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復讐の為に悪魔召喚をしたら、社畜がきた件

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/19

 夜の2時を回っても、私の机の上は減らなかった。


 右の山が、レオポルト殿下の演説原稿。10日後、殿下が騎士学校の卒業式で読むものだ。左の山が、領地の収支報告。父が月末に財務院へ出すことになっている。その奥に、義母が各貴族家に出す礼状が12通。義妹ミレーヌの、刺繍の課題。

 どれも、私の名前では出ない。


 夕食は、パンを半分かじったきりだった。もう半分は、原稿の重しになっている。


 インクが切れた。

 予備を取りに廊下へ出たとき、サロンの扉が少しだけ開いていて、笑い声が漏れていた。


「――本当に、よく働く子だこと」

 義母の声だった。

「便利よねえ。何を頼んでも、はいって言うんですもの」

「お姉様、わたくしの課題、もう3年もやってくださってるのよ」

 ミレーヌが笑った。

「先生に褒められるたびに、お姉様のお顔を思い出して、おかしくって」


 殿下の声もした。今夜は泊まっていくと聞いていた。

「あれは道具だ。よく切れる、便利な道具。妻にするには愚かすぎるが、手放すには惜しい」

「娘を褒めてくださって光栄ですな」

 父だった。

「いや、褒めておりませんぞ、公爵」

「おや、そうでしたか」


 四人の笑い声が、廊下に転がり出てきた。


 私は、インク壺を握ったまま立っていた。

 手の中で、蓋がかちかちと鳴っていた。


 7年。

 7年間、私は、家族のためだと思っていた。殿下のためだと思っていた。役に立てば、いつか誰かが「ありがとう」と言ってくれると思っていた。


 道具に礼を言う人はいなかった。


    ◇


 屋敷の地下には、曾祖父の代から鍵のかかった書庫がある。鍵は、父の書斎の二段目の引き出しに入っている。

 父の書斎の掃除も、私の仕事だったので知っていた。


 黒い革の本。表紙に、読めない文字。

 開いた頁に、悪魔召喚の儀式が載っていた。


 床に、指先を切った血で円を描いた。紋様を三重に。古い言葉を七つ。

 頁の最後には、こう書いてあった。


『呼ばれし者は、呼びし者の望みを叶える。その代価は、呼びし者の――』


 そこから先は、虫に食われて読めなかった。

 構わなかった。


「来なさい」

 声が震えた。

「地獄から来て。あいつらに、地獄を見せて」


 円が燃えた。

 紫の炎が天井まで噴き上がり、地下室の空気が裏返った。耳の奥で、何百人もの悲鳴みたいな音がした。


 炎の中に、影が立った。


 影は、ゆっくりと片膝をついた。

 両手で、小さな四角い紙を差し出した。


「お疲れさまです!」


 はっきりした声だった。


「田村と申します!本日から、こちらでお世話になります!」


 炎が消えた。

 黒い服の男が、そこにいた。上下とも同じ色の、妙にぴったりした服。白いシャツ。首に細い布を巻いて、結んでいる。目の下に、濃い隈。

 差し出された紙には、見たことのない文字が並んでいた。


「……あなた、悪魔?」


 男は、少し首を傾げた。


「前の職場では、よくそう言われておりました」


 悪魔だった。たぶん。


「我を呼びしは汝か、とか、言わないの?」

「失礼いたしました。お呼びいただいたのは、お客様でよろしかったでしょうか」

「……そう」

「ありがとうございます!それで、ご依頼内容を伺ってもよろしいでしょうか」


 私は、拳を握った。


「復讐よ。父と、義母と、義妹と、婚約者。四人に、地獄を見せて。私にしたことを、死ぬほど後悔させて」


 田村は、胸ポケットから小さな手帳を出した。何か書きつけた。


「承知いたしました!」


 即答だった。


「それではまず、現状の把握からまいりましょう。お嬢様が現在お持ちの業務を、すべて出していただけますか」

「……は?」

「業務です。お仕事。抱えていらっしゃるもの、全部」


 悪魔の最初の命令は、書類を全部出せ、だった。


    ◇


 地下室に、机を3つ運び込んだ。

 最初は私が運んだ。田村は、私が書類を抱えて階段を往復するたびに「ありがとうございます!」と言い、4往復目からは私の倍の量を抱えていた。


 机3つ分の紙の山を前に、田村は黙った。

 一枚ずつめくっていく。演説原稿。収支報告。礼状。刺繍の下絵。王宮の慈善式典の席次表。殿下が隣国の大使に出した手紙の、下書きの下書き。


 田村の肩が、震えはじめた。


「……これを」

 声が、かすれていた。

「これを、お一人で……?」


 目が、潤んでいた。


 私は、少しうろたえた。

 この人は泣いている。私のために。

 7年間、誰も言わなかったことを、この悪魔は言おうとしている。


「……そう。全部、私一人で」

「素晴らしい……!」


 ん?


