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「突然だけど、人間って死んだらどうなると思う?」


 学校が終わった後、私は帰り道の河川敷の土手で一人の男性と会っていた。

 西日が、河川敷一帯を橙色に染めている。


「……随分と子供臭いですね。俗に言う、中二病みたい」


 彼と会うのは、これが初めてじゃない。一ヶ月程度前からこの河川敷で知り合って、以後毎日、私は放課後、彼に会いに行っていた。


「おいおい、今日は随分と機嫌が悪いな。何か嫌なことでもあったのか?」

「別に、そういうワケじゃ……」


 ――会っていた、のだが。その連続記録も無残に散っていた。

 昨日、私は彼に会わなかったのだ。学校が終わった放課後、河川敷から帰らずに、別の帰路で家に帰った。理由なんて、自分でも良く解らない。ただ、彼と会わなかった日の、更に昨日の一昨日、言われた言葉。


 『君が誰かに褒められて、嬉しくなるときなんてあるのかい』


 何でもない、ただの皮肉めいた言葉。恐らく、彼も冗談で言ったであろう言葉。本当にそれだけだったのに、その言葉は一つの長い線になって私の胸を酷く締め付け、いつまで経ってもその束縛は消えずに、今もそれは変わらない。

 だからといって、それが昨日彼と会わなかった理由というワケでもなかった。さっきも言ったように、自分でも、どうして昨日彼に会わなかったのかは、解らないのだ。


 ちらりと、横目で彼の横顔を(うかが)う。

 土手の石段に、私と並んで座っている彼は、遠くに沈む夕日を見て微笑んでいた.


 そんな彼が、口を開いた。


「そういうワケじゃ?」


 と同時にこっちを向いてきたので、私は慌てて視線を元に戻す。

 昨日会わなかったので、一日振りの会話になるのだが、どうも調子が出ない。なんというか、目を合わせられないし、昨日会うのをすっぽかしたせいで、妙にやりづらかった。


 ……やっぱり、怒ってるのかな。


「その、怒ってますか……?」


 恐る恐る、聞いてみた。


「ん? そういうワケじゃ、の続きを聞いてたんだけど、まぁいいか。俺が怒ってるって? はっはぁ、そりゃ一体何に対してだい? 昨日君がここに来なかったことか? それとも――今日のお題が妙に中二病染みてることかな」


 いつもと変わらない、愉快で、何でも見透かしていそうな口振りで彼は言う。っていうか、お題については自分でも怒ってるんだ。じゃあなんで言ったんだろう。


「昨日のこと……です」

「ふぅん、前者か。でも柄じゃないねぇ、君はそんなこと、全然気にしないと思ってたのに。――っていうかさ、最初に言ったと思うけど、ここに来るのなんて、気が向いたらで良いんだよ。寧ろ今まで来てた君に、若干引いてたところさ。だから昨日君が来なかったのには、怒るどころか安心したよ」

「安心?」


 良く意味が解らず、オウム返しで聞き返す。


「そう、安心、君にも、ここ以外に過ごせる場所はあるんだなって」

「…………」


 ……無い。


 ここ以外に私が過ごせる場所なんて、あるワケ無い……!

