1.出会い
岩場でいつものように夜空に浮かぶ月を見ながら唄を歌っていた。
それはお姉様から教えて貰った夜の海の唄。暗く静かなその唄が私は好きで毎晩歌っていたの。
「綺麗な声だね」
ある日いつも通り歌っていると、背後から誰かに声を掛けられた。
誰だろうと振り向けば、そこに居たのは小型のボートに乗った人間だった。いつの間に近づいたんだろう?歌に夢中で気付かないなんて!
「っっ!!」
「あ、待って!」
驚きと恐怖で海に飛び込んで、奥深くまで一心不乱に私は泳いだ。
「(人間だ!人間に声を掛けられてしまった!!私を捕まえにきたのよ!どうしよう!)」
人間を間近で見たのは初めてで、心臓がまだ激しく動いている。それはまるで嵐の日の海のような雄々しさで、私の心臓は強い音を奏でていた。
「あ…ここまで来ちゃった」
動揺から深海まで泳いで来てしまった事に気付いた私は、少し浮上して自分の家へと戻った。
「お帰りシルティア。今日は早かったわね」
「お姉ちゃん。うん、ちょっと気分が乗らなくて」
「あらそう。珍しい事もあるのね。熱でもあるのかも」
クスクスとお姉ちゃんは笑いながら私の額に手を当てて、熱を手で測った。だけど当然のように熱はないので首を傾げるお姉ちゃんに、私にもそう言う日戻りあるのだと抗議して寝床に潜った。
「まだ心臓がバクバクしてる。…一瞬しか見てないけれど綺麗な人間だった」
胸に手を当てて先程の声を掛けて来た人間を思い出す。
光り輝く金色の髪に昼間の海と同じブルーの瞳。人魚である私から見ても美しい人だった。
そんな人間が私になんの用だったのだろう。噂に聞いていたように、あの人間も人魚の血肉を欲しているのかな?不老不死をもたらすと言われているこの体を。
「そんなの迷信なのにな」
☆★☆★
いつの間にか寝てしまっていたみたいで、起きるともうお昼だった。寝床から体を起こして出てくれば、沢山の人魚達が歌を唄ったり海草を食べたりと自由に楽しく過ごしている。
「シルティアだわ。やぁねぇ見てよあの髪。本当に人魚かしら?」
「人魚じゃなかったら化け物じゃない。怖いわねぇ」
「クスクス、触れたら呪われるわよ」
私を馬鹿にしたように年の近い人魚達が笑う。でももう慣れっこだから無視して地上を目指して泳いだ。
後ろから何か聞こえるけど、聞こえないふりをしてやったわ。だってどうせ私の悪口だから、聞くだけ無駄なの。
「よいしょっと」
海から顔を出して誰も居ない事を確認して、夜とは違う定位置の岩場に腰を掛けた。昼間は日差しが強く皮膚が焼ける為、他の人魚達はあまり顔を出さない。
でも私はとてもいい場所を見つけたの。木が生い茂り昼間でも影を作り出してくれる場所を。日陰なら肌もそれ程焼けないし、心地がいいんだ。
そこで目を閉じて歌を唄うのが私の日課だったりする。
「~♪~~~♪♪」
人魚の声は透き通っていてよく響く。海の中でも地上の上でも。
私の髪は血の様に真っ赤な真紅の色をしてるの。他の人魚達は皆色素の薄い綺麗な色をしているのに、私だけ強い色が出てしまったのよね。
そしてそれが赤だから「死」を連想させる呪われた色って言われて、忌み嫌われてるんだ。
「気持ち良いなぁ」
ぐでんと岩場に寝そべり木陰の隙間から空を覗き見る。私もお姉ちゃんのように空色の髪だったら皆仲良くしてくれたのかな?ううん、きっとそんな事ないわよね。だってお姉ちゃんはとても美しい人だから。
誰よりも美しく聡明で優しいの。お父さんとお母さんですら見放した私を、家族として扱ってくれる人だからお姉ちゃんの髪色を貰っても何一つだって敵いはしないんだ。
ブオオオオオオオオ
「!!!?―――なんだ汽笛じゃない。吃驚させないでよね」
突然の大きな音に飛び起きると、前方の少し離れた場所に大型船が波を切りながらその身を走らせていた。
悪態を付いてそれを眺めていると、再び大きな音と共に船から煙と火が上がったのが見えた。