「なんという生産性!なんという処理能力!しかもこの演説原稿、論点が3つに整理されている!お嬢様、ぜひ、うちのエースになってください!」

「同情じゃないの!?」

「同情ですか?なぜです?」


 田村は、心の底から不思議そうな顔をした。


「お嬢様は、これだけの業務を回せる方なんですよ。誇るべきです!」

「誇れないわよ!寝てないのよ私は!」

「それは……睡眠時間の管理も、業務のうちですね。後ほど一緒に見直しましょう」


 だめだ、この人。

 言葉は通じているのに、話が通じていない。


「それで、復讐はどうなるの」

「はい。こちらの業務の大半は、本来ほかの方の担当ですよね」

 田村は、山を指で仕分けていった。演説原稿は殿下の山。収支報告は父の山。礼状は義母の山。刺繍はミレーヌの山。

「まずは、これらを本来の担当者様に、お返しいたします」

「……返す」

「引き継ぎです!」


 満面の笑みだった。

 悪魔の笑みかどうかは、分からなかった。


 その夜、田村は一睡もしなかった。私が目を覚ましたとき、地下室の机の上には、4冊の冊子が並んでいた。表紙の色が、全部違う。父は紺、義母は紅、ミレーヌは桃、殿下は金。

『業務引継書』と、表紙にこちらの文字で書いてあった。昨日まで読めなかったはずの文字で。


「覚えました!一晩あれば、だいたいの言語は業務に支障がない程度になりますので!」


 田村の目の隈が、倍になっていた。


    ◇


 朝食の席には、四人がそろっていた。殿下も、まだいた。

 私が食堂に入ると、ミレーヌがくすっと笑った。私の目の下を見たのだと思う。


 その後ろから、田村が入ってきた。

 4冊の冊子を、銀の盆にのせていた。


「おはようございます!お食事中に失礼いたします。わたくし、本日付でクラリスお嬢様の案件を担当させていただきます、田村と申します。こちら、皆様への業務の引き継ぎ資料でございます」


 紺の冊子を、父の皿の横に置いた。

 父は、それを汚いものでも見るように見た。


「……クラリス。この男は何だ」

「悪魔よ。召喚したら、それが来たの」


 父が、鼻で笑った。

「くだらん。下男を雇う金があるなら、領地の帳簿でも」

「その領地の帳簿でございますが」

 田村が、にこやかに冊子を開いた。

「本来、当主である公爵閣下のご担当です。財務院への提出は月末。閣下のご判断が必要な箇所に付箋を貼ってございます。本日中にご確認を」

「誰に口をきいている」


 父が立ち上がった。

 椅子が、床をこすって鳴った。


「わしは、ハイネマン公爵だぞ。下郎が、当主に指図をするのか」

「はい。ご担当ですので」

「わしは公爵だと言っている!」

「存じ上げております。ですので、ご担当なのです」


 父の手が、田村の胸ぐらに伸びた。


「そんなに働きたければ、貴様がやれ!このわしが、仕事をくれてやると言っているんだ!」


 田村の顔が、ぱあっと輝いた。


「ご発注、ありがとうございます!公爵家様からの案件、確かに承りました!」

「は?」

「つきましては」

 田村は、胸ぐらをつかまれたまま、紺の冊子の32頁を開いた。

「受託者として、ご確認いただきたい事項が47点ございます。まず1点目、領地の小麦の売上が、去年より2割減っております。去年の秋、小麦の取引先を変えるご決裁をなさったのは、閣下ですよね」

「……覚えておらん」

「では、この決裁書の、この署名は」

「知らん!娘が勝手に書いたんだろう!」


 田村が、父の手首をそっと外した。

 胸ぐらを直した。首の布を、きゅっと締め直した。


 そして、顔を上げた。


「――知らんだァ?」


 声が、別人だった。

 大きいわけではなかった。低くて、平らで、逃げ道を一つずつ塞いでいくような声だった。


「てめえの判子だぞ。てめえの判子が押してある書類を、てめえが知らねえで誰が知ってんだ。娘か?娘が書いたのか?じゃあ娘が当主か?違うだろ。当主はどこのどいつだ!!」

