第二巻
俺は一心不乱に走った。いつもの道は、ここまで長かっただろうか。汗が頬を伝い、抱えられた薄いノートが異常に重く感じる。いつのまにか雲が空を覆い、外は薄暗くなってきていた。履き慣れない靴に足は疲労し、息は弾み、冷たい風は肌を刺すように痛い。だが、俺は走った。とにかく走り続けなければ、自分の心がつぶされそうだったのだ。
やっと俺の家が見えた。あそこが目的地のはずだ。あそこに着かなければ、俺は逃げられない。俺はあそこに置いてきた物がある。――でも、辿り着きたくない。
そのとき、高く大きな音が、俺の体を貫くように響いた。後方から車が迫って来ていたのだ。俺はおずおずと道の端に避けた。銀の車は、舌打ちをするようにもう一度クラクションを鳴らすと、アクセルを踏み込み走り去った。俺は、そのクラクションに顔を歪め、舌打ちをし、また走った。
俺の家は、ごく普通の一軒家だ。その家の庭はたった数日で草が伸びきり、表札は風に煽られたのか、遠くに転がっていた。俺は表札を拾い上げた。「叶」と書かれたそれは、母の手作りの作品だ。手を切りながら、一生懸命に慣れない彫刻刀を動かしていた母の姿が浮かび、俺は表札から目を逸らした。俺は表札を元の位置に戻そうとしたが、止めた。
一本の廊下が目の前に伸びる。家の中の様子になんら変わりは無い。でも、寒い。玄関の棚に置かれた、たくさんの家族写真を俺は全て伏せさせると、丁寧に靴を揃え、家に上がった。
ただいま、は言えない。ここは俺の家だ。だが、ここはいつもの俺の家では無い。そうであって、そうでないのだ。両親の葬儀の場が頭をよぎり、俺は唇を噛んだ。
俺はリビングに入った。黒い靴下が、白い破片をミシリと踏む。部屋の様子だけは、変わってしまっていた。床に散乱する、割れた皿。額縁の周りに散乱するガラス。きちんと立っていたはずの食器棚は倒れ、四つあった椅子の内、一つだけがひっくり返っていた。俺の指定席だった椅子だ。
頭に、皿の割れる嫌な音が蘇ってきた。妹はあの時おかしかった。いや、狂っていたと言った方がいい。この惨状を作りだしたのは妹だ。妹は、あたりかまわず物を床に叩き付け、投げ、暴れまわった。妹は、しばらくすると、部屋の中央に崩れるように座り込み、前髪の隙間から俺を睨んだ。お前のせいだ、お前のせいでお父さんとお母さんは死んだのだ、と俺を呪い殺そうとしているかのように、妹は繰り返しつぶやいていた。まるで、取り憑かれているようだった。そして、妹は殺気のこもった目で、こう言い放った。
「お兄ちゃんも死ねばよかったのに。」
俺は、針で胸を刺されたような気がした。妹の言う事も分かる。妹から見れば、俺は犯罪者だ。でも、俺だって、お父さんとお母さんを殺したいと思っていた訳じゃない。そう思うと、俺の胸はさらに痛んだ。
俺は椅子を起こすと、机の上の細かい破片を注意して払い、指定席に座った。右隣の窓際に、妹。前にお父さん。その隣にお母さんがいた。四人で、食事をとる。四人で、会話をする。時には喧嘩をし、時には笑い合った。――だが、もうこの家族が集まることは無いのだ。唯一残った妹は、俺のせいで人が変わってしまった。もっと陽気で、人を傷つけるような言葉を全く口にしなかった妹が……。
「俺は……俺は……」
俺は親指と人差し指で目頭を押さえた。強く、強く力を込めた。溢れてくる涙を、止めたかった。
そのとき、机に置かれたノートが一人でにめくられた。