02
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*natsu side*
「……やられた。」
春先、引っ越して荷物を片づけた後、銀行のATM前で発した第一声。
自動ドアの前を陣取って立ちつくす私は、むしろ呆れかえったような声色でそう呟いた。
ああ、困ったことになった、とため息をつき、ちらりと手元の真新しい通帳を覗く。
――何度、通帳を見ても、振り込まれているはずのお金の数値が印字されていないのだ。
空白のページが私を嘲笑っているようだった。
振り込み忘れとか、振り込む通帳を間違えたとか、そんなありがちなミスはないだろうと確信している。私の一人暮らしを誰よりも心配してくれた義父は几帳面な性格だし、むしろ『おこづかい』とか言って何万か余計に渡してくれるような人だ。それはない。
つーことは。
「あの人の仕業、か…」
まあ、私の母である女のせいであるわけで。私はまた深いため息をついた。
―おそらくあの人は義父に私の学費と仕送り用にと、違う銀行の口座番号を教えたのだろう。
『私用』として昔作った口座を。
…つまり、今手に持っている新規で作ったこの通帳は、フェイク。
お金の出入りなどしない、彼女と私しか存在を知らないもの。
そして消えた学費と私の仕送りは――あの人の懐の中に入る。
……これは、あれだ。うん。嫌がらせ。というか、横取り。
家を出て行くときに彼女が『有効利用しとくわね』と鮮やかに笑っていた理由がやっと分かった。
まったく、随分と子供っぽい手にでたな、と乾いた笑いがこぼれる。
「…とりあえず、帰るか。」
しかしこの場に立ち止まっても事実は変わらない。
どうしようかなあ、と頭を悩ませながら私は入居したばかりの部屋へと帰った。
―家に戻り、大学に提出した書類のコピーを見ると、やはり学費の引き落とし先は私の持っていた通帳の口座番号とは違うものだった。
…予想がズバリ当たった、といったところか。
書類の記入や手続きを全部、あの人まかせにしてしまったことを今更になって後悔した。
――しかし、どうしよう。
食費、交通費等の生活費と、携帯代、教科書代……
家賃や光熱費等は義父の口座から引き落とされるので、自分が負担しなければならないものはざっとこんなところだが、生活費はともかく教科書代が痛い。
法学部では一年時に簡易版六法全書を買わなければならないと言われていたし、
その他の教科書も全部合わせてン万円はいくような……
「………。」
どう頑張っても自分一人の財力では無理、という現実に直面しちらり、と隅に放ってある鞄を覗く。
…携帯電話で『口座が違った』と義父に言えばすべて済むことだ。
人の良い義父はすぐに振り込んでくれるだろうし、相談に乗ってくれるだろう。
――だが。
「無理、だな。」
そんなことができるはずなかった。私にあの人が裏切れるはずがない。
それは、今も昔も全く変わらない事象で、あの人も私も十分に分かっていることだ。
大体、遠い場所で一人暮らしが許されて、学費も払ってもらえて、家族に応援されて…なんて、うまくいきすぎだったのだ。
ここらでそろそろ何かあるだろう、と思っていたところで、その意味では当然の結果ともいえる。
「まあ、なんとかなるでしょ。」
―最終的に、私は何も言わないことにした。仕送りがなくなったくらい、どうってことはない。
流石のあの人も、学費までは手を出さないだろうから大学には通えるし、一応今まで貯めておいた貯金が少しはあるし。
要するにバイトをしまくって生活費を稼ぎ、お金が無い時には食費でも削ればいい。
むしろあの人から逃げる代償としては少なすぎるくらいだ。
ようやく一人になれたのに早々に諦めてどうする、と自身を叱咤激励し、私はばさっとアルバイト求人誌を広げた。
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*seigo side*
「―というわけ。」
那津は普段と変わらない淡々とした口調で、最後まで語った。
動揺などは全く感じられず、いや、むしろ口を開けて分かりやすく動揺していたのは他の男二人の方で。しばらくして男のうちの一人――本城唯月はようやく口を開いた。
「つーことは…お前…」
「うん?」
「父さんからの仕送り、もらってないのか?」
「そうだね。」
「大学に入ってから一度も?」
「うん。」
「実家帰ってこないのは、リアルに金がないから?」
「そういうことだね。」
そこで、また沈黙が空間を支配する。
那津の全肯定にまたも唖然とし、絶句したように言葉が続かないお兄さん。
俺も、那津の話の意味を解釈するのにやたら時間がかかっていた。
―なんだよ、それ。母親から金を横取りされてる?…そんな、バカなことが。
「………お前ってやつは――」
―が、俺が口を出す前に、その体がわなわなと震えだし、
「馬鹿じゃねぇか!!?」
怒り狂ったような大きな声が、正面から飛び出した。
それは、まさに『怒声』と呼ぶのにふさわしいだろう、一瞬、衝撃波みたいなものが見えた気さえした。
尋常ではない、ものすごい気迫に俺は思わず耳を塞いだ。
「ちょ、大声出さないで。声が響く、響くから。」
「うるせぇ!何でそんな大事なこと俺に言わねぇんだよ!!