 昨日早めに家に帰ったところで、私は何もしなかった。何も出来なかった。


 ――ここに行かなかったことを、凄く後悔した。


 私が普通に会話出来る相手は、彼しか居なかったんだ。


 やっぱり彼は私にとっての特別で。

 この人が居なかったら私は何も無くて。

 彼は、私がどれだけ手を伸ばしても届かないような所に居て。

 今こうして私と話しているのも、不思議なくらいで。


 ふと、一抹の不安が頭を過ぎって。

 同時に一抹の可能性が頭を過ぎった。


 物事に永遠なんてありはしない。今まで毎日私と彼は日常会話を繰り広げていたけれど、昨日私が彼に会わなかったように、徐々に疎遠になっていくかもしれないという、不安。


 そして、可能性の方は――


「……あの、今日は私からお題を出しても良いですか?」


 考えるのが嫌で、無理矢理言葉を発していた。


「ん? ああ、やっぱり人の死なんて胸糞悪いからねぇ。いいんじゃないかい?」


 自分で言った言葉をそこまで卑下にすることは無いんじゃないかと思いながら彼を横目で見続け、私はゆっくりと口を開く。


 彼としているのは、ただの日常会話。

 その日常会話に、私情なんてタプーなんだろうけど。

 それでも、私は彼に聞いてもらいたかった。

 彼なら、どうしようもない私を、引き上げてくれると思ったから。


「――会話が出来ない人間って、どう思いますか」


 こんな、私のことを。


 一つ、耳に残る風が吹いた。


 彼は私の言葉を聞くと、僅かに目を細め、懐から煙草を出して火を着けずに口に咥えて、


「それは、可哀想な人間だな」


 そう、言った。


「会話ってのは、今俺と君がしてることでいいんだろ? それが出来ないっていうのは、人生の十割損してるよねぇ」


 人生の全部損していた。


「それにさ、会話っていうのは、人類が生み出した最大の発明だと思うんだよ。いや、会話っていうのは最初からあったものだから、発明とは言わないか。まぁ、会話が無かったら、人類はここまで発展しなかっただろうし、人っていう概念すら生まれなかっただろうからな」


 だから、そんな地味に凄いことが出来ない人間ってのは、可哀想だな。


 彼は最後に少し残念そうな口振りになって、そう続けた。


「そう、ですか……」


 可哀想。


 私は、可哀想なのだろうか。自分が可哀想だっていう自覚は無いし、そう言われたことも無い。クラスでは浮いた存在と取られ、誰からも話しかけられることは無かったけど、彼らは机に頬杖を付いている私を見て、可哀想という感情を抱いてはいないだろう。


 だから、つい口に出していた。


「でも、その会話が出来ない本人は、自分が可哀想って自覚、無いんじゃないですか?」

「ほう。まぁ、会話が出来ないっていうのにも、自分から会話をしようとしないのか、しようとしても出来ないかの二つしか無いからねぇ。『出来ない』って言葉から考えると、後者の方なんだろうけど、しようとしても会話が出来ない奴なら、自覚してる可能性は十二分にあるだろう? 周りで色々な奴らが会話していて、自分だけが出来ない。だから会話をしようと試みるけど、出来ないのなら、ソイツは自分のことを、凄く哀れに思えたんじゃないかな」


 やや興奮気味になって、私も言葉を紡ぐ。

 より正確な情報を、彼に伝えていく。

 本人にしか解らないようなことも、うっかり言っちゃったりして。


「えっと、でも、その人は周りの人達の会話を聞いてると気持ち悪くなったりして、嫌気が刺すんです。そんなことで嫌気が刺す自分にも嫌気が出て、それで会話をしてみようとしても、やっぱり嫌気が出て……」


 そこまで言って私はようやく自分の失言に気付き、はっと口を(つぐ)んだ


 私が急に黙ったのを彼は不思議がりもせずに、ポケットからライターを取り出して、口に咥えていた煙草に火を着ける。

 ふぅ、と、白い煙を口から空気中に吹き出して、彼は言った。


「嫌気が出て?」

「…………」


 続きを促すなんて、卑怯だ……


 さっきと同じような語彙を含む言葉に、私は答えることが出来なかった。

 明らかに私が私のことを言ってるのは解っている筈なのに、それでも彼は私に続きを促すなんて、ひょっとしてサドなんじゃないか。


 ああ、もう、恥ずかしい。


 立てている膝に顔をうずめて、出来るだけ彼に今の顔を見られないようにする。

 多分、今の私の顔は、凄く赤いだろうから。そんな顔を見られたら、もっと恥ずかしくなって、その場に居られなくなる。


「ふぅん、成る程」


 顔を膝にうずめて真っ黒な視界の中、隣で彼がそう呟く。

 その声は、ヤケに嬉々としていたような気がするのは、多分気のせいじゃない。


「はっはぁ、会話が出来ない人間ってのは、君のことだったってワケだ。いやいや、盲点だったぜ? 現に俺と会話してる君が、会話が出来ないって、解りやすい矛盾だよ、これは」