あの場所は確か巨大な岩が水中付近まであって、通常は船はこの場所を通らないのに。
「座礁したのね。あーあ、海がまた汚れてしまう…」
船からオイルが漏れだしてそれらが海に広がると、苦しくて息がしずらくなるのだ。だから消えるまではこの場所に近づけなくなる処か、今いる場所も引っ越さなければいけなくなるかも知れない。
まぁ、かなり奥に住処があるからそれは大丈夫だと思うけれど、この場所はとても気に入っていたのでいい迷惑だ。
「少し様子を見に行こうっと」
昨日人間を見た興奮もあり、興味本位で船に近寄る事にした。近づけば近づく程、その船がいかに大きいかが分かる。今の所船からオイルは漏れ出してないようで安心した。
人間って自然を壊す迷惑な生き物だけど、物を作る知識に関しては白旗を揚げざるおえない。
「あんまり乗ってないみたいね。人が少ない」
水中から人の様子を窺っていると、一人の人間が遠くの方で流されているのが見えた。丁度潮の流れが強い場所に入ってしまったのだろう。
「あのままだと死んじゃう!でも人間には関わるなって言われてるし…」
お姉ちゃんに耳にタコが出来る程、何度も繰り返し言われてるんだよね。…でも人間もこの世界に生きる同じ命だから、やっぱり見捨てる事は出来ないよ!
私もお姉ちゃんに見捨てられたら、住む場所もなくなって生きていけないもの。
「―――っ捕まえた!」
流されていた人間を無事に捕まえて人気のいなさそうな場所に連れて行った。近場は船から救出された人間が多数居たのでそこに近づく勇気は私にはない。
「あの、大丈夫ですか?」
ぺしぺしと頬を叩きながら声を掛けるも、ぐったりしていて起きる気配がしない。
生きているのか心配になって胸に頭を乗せて耳を澄ませば、多少弱い気もするけれど音は鳴っていたので安心した。きっと水を多く飲んでしまっただけだろう。
「良かった。生きてる」
それにしても他人の心音は初めて聞いたが、なんて落ち着く音色なんだろうか。ずっと聞いて居たくなる音で、懐かしいような、愛おしいような気になる。
心地よくてそのまま心音を聞いていたら人間の体が少し動いた。瞬時に我に返って慌てて海に飛び込み岩場の陰から様子を窺う事にした。
「っっゲホ、ゴハッ…はぁ、助かった…?」
人間は飲み込んだ水を吐いて意識を取り戻したようだ。もしかしたら私が腹部を圧迫していたお蔭かもしれない。
取り敢えず元気そうだしこの場を離れなくちゃね。
ピチャン
「…っ!!待って!そこにいるんでしょ?」
「!!?」
水音に気付いたのか焦った様に声を掛けられた。私の姿は見えてない筈だし、そもそも私がどんな存在か知っているのだろうか?でもその声の音からは、とても悪い事をするようには聞こえなかった。
「昨日の人魚だよね?俺を助けてくれたのは」
岩場の向こうから投げられたその言葉に、昨日の記憶が蘇った。
でも昨日の人間は綺麗な金色の髪だったのに、助けたこの人間は色素の薄い茶色だ。…もしかして月の光でそう見えてしまっただけなのかな?
「昨日は驚かせてしまってごめん。あまりにも綺麗な歌声が聞こえたから、声を掛けてみたくなったんだ。それと、助けてくれて有難う」
私は一言も声を発してないのに、昨日の人魚だと信じて疑わないその人間に少しの興味が湧いた。そして誰かにお礼を言われたのはお姉ちゃん以外で初めてで、胸がジワリと暖かくなる。
人間はお姉ちゃんが言う様な悪い人ばかりではないのかも知れない。もしかしたら彼はとてもいい人間なのかも知れない。
…だから少しだけならいいよね?返事を返しても。
「……息は苦しくない?」
「え?あ、うん。もう大丈夫だ」
「そう、良かった」
「ねぇ、そちらに行ってもいいかい?」
初めて交わす人間との会話にドキドキしていると、思いがけない言葉が飛んできた。
「え!?そそそれは…」
アタフタとして声がどもってしまう。だって人間が近くに来るなんてきっと何か企みがあるんだ!
