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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

見える魔法の黙示録

作者: ぐるぐる
掲載日:2014/07/02

 アルヴァニア魔法国第二王子にして王位継承権第三位を有する、ベスティポ・ディ・アルヴァニアンが、薄汚いスラムの路上で惨殺されたのはある年の暮れのことだった。ベスティポ殿下と護衛二人の遺骸を見つけたのは巡視中の王国近衛兵である。まだ小さな身体は降りしきる雪に埋もれ、丹念に整えられた金髪は血で固まっていて、灰色の空に向けられた虚ろな群青色の瞳は決してまばたきをしなかった。中級程度の圧力魔法が脳天を一撃し、護衛の魔法障壁をも貫いて王子殿下の絶命を招いたというのが政府諜報局の公式発表だった。

 けれども、大多数の国民はその発表を鵜呑みにしたわけではなかった。幼いベスティポ殿下が視察のためとはいえスラムの薄暗い路地に足を運ぶはずがない。まして、中級圧力魔法の行使者ごときに護衛が敗れるのであれば、国民の大多数が王族を暗殺できてしまうことになる。こんな穴だらけの発表を信じるよりも、王位継承を狙う叔父の手によるものか、外国の手勢による派手な暗殺と見る方がよっぽど確かだった。国中が色めき、誰も彼もが陰謀論について口にするようになった。しかし俺は知っていた。高貴なベスティポ殿下がなぜ、こんな場所で死を迎えなければならなかったのかを。

 その日は年越しの祝祭の準備期間だったが、俺は構わず家の二階でネメティアの目を眺めていた。ネメティアは体長130cmくらいの人型のモンスターで、可愛らしい少女の姿をしているが、時には一線級の冒険者すら打ち倒してしまう脅威だった。その目から放たれる視線には幻覚と錯乱を招く作用があり、食らえばたちまち冒険者は涙と涎を垂れ流して地面に這い蹲ることになる。厄介なことにこの攻撃は目を合わせなければ済むというものではなかった。大人のネメティアが放つ強力な視線は人間の頭蓋を透過し直接脳を揺さぶる。冒険者たちは、頭部に防御のための高価なマジックアイテムを装着するか、持っていないなら視点を分散すべく大人数で挑み、さもなくば死ぬまでだった。年間数百万人の冒険者たちがモンスターに殺され嬲られ食われていたが、そのうちの一割強はネメティアによるものであるという。

 しかし俺が今見ている目はネメティアの幼生のものであって、視線は物体を透過するほどの力も持っておらず、人間を卒倒させるだけの効果も持ち合わせていなかった。目と目を合わせた者だけが幼生ネメティアの能力を受けることになる。弱い幻覚と混乱、空間と時間の歪み、それから幸福感がこの能力のもたらす副次的効果。ゆえにこの薄緑色の目は悪趣味な金持ちや俺みたいなならず者に珍重され、高値で取引されている。死んだネメティアの目は数十時間でその効果を失うが、首ごと保存して回復魔法を適切にかけ続ければ数ヶ月はもつので、贅沢な貴族が純金のアクセサリに目をはめ込んで浪費する他はたいてい首単位での取引がなされている。俺の部屋のベッドの上に台座つきで鎮座しているのも、一見は少女の生首だが、人間ではないから衛兵に通報されようが説教される程度、重くて罰金が関の山だった。毎年乱用しすぎた者が数十名死に、その数倍の者が錯乱した使用者に殺されているが、今のところ王は法によってこれを取り締まる気はなさそうだった。だから俺はこうして好きなだけ愛しい目を眺め続けられる。

 白目に走る毛細血管の数まで数えられるようになった頃に強烈な幸福感で脳が溶ける。視界が滲んで耳の中で妙なる音楽が鳴り響き、皮膚がぞわぞわして落ち着かなくなる。とろけるように纏わりつく空気。色彩がぐにゃりと曲がって過去とか未来とかどうでもよくなるしそもそも今がいつなのかわからない。俺が何なのかもわからない。確かなのは目の前の首だけで、ただそれだけが実存として俺の認識に居座っている。陶磁のような白い肌、わずかに走る傷の奥からにじみ出る官能的な色。雷撃魔法のごとく輝くその瞳、ああ瞳!丸みを帯びた頬はまるっきり幸福の体現で。身体がバターのようにとろけ力を失って床に崩れ落ちそうになるとそっと優しい絹が包んでくれる。それから訪れる幻覚の数々――翼をはばたかせるキマイラと閃光魔法とが踊りあって輪になって。帽子をかぶって紅茶を飲み干すビフィモット。剣、パン、泥沼にはまったムカデの断末魔。それから至福の体現たる数十人の色魔の塊。家々を押しつぶすように肉色の賛美歌が轟きわたって――

 暗転。

 そこにあったのは土を魔法で固めたベッドだった。重税の中で息を潜めるようにして暮らす賎民が寝起きする、汚らしい万年床。現実。生々しいまでの現実。

 騙し騙し回復し続けてきたネメティアの目の効力は、二ヶ月目にしてとうとう切れてしまったらしい。まだ朦朧としている脳を必死にはたらかせ、どうにかこうにか呪文らしきものを紡ぎ詠唱する。不摂生の結実たるひび割れた声は、ほんのわずかに白色の回復光を生じせしめたが、ネメティアの目は急速に濁っていきついには一滴の血を流した。

 もうダメだ。俺はネメティアの首を放り投げる。ぐじゅっ。壁に肉が打ち当たる音がして血が壁にべっとりと着く。赤色なのは不快だ。出力を抑えた圧力魔法を放つと美しかったネメティアの首はただの肉塊になる。使用後の首をあらぬことに用いる輩も多いそうだが俺にはまったく興味がない。幻覚にとらわれている間は天女の剥製にすら見える首だが、済んでしまえばただの道具に過ぎない。

 しかし、新しい首を手に入れられそうもないのは困った。首は一本五千ジルからで、庶民の平均月収が三千ジルであることを考えれば十分に高いが、手に入れるまでに平均して0.5人の冒険者が死んでいることを考えれば妥当な値段なのかもしれなかった。冒険者は十人から十五人程度のパーティーを組んで群れになったネメティアを襲う。幼生ネメティアは天敵も多く、群れになっていることが多い。はぐれは大抵が強力な成熟体なのでむしろ群れを狙った方が脅威度が低く効率が良い。