「……貴方は、特別だったんです」

「へぇ、……ああ、だから依存か。そういえばそんなことを言ってたな、君は。――で、それを俺に聞かせて、君がどうして欲しかったんだ。別に俺はカウンセラーでも無いし、催眠術師でも無い。君との日常会話を楽しむ、ただの町人Aだ」

「…………」


 なんだか、無性にイラッと来た。


「それに、君だって解ってたんだろ? 俺に話したところで、何かが変わるワケでも無いって。俺を愚痴の吐き捨て場にされても、こっちが困るしねぇ。まぁ、俺以外に会話が出来ない君の気持ちも、解らなくもないが」

「――じゃあ、教えて下さいよ」


 私らしからぬ、強い口調だった。


 赤くなった顔とか、その顔を彼に見られることが恥ずかしいとか、そんなの全部すっ飛ばして、私は勢い良く立ち上がり腕を組んで、座っている彼を威圧感満載な目で睨むように見下す。

 若干、彼が引いていた。


「な、何を……?」

「貴方のことですよ! この前言ったじゃないですか! 今度貴方のことをもっと教えて下さいって! 私のことも教えたし、今度は貴方が自分のことを私に教える番です!」

「おいおい、文脈が滅茶苦茶だぜ? 第一、俺のことを君に教える理由なんて、どこにも無いじゃないか」

「ありますよ! えっと……! その、ほら!」

「ちなみに、この前君が言ったことに、俺は頷いてすらいないけど」


 …………


 ……この、人は……!

 私が言う前に先手を打って言葉を詰まらせてくるなんて、本当にサドなんじゃないだろうか。というかサドにしか思えない。

 拳を握り締め、ふるふると震えさせている私を尻目に、彼は呆れたような溜息を吐いて、やれやれと両手を左右に倒すと、落ち着いた様子で口を開いた。


「随分と興奮してるみたいだけど、本当に何か嫌なことでもあったのか? それとも、そっちの方が素だったとか? はっはぁ、それは今までで、何気なく一番ショックな話だな」


 どうでも良い所で衝撃を受けられていた。というか素でも無いし。


「まぁ、いいか」


 何が良いのか、頭に血が昇ってまともな思考が出来なくなっていた私に、その語彙を把握するのは出来なくて、


「いいよ、教えてやろうか、俺のこと」


 その言葉を聞いて、一気に頭に昇った血が冷めていた。


「……え?」

「なんだよ、その素っ頓狂な顔は。君から言ってきたんだろう? 俺のことを教えろって。だから、教えてやるよ」


 本当に、素っ頓狂だった。なんだかんだ言いつつ、結局彼は教えてくれないだろうと、高を括っていたから。


「といっても、別にどっかの社長の息子でもなければ、ノーベル賞候補の科学者でもないし、ましてや神様なんかでもない、ただの――」


 そこで彼は言葉を区切り、一息吐いてから、


「ただの、セールスマンだよ」


 そう、言った。


「普通で、普通な社会生活を、普通に暮らしてる、普通の人間なんだよ、俺は」


 だから、君の特別になるような人間じゃない。

 彼は、いつもと変わらない笑顔で、そう続けた。

 対する私は、戸惑っていたのかもしれない。

 彼がこういうことで嘘を吐くとは思えないし、嘘を吐いているようにも見えない。だから、彼が本当に普通に普通で普通の、どこにでも居そうな人間であったことに、私は勝手ながらも、少し、失望していたんだ。


