っている自分を排除しようとするだろう。千古と爺に暇を出したのは、二人に危害を及ぼさないようにするため。そして殿の危惧通り、若殿は殿に凶客を差し向けた。

「ごめん、なさい」

 足を引っ張ったことを、謝る。

「良いさ」

 そう言って、千古を抱き締める腕に力を込めてくれた殿が、ただただ嬉しかった。だが。

「しかし。……これで千古を親元へ帰すわけにはいかなくなったな」

 屋敷の天井裏には、おそらく報告の為であろう、凶客がもう一人、殿に殺される仲間を助けることなく忍んでいた。そいつが、千古のことも若殿に知らせるだろう。あくまで冷静な殿の言葉に、再び、千古の背に震えが走る。だが、……これ以上、殿に迷惑を掛けるわけには、いかない。

「……おっと」

 馬から滑り降りようとした千古は、しかし殿の太い腕に阻まれる。

「いけないな、千古。これ以上、主君に迷惑を掛けちゃ」

 千古が見上げた殿は、普段以上に頼もしく、また優しく見えた。

「小さいの一人くらい、槍一本で守れるさ」

 一緒に、行こう。いつになく強引で、普段以上に優しい言葉に、こくんと頷く。

 とりあえず、友人の多い都へ行って、若殿の今後を見守る。そして若殿があの小さな町や、千古の父が暮らす谷に苛烈を強いた時には、槍と謀で皆を助けよう。再び馬を走らせながらの殿の言葉に、千古は殿の腕の中で何度も、頷いていた。

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