最終章
その正面には、ひときわ大きな肖像画が掲げられていた。
それを見た瞬間、アンヌと隆也は息を飲んだ。まるで、その人物が生きているのではないかと、錯覚するほど、それは生き生きとした肖像だった。
「最後の城主。マキシム・ド・オーモアの肖像‥‥‥これを探していたんだ!」
そう言ったきり、ピエールは感極まったのか、黙ってその肖像を見上げていた。アンヌと隆也も、ただ息を飲んで見つめるばかりだった。
やがて、ピエールはその肖像画を壁から外し始めた。
「これに、そんなに値打があるのかい?」
「絵にはないさ。だが、作者が問題でね。そこの、署名が見えるかい?」
手伝いながら尋ねる隆也に、ピエールはそう答えた。
言われるままに、隆也が絵の端に視線を落とすと、そこにはサンジェルマンという文字が、ハッキリと読み取れた。
「サンジェルマン?聞いたことのない、画家だな‥‥‥」
「日本人のあんたが、知らないのも無理はないさ。だけど、そこのお嬢さんは御存知のようだぜ」
そっと肖像画を地面に降ろした隆也は、ピエールの言葉に従ってアンヌの方を振り返った。そこには、透けるような白い顔の金髪の娘が、その白い肌をより青白くして立ち尽くしていた。
彼女の視線は、肖像画に、正確にはその署名に釘付けになっていた。
「サンジェルマン‥‥‥まさか、あの、サン・ジェルマン伯爵!?」
「そう、あのサン・ジェルマンさ、恐らくね」
そう頷くと、ピエールは画布を引き剥しにかかった。
そのままでは、大き過ぎて運べないためだということは、隆也にも理解できたが、乱暴な方法だという印象は否定できなかった。
「アンヌ、サン・ジェルマン伯爵って?」
気を紛らわそうと、隆也はまだ青白い顔をしているアンヌに尋ねた。
アンヌも、ようやく落ち着いたのか、隆也の方へ向き直った。
「魔術師サン・ジェルマン伯爵。伝説はいくらでもあるけど、実在の人物だとは思われていないわ。どんな病気でも直し、どこへでも行けて、殺しても死なず、捕まえても簡単に逃げ出す。伝説のスーパーマンね‥‥‥」
「加えて、絵の達人。特に、肖像画は絶品と伝えられる。そうだろう?」
ピエールはそう言うと、キャンバスを丸めながら二人を振り返った。
「言い伝えによれば、そのサン・ジェルマン伯爵と、ここの城主オーモアは、たいへん親しかった。そのため、サン・ジェルマンは、オーモアの肖像を描いて贈ったと、まァ、そういう話を聞き込んでね。これが、本当にサン・ジェルマンの絵ということになれば、それこそ値段なんか付けられない‥‥‥」
そう言って微笑むピエールに、アンヌと隆也は顔を見合わせるしかなかった。
ピエールは、そのまま長居は無用とばかりに、そこを立ち去ろうとしたが、アンヌが絵の外された壁を見ていて、声を上げた。
「見て、まだ絵があるわ!」
アンヌが指差した先には、ひっそりと小さな肖像画が残っていた。
それは、大きなオーモアの絵の下に掛けてあったのか、ひときわ小さく感じられ、それまで誰の目にも止まらなかった。
実際に、他の壁に掛かっている絵よりも小さく、そのまま片手で抱えることが出来る大きさだった。
「綺麗な、女の人‥‥‥」
それは、アンヌがため息混じりに言った通りの、品の良い顔立ちに、華麗な衣装を纏った、美しい婦人の肖像だった。
「それはきっと、オーモア夫人の肖像だろう。それも、サン・ジェルマンの絵かも知れないな」
ピエールの言葉に、アンヌは首を振った。
「いいえ、署名はないわ」
「でもどうして、夫の絵の下に、隠したあったんだ?」
隆也は首をかしげた。その絵は、ちょうど大きな肖像の裏に、隠すように掛けられていた。
「伝説によれば、その夫人が、オーモアをこの城にいられなくしたらしい。彼女は平民の出身でありながら、正夫人になった。当時は、まだそれが許されない時代だったんだろうな‥‥‥」
「だから、夫の絵の下に隠されていたのか‥‥‥」
「皮肉なことに、オーモアが城を出て以来、この城はさびれる一方、とうとう廃虚になっちまったって訳だ。さて、お二人さん、そろそろ出ようか。その絵は、見つけたあんたが持って行けばいい、何かの足しにはなるだろう‥‥‥」