 なんだかんだ言って彼は、何か深い事情である、特別な人なんじゃないかって。


 そう思って。


 そんなことを勝手に想像して、勝手に失望して。


「……そう、だったんですか」


 そんな自分に、今までで一番の嫌悪感を覚えた。


 そして、そんな私を彼に悟られないように、必死に冷めた頭を回転させて、途中で引っ掛かりながらも、質の悪い糸を紡ぎ出すように、言葉にする。


「なら……それなら、貴方は、詐欺師にでもなれたんじゃないですか」


 私を、騙していたんだから。


 私が、勝手に騙されてただけなんだけど。


 いつも通りの、冷めた声だった。


「俺が詐欺師? ははっ、その発想は無かったなぁ」


 ああでも、と、彼は思い出したかのように付け足す。


「引っ掛かるのは、君くらいなんだろうけど」


 ばれていた。


 立っている為に、さっきみたいに赤くなった顔を膝にうずめることも出来ず、さり気なく俯きながら前髪を弄って、赤面した顔を隠そうとしたが、やっぱりというかなんというか、彼にそんな動作を見せる時点で逆効果だったようで、ニヤニヤと笑いながら彼は、俯いた私の顔を覗き込むようにして見ている。


「なんだい、今日は随分とコロコロ表情が変わるねぇ。まるで君が普通の女子高生に見えるよ」

「……るさいです」


 普段の私はそんなに素っ気無いのか。いやまぁ、ある程度自覚はしていたけど、常に口元が吊り上がっている彼に言われるのは複雑だ。


「でもまぁ、知ったような口を聞くのは専門職の奴らに失礼だけど、君はどこにでもいる、ただの女子高生だ。それ以下でも、それ以上でも無い。強いて言えば、下らないことにいつまでも悶々と悩むところが、少々異常なくらいで、その程度なら、誰にでもあるよ」

「下らないって……」


 彼の言葉に少しムッっときて、顔を上げる。


「違うか? じゃあ大層なこととして話すけど。君は会話が出来ないんじゃなくて、会話をしたくないんだろう、下らない連中と。それで、ちょっとした特別が欲しかったんだ。どこでも良いから、自分が楽しく話せる特別をな。俺じゃなくても良かった、むしろ俺じゃない方が良かった。でも俺は君の前に現れて、君が唯一会話出来る人間になっただけなんだよ。本来なら、それは親とかの身内になる筈なんだけどねぇ。まぁ君は不幸にもそうならなかっただけで、後は普通の人間だよ。知ったような口を、と思うかもしれないけどさ、今日の君を見ていたら誰だってそう思うし、言わないと気が済まなくなるんだよねぇ。そもそも、いつからだい、君が会話出来なくなったのって。まさか小さい頃からずっと出来ないのか? はっはぁ、それこそ有り得ねぇよ」

「それは……」


 そう、だけど。


 思い出せない、いつから私は会話が出来なくなったんだろう。

 中学……は、まだ大丈夫だった筈。高校に入って、それからいつ? いつ私はこんな悩みを抱えるようになった?


「だから、下らないんだよ」


 私の答えを待たずして、彼は再び口を開いた。


「そんな類の悩みなんて、色々と浅い。君は普通だし、俺も普通。君は普通の人間に対して、特別なんて感情を抱いちゃ駄目だったんだ。依存しちゃ駄目だったんだよ。だからここまでこじれた。俺と君が会わなかったら、君の悩みなんてもうすっかり消えて、愉快な会話をクラスメイトと繰り広げていただろうさ」


 まぁ、だから、そうだな。


 彼は滑らかに動いていた口が詰まったように、途切れ途切れにそう言うと、


「――俺と君が会うのは、これで最後にしよう」


 ドクン、と、私の心臓が一拍だけ、大きく跳ねていた。


「え……」

「俺も、君との日常会話が無くなるのは嫌なんだけどねぇ。そうでもしないと君がいつまでも普通に戻れないっていうなら、名残惜しいけど、もう俺達は会わない方がいい。俺への依存は、もうお終いだ」

「でも、そんな……」


 これで、お終いだなんて。

 そんなことになるなら、言わなきゃ良かった。馬鹿みたいだ。勝手に彼に幻想を抱いて、彼に切望して、彼に失望して、それでお終いなんて。


 そんなの――


「――嫌、です……っ!」


 彼の言うことが正しいっていうのは解ってる。でも、それでも私は、喉の奥から絞り出すような声でそう言った。

 正論とかそういうの全部関係無しに、会えなくなくなるというのが嫌だった。あの頃は、幻想も希望も、何も無かったけど、彼と会って、彼と話して、それで私は変わっていた。彼に幻想を抱けるようになった。彼に希望を持てるようになった。


