起
別に、特別自分が不幸な人間だとは思わない。寧ろこの日本という国に生まれて、戦争の無い平和な日常を送っていられる分、この六十億という確率の中で、幸せな部類に入るのだろう。
だが心のどこかで、やっぱり私は不幸な人間に分類される方なんじゃないかなと、思うことがあるのだ。贅沢な悩みだっていうのは言われるまでもなく解ってる。でも、私みたいな人間は、いっそのこと、どこかの戦争してる国の民兵でもやってた方が、総合的に幸せな人生を送っていたんじゃないだろうか。
毎日が死と隣合わせなら、大した悩みなんて抱かずに、生きていけるだろうから。
そんなことを半ば本気で思っている私は、やっぱり幸せな人間に分類されるんだ。
学校が終わった放課後。夕焼けに染まった河川敷の土手を一人で歩く私は、鬱蒼とした気分のまま、堤防を降りる石段に腰を掛けた。目下には颯爽と生い茂る草が音を立てて揺れ、少し目線を上げると、大きな一級河川が流れていて、川の下流方面の先には大きな橋が見える。
空は、沈みかけている太陽の橙色と、雲の白い色が絶妙なコントラストを描いていて、とても美しく感じられた。
結局、私は不幸なのか、幸せなのか、どっちなんだろう。
今までの考えを纏めると、幸せな人間の中の、不幸な部類、といった感じか。うん、これなら違和感も無いはず。
というワケで、自問自答の答えをものの数秒でしまったのだけど、特に嬉しかったり、気分が高揚するワケでもなく、やっぱり私は不幸な部類だと再認識したことに若干の憂鬱を覚えていた。
視線を落としながら再び土手を歩いて少しすると、道端に中途半端な大きさの石が積まれているのが視界に映った。子供達が遊んだ跡だろうか、石の塔が横に三つ並んでいる。
「…………」
これは、私の鬱憤を僅かだけど晴らさせる為の、神様が設置してくれたものなんだろうか。大きさはある程度揃っているものの、形がバラバラで不安定に積まれているソレを、なんだか無性にぶち壊したくなる。
三歩、小さく後ろに下がって、左右を大きく前に踏み出し、その距離を一気に詰め、後ろに振り上げられた右足を勢い良く振り切って石の塔を三つともまとめて盛大に蹴り壊した。
カラ、カラカラカラ、と、土手を転がっていく石が十数個。
石が予想以上に重かったらしく、衝撃が靴を通り越してつま先に伝わり、無駄に痛い。
「くそ……」
誰に向けたワケでもなく、――否、多分私自身に向けて悪態を付いた、そんな時だった。
「おいおい、人が積んだ石を見事に蹴り飛ばしてくれて。最近の高校生はこんなんばっかりか?」
ふと後ろから、声を掛けられていた。
慌てて振り返ると、そこには溜息を吐いて面倒臭そうに後頭部を掻く、茶色いロングコートを着た、中肉中背の男性の姿があった。歳は二十代……後半辺りだろうか。
土手を転がらず、私の付近に落ちた石を一つ拾い上げた彼は、
「あー、また最初からか」
そう言い、もう片方の手に握っていた同じような形、大きさの石数個とそれを地面に落とし、彼も地面に座り込んで、石を積み上げていく。
「……貴方のだったんですか」と、私。
「ああ、悪いか?」石を積み立てながら、彼は言う。
いや、悪いわけじゃないけど……、なんでこんな子供染みたことを? と、質問する気は起きなかった。
まぁ、世間にはこんな変わった人もいるんだなと、世間の広さを再認識したところで、彼が石を積んでいく作業を傍観する義務は、私には無い。
「いえ、なら悪いことをしましたね、ごめんなさい。それじゃ」
「おっと、待ちな高校生」
「無理です」
「ちょ……そこは普通待つもんだろ!」
冗談じゃない。いい歳して石を積み上げてる変人の言うことなんて、誰が聞くものか。それにまずこの状況に普通という概念はあるんだろうか。
無いでしょ、普通。
男性の声を聞き流して、そのまま私は歩を進めようとしたが、
「……ははぁん、人の努力の結晶を蹴り飛ばしておいて、あんな謝罪の一言で済むと思ってるのか」
その嫌味のような言い回しに、歩を止めざるを得なくなった。あんなのが努力の結晶なのか云々の疑問は抜きにして、確かに私の謝罪は心がこもっていなかったし、何より私も心をこめたつもりは無い。