「ずっと君に会ってみたかったんだ」
「…ど、どうして?」
「毎晩どこからか綺麗な声が聞こえてね。君の歌う唄は不思議な事に、俺の心を癒してくれる。だから会ってみたかった。会ってお礼を言いたかったんだ。美しい唄を有難うって」
その言葉に今まで感じた事のない想いが体を駆け巡った。雷のように全身を巡って目から涙として流れ落ちた。
雨が海を打ち音楽を奏でる為に命を使うように、私の涙も静かに、だけど喜んで海に溶けた。
「(これが嬉しいって気持ちなんだ…)」
誰かの役に立てていた事がこんなに嬉しいなんて知らなかった。ありがとうって言葉がこんなにも心を温かくしてくれるなんて知らなかった。
この人はきっと私の知らない事を沢山知っている人だ。だから知りたい。もっと近くでこの人間の声が聴きたい。
ピシャ
「わっ!」
姿を見せる為に砂浜に近付けば、尾が出た時に彼に水を飛ばしてしまったようで顔に掛けてしまった。元々濡れてるから服は大丈夫だけど、目に入ってしまったみたい。
「ご、ごめんなさい!目、痛い?」
「いや、大丈夫だよ。近くに来てくれたんだよね?目を開けてもいい?」
「う、うん…」
彼は濡れた袖で顔にかかった水を拭いて、ゆっくりと目を開いた。
「ーーーっ」
昨日の夜に見た綺麗な海の色の瞳が私を映し出す。そこには瞳の色に似つかわない私の赤い髪が反射していた。
その瞳に映る自分が急に怖くなって、彼の目を自分の手で塞いでしまった。
「み、見ないで!やっぱりダメ!私は醜いから…」
「醜い?どこが?君は綺麗だ」
「違う!呪われてるのよ、私。血の色だもの」
半泣きになる私の手を彼が掴み、そっと剥がされた。蓋が無くなった彼の瞳が再び開いて私を映した。
「―――ああ、やっぱり綺麗だ」
「嘘!そんな事言われた事ないよ」
「なら人魚は知らないんだね。地上には赤くて美しい物が沢山あるんだ」
そう言って彼は私に自分が思う綺麗な赤を沢山教えてくれた。私の知らない物ばかりだったけれど。
私の髪を綺麗だと言ってくれた人は初めてでまた涙が出たの。お姉ちゃんは私の髪を貶したりはしないけれど、褒めてくれたことはないから。
「それと、俺の大切な子も君と同じ髪の色をしているんだ」
「そうなんだ。地上では珍しくないのね」
「世界は広いからね。海の中だけでは知らない事も多いだろうね」
確かにそうかも。人魚ってそんなに数が多いわけじゃないし、寿命が長いせいか繁殖能力も低いのよね。閉鎖的な環境だから私みたいな人魚にはとても居心地が悪い。
「…人間の方が心が広いのかな」
「それは一概には言えないかな。人の数だけ色んな考え方があるからさ」
「そっか。なら私達と一緒だね」
不思議な人だな。全然怖くなくて普通に話せる。お姉ちゃん以外の人でこうやって話したりしたことが、あんまりないからとっても楽しい。
人間も人魚も大差ないよね。あるのは種族が違うって所だけ。でもこの人はそれで私を恐れたりしない良い人間だ。
「―ま。――様!!」
「おっと、従者の声だ」
「あ…。良かった、無事に帰れそうで」
本当はもう少し話していたかったけど、仕方ないよね。私は人魚で彼は人間だもの。
「じゃあ、私行くね。見つかりたくないから」
背中を向けて海に戻ろうとすると、ガシッと腕を捕まれた。その手が熱を持ってるものだから、焼けるかと思った。
「え?」
「また会えるかい?」
「…でも、私は人魚で貴方は人間だから…」
「関係ない。俺は君ともっと話したい。君は?」
駄目だって分かってる。皆にバレたらまた酷い事言われるんだから。
でも、それでも構わないからもう少しこの人の事を知りたいって思ってしまう。この気持ちはなんだろうか?
「私も!」
「ならまた明日、この場所で」
「うん!」
してはいけない約束だけど、この約束で私は初めて明日が来るのが楽しみになった。初めて早く明日にならないかって願ったのよ。