「わ、わしだ!」

「聞こえねえ!!」

「わし……いや、私です!!」

「じゃあ誰の仕事だ!!」

「私の仕事です!!」

「その肩書きは飾りかァ!!」

「飾りではありません!!」

「なら判子を持てェ!!」


「はいっ!!」


 父の背筋が、伸びていた。手が、懐の印章入れを握っていた。

 五十年「わし」で通してきた父が、「私です」と言っていた。


 父は、自分の手を見下ろした。何が起きたのか分からない顔をしていた。私にも分からなかった。


 田村が、首の布をゆるめた。

 にこっと笑った。


「ありがとうございます!では、9時から決裁会議です。場所は大食堂をお借りします。お茶はこちらでご用意いたしますので!」


 ミレーヌが、スプーンを落とした。

 義母の扇が、半開きのまま止まっていた。殿下は、口に入れかけたゆで卵を、そのまま口の前で持っていた。


 父だけが、印章を握りしめて、会議の準備を始めていた。

 顔には「やりたくない」と書いてあった。体だけが、やる気だった。


 すごい。

 これが、悪魔。


 胸がすっとした。思わず、口が動いた。


「田村。義母と、ミレーヌにもやらせて」


 田村が、くるりとこちらを向いた。

「承知いたしました!それでは、前任者のお嬢様から、お二人へ引き継ぎ説明をお願いします!資料は紅と桃の冊子です。10時から、所要時間はおよそ2時間。質疑応答は無制限で!」


「……なんで、私まで」

「前任者ですので!」


 悪魔に救われるつもりだった。

 気がつくと、悪魔の部下になっていた。


    ◇


 9時。大食堂の長いテーブルは、書類の山で埋まっていた。

 上座に父。その横に義母とミレーヌ。下座に私。田村は、テーブルの周りを歩き回りながら、全員の前に紙を配っていた。自分の席はない。座る気がないのだと思う。


 父が、最初に手を挙げた。

「田村とやら。当主として命じる。この収支報告の残りは、ミレーヌに任せる」


「いいですわよ、お父様」

 ミレーヌは、軽く笑った。

「どうせ、お姉様がやるんですもの」


「いえ!今回は、ミレーヌ様ご本人のご担当でございます!」

 田村が、即座に言った。

「なぜ?」

「ご担当ですので!」

「だから、お姉様にやらせれば――」

「ご自分のお仕事を他人に押し付けるのは、感心いたしませんね!」


 ミレーヌが、私を見た。

 私は、紅茶を飲んだ。


 ミレーヌは、紺の冊子を受け取って、3頁めくった。

 4頁目で、手が止まった。

 5頁目で、唇がとがった。

 6頁目で、目に涙がたまった。


「……田村さぁん」

「はい、ミレーヌ様!」

「ミレーヌ、これ、全然分からないですぅ……」


 ぽろり。

 大粒の涙が、紺の冊子に落ちた。


 これは、ミレーヌの必殺技だった。家庭教師も、父も、殿下も、この涙で落ちた。宿題も、刺繍も、全部この涙で私のところに来た。


 田村が、ゆっくりとミレーヌの前にしゃがんだ。

 ハンカチを差し出した。


「ミレーヌ様。泣くほど、悔しいんですね」

「……え?」

「分からないことが、泣くほど悔しい。素晴らしい向上心です!その気持ち、買います!では、理解を深めるために、関連する業務もあわせてお任せいたしますね!小麦の取引先の比較表と、来季の作付け計画です!」


