迷走、過去-後
※注意※
この章は多少の残酷な表現・暴力表現を含みます。
閲覧にはご注意ください。
―*―
中学に上がる頃にはだいぶ性格分けも板についてきて、滞りなく人間関係が築けるようになった。
あの人には、この性格。この人にはこの言葉。くるくると表情を変え、たくさんの『私』を作る。
都合のいい自分をどんどんと生み出していった。
誰もが私に騙された。――もちろん、あの人も、だ。
「…アンタ、変わったわね?」
ある日彼女に、何ヶ月かぶりに、こう声をかけられた。
「…そう?中学に入ったからかな。」
―その言葉を聞いたとき、顔には出さなかったが、内心すごく嬉しかった。
今まで、彼女から話しかけられることなんて数えるくらいしかなかったから。しかも、それが私にとっては最高の褒め言葉だ。嬉しくないはずは無い。
少し機嫌をよくしながら皿を洗っていると、あの人はまた続けた。
「…ふーん。ま、どうでもいいわ。それより、明日は帰ってこないでね。」
「……はいはい。」
カチャっと音を立てて食器がシンクの中へと吸い込まれていく。それと共に私はそっとため息をついた。
いくらか浮いた気分が、また限りなく底へ底へと沈んでいく。
――また、『帰るな』 か。
――
私がある程度自分で自己管理ができる年齢になると、あの人は家に男の人を連れてくるようになった。
それも、私が覚えている限り、毎回違う人。
男の人と一緒にいる時のあの人は、何が楽しいのか、ずっと笑顔だった。
『じゃあ、この部屋にいなさい。』
しばらくすると、あの人は毎回笑顔でそう言って、私を遠ざけるように部屋から閉め出す。私は黙ってそれに従っていた。
朝方になるまで扉は開かない。なので、部屋の隅に行き、独りで膝を抱えて朝を待った。
気配を殺し、意識をずっとずっと遠くに飛ばしながら。
――怖かった。
昔から独りの空間は、余計なことを考える。
あの人が私を置いて、あの男の人とどこかへ行ってしまうのではないかと、私はやっぱり居ない方がいいんではないかと、息をすることすら、恐ろしくて――
―だがその孤独も、いつしか飼い慣らされる。
小学校4年生の頃。私は彼らの情事を誤って見てしまった。
ベッドの上にいた男女。そこに居たのは、少なくとも母親ではなかった。只のオンナだった。
自分の親の見たこともないような姿や声に、私はただ呆然と立ち尽くし、がくがくと震えた。
醜かった。
汚いと思った。
――吐き気がした。
そのまま私は踵を返し、家から飛び出した。
――ろくでもない女だったのは昔からだが、せめて私の前くらいは母親ヅラして欲しかった―――
そう思うのは私のワガママだろうか?
公園の隅で縮こまりながら、泣いた夜を、私は今でも覚えている。
――その時から、私は『その日』は家には帰らなくなった。
むしろ逃げるようにそこから隠れた。
失望とともに、心はどんどん離れていった。
―*―
――最早、私は家庭には何の希望を持たなかった。ただの生活スペース、プラス同居人。それだけ。
家事は全て私がやっていたし、あの人も特に干渉はして来なかったから、何も考えずに楽にやれていた。
――はず、だった。
――
ある、寒い夜のことだった。あの人は珍しく男の人を家に呼ばず、かといって外泊もせず普通に家に帰ってきた。
――ただし、かなり酔って。
「たぁらいまぁ~~帰ったわよ、ナツぅ。」
玄関先で、呂律の回っていない彼女が呼ぶ。
「!!!」
本当に、ビックリした。図書館で借りて来た本を取り落としたほどだ。
――あの人が私の名前を呼ぶとか、初めてじゃないか?