 冒険者たちは周到な用意をもってネメティアの群れを虐殺する。まず生餌を用いて群れを狭隘な谷底へと誘い込む。次に閃光魔法を谷の上から放ち、ネメティアの視線を一時的に無効化する。ネメティアたちはぎゃあぎゃあと鳴き喚き、成熟した一部のネメティアは物体を透かす強力な視線を上部に向ける。しかし時既に遅し。冒険者たちは暗闇の雫を、なければ夜色鳥の生き血を底まで流し込んで谷全体を遮断の暗闇で包み込む。漆黒に包まれた中へ灼熱雷撃氷雪疾風圧力斬撃、ありとあらゆる魔法と夥しい弓矢を投入すれば肉の焼ける音と断末魔の叫びがわーっと谷底から噴出してくる。何頭かの体力のあるネメティアが切り立った崖をよじ登ろうとするが一斉に突き出された槍によって落ちていく。あるいは巨大な投げ網を放ることでその動きを封じる。そのたびにぎゃあぎゃあと強烈な鳴き声が響き渡って耳の底に残る。その繰り返しでおおよそ一時間。音がなくなって静まり返った谷底に、念には念をとばかり総員の魔力を全てつぎ込んだ巨大魔法が叩き込まれて、吹き出る血が谷の上まで飛んできた頃には死臭が地平をわずかに濁らせる。あとは魔狼に死体が食い荒らされる前に下りていって、視線を巧みに避けながら首を刈っていくだけだ。しかしこれだけの準備をしていても冒険者の側に死人は出る。どのように猛烈な攻撃を潜り抜けたのか、崖上まで這い登ってきたネメティアの視線に射すくめられてたちまち谷底に落ちていってしまう者は後を絶たない。彼らは幸せな顔のまま漆黒の中に落ちていって、仲間の無差別魔法によって止めを刺される。あるいは、首を刈るときに、死んだふりをしたネメティアに一矢報いられることも少なくはない。ネメティアには見掛けではわからない鋭利な牙が生えていて、伸ばした腕にがっちり噛み付く。放さないようにしてから目が焼き切れるほどに視線を敵に浴びせまくる。冒険者は思わずネメティアの顔を見てしまう。噛まれて逃げることができない冒険者に激痛と強烈な多幸感が押し寄せ、半笑いの半泣きで転げまわるが、周りの冒険者によってすぐさまネメティアごとミンチにされる。そうなってしまっては助けようがないからだ。しかし一番多いのは自殺で、谷底から聞こえてくる人間の女とそっくりな叫び声に動転して自ら飛び込む者が多いという。彼らは家にいる妻や娘や恋人のことを思い出してどうしようもなくなったのだろう。あるいは今すぐネメティアに視られたいという欲望を抑えられずに飛び込むものもいる。彼らは死んだ妻や娘や恋人にもう一度会いたくてどうしようもなくなったのだろう。

 そうやって得られるネメティアの首はしかし、百の群れにつき十程度である。ほとんどが燃え尽きたり刻まれて原型を留めなくなるし、無傷なものに至っては一つ得られれば良い方だった。そういう無傷の首は高級品として扱われ市場に出回ることはなく、一説には押収されてやんごとなき方々の夜を慰めるとも言う。それで五千ジル。莫大な手間と数多の死を全て含めて、少々汚れて傷のついた首が五千ジル。それらは王都の人間の屑によってどんどん消費されていく。

 俺もその屑の1人だが、かろうじて人間であることを維持している屑だった。ネメティアを買うために犯罪を犯す人間は掃いて捨てるほどいるが、俺の資金は両親の遺したわずかな遺産である。この薄汚い街で死に物狂いで働き、息子を育てきった両親。どんなときでもニコニコ笑って時には頭をなでてくれた両親。彼らが少しでも幸せになるようにと遺したわずかなへそくりは今、息子の一時の幸福に費消されているのだ。遺産の用途はもともとの目的を純粋に果たしていると言えなくもなかった。そしてその遺産が完全に尽きてしまった今、俺はネメティアによって紡ぎだされた幸せな世界を捨て、死ななければならない。

 死ななければならない。

 立ち上がる。数ヶ月間乾パンと水だけで過ごしてきた身体は錆付いたように重く、ネメティアの視線に爛れきった脳髄がじんじんと痛む。ネメティア。五号。使用者にはいちいち名前をつける奴もいるというが、俺は精精管理のために使用順に番号をつけているだけだ。五号の潰れた肉片をかじる。腐臭と酸っぱい味が吐き気を催させる。しかし出てきたのは胃液だけで胃液まみれになった肉片を無理やり俺は飲み込む。喰らうことで過ぎ去ってしまった幸福感をわずかでも我が身に取り込もうと、そういう錯乱した行動だというのは自分でも分かっていたがそれでもやめられない。幻想が尽き、遺産も尽きた現状はそれだけの絶望感を俺に与えた。

 ふらふらしながら俺は家の外に出る。栄えある祝祭の準備期間だ、大通りでは屈強な男たちが忙しげに櫓を組み立てているし、魔法が使える者は総出で衣装を染色したり、金属を溶かして儀仗をこしらえている。そのうち何人かが俺に気付いて注視してきたが、特に声をかけるでもなくただただ警戒している。ネメティア中毒者は何をしでかすかわからない。最初は気を使ってくれたり説教してくれた隣人たちも、今は薄汚れた俺のことを恐れている風だし、子供を近づけようとしなかった。しかし俺自身自分が何をしでかすか分からなかったから、そうやって危険の芽を先に潰してくれるのはありがたかった。

 ともかく死ななければならない。橋を越えた辺りから街には一層暗さが増す。朽ち果てた家々が散見され、道端には汚れて人間かモンスターか区別がつかない者たちが胡坐をかいたり横たわっている。スラムの中でも最下層たるこの地区には秩序もなく、衛兵も立ち入らないから、変質者が人を殺して玩具にしたりだとか、狂った魔法使いがよくわからない儀式のために人を集めて虐殺するようなことが日常茶飯事で、それでも殺される人間より多くの人間が流入し続けていた。それだけ現在の政府は苛烈な重税政策を行っていたし、また魔法に頼り切った人々の生活は荒んでいく一方で、経済の循環は滞りがちであった。