 ミレーヌの前に、紙が倍になった。

 ミレーヌは、ハンカチを握ったまま、紙の高さを目で測っていた。


 私は、紅茶のカップで口元を隠した。

 だめだ。笑ってしまう。3年分の刺繍の課題が、今、利子をつけて返っていく。


 気がついたら、口が動いていた。


「ねえ、田村。その子、もっと厳しく教えてあげたら?」


 ミレーヌが、信じられないものを見る目で私を見た。


「承知いたしました!」


 田村の顔が、輝いた。


「では、ミレーヌ様の育成計画を強化いたします!毎朝の小テスト、毎晩の復習、週末の実地研修!」

 田村は、手帳に何か書きつけた。

「つきましては、教育係はお嬢様にお願いいたします!」


「……はあ!?」

「最も経験豊富な方が適任ですので!ミレーヌ様の課題を3年間、代わりに処理してこられたのは、お嬢様ですから!」

「せっかく押し付け返したのに!」

「小テストの作成と、採点と、毎晩の復習の付き添いをお願いいたします!」


 ミレーヌが、涙の跡の残る顔で、にやっと笑った。


「お姉様、よろしくお願いしますわね」


 私は、テーブルに額をつけた。

 私が余計なこと言ったせいじゃない。


    ◇


 義母が、扇を閉じた。

 食堂には、使用人たちも控えている。娘が泣いていた。人前で母親が知らん顔をするわけにはいかない。


「まあ、ミレーヌ。お母様が手伝ってあげますからね」


「ありがとうございます!」

 田村が、義母より深く頭を下げた。

「母娘での共同業務体制、大変心強いです!では、イザベラ様には作付け計画の副担当として、まず倉庫の小麦袋の数量確認をお願いいたします!」


「……数量、確認?」

「はい!去年の在庫が、帳簿と240袋ずれております。実物を数えるのが一番早いかと!」


 義母は、倉庫に入ったことがない。

 小麦袋を数えるのは、いつも下男の仕事だった。下男に命じるのは、いつも私の仕事だった。


 昼過ぎ、私は倉庫の入口から、義母を見ていた。

 絹のドレスの裾を片手で持ち上げて、小麦袋の山の前に立っていた。下男たちが、遠巻きにそれを見ていた。誰も手を出せなかった。義母が「わたくしがやります」と言ってしまったからだ。


「ひゃく……ひゃくさんじゅう……」

 義母の声が、震えていた。笑顔だった。笑顔のまま、粉まみれだった。


 ちょっとだけ、すっとした。

 ちょっとだけ、声を出して笑った。


「お嬢様、楽しそうですね!」

 背後に、田村がいた。

「では、イザベラ様の検品の立ち会いと、数量の記録をお願いいたします!」

「なんでよ!」

「楽しそうでしたので!」


 夕方、私は倉庫の中で、義母の数えた数を帳面に書いていた。

 義母は3回数え直した。私は3回書き直した。


 大食堂に戻ると、父が手を挙げた。

「クラリス。この、『輪作』とは何だ」

 説明した。

 自分の席に座った。ミレーヌの小テストを作りはじめた。

「クラリス。この、『小作料』とは」

 説明した。

 座った。

「クラリス。この、『麦』とは」

「それは知ってるでしょ!!」


 父は、領地の帳簿を一度も読んだことがなかった。

 その帳簿を、一頁ずつ、私が説明する仕事が増えた。


    ◇


 翌日、ミレーヌが反撃に出た。


「田村さん!見てくださいませ!」


 差し出したのは、厚い報告書だった。表紙に『ハイネマン領・水路改修に関する考察』。去年の春、私が3晩かけて書いたものだ。去年の秋、ミレーヌの名前で学園に提出されて、優秀賞をもらっていた。


「わたくし、ちゃんとできるんですのよ。これ、わたくしが書いたんですの」


 ミレーヌは、ちらりと私を見た。

 勝ち誇った目だった。


 田村が、報告書を受け取った。一枚ずつ読んだ。

 読み終えて、顔を上げた。


「これを、ミレーヌ様が!」

「ええ!」

「素晴らしい……!特にこの、上流の堰の改修案!」

「でしょう?」

「では、実施をお願いいたします!」


「……え?」


「これだけの計画を書かれた方が、実施をご担当にならない理由がありません!水路の改修、来月着工でいかがでしょう。作業員の手配と、資材の見積もりと、上流の村との調整を!」