さっき再認識したように、世間は広い。ああいう謝罪じゃ、逆に腹を立てる人もいるってことなのだろうか。
…………いや、いやいやいや、今回に限ってそれは無いでしょ。
私がしたことといえば、あのとても努力して積み立てたようには見えない石の塔を蹴り飛ばしただけだ。何の為にしてるのかは知らないけど、あんなの数分もあれば何個も立てることが出来るだろう。
現に、彼が立てている石の塔は既に二つ目が建築完了間際だった。
「あれだけのことで、もしかして私が壊したのを直せ、とか言う気ですか?」
振り返り、不機嫌に私は言う。
なんて器の狭い人だろう。背伸びしたがりの小学五、六年生でも、もう少し寛大な心を持っている筈だ。
「いや、最初はそうさせようかと思ったんだけど、もうすぐ終わるからねぇ。だから他の方法で償ってもらおうか」
結局何かさせるつもりなのか。やっぱり器の小さい人だな。
というか、なんだろう。さっきからイライラしていたのに、彼と出くわしたせいなのか、更に苛立ってくる。
「そもそも、なんでこんな子供みたいなことしてるんです。馬鹿じゃないんですか」
そう思った時には口に出ていたし、自然と語気も強まっていた。
そんな私の苛立ちを隠せなかった口振りに男性は何故か、クック、と喉の奥で笑い声を漏らし、不敵な笑みを見せる。
「君と同じだよ」
私を横目で見る彼は、楽しそうな口調でそう言っていた。
「……え?」
でも、彼の言葉が理解出来ない。
私と、同じ? 本当に馬鹿なのかこの人は。私は生まれてこの方十六年、生涯一度たりとも石を積み上げたことなんて無い。故に彼が石を積む理由が、私と同じである筈が無いのだ。そもそも、私が石を積み上げる理由が無いんだから。
あ、でも、彼も石を積む理由が無くて、ただ何となく積んでるだけだとしたら、それは理由が無いという点では同じかもしれない。
でも彼はそこまで解っててそう言ったのか、と物思いにふけていると、彼が作っていた石の塔がまた三個、完成していた。
彼は土手から広がる河川敷を見渡し、誰も通行人がいないことを確認。「見てろよ」と私に端的にそう言い、石の塔から一メートル程度離れると、一歩、二歩と大きく足を踏み出して石の塔との距離を詰め、右足を大きく後ろに引いて、そして――
「あ……」
ぱんっ、と、私が蹴った時よりも遥かに大量の石は、私が蹴った時よりも遥かに大きな放物線を描き、私達が居た土手から、下に落ちていった。
石の塔を蹴り壊し、満足そうな顔をしているのは、他ならぬ石の塔を積み上げた本人。
そういう、ことか。
「蹴り壊す為に、積み上げてたんですか」
「まぁ、ちょっとしたストレス解消、ってやつだ。本当なら六個くらい一気にやりたかったんだけど、君に先にやられたのかな」
私と同じとは、こういう意味だったのだ。
「それで、今ちょっと思いついたんだけどさ」
「何をです」
「俺と話をしないか?」
「話なら、現在進行形でやってますけど」
私の大嫌いな、ただの『会話』を。
そろそろ帰ってもいいかな。私の思い違いで彼を心の中で馬鹿にしたのは失礼だったと思うけど、これ以上ここに居る意味が見当たらないし。
「違う違う、なんてことはない、ただの日常会話だよ。俺と会話をすること。それが、君が石の塔を蹴り壊した罰、ってことでどうよ」
どうよも何もない。
最悪だ。
よりによって、日常会話。私がもっとも苦手であり、最も嫌いとしているもの。
そもそも私の悩みがそれに関することで、それを少しでも紛らわせる為に無心になろうとこうやって土手を歩いていたというのに。
まぁ、その企みは、最初から見事に失敗していたんだけと。
「じゃあ早速」
私の返事すら聞かず、彼は口を開いた。
嫌だ、聞きたくない。吐き気がする。あんな、どうでもいい事を笑いながら話せる人が理解できない。どうしてそんな無駄なことに時間を割く必要がある? どうしてそう話がコロコロ変えることが出来る? 有り得ない、あの人達の感性が解らない。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪――!!