 そんなだからここには祝祭の空気も一切流入してこない。ここは淀みきった沼の底だ。死ぬとして、モンスターのいる国境地帯を除いて最良の場所である。

 さてどうやって死ぬのか。自らの魔法で死ぬのが最も手っ取り早いが、同時に最も苦痛を伴う方法である。魔法を使うとき人の脳は極限までその能力を使うので、五感は強化され虫の羽ばたきさえ聴こえるくらいになる。そんな時に魔法が自らを傷つけ、もしも一思いに死ぬことができなければ壮絶な痛みがもたらされる。また魔法は集中していなければ使えないので、回復魔法が使えないような痛みであればそのまま死ぬまで悶え苦しむしかない。助けも来ないようなこの場所で不確実な手段を取ることはできないのだ。かと言って、頭のおかしな魔法使いに自らを捧げ、いるかいないかもわからないような邪神に捧げられるのはまっぴらごめんだ。彼らは死界に至った人間から話を聞くために一度絶命した者を蘇らせるという。興味深い話が聞ければもう一度殺して蘇生してみる。話が聞けなくてももう一度殺して蘇生してみる。そうやって何度も何度も生き返ったり殺されたりをしていくうちに人間の精神はどんどん磨り減って、やがて虫けらのように呻くだけの存在となり捨てられる。邪神に魅入られた魔法使いはそうした人間こそが救われたのだと考え、時には自らの身体をも嬉々として捧げるのだという。

 考えているうちに俺は死ぬのが面倒くさくなってしまった。死んだところで生き返させられるかもしれない。もしそうならなくても死体は魔法の触媒として有用だ。すぐに肉は解体され骨は粉にされて、ありとあらゆる邪な実験の糧にされてしまう。この世に魔法があるせいで人間は生死の尊厳を奪われてしまった。いっそ国境地帯に行って、ネメティア狩りをしている冒険者のパーティーに潜り込めれば、名誉の戦死かひょっとするとネメティアの首を手に入れることができるかもしれない。

 ネメティア。俺はそう考えて身震いした。とたんにこの数ヶ月の間に脳の皺の奥にまでしみこんだあの多幸感が恋しくなった。今すぐに。今すぐに!俺の足は自然と街の奥を目指している。ネメティアを売買する商人の市場がそこにはあるのだった。金はない。しかし人としての矜持を支払えば方法はある。

 魔法石屋の角を曲がり、物乞いをしてくる子供を3人突き飛ばして広場に出る。その隅に張ってある幾つかのテントにはネメティアの首が飾られている。首には分厚いヴェールがかけられ、時間魔法の一種で完全に静止させられている。首の形は布を被せられていてもよくわかる。特にあの右に飾られている首!目を見ていなくても俺にはそれが最上のものだと理解できる。耳の一つも欠けていない。ふっくらとした頬の輪郭。突き出ている鼻の形から、その両脇にある目の美しい形が想起されるのだ。

 涎を垂らさんばかりにして近づくと、店主が胡散臭そうに俺を見て、「金のないヘモゲロに売るモンはねえよ!」と言う。

 ヘモゲロ。人間の屑。しかしそれを量産しているのはお前たちだ。

 俺は頭の中で詠唱を練る。対象を狭く、魔力を圧縮して。随分と腕は廃ったがこれでもかつては魔法兵として王宮で訓練を受けた身だ。上手くやればこの店主を殺すことくらいは可能なはず。周囲の気配を探り、それから店主の身につけている物を、不審を抱かれない程度にざっと見渡す。防御系のカクリコン・ペンダントはあるが、生憎と上等ではない。よくある下手糞な圧力魔法にレジストするための最低限の装備だ。この程度でよくこれまで生きてこれた。

 一撃だ。それ以上は不可。

 殺す。早く殺す。

 俺は愛想笑いを浮かべて店主を見た。

「いや、残念ながら金はある。こんな街に来るんだから、わざと薄汚い格好をしてるのさ」

「ここん所さる偉い筋からの注文が多くてな。品薄なんだ。相場よりうんと高くなっているがそれでもいいのか」

「大丈夫だ。金なら持っている。銅で二百枚。足りなければ幾らかの道具もある」

「……それで何だ。何が欲しい」

「決まってる。ネメティアだ。特に――」

 俺はすっと右を指差す。店主の目を見ながら。集中力は既に極大。店主の瞳の中の俺が仔細に眺められて、それはにちゃっとした笑いを浮かべている。ここまで一瞬で人を殺す思考に至り、あまつさえそのことに罪悪感を抱いていない自分に少し驚くが、しかしそれほどにネメティアの禁断症状は強大だった。俺は今すぐにでも叫びだしたいほどネメティアを、その幻惑なる世界を欲していた。

 指を指したのは気を逸らすため。店主の視線がそちらへ向けられ、その隙に最大最速の、

「おへぁ!」

 奇声を発したのは店主だった。

 その目は歓喜に満ち、たちまちに全身がわなわなと震える。水の滴るような音。失禁か。そう思ったときには俺の集中は解けていた。店主の倒れる音。頭の中で形を成しかけていた詠唱はたちまち雲散霧消し、俺は自ら指をさした方を見る。

 そこにいたのは1人の少年。

 ありえない存在だった。

 金髪が風になびく。ここまで純粋な金は街では滅多に見ない。遺伝的に劣性であるのも理由の一つだし、すぐに街の埃に塗れて灰白色と区別がつかなくなってしまうからだ。おまけに金髪は王族の証でもあり、衛兵に見つかれば直ちに髪を切るか染めるかの選択を迫られる。だからこんなに長くて美しい金髪はほぼありえない。

 そして顔。目を何かの――これは何だ?初めて見るような黒いレンズで覆っている。しかしそれ以外の顔は本当に美しい。輪郭も、肌も、ネメティアにも劣らないかもしれない。これもありえない。なぜならスラムの片隅でたまたま生まれたような美形の者は漏れなく幼少のみぎりに連れ去られるかその場でボロボロにされてしまうためで、そうした目に合わせたくない親は生まれた赤子が美しいと見るや殺してしまうからだ。金髪で、これほどまでに美しく目立つ少年が、少なくとも不具の状態に陥ることなく生存しているのはスラムではありえないのである。

 俺は――困惑した。

「何をしたんだ」

 俺がそう問いかけると、少年は困ったように少し笑い、軽くお辞儀をする。

「すみません、店主が貴方を殺そうとしていると思い、それで」

「……何だって?」

 言われて店主を良く見ると、その手にはいつの間にかナイフが握られている。透明ナイフ。畜生。こんな下級な罠にも気付かないなんて。詠唱を放つ直前の最も無防備な瞬間に刺し殺すつもりだったに違いない。俺は演技をうまくやれていると思っていたが、ネメティアの禁断症状が隠しきれなかったようだ。震える手。何度も失禁したせいで臭くなってしまった衣服。

 店主は、しかし、倒れるときに同じ症状を示してはいなかっただろうか?