そう言いながら、ピエールは二人を促すと、その場から離れた。
隆也は、小さな肖像画を持つアンヌを、後ろからかばうように歩きながら、首を振って呟いた。
「自分のせいで、夫が城を追い出されたとしたら、この奥さん、だいぶ辛かったんじゃないか?」
「そうそう、聞いた話じゃ。その絵には、良き伴侶ってタイトルが、付いているってことだよ」
「良き伴侶?」
先に外へ出て、二人に手を貸すピエールにそう言われて、アンヌと隆也は再び顔を見合わせた。
その時、強烈な明かりが、二人の目を焼いた。
「誰だ!そこで何をしている!?」
三人はとっさに逃げだしたが、アンヌと隆也は警官に簡単に捕まってしまった。
二人は警察署へ連行され、取り調べを受けた。やがて、二人の前に初老の紳士が現われた。
「せっかく忠告して差し上げたのに、こんな騒動を起こされるとは‥‥‥」
嫌味というよりは、悲し気な視線を、政府の管財人は隆也に向けた。隆也はうつむいたまま、顔を上げられなかった。
だが、アンヌはそうでなかった。
「どうせ、他の一族を名乗る人が通報したんでしょう!私が、あの城の正当な所有者であるという、証拠でも見つけると困ると思ったんじゃないの!?」
喰って掛かるアンヌを、紳士は軽く受け流した。
「それで、何か見つかりましたか?」
「見たんでしょう?御先祖様の肖像画だけよ。私には何の役にも立たないわ!国家の役には、立つでしょうけど!!」
「それはそれは、ところで、あなたがお持ちだった、御夫人の肖像画ですがね。あれは、あなたが気に入ったから、持ち出されたものですか?」
老紳士の言葉付きは穏やかだったが、内容は深刻だった。認めれば、よくても窃盗の罪は免れそうになかった。
一瞬、隆也とアンヌは沈黙した。しかし、意を決めたように、アンヌが身を乗り出した。
「ええ、そうよ!」
「違います!」
アンヌの答えに、強引に隆也が割り込んだ。
女性に弱い日本人青年としては、細かい経緯はともかく、これ以上彼女を悪い立場に立たせたくなかった。
「あれは、僕が取って、彼女に預けたのです。欲しいと思ったのは、僕です!」
「なに言ってるのよ!あれは、わたしが!!」
「ああッ、麗しいかばい合いは、どうか他でやって下さい。いずれ、調べればわかるはずです。どちらにしても、国のものに手を付けたのだとしたら、お二人共、罪は軽くありませんよ」
そう言った初老の紳士は、振り返ると控えていた警官達を呼んだ。
警官が二人を連れて行こうと、その傍らに立った時、紳士はふと思いついたように、二人に尋ねた。
「ところで、お二人共。まさか、あの絵のタイトルを、御存知ではないでしょうな?」
警官に立たされた二人は、怪訝な顔を見合わせると、同時に口を開いた。
「良き伴侶?」
その瞬間、政府の役人の両目は驚きに見開かれた。
やがて、かれはゆっくりと深く息を吸うと、静かにそこに立つ二人の警官達に尋ねた。
「君達、今の発言を聞いたかね?」
「聞きました」
警官達は、異口同音に答えた。
初老の管財人は、再び大きく深呼吸して、自分の中に冷静さが戻るのを待った。
その奇妙な沈黙の中で、隆也はアンヌと顔を見合わせ、二人の警官も互いに、怪訝な視線を交換していた。
やがて管財人は、自分の鞄を机の上に持ち上げると、その中から一通の宣誓書を取り出した。それは、フランス政府の印章が描かれた、正式な書類だった。
初老の紳士は、昔気質の律儀さで姿勢を正すと、左手を上げて、厳かな口調で宣言した。
「政府から私に委託された権限に基づき、私はここに銘記された土地と建物に関して、その、正当な所有権の発生を認める。諸君は、その証人であり、立会人である」
何がなんだかわからないままに、隆也とアンヌは、その宣誓書に署名させられた。その下に管財人は、その日の日付と自分の名を書き込み、さらにその内容に間違いがないかどうかを、たまたまそこに居合わせた二人の警官に確認させると、証人として署名させた。
それは、その後に行なわれる、様々な煩雑な手続きと、数度に渡る面倒な裁判の始まりを意味していた。そのことを、隆也が知ったのは、ずいぶん後になってのことだった。