「――君はさ、ナポリタンって料理について、どう思う?」
…………
「……は?」
「うん? 何だか顔色が果てしなく悪いけど、大丈夫かい?」
「あ、いえ……大丈夫、です……」
歯切れ悪く、返事をする。
あれだけ気持ち悪かったのに、彼の意味不明な話題のせいで吹き飛んでしまっていた。
ナポリタンが、何だって? まさかそれが彼の言う日常会話の一種なのだろうか。だとしたらこの人、私の思い違いとかそんなんじゃなく、確実に馬鹿なんじゃないか。
「まぁ、それなら良いけど。――でさ、知ってるかい? ナポリタンって、その名前から西洋風なイメージが漂ってるけど、実は日本発祥なんだよ。変だと思わないか? 日本で作ったなら、なんで和名じゃないのかって。俺が名前を付けるなら……そうだな、『パスタのケチャップ和え』だな。ほら、君はどう思う? ナポリタンのネーミングについて」
「……どうでも、良いです」
レベル的に、雑談以下の内容だった、ナポリタンがどうしたと。別に発祥は日本でも、パスタの本場はイタリアなんだから、作った人がそれに合わせたんじゃないか。
しかもその名前、そのまんま過ぎます。
第一――
「その名前だけじゃ、具が無いじゃないですか」
何故か、思ったことが口に出ていた。
はっとして私は口で手を塞いだが、彼は私の言葉を一言一句逃がさず聞いていたようで、にやりと不敵に笑って私を横目で見ると、先程よりもご機嫌な口調で話し始めた。
††††
「えっと……じゃあ、ナポリタンの和名は、『西洋麺のケチャップ炒め ~野菜炒めを絡めて~』でどうですか」
「ははぁん、成る程、具のピーマンとか玉葱を野菜炒めに纏めたか。でも、ソーセージ入りの野菜炒めってアリ?」
「アリですよ、っていうかそれ以外にどう表現しろって言うんですか」
彼の口から、『ナポリタンって日本発祥なのにカタカナって変じゃねーの』と馬鹿げた話題が飛び出てから、早十分、なんだかんだで会話を続けている私が居た。
今でも馬鹿な話だと思っている。……のに、何故かその馬鹿げた話だけを追求する彼に吊られて、私もついつい口が動いてしまっていたのだ。現在進行形で。
結果、収拾が付かなくなってしまって、十分もこんな話題で私達は話し合っていた。
……何してんだろ、私。
「ふぅん、アリか。ならそれ以上的を得た答えは無いな。じゃあナポリタンは、『西洋麺のケチャップ炒め ~野菜炒めを絡めて』って名前に変更決定ってことで」
「まぁ……良いですけど。使う人いるんですか?」
「ははぁん、言ってはいけないことを言ったね。誰も使わねぇよこんなの。ナポリタンはナポリタンだし」
言い出しっぺがその発言はいかがなものか。
さて、と彼は言った。
「中々楽しかったよ、君との邂逅は。俺は毎日この時間帯になるとここに出没するからさ、気が向いたらまた来いよ。適当に、楽しい日常会話を繰り広げようじゃないか」
そう言って彼は雑草を押し潰していた尻を上げ、夕日に向かって大きな背伸びをした。太陽の光が、いつもより眩しく感じる。
その後彼は、私に軽い会釈だけをして、何も言わずに歩いていってしまった。
本当に、会話だけして、帰っていった。
私は何気なく、土手を歩いていく彼の背中を見ていたが、何だか無性にやるせない気分になって、大きな溜息を一つ吐いた後、私も帰路に着く。
今日の夕飯は、……えっと、なんだっけ、パスタのケチャップ炒め? じゃなくて、あれ、西洋麺のケチャップ絡めだっけ。
……まぁいいや。
今日の夕飯は、ナポリタンだった。