「こいつにネメティアを見せたのか」

「いいえ、そうではなく……」

 少年は困った顔をした。それから、

「あの、どれが欲しいんですか?」

「右の……」

 思わず答えると、少年はその首を取って、少し悩むようにしてからヴェールごと俺に差し出した。俺はそのずっしりした首を両手に抱きとめる。たちまち多幸感の残滓が脳の中で暴れだし、俺は再び失禁しそうになる。畜生。この重み、この輪郭。正真正銘最上級のネメティアだ。

 少年は震える俺を気にすることなく、生首についた値札を眺め、金貨を気絶した店主の手のひらに握らせる。

「おいおい!」

「どうしたんですか?」

「いいからこっちに来い!」

 少年の手首――その華奢で滑らかな感触を、強い力で思い切り握り、もう片方の手にはネメティアをしっかり抱いてずんずんと歩く。広場を抜け暗い方へ暗い方へ移動する。人の気配がなくなり、触媒の余りや腐った食材が捨てられている路地裏まで来たところで、ちょっと待ってください、とか細い声がした。

 俺は少年の手首を放し、それからため息をつく。

「あんなところで金貨を見せるな。自殺行為だ。スラムでの支払いは基本的に青緑銅貨を数百枚使う。そうすることでこれ以上金を持っていないというアピールになるし、スリに狙われても全てを盗まれることがない」

「そうなんですか……知らなくて」

「自殺願望があるなら別だが。あの広場に居続けていたら物陰の奴らに襲われていた」

 そして間違いなく慰み者になっただろう。それは金貨を見せていようがいまいが同じだった。

 改めて少年を見る。本当に美しい。俺にそっちの趣味はないが掛け値なしに言える。一年以上も美しいネメティアの首を眺めていた俺ですら思わず感動しそうになったくらいの美しさ。まばゆく輝きだしそうな肌。今にも蕩けそうな艶かしい唇。全て完璧に整った輪郭。

「助かった」

 俺が頭を下げると、少年は少しびっくりしたようだった。

「いえ。僕は……」

「俺にはこれがないと生きていけない。だがもう少しでそのために過ちを犯すところだった」

「あの……」

「これであと数ヶ月は生きていくことができる」

 そう言うと、少年はなぜか悲しげな顔をした。その表情は少しの間彼の顔の上に現れ、風に吹かれるように消えていった。  

「実は、お願いがあるんです」

 少年の方も頭を下げる。それにしても優雅な立ち振る舞い。王宮にいた頃に見聞きした貴族たちの振る舞いか、それ以上の。

「……金ではないな。じゃあ何だ。俺に何ができる。できることなら少しは力を貸すが、しかし」

「それが、その」

「何だ」

「殺してもらえませんか?」

 言いにくそうに少年が喋ったのはそんな台詞だった。俺は冷めた目で頭を下げた少年を見る。つまりコイツはどこかの貴族の子弟か何かで、自殺願望があってスラムに来たと。そういうつまらない経緯によって俺の前に現れたらしい。しかし一体なぜだ?なぜこんな薄汚れたところにまで来て死ななければならない?金貨をあんなに簡単に放り出せるような奴が、それも美しく、前途洋洋たる未来が待っているうら若き少年が、どうして自らをそこまで蔑み、世界に絶望する必要があるのだろう。こんな奴には絶望の生まれる余地がない。ネメティアなんて使わなくても現実だけで腹いっぱい幸せになれるような境遇だ。そんな奴が死に急ぐなら、それ以下の俺たちはどうすればいい?脳裏に浮かんだのはそんな根拠のない妄想に基づいた怨恨だったが、黒ずんだ思考はみるみる頭をの中を染め上げていき。俺は今にも唾を吐きたくなって困る。少なくともこの少年は恩人だ。分かってはいるのだが。とにかくネメティアが欲しい。両腕に抱え持つ至上のネメティアが今すぐ欲しい。

「……帰ってくれ。俺は恩人を殺さない。感謝はするが、そんなことをしたらせっかくのネメティアがまずくなっちまう。これから最後の幸せを見て、それから死ぬんだ。ほっといてくれないか」

「あなたはそのネメティアを見て、その効力がなくなったら、死ぬつもりなんですか」

「どうやら俺は犯罪すら犯せないヘモゲロに成り下がったようだ。幻覚を見終わったら潔く死ぬとするよ。それまでに人格が残っていればの話だが」

 このネメティアは最高すぎる。俺にはわかるのだ。このぐずぐずに侵されきった精神は、もう至福に耐えられないかもしれない。そうすれば俺は畜生のように徘徊し、ひょっとしたら人に危害を加えて殺処分されるかもしれない。だがもう消極的にそうなるのは仕方がない。どうでもいい。

「それじゃあ、貴方が死ぬのは、ネメティアのせいになるじゃないですか」

「ああ、そうだな」

 正直話しているのも億劫だ。俺は何よりも早くヴェールが取りたい。こんな所で見始めたら陶酔のうちに物取りに殺されるかもしれないが、一瞬も永遠もネメティアの前では一緒だ。ああ、麗しの首……

「……貴方は」

 どうやら少年は怒っているようだった。それから、俺の顔をじっと見る。

「ネメティアはそんな道具にされるために生まれてきたわけじゃない」

「そうだろうな。だが家畜も食われるために生まれてきたわけじゃないだろう?」

「そうじゃなくて!」

 その途端。

 俺の全神経全細胞が歓喜した。

 少年は黒いレンズを手に持ち、群青の瞳を外気に晒している。美しい。いやそんな言葉では言い表せない。あれはまさに神自らの手になる造形物だった。この薄暗い路地裏は瞳から発せられる重力に似た光によって煌々と照らされ、天国に等しい様相を呈している。俺の毛穴がぶわっと開き、その光を少しでも吸い込もうとしているのがよくわかる。瞬きをするのも許されない。震えが抑えられない。膝から崩れ落ちるのを我慢できず、そのまま地面にキスをする。地面から照り返されるわずかな反射光すらも愛おしい。キスは、そう、神と一体になる行為だった。