これは相当酔ってる、と思いながら玄関まで行くと、案の定、酒のニオイをぷんぷんさせながら横たわっている彼女がいた。
「…はぁ、こんなところで寝ないでよ……」
「んー…」
私の言葉など聞こえていないかのように、真っ赤な顔でうなる女はおやすみ3秒前だ。
仕方なく彼女を抱き起こし、リビングまで引き摺ってソファに横たえた。
……酒臭い。私は嘆息した。
「…ったく、どんだけ飲んだの。早く帰って来たと思えば。」
「…………。」
「今、お水を持ってくるから――」
「那津。」
―あ、また名前呼んだ。
と思えば、酔っ払いとは思えない力で腕を引かれ、体ごと引きずり込まれる。
そして気付いた時にはソファに押し倒されていて。彼女が真剣な瞳で私を見下していた。
「………な、に?」
彼女の目があまりにも鋭く私を射抜くので、思わず委縮する。
―というか、こんなに近くでこの人の顔を見るのは初めてで、どうすればいいか分からない。
電灯に照らされて映し出された顔は、化粧は濃いものの、整った顔立ちだった。
「…………、」
しばらく無言のまま私を見続ける。
―目が、逸らされない。じっと私を見たまま彼女は動かない。
いつもなら私のことなど、視界にも入れないくせに。
「なつ…………」
すっと彼女の手が私の方へとのばされる。そして、その双眸がかなり細くなったのを認めると、
「――――ぐっ!?」
突然、私の首を、絞めてきた。
これまた、ものすごい力だ。女の細長い指が私の首にミシミシとくい込み、気管を圧迫する。
「……っぐぁ…!」
たまらず小さく悲鳴をもらすが、力は変わらず、それどころかもっと力を込めて私を締めあげる。
酸素を取り込むことが困難になり、意識が朦朧としてきた。
そして女の方は、口元に笑みなんか浮かべ始める。
――本気で、ヤバいと思った。
「ふふ、ふふふふ…なつぅ……」
気味の悪い笑みを浮かべながら、私に馬乗りになった彼女が笑う。
私はぼやけていく視界の中、それを見ていた。
ひとしきり笑った後、今度は憎しみをこめた眼差しで私を睨みつけてくる。
「あんたはぁ……どこまでアタシの邪魔ぁ、するき……?」
呟くように言い、ジロリと見下してくる。
私は顔をしかめた。…苦しかったのもあるけど、あまりにもその言が、不可解で。
―何を言ってるんだ、この人は。
コッチは今までそうならないように努力してきたってのに。
…何が、貴女の癪に障ったんだ。
「今日ね、…あと少しだったのよぉ。」
彼女はまだ続ける。
「あと少しで、結婚までいけそうだったのに。…あの男、子供がいるって言った瞬間、手のひらを返したように………」
だんだんと語気を強める。それに比例して、絞める力も強くなった。
ギリギリギリと、音がするかのごとく強く、強く。
息が、でき ない。
「…邪魔ねぇ、アンタ。アンタさえいなけりゃよかったのに……。」
私と彼女の目が合った。
…焦点が合っていない。正気で無いのかもしれない。
それでも私は黙って、その後に続くはずの言葉を待った。
「―アンタなんか、産まなきゃよかった。」
ほらまた、決まり文句だ。
ズキン、と痛みが胸の奥に沈む。何回も何回も言われてきた言葉なのに、今でも心を鋭く抉る。
すがるもののない私にとって、母親は絶対であり、全て。
その人に存在を否定されるって、どんな気持ちか、この人は知っているのかな?
私が平気だとでも思ってるのかな?
――きっと、知らない。
血を流し、化膿して…それでも放っておくしかなかった傷口なんか、全く知らないだろうね。
「…………ったら、…っ」
喉がコクリと動き、口からシュー、と頼りない息が出る。なかなか声を生み出せずにいるが、頑張って音を発す。
―いつもはこんなセリフ、黙ってシカトするのに、
意識がぼんやりしているせいか、頭に血が上っていたのか、私は無謀にも言葉を返してしまった。
「…………っだ、ったら、産まなきゃよかっ……た……」
ずっと言いたかった言葉を。
「―!」
思いがけず言葉を返してきた私に驚いたのか、あの人はパッと手を離した。途端、せき込みだす私。
――死ぬ、かと思った……
しかし、何にせよ解放されてよかった、と内心思う。
無様に床に這いつくばったままゲホゲホと息を吐きだし、また吸い込んでいると、あの人がふらりと立ち上がるのが見えた。