04
記憶の海に体が沈んでいく。
――ああ、思い出したくなかったのに。
不思議なことに、時を遡るほど映像は鮮明に映し出されるんだ。
*****
――どうにも、私は、生まれてはいけなかったらしい――
―ということは、幼いころから分かっていた。
何故なら、母親が直接そう言ってたから。
「アンタなんか産まなきゃよかった。」
母親の口癖だ。とにかく思い知らされていた気がする。
彼女は私を産みたくて産んだわけじゃないってこと。
-*-
物心がついた頃から、放置されていた記憶しかない。朝も、昼も、夜も。
後から知ったことだけど、あの人は毎日男を求めては酒に浸っていたらしい。だから、私に気を回すなんて親切な心は当然、持ち合わせてなかったんだ。
あの人は私をいないものとして振る舞っていた。全く、見えてないように。
ほんの時々、与えられる眼差しは温かさとはかけ離れていて。そう、まるで汚いものを見るようだった。
―夜は、家に居ないことの方が多かった。私は暗く広いマンションに独り、取り残される。
無論、1歳とか2歳の子供が耐えられる闇ではない。
泣いた。
毎日泣き叫んで、あの人を呼んだ。
あの扉の向こうから、お母さんが迎えに来てくれるんじゃないかって。願って、すがって。
でも、誰も来ない。
どれだけ泣いても、『お母さん』と呼んでも。
来るはずのない母を呼び続け、泣き疲れて寝ることが続くと
ある日母親に「近所迷惑だ」と殴られた。痛かった。
そして彼女は、また何事もないように自分の、自分だけの生活を楽しむ。私を残して、夜の街へ。
――いつしか私は夜中に泣かなくなった。
彼女は所謂、育児放棄をしていたのだろう。よくある話だ。
ただ、あの女は賢かった。
とりあえず食事は毎回用意してくれた。コンビニ弁当とか、そんなものだったが、とりあえず『与えられ』ていた。
また、同じ服ばかりだと怪しまれるので、何パターンか洋服も支給された。
極めつけは、外にいるときの態度だ。完璧な母親を演じ、他のママさん連中と良好な関係を急速に作り上げた。
彼女は、演技はとても上手かった。私を愛しているフリが。
本当は、自分は愛されてるのではないかと、錯覚するほど。
――そんなわけ、ないのに。
―*―
どこにも連れて行ってくれない。遊び道具もない。あまつさえ、話しかけても返事は返ってこない。まるで透明人間になったような毎日。
彼女は私に興味はなかった。…そんなこと、分かっていた。
でも、それでも私は彼女を求め続けた。…私には彼女しかいなかったから。
ひたすら『愛』を、『愛されること』を。ただ、名前だけでも呼んでほしい、と。
――よんで。わたしのなまえ。
わたしのなまえ、あなたがつけてくれたんでしょう?かんがえて、くれたんでしょう?
よんでよ。わたしはここにいるんだから。
「なつ」って――――
思い続けて数日、ふと、あの人が振り向いた。眉間には皺が刻まれていた。
「アンタ、」
ビクッと、体が跳ねる。
「ウザイから近付かないで。あと、話しかけてこないで。こっちはアンタのせいで苦労してんのよ。」
心底迷惑がっている顔だった。
それからも彼女は、私のことを決して名前で呼ぼうとしなかった。
――あの人の心から、私は消えてしまったんだろうか。
これが、初めての絶望。
――
どれだけ願っても、喚いても、抗議しても、相変わらずの毎日が続く。しかも体が成長していくにつれ、悪化していく。あの人はもはや目も合わせてくれなくなった。
――お世辞にも、親子とは呼べない関係。同居人がせいぜいだったなと、今になって思う。
――そしていつだったか私は、あの人から愛情を受けるのを諦めた。
構ってもらいたくて何かしても、殴られるか蔑まれるだけだし、自分も痛い。
――どうせあの人は私になにも求めちゃいない。
強いて言うなら、あの人の望みは、
「私にただ生きてもらう」
それだけ。
―なら、そうしよう。お望み通り。ひっそりと息を殺して生きてればいい。
私は、幼いながら自我が芽生えるのが早かった。
そして、『諦め』を知っている珍しい子供だったと思う。
―*―
だが、ただそれだけの願いを叶えるのが、思ったよりも難しかった。
小学生に上がると、関わるべきヒトの人数が格段に増えた。
しかし極端に人と関わらない私は、自然と1人でいるのを好むようになったわけだが、子供という生き物は異端を嫌うらしく、
『ブース、死ね!』
『学校来んなっ!』
私はいじめられた。
机に落書き、上履きや教科書の紛失、水をかけられたり、ゴミを投げられたり………
ガキ特有の、ガキっぽいイジメ。
彼らにとって、いじめはストレス発散、もしくはブームだったのだろう。毎日飽きもせずに続けられた。
…別にどうってことはなかった。私にとっては。
幼いころからもっとレベルの高いイジメを受けていた私には、そんなのたいした問題でも無い。
平然と、無視していた。
―だが、いじめが学校側にバレて、
あの人が呼びだされた時は、本当に心臓が止まるかと思った。
――学校側の謝罪、いじめっ子の泣き声、そしてあの人の取り繕ったような声。
校長室の中、色んな音、会話が目の前で展開していくが、私はただ俯いて震えていることしかできなかった。―いや、静かに泣いていた。
役立たずな教師共がどう思っていたかは知らないが、それは、決していじめが辛かったからじゃない。
―こんな面倒事を起こして、後でどうなるか、分かっていたから。
―――案の定、予想通りになった。
「…全く、本当に忌々しい子ね!アタシの足ばっか引っ張って!!」
バキッ、ドゴッ
広いマンションの一室。何かを殴るような音がとめどなく響く。
―冷たい目で私を見下しながら暴力をふるう女はまさに、鬼だった。
私は何も言わずに耐えるしかない。
「いじめ、だって?確かに陰気なアンタみたいな子をいじめたがるガキの気持ちも分かるけど、こんな大事にまでするんじゃないわよ。アンタのために、わざわざ学校まで行かなきゃならないなんて!」
はあ、とオオゲサ気にため息をつく彼女。
――理不尽な。こんなとき親だったら普通、心配とかするもんじゃないの?
心の中に至極当然な疑問が浮かぶものの、私には発言権などないのだ。
…黙っているのが、利口。私は力なく地に伏せていた。
――ああ、思えばこの頃から、脳内で計算する癖がついていたのかもしれない。
しばらくすると彼女も疲れたのか、どっかりとソファに腰掛けた。
「…いい?今度またこんなことが起こったら、どうなるか分かってんでしょうね?」
そして、我が子に向かって脅迫だ。
―――サイテイな母親―――
そう思いながら私は黙って頷いた。