 それだけで、良かったのに。


 なんで私は、それより先を望んだのだろう。


 それが、もう彼と他愛ない日常会話が出来ない結末になってしまうなんて。


 ――本当に、馬鹿みたいで。


「……おいおい、いくら今日の君はコロコロ表情変えるって言っても」


 気付けば、視界が歪んでいた。

 水滴が私の瞳に溜まっていて、それは私の視界を歪ませるのに、充分だった。


「う、うぅ……!」

「泣き顔まで拝めるとは、流石に考えてなかったな」


 瞳に溜まっていた水滴は、ポロポロと、涙となって私の頬を伝い、地面の雑草を濡らす。

 彼の表情は良く見えないけど、多分、いつも通りの笑みを浮かべているんだろう。


「まぁ、君がそこまで俺に依存していてくれたのは、内心嬉しいんだけどねぇ。これも君の為って事くらいは、君も解るだろ?」


 ……解ってない。

 彼は、全然解ってなんかいない……!

 ただ依存していただけの人間と、もう会えないっていうだけで、女の子が泣く筈、無いじゃない。


 その時、彼が立ち上がって、ぽんっ、と、頭の上に手を置かれた。

 予想外の彼の行動に、若干目を見開いたが、すぐに良く解らない屈辱感に苛まれて、目をギュッっと瞑った。


「じゃあな。今度は一人の特別じゃない。不特定多数の普通な奴らと会話してくれよ? でないと、俺達がこの日常会話をやめてしまう意味が、無いからね」


 彼の言葉に、私は頷かない。


「一つ、いいですか……?」


 代わりに、ある質問を問い掛けた。

 鼻声で、本当にみっともない声だったけど、どうしても今、聞いておきたいことだった。


「私との――他愛も無い日常会話、貴方は、楽しかったですか……?」

「ああ、勿論」


 即答した彼の、くすっという小さな笑い声が聞こえたかと思うと、頭に置かれていた大きな手が、わしゃわしゃと私の髪を巻き込みながら頭を撫でて、離れた。

 それから、徐々に遠ざかっていく足音。

 その音を聞いて、何故かさっき、一つの不安と、一つの可能性が私の頭に過ぎったことを思い出した。

 昨日彼と会わなかったかのように、彼と徐々に疎遠になっていってしまうのが怖いという、そんな子供みたいな、不安。


 そして、可能性っていうのは――


「あのっ!!」


 顔を上げ、私が出し得る最大の声量と声圧で、叫ぶように彼を呼んだ。

 流れっぱなしの涙を袖で拭いて、背を向けて土手を歩いている彼を、この目でしっかり捉える。

 私の声が聞こえたのか、彼はピクリと体を反応させると、体を少しだけこちらに向けて、片目だけで私を見ていた。


 ――まだ何か、言うことでもあったのかい。


 彼の僅かに動く口は、そう呟いていたように見える。


「あるもん……言うこと……」


 その小さな呟きに答えるように、私も小さく呟いた。

 多分、これは言わない方が良い言葉なんだと思う。

 言ったところで、結局は叶わないことなんだと思う。

 きっと、後でいっぱい後悔するんだと思う。


 ――でも、だとしても、


「私っ!!」


 しっかりと、また最大の声量と声圧で、彼に聞こえるように叫んだ。


 それでも、意味の無い言葉だとしても。

 この声が、まだ届くように。

 いつまでも、彼の中に私という存在を留まらせる為に。

 私の頭に過ぎった可能性を。

 私の、想いを――!



「――貴方のこと! 好きだったんですっ!!」



 彼の目が、大きく見開かれた。


 間が、十秒。


 十秒間固まっていた彼は、十秒経ってようやくいつもの、何でも解っていそうな不敵な笑みを私に見せて、体の向きを元に戻して。


 そして、彼はこの河川敷から、姿を消した。

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