「だって絶対怒るでしょ、兄ちゃんは。」
「当たり前だッ!あの女、またお前のこと――」
「…兄ちゃん。」
那津はすっと目を細めて怒りをあらわにする男を見つめた。
その、ひやりとした空気に男はぴたりと動きを止める。
「いいんだよ、兄ちゃん。」
「いいって、そんな――」
「別に仕送りなんかなくても平気だったから、言わなかっただけだよ。そりゃ、少しは困った時もあったけど、なんとかなったし。」
「……っ、」
「元々義父さんにお金もらうの、申し訳ないと思ってんだよね。ちょうどよかったよ。」
「…那津……」
「――決めたのは、私だよ。口出し、しないでくれる?」
氷のような女の瞳が、熱くなった男の熱を急速に冷ます。
―那津は。笑っていなかった。
作り笑いすら、表情から消え失せていた。
「那津……」
息をのんだ男はそれきり黙り、那津の顔を見つめる。那津は少し目を伏せ、空気を吐き出した。
「話はそれだけ?ならもういいよ、帰って。」
「な、那津!」
「…忙しいのに、わざわざ来てくれてありがとう。」
そう言い残して立ち上がった彼女は振り返らずに玄関の方に出向く。
「おい那津!何処行くんだよ!」
そのまま俺の制止の声も聞かず、外に出て行ってしまった。
―全く、相変わらず、都合が悪くなるとすぐ逃げる!
俺はさっと立ちあがり、彼女を追おうとしたが、
「――待て。」
―その前に、お兄さんから声がかかって動きを止めた。
両者の双眸がかち合い、息を詰める。俺はその目が何やら複雑な色を含んでいたことに気付いた。
「でも、那津が……」
「…どうせすぐ頭を冷やして帰ってくる。あいつはいつもとりあえずその場から逃げるから。」
はあ、と深く息をつきながら腕を組む男。
―そうなのか。
ってことは昔からゼンゼン変わってないってことか?那津。
「―その前に、お前に聞きたいことがある。」
「…なんですか?」
…そのように言われては聞くしかない。
俺はしぶしぶ元のように腰を下ろし、彼の返答を待った。
「お前、那津の何だ。」
――それは、初めに俺がした質問と全く同じもの。
ああ、紹介が遅れていたかとその時初めて気付いた。どうなんだ、とばかりに睨みつけられ、苦笑する。
ま、それはそうだ。
そっちにとってみれば俺は妹の部屋に転がり込んでる怪しい男だ。
見た目より余程妹思いなこの男は、心配なのだろう。
―だが、休日の朝一緒に過ごす男。その正体の予想くらいはつくだろうに。
「俺は、那津の彼氏です。」
那津は多分『彼氏が出来た』とは家族に伝えていなかったのだろうが、別に俺が黙っている必要はない。あっさりと種を明かしてやった。