その間、隆也は国を出ることさえ、許されなかった。行動の自由を奪われて驚く隆也に、初老の管財人がようやく簡単な説明をしてくれた。
「アンヌさんの何代か前、あの城の後継者が遺言を残したのです。それは、この城の正当な後継者は、その証である絵の所在と、その絵のタイトルを知らなくてはならないというものでした‥‥‥」
その後、革命やら戦争やらで、この城の持ち主の一族は散り散りになってしまった。それやこれやで、その遺言の内容を知る者が、誰もいなくなったことから、城の所有者がハッキリしなくなったのだと言う。
ただ、混乱の時代において、廃虚となった城のことなど、誰も構ってはいられなかったことも、また事実だった。
やがて、平穏な時代が来たが、一族の生き残りであったアンヌの祖母も、孫娘に対して正確な遺言を伝えることはできなかった。ただ、彼女にその正当な継承権があることと、それを証明する何かがあるということだけを、アンヌは知らされたのだった。
所有者を失った物件の管理をする政府の管財人は、その先祖の遺言を保管し、その実行を委ねられていた。もし、その所有権を主張する者が現われたなら、管財人は遺言に基づいて、それを確認することが、仕事の一つとなっていたのだ。
アンヌと隆也は、まったくの偶然にしても、二人同時にその証拠を見せ、その名を正確に口にしたのだった。
「それで、どうする?これを相続しても、相続税を払うためには、結局は売らなきゃならないのかい?」
「わたしはそれでもいいんだけど、あなたは嫌なんでしょう?」
様々なやり取りの末、裁判所によって、この古城の共同相続人と認められたアンヌと隆也は、その廃虚の中で今後のことを相談していた。
隆也は、このことにはまったく関係のない、外国人でもあるので、相続権を放棄しようとしたが、アンヌはそれを認めようとはしなかった。
「相続税は、たぶん、この城から出た肖像画を国に寄付すれば、チャラにしてくれるわ。わたしは、あのオーモア夫人の肖像画だけで充分よ。だから、この城はあなたが使えばいいわ」
「使えばいいって‥‥‥」
「あら、あなた、自分が自由に腕を振るえる、土地と建物が欲しかったんでしょう?ここはあなたのものよ、あなたが存分に腕を振るえばいいじゃない。城を再建して、観光用のホテルにでもすれば、政府が援助してくれるし、いい収入になると思うわ。わたしには、その収入の一部を配当してくれれば、いいじゃない!?」
アンヌの提案は、隆也には夢のようなものだった。にわかには信じられない隆也だったが、大学で美術の勉強を続けたいアンヌにとっては、何より安定した収入が必要だった。
隆也は、慎重に考えた末、この提案を受け入れた。アンヌが相続した肖像画を担保にして国から借り、さらに日本の自分のマンションを処分して資金を作った。
隆也は、以前から考えていた自分のプランを実行に移した。中世の城を忠実に再現するだけでなく、その周囲の庭園や自然環境との調和まで考慮に入れた城。内部の装飾には古いだけでなく、近代的な機能性も持たせた理想的な観光ホテルを、隆也は設計したのだった。
このホテルを設計する時、アンヌは共同出資者として、一つだけ注文を付けた。
「いつでも好きな時に、ここに帰れるように、わたし専用の部屋を用意すること!」
あの安宿の一室で、自分が引いた最初の設計図を見せる隆也に、アンヌは茶目っ気タップリにそう言ったものだった。
「もちろん、一番いい部屋を用意するよ。ただし‥‥‥」
それに対して、隆也は大真面目に答えると、一瞬言葉を切った。
女性に対して弱気なこの日本人青年は、始めて会った頃から比べると、幾分かソバカスの薄くなったフランス娘の顔を、真剣に見つめた。
隆也は一つ大きく息を吸うと、思い切って口を開いた。
「ただし、寝室だけは家主と共用だよ!」
言うと同時に、顔を赤らめた隆也は後悔を始めていた。
慌てて、視線を逸した彼は、なかなか相手の反応が返って来ないので、さらに落ち込んで行った。せっかく、いい関係で進んで来たのに、つい軽率なことを!悔やんでみても、後の祭りだった。