 この少年は。

 ――この少年は。

 俺は意識を手放す。手放すというよりも差し出す。差し出すというよりも捧げ奉る。この少年の美しさに。その愛おしい群青の瞳に。

 ――冷たいものが顔に降りかかってきている。その冷たさは俺を暖かい所からゆるやかに引きずり落とす。幸せな夢は永遠に見ていられない。感覚が少しずつ戻ってくる。目を開け、それからゆっくりと身体を起こす。


 傍には少年が座っている。

 雪が降っていた。さらさらとした雪は少年の髪に降り積もっては溶けている。少年は少し心配するような、しかし何ともいえない複雑な表情をしている。残念なことに、まったくもって残念なことにその至福の瞳は再び黒いレンズに覆われていた。

「どうでしたか?」

「どう、って……」

 俺は何を聞けばいいのか迷う。お前は何者なのか。その瞳は何なんだ。ネメティアと同じ質の、しかし究極ともいえる幸福感。ならばお前はネメティアなのか。しかし、ネメティアの容貌はモンスターゆえにほぼ同一。慣れた者だけがその差異を見極められる程度で。ならばこの少年は、ネメティアよりもはるかに美しいこの少年は、絶対にネメティアではない。お前は神か、あるいは神の使者か。俺は一度も神を信じたことはないけれども今ならその存在を信じてやってもいい。だが、しかし――

「いい夢が見られましたか?」

「ああ、まあ……」

 少年は少しだけ笑った。

「それなら良かった。もう死ぬ気はありませんか?」

 死ぬ。

 その言葉はひどく薄弱なものに聞こえた。圧倒的な幸福感は俺の中の何かを吹き飛ばし、新しい何かを構築したようだった。生きるとか、死ぬとか、そういうのはもうどうでもよくて、それよりも今空気を吸って吐いてこの少年と話をしていることが大事だった。

「死ぬ気はない」

「それなら、良かったです」

「何がなんだか、混乱しているんだが、俺には、お前が」

「それで、お願いを聞いてもらえませんか?」

 途端に俺は少年をぶん殴りたくなった。脳内のモードがすっきり切り替わった。いい加減にしろ。これ以上また俺を揺さぶるつもりか。

「殺せっていうのか。なぜ。なぜ俺がお前を殺さなければならない」

「……それには、訳があります」

「そんなの知るか。俺は殺さない。お前の行動は首尾一貫していなさすぎるぞ。殺して欲しいなら俺を助ける必要はなかった。ただその辺の誰かに襲い掛かって、返り討ちにでも遭えば良かっただろう。酷い目には遭うかもしれないが、まあ確実な手段だ。人助けをする必要性なんかまったくない」

「それでは駄目なんです。確実ではない。事情を理解できる人に殺してもらわないといけないんです」

「知るか。他を当たれ。二度とそんな話をしてくれるな」

 俺はネメティアの包みを大事に抱きかかえ、少年を拒絶する。少年は、しかし、なおも言い募る。

「では、話を聞いてくれませんか」

「しつこい。お前は人の死を心配するくせに自分は死にたいと言う。その矛盾が嫌いだ。とっととこのスラムから消えろ。自分の場所に帰れ」

「聞いてください、聞いてくれないなら勝手に喋ります」

 俺は本当に立ち去ろうとする。

「空が見たいんです」

「……」

「話すのは苦手なんですか、良く聞いてください。聞き終わった時にはきっと事情をすっかり諒解してくれるものと信じます。僕が何故殺されなければならないのかという真相もすっかり分かってもらえるはずです。

 僕はさる宮殿に生まれました。とある事情により隔離されて育てられ、三歳の頃からは常にこの黒いレンズを付けて生きています。どこへ行くにも護衛と監視がつき、自由は一切与えられない。僕の兄も似たような境遇にあるのですが、僕とは本質的に違っていました。兄の場合は危険を回避し、守るために護衛と監視をする。僕の場合は周囲に影響を及ぼさないために護衛と監視をするんです。はっきり言って恐がられているし、父親にすら敬遠されています。それは僕が特別な力を持っているから。貴方も見たでしょう、僕の目を。この目こそ僕が特別に恐れられている理由なんです。これは人に影響を及ぼしすぎてしまう。その人の思想を、行動を、変えてしまう。だから絶対に人と目を合わせてはいけないと、そのように教え込まれました。しかし子供である僕がそんなことを守れるはずがない。教育係も護衛も、みな僕の目を見て幸せになる。幸せになりすぎてしまい僕に忠誠を過剰に誓ってしまう。それでは困るんです。兄こそが一番に尊敬されるべき、忠誠を誓われるべきだから。それなのに周囲の敬意を一身に集めてしまう僕ははっきり言って邪魔でした。しかも僕の出自は、どうあっても表に出せないもので、いつ殺されてもおかしくない状態なのに何故か殺されはしない。これはでも父親にわずかな愛情があったのではなくて、僕の目がいつか何らかの役に立つかもしれないからなんです。つまり僕は道具でしかなかった。

 ……駄目ですね、どうも。肝心なところを喋らないようにすると何も伝わらない。仕方がないようです。何もかも喋ってしまうと貴方の立場がより危険なものになってしまいますが、秘密も何もかも話してしまうことにしましょう。

 僕は……ネメティアと人間のハーフです。少し驚きましたか。通常、モンスターと人間のハーフは誕生しないものと考えられています。しかし例えば、民衆には隠されていますが、ハルピュイアは風巻鳥と人間のハーフが血を重ねてあの姿になったものです。牛頭人はモンスターの中でも特に強く人間の血を継承している。スライム・ヒュメニは……もういいでしょう。そうした数多のハーフの中でも特に歴史上ほとんど発現したことがなく、王宮の博物学者をもってして空前絶後と言われた貴重なサンプルが僕です。しかも悪いことに僕の父は王だった。アルヴァニア魔法国王、バランガ・ル・アルヴァニアンは、歴代の王の中でも特に快楽と遊びを追求する王で、王宮の奥底に数多の禁忌、数知れぬ快楽の源を隠し持っていました。ネメティアは特に父のお気に入りで、数百の首を最高の王宮魔法士に保管させ、その視線を一度に浴びることを最高の快楽としていたそうです。常人ならとっくに精神が崩壊していたであろうその所業は、王家の古い血と王宮魔法士たちの献身によって何とか平穏に済んでいました。錯乱した父の手によって数十名の者が殺されましたが非常に些細な犠牲でした。ある忠臣は父に嬲られながらも畏れ多いと地面に這い蹲り、そのまま数十度にわたって踏みにじられた結果絨毯の赤黒いしみになりました。ある女中は一刀の元に首を斬られ、切断面にネメティアの首を置かれた後辱められました。死体は父のお気に入りとなったようですが所詮死んだもの。時間魔法の粋を尽くしても半年で腐り果て遺棄されました。そんな犠牲は父の権威と権力に比すればまるで微々たるものでしかなかった。