一方、ほとんど不意討ち的に、意外なことを言われたフランス娘は、とっさに言葉の意味が理解できなくて、キョトンとしていた。やがて、次第にその瞳と口が大きく見開かれた。
彼女は、自己嫌悪に苛まれている日本人青年に向かって、意外な言葉を口にした。
「あなたって、本当は嘘吐きなのネ!」
はァ?と、首をかしげる隆也に、ようやく余裕を取り戻したアンヌが、目を細めるように微笑みながら、言った。
「あなた、初めて会った時に、女の子を口説くのは苦手って、言わなかったかしら!?」
確かに、隆也はそんなことを言ったような気がしたが、それと今の自分の言葉と、どういう関係があるのか、隆也にはわからなかった。そもそも、目の前の娘が何を言いたいのか、彼にはまったく理解できていなかった。
不安気な表情を、顔一杯に浮かべる、純情な日本人青年に向かって、アンヌは両手を広げると、思いっきり抱きついて行った。
「こんなに立派な口説き文句が、言えるじゃないのよ!この、嘘吐きで、単純でお人好しの、日本の建築屋さん!!」
だらしのないことに、この時、彼女の体を受け止め損なった隆也は、彼女の体を抱いたまま、背後のベッドへ倒れ込んでしまった。だが、その時、初めて重なった二人の唇は、以後、何度も繰り返して重ねられることになった。
隆也の設計によって、古城はホテルとして修復された。周囲の背景と実によく溶け込む外観と、中世の面影をよく伝える、考え抜かれた内装や庭園によって、ホテルは高い評価を受けるようになった。
隆也は古城を現代に蘇らせた、古城リフォームの天才、異色の建築デザイナーとして、この国に着実に根を降ろして行った。アンヌは大学卒業後、絵描きとしては大成しなかったが、美術評論の才能を買われて、活躍し始めた。
そんなある日、二人は久しぶりに会った政府の管財人に、それ以後連絡の取れないピエールの消息を尋ねた。
「何のことを言っているのか、良くわからんが、あの夜、城跡の廃虚にいたのは、あんた達二人だけだ。警官も私も、ピエールなんて男は見ていない。何か、勘違いしたのじゃないかね?」
この話に驚いた二人は、ピエールと隆也が泊まった宿屋の主人などにも聞いて回った。
だが、誰もピエールを姿を覚えていないどころか、そんな男は見たこともないと口を揃えた。宿の主人に至っては、あの時泊まっていたのは、隆也一人だけだと言い張って譲らなかった。
しかも、城跡を調査した専門家が、肖像画の掲げてあった回廊の奥には、アンヌが持つ夫人の肖像画以外の絵が、掛かっていた形跡はないと断言した。
そんな奇妙なことに、二人は顔を見合わせるしかなかった。
ある日、パリからホテルとなった城に戻ったアンヌは、ある本の記述を隆也に見せた。そこには、かつてこの城の主人だったオーモアのことが、わずかに書かれていた。
そのフル・ネームはピエール・マキシム・ド・オーモアとなっていた。また、夫人の名は、マリーアンヌと記されていた。
それから間もなく、隆也とアンヌは正式に結婚したのだった。
FIN
いかがでしたでしょうか?偉大なる魔術師あるいは魔法使い、もしかして悪魔!?と言われる、サンジェルマン伯爵を出したにしては、規模が小さいと言われてしまったことがあります……。まァ、本来この物語で、サンジェルマンは主要人物ではありませんので、こういう形になったのですが、魔術や呪術好きの方には物足りないかもしれません。その辺は素直にお詫びします、すみませんでした。でもまァ、ベタベタの恋愛物語ですから……と、作者は逃げますが、読んでいただいた方の御感想はいかがでしょうか?是非、お聞かせ下さい!また作者が主宰する創作文書サークル『あんのん』のホーム・ページ〈http://ryuproj.com/cweb/site/aonow〉やHINAKAのブログ〈http://blog.so-net.ne.jp/aonow/〉に、製作途中の新作やこちらのサイトでは扱っていない、アニメやマンガの意見や感想などを載せております。宜しければ、そちらの方も御覧いただければ、幸いです。