 父がそうして快楽に狂い、やがて鈍磨して、全てのことに飽き飽きした頃に、生きたネメティアを求めたのは必然でした。王宮魔法士は必死に止めましたが――当然でしょう、父が求めたのは生きた極上のネメティア。しかも成熟体。物質を全て透過する魔眼を持ったネメティアを傷つけず生け捕りにするなどあまりに至難。しかもその視線を浴びて父が正気でいられるはずもない。しかし反対するものは皆処断されました。父はその頃妃を亡くしたのです。僕の兄を産んで死んだその妃は非常に聡明で、父は最後に残った人間らしい部分を全て彼女に捧げていた。妃が死んだからもう父を止めるものは何もなかった。単なる快楽の追求か、あるいは生きたネメティアに自分の何かを埋めて欲しいと思ったのかもしれませんが――とにかく、国で最高と言われた王宮魔法士と、魔法兵が三十五人死んでネメティアは捕獲され、輸送中に多数の犠牲を出しながらも王宮に運び込まれました。

 父は特別な魔力を持つ道具でネメティアの視線を弱めることにしました。僕の付けているこの道具がそれです。この道具は父の快楽のために作られた即ち淫具です。しかしレンズ越しにもネメティアの視線は父に届いた。父はぶるぶると震え、歴代の王が守ってきた玉座を小便で濡らした。ついで父は亡くなった妃の衣装、こよなく愛用していた薄藍色のシルクドレスをネメティアに着せました。父は満足気に頷き、妃に忠誠を誓っていた数名の寵臣たちは怒りに手を震わせたそうです。でもその場にいた者の誰もがその後に起こることを知りませんでした。

 二年が過ぎ、暦上ではちょうど今日――暮れの祝祭に備え王宮が色めいている頃に僕は生まれました。ネメティアはその当時王宮の倉庫に閉じ込められ、もう半年も身動き一つできない状態にありました。ネメティアの餌になる魚類、それから植物の種は差し入れられていましたが、日に日に衰弱する一方だったそうです。というのも父はネメティアの視線を浴びすぎたせいですっかり虚弱になってしまい、ずっと政務が執れない状態にあったからで、流石にここに至って有力貴族たちが反乱でも起こしかねない一大運動を繰り広げたからです。かくして父の玩具はすっかり取り上げられてしまい。ネメティアも倉庫の中で生かさず殺さずの厳しい監禁を受けることになりました。ここで殺されなかったのは妃の衣装が身にぴったり貼りついて取れなかったこと、そのまま斬るにはあまりにも忍びないと妃の寵臣――その筆頭であるハバート将軍が哀願したからだとも言われています。ネメティアは、その衣装の下に膨らむ腹を隠していました。僕が倉庫の薄暗い中で産声をあげると、唯一の飼育係にして五感のない老人――そうでなければ早晩狂い死にしてしまうからです――ですらも、その聞こえない耳で何かを感じ取ったといいます。

 父は、奇怪なことに僕を王子と認知しました。ここで想像を絶する政争が繰り広げられたらしいのですが、最後にはやはりハバート将軍の力添えで、僕を第二王子とすることが叶ったのだといいます。僕にはその辺の事情はさっぱり解らないのですが……何故ネメティアを憎んでいるはずの将軍が肩入れしたのか。しかしともかく、僕は王宮に入れられ、たちまちのうちにその能力を発揮しました。

 僕の能力は殆どネメティアのものでしたが、その一部は変質していました。通常ネメティアの視線は多幸感と錯乱、幻覚をもたらしますが、僕の視線は殆ど多幸感しか与えません。ごくわずかの幻覚と、それから副作用としての失神を伴いますが、しかし錯乱やそれに伴う凶暴性の発揮をもたらすことはありませんでした。いわばより完璧な道具としてのネメティア、それが僕の能力でした。しかし先ほども申し上げたように第一王子たる兄の立場がそれでは危うくなってしまう。僕が顔を見つめた者は全てどうしようもない幸福感に包まれ昏倒した後、僕に忠誠を誓うようになります。僕はせいぜい兄のスペア、しかも万が一王位を継承することになれば確実に暗殺されるであろう傀儡でしたから、成長するにつれ批判が高まり、とうとう王宮の奥底、父が放埓の限りを尽くした場所に軟禁されることとなりました。それが五年前のことですが、既に能力はますますの進化を遂げ、視線は強烈になる一方でした。長いこと僕に仕えてくれた者たちは皆忠誠を尽くす余り僕を逃がそうとして、ついには殺されてしまうのでした。僕がいくら止めてもその自己犠牲は収まらないのですから、忠誠とはもしかするとどこまでもエゴ的なものなのかもしれません。悲しいですけれど。唯一ハバート将軍はそこまでの域に達することもなく、僕を普通に愛して普通に扱ってくれました。父は一切僕に構ってくれませんでしたから、僕は実の父をハバート将軍と思い……すみません。少し落ち着かせてください。ハバート将軍は、ハバートは、思うに妃のことを愛していたのだと思います。だからその衣装と場所を奪った母と僕を恨んでいて、しかしその激しい憎しみと僕の能力が上手い具合に調和しあった結果、ただ1人だけおかしくならなかったんだと思います。僕はハバートから多くを学びました。ハバートはよく虫を取ってきて、自然を知らない僕に見せてくれました。ハバートは軍人特有の大声で僕に自然の生態を教えてくれました。それから二人で虫たちが、僕の能力に何ら影響を受けることなく、静かに生き、静かに死んでいくのを見守ったりもしました。ハバートがいなければ僕はまともに思考することもできず、薄暗い部屋の中で母と同じように呻き続けることしかできなかったかもしれない。

 しかし僕の能力は強くなる一方でした。とうとう王宮随一の占い師が、僕に空を見ることを禁じました。なぜならばそれは空の上にいる神をも視抜くこと。世界の理をも操作できる力が僕の瞳には宿っていました。しかし失明させたところでとっくに意味は無い。そんなやわな能力ではない。ならば殺すしかないと、しかし父がそれを禁じました。占い師の発言を聞いて、僕に興味を持ったのです。代わりに僕には強力な精神操作魔法がかけられ、上を視ることが禁止されました。僕は首を動かして上を視ることもできないし、仰向けになることもできないんです。できないように脳が作り変えられているのです。僕の首はすっかり上下の動きができないように固まってしまいました。触ってみてください。すごく硬いでしょう。

 僕に興味を持った父は、再び王宮の深奥を訪れるようになりました。玩具を取り上げられてから政務に邁進してきた父はしかし、再びどうしようもない快楽への願望を抑えられなくなっていたのです。父は僕の視線によって幸福を得ました。幻覚や錯乱のない、真に喜びに満ち溢れた幸福を――僕はその時自分は救世主になれるかもしれないと思ったのです。いつか旅して回って、いろんな人を視ようと思いました。幸福を世界中に届けることができる、僕はそれが自分に課せられた運命であり使命だと思いました。けれどそんな幻想はすぐに打ち破られました。

 父は――再び錯乱しはじめたのです。恐らくそれは、父が決して忠誠を誓えない存在だったからでしょう。父は王であり、この世界で最上位の存在ですから、何かに忠誠を誓うことはその存在意義に反していて、そのことが僕の能力との間で絶望的な相反状態を生み出していたのです。きっと父の心の中は散り散りに引き裂かれそうだったでしょう。父はよく片目から涙を流しました。その涙に血の色が滲んできた頃、父は夜更けに僕の寝室を訪れるようになりました。

 父はより直截的な快楽を求めました。それはきっとネメティアに求めたものと同じだと思います。純粋な幸福を得ていたわずかな期間に父は父性愛を取り戻しつつあったので、僕は一層辛さを味わなければいけませんでした。一週間に一度、月の翳る夜に父はやってきました。ただ、精神操作魔法により仰向けにならないで済んだのが唯一の救いで、僕は父の顔を見ずに行為が済むのを待っていれば良かったのです。でも、一方で僕は何とか仰向けになりたいという気持ちも持っていたように思います。行為の最中に、快楽の絶頂にある父の顔を見れば何かが変わるかもしれないと。父の欲望と僕の能力が何か巨大な反応を起こして、それで父が救われないかと考えていたのです。今考えると随分子供じみているかもしれませんが。……あるいは、僕は快楽に歪む父の更に上、天井をも飛び越えて、空の雲をも飛び越えて、遥かなる天の国を見てやりたかったのかもしれません。そう思える時もありました。僕はもうすっかり絶望しきっていました。運命というやつにほとほと嫌気が差していました。僕が生きているから父はこんなことになっている。だったら、どうなってもいいから、天ごと運命をぐちゃぐちゃにかき回してやりたいとそう思っていたんです。

 ――それで三ヶ月前のことでした。父の錯乱は極致に至りました。父はまず倉庫で衰弱しきっていた哀れなネメティア――僕の母を圧力魔法でミンチに変えました。それから、その薄藍色の衣服――妃より受け継がれた運命の服を持ってやって来、僕にそれを着せるのでした。

『よく似合っている。貴様は女に生まれるべきだったかもしれん』

 それから行為中にハバートを呼び、顔色を変えた哀れな彼を――ああ、殺しました。ゆっくりと耳をそいで、眼を潰し、それから殺しました。ハバートは耳をそがれて、僕のあえぐ声を聞かずに済むことに喜びを感じたらしく、微笑みました。続いて眼を潰され、忌まわしい背徳の光景を見ずにいられることに喜びを感じたらしく、笑いました。その笑顔のままハバートは首を切られ、まだ生暖かい首は僕の目の前に置かれました。

 ――もういいでしょう。喋りすぎました。この後も色々と続きました。

 父は精神を病んだということで監禁されています。いつ自殺されるかわからない状態で、家臣たちは皆その監視に夢中です。僕はその隙をついて逃げ出すことができました。それでも監視はつきましたけれど。ほら、あそこに二人の男がいるでしょう。一様に壁の方を見て微笑んでいる。彼らには僕の能力を少し強く行使しました。こんな自在な調節ができるほど僕の能力は発展しているのです。

 僕が殺して欲しいと言った理由はなんとなく解ったでしょう。僕は最後に、天に対してこの能力を使ってやりたい。神をも動かしてやりたい。この世の不幸な運命を全て良い方向に捻じ曲げてやりたい。あるいはそうすれば、僕の能力は太陽に反射して全世界に届くかもしれない。幸福が世界中に拡散される。父の錯乱は――これは特殊ですから――しかしもしかしたら、父もまた、何らかの変化を起こしてくれるかもしれない。まだ僕は諦めきれてないんです。

 いいですか。クドクドとなりますが繰り返します。僕は自ら仰向けになることができない。人に強制されて、例えば押さえられて仰向けになること――これは試していないのでわかりません。でも恐らく何らかの仕掛けがなされているでしょう。先日の健康診断の時に、僕は医者を能力で篭絡して聞きました。曰く、僕の脳には小さな魔力結晶が埋められている――仰向けになるようなことがあれば頭が破裂して跡形もなくなるのかもしれません。

 でも死ねば大丈夫です。魔力結晶はいわば僕に寄生しているようなものですから、跡形も無くなくなってしまう。これが僕が貴方に殺して欲しいと言った理由です。どうかその手で僕を斬り殺し、仰向けに寝かせてやってください。お願いします。」

「しかし、ベスティポ・ディ・アルヴァニアン殿下。」

 俺はその長い長い話の間にすっかり忠誠を抱いてしまい、ベスティポ殿下に対して跪いていた。

「殿下におかれましては、その――他にも色々と目的を果たされる方法があるように存じます。例えば精神操作魔法を誰かに解いてもらう。或いは魔力結晶のみを手術によって取り出す。それから――これは申し上げにくいのですが、決して薦めるわけではないのですが……殿下ご自身で自害されても良いのでは」

「駄目なんです。精神操作魔法も魔力結晶も、決して解かれぬような術式を用いている。また、これらを用意した魔法士は既に殺されているでしょう。それから、……いいですか、これはハバートに教えてもらったことなのですが、人間は外からの暴力によって死んだときには眼を開けたまま死ぬ。病によって、あるいは自害によって死んだ場合には、眼を閉じて死ぬのだそうです。ですから、瞼を開けて、しっかりと天を仰ぎ見るには殺されなければいけないのです」

 そんなのは明らかにでたらめだと、学の無い俺でも解った。めちゃくちゃなことを言う。そう思うが、俺は頭を上げることができない。

「……これもハバートが教えてくれたことです。ネメティアはなぜあのような不可解な能力を持つに至ったのか。自衛のためならばあんなに面倒くさい方法を取らずとも良い。脳に障害を与える魔眼や、心臓を止める魔眼の方がずっと直截的で効率が良いのに……その答えは即ち、それが自衛の能力ではないからです。ネメティアは月に一度、重篤な激痛に見舞われます。それは人間の女の生理に近いと言いますが……それよりも遥かに激烈で、あっけなく死に至る程のもの。この痛みを仲間内で和らげるための能力なのだそうです。幻覚や錯乱は人間に適用されるから生まれるものであり、本来の能力は純粋な幸福感の増加なのだそうです。してみると僕の能力が純化を遂げたのは人間の血が混ざったからに違いありません。ネメティアは激痛を覚える期間のみは皆寄り集まってお互いを見つめあいます。普段は一匹狼で生きるネメティアもこの時ばかりは群れを形成します。もし群れに加われなければ、その時は死ぬのみです。幼生の集まりというのは誤り。単にその期間のネメティアが衰弱しているというだけのこと。人間たちが狩る、ネメティアの群れとはこうした集まりなのです。弱ったお互いを慈しみあい、見詰めあうその集会を、人間は狩っているのです」

 俺は、抱えているネメティアの包みを見る。殿下の声はか細く消えるようだ。

「一方で、僕には人間がどうしてもネメティアを求めなければいけないのもわかります。父が欲望を際限なく抱いたのも仕方が無い。人間とはそういう風にできています。いつもどこか充たされない部分があって、それを受忍するには現実は辛すぎる。だから代償が必要なんです。そう思い、そう思うようにしています。だから僕は、ネメティアが求められざるをえないこの現実を、世界を改革しようとしています」

 そんな、そんなことを。俺にはわかる。殿下は明らかに無理をしている。こんなものは紛い物だ。自分で言ったではないか。そんな自己犠牲はまるでエゴだ。

「……傲慢です」

「解っています。でも僕は、人間が人間を、ネメティアがネメティアを、慈しみ、ただ見つめあう世界がどうしても視たい。視たいから、頼んでいるのです」

 殿下は深く頭を下げる。俺は……俺は。たぶん反論ならいくらでも思いつけただろう。それだけ破綻だらけの話だ。この王子殿下が、長い王宮暮らしの中で心を病み、突拍子もない妄想を繰り広げているだけという可能性もある。あるいはそもそも、この少年は王子殿下ではないのかもしれない。それでも、俺の心のうちにある殿下への憧憬の念は消しがたく。

「何故、俺なんですか」

「解りません。この一日市中を彷徨いましたが、頼めると思ったのは貴方だけでした。姿を見てたちまち決めました。運命なのかもしれませんね。僕が壊そうとしている既存の運命のこれが最後に示す羅針盤」

「……俺は、両親が死んで悲しかったんです。王宮に呼び出されたかと思えば翌日には髪の毛だけが届けられてきた。俺は職を辞め、引き篭もり、ネメティアに耽溺した。どうしようもないヘモゲロです。弱すぎたんです。でも貴方は強い。だからもっと違う方法で世界を変えられるはずです」

「お辛かったんですね」

 既に殿下の声は遠くから聞こえる小波のようで。

「ネメティアの慈愛のまなざしを貴方は求めたのでしょう。人間たる身にその愛は重すぎるけれど、幻覚も見て錯乱もして、それでも幸せでしたか」

「……恐らくは」

「ならば貴方は許されるはずです。そのネメティアも」

 俺は抱えた包みを開ける。そこには確かに最上級の、これまでに見たことがないくらい美しいネメティアの首。しかしその眼は俺に何の感慨も与えない。虚ろな光しか映していない。殿下の眼差し、あれが全てを変えてしまった。……でも俺はその救いを今この手で葬り去る。

 立ち上がる。殿下は頷き、そっと頭を垂れる。雪が金髪に降りしきるさまをひとしきりぼんやりと見つめて、俺は言う。

「最後に、もう一度眼を見せてください」

「……しかしそれは」殿下は苦悩の色を浮かべた。「僕の能力がもう一度働けば、貴方はどうしても僕を殺せなくなるかもしれない」

「いいえ違うんです、殺せるようになるために殿下の眼を拝見したい」

「……では」

 殿下の薔薇色の頬。何にも形容しがたい顔が俺の視界に入る。そしてその眼。群青色の。いやありとあらゆる色の。奔流。瞬きもできず、高鳴る胸を抱え、ああこれがその感情かと、想って。

 魔法の詠唱は三段階、まずは対象を決め魔力を練りそれから一定の形で放出する。集中。それから冷静。殿下の美しい金髪の深奥に、その視神経を司る中枢に、俺の汚らしい魔力が全て注ぎ込まれ、

 破裂する。

 殿下はよろめいて、それから悲しげに少し笑って、何かを言おうとしたがそれも無理で、ただ口をぱくぱくさせたまま雪の上に倒れた。

 耳が痛くなるくらいしんとした。それだけ俺とベスティポ殿下は喋り続けていたらしい。

 殿下は殺される瞬間、一度も瞬きをしなかった。俺の惨めな顔がずっと映っていた、殿下の群青色の瞳。まっすぐ灰色の空を見る瞳に、雪が薄く積もっていく。可能であれば永遠に取り払い続けたいと思う。

 殿下の首を切り取って持ち帰りたいとさえ思った。けれどそれはあまりに矮小な願いだった。小さすぎる幸せだった。

 俺は、薄汚れた思いを抱く最後の人間でありたいと思い、世界が幸福に満ちることを願って、粗末な家へと帰っていった。

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