 ミレーヌが、私を見た。

 私は、紅茶を飲んだ。


「お、お姉様が、手伝ってくださるわよね?」

「あら。あなたが書いたんじゃなかったの?」


 ミレーヌの口が、ぱくぱくした。


「なお、お嬢様は教育係ですので、ミレーヌ様の実施計画の添削をお願いいたします!」

「結局、私に来るんじゃない!!」


    ◇


 その翌日、義母が動いた。


「クラリス。午後に、ブランシュ侯爵夫人をお招きしたわ。あなたも、田村とやらも、同席なさい」


 ブランシュ侯爵夫人。社交界で一番声の大きい方だ。この方が「あの家は品がない」と言えば、その家は1年間、どの夜会にも呼ばれなくなる。

 義母の狙いは分かった。侯爵夫人に田村を無礼な下男だと言わせて、社交界の評判で父を動かし、田村を追い出させるつもりだ。


 午後。客間に、侯爵夫人がいらした。


「まあ、イザベラ様。お噂の、悪魔ですって?」

「ええ。ご覧になって。この男が、我が家を好き放題に」


 田村が、一礼した。

「田村と申します。侯爵夫人様、来月の慈善バザーの会場は、こちらの南庭でございますね」

「……ええ。なぜご存じ?」

「お嬢様の引き継ぎ資料にございましたので」


 田村は、手帳を開いた。


「南庭は、入口が1つしかございません。昨年は正午の時点で入口に200人の列ができ、ご婦人が3人倒れたと記録にあります。そこで、ご提案なのですが」


 田村は、テーブルのナプキンに、さらさらと図を描いた。

 入口を2つ。屋台を4列。休憩所を木陰に。寄付の受付を出口側に。


「お楽しみいただいたあとのほうが、皆様、お財布を開きやすいかと存じます」


 侯爵夫人が、ナプキンを手に取った。


「……素晴らしいわ」


 義母の扇が、ぴたりと止まった。


「わたくし、毎年あの入口で頭を抱えていたのよ!ああ、これなら!」

 侯爵夫人が、義母の手を取った。

「イザベラ様!そういえば5年前のお茶会で、おっしゃっていたわね。『来年のバザーは、わたくしが仕切りますわ』って!」


 義母の顔が、凍った。


 覚えている。5年前、義母はたしかにそう言った。そして翌日、その仕事を私に回した。それから5年間、バザーの準備は全部私がやってきた。侯爵夫人には「イザベラ様のお心遣いで」と伝えて。


「5年間、陰で動いてくださって、本当にありがとう。さすがイザベラ様だわ」

「い、いえ、わたくしは」

「今年はぜひ表に出て、共同委員長をお願いしたいわ!この、田村さんの案で!」


 相手はブランシュ侯爵夫人だった。断れば、5年分の手柄が嘘だったことになる。


「……光栄ですわ」


「ありがとうございます!」

 田村が、深々と頭を下げた。

「では、イザベラ様には、全出店者42件への直接のご連絡もお願いいたします!ご挨拶状と、出店場所の地図と、搬入時刻のご案内を、お一人ずつ!」


 義母は、笑顔で頷いた。

 笑顔のまま、扇の骨が一本、ぱきっと折れた。


 私は、扇の折れる音を、少しだけいい音だと思った。


「クラリス様も、手伝ってくださるのでしょう?」

 侯爵夫人が、私に微笑んだ。

「5年間、イザベラ様の陰で、ずっとそうだったんですもの」


 え。


「それはいい!」

 田村が、手を打った。

「では、お嬢様には、会場準備の確認役をお願いいたします!テント32張り、椅子400脚、案内板18枚!」

「なんで私の仕事が増えてるのよ!!」


 侯爵夫人が帰ったあと、義母は客間のソファに座ったまま、1時間動かなかった。

 私は、その隣で椅子の数を数えていた。


    ◇


 3日目の夜、父が爆発した。


 大食堂のテーブルに積まれた決裁箱は、7つになっていた。ミレーヌの水路計画。義母のバザーの予算。作付け計画。収支報告。全部、最後は父の判子が要る。


「田村!貴様は、解雇だ!今すぐ出ていけ!」


「恐れ入ります」

 田村は、丁寧に頭を下げた。

「わたくしの人事に関する権限は、本案件の依頼主である、クラリスお嬢様にございます」


 父が、ぐるりとこちらを向いた。

「クラリス!この男を解雇しろ!」


 ここで解雇すれば、全部私のところに戻ってくる。父の判子も、義母のバザーも、ミレーヌの水路も。

 冗談じゃない。


「いやよ。私の悪魔よ。私が決めるわ」


 父の顔が、紫色になった。

 生まれて初めて、父に「いや」と言った。気持ちがよかった。


「ありがとうございます、お嬢様!」

 田村が、晴れやかに言った。

「人事権者が、明確になりましたね!それでは、お嬢様には人事部長も兼任していただきます!全員の業務量の調整と、勤怠の確認と、明日の配置表の作成をお願いいたします!」


「……人事部長?」

「人事権がございますので!」


 配置表を書いた。書き終えた。ペンを置いた。

「お嬢様!ミレーヌ様の小テストの採点がまだです!」

 採点した。終えた。ペンを置いた。

「お嬢様!イザベラ様が、出店者42件の住所が分からないと!」

 住所録を出した。渡した。座った。

「クラリス。この、『堰』とは何だ」

「明日にして!!」


「さて」

 田村が、最後の一冊を手に取った。金色の表紙。

「では、明日はこちらに伺いましょう!」


 殿下の冊子だった。

 殿下は、あの朝食のあと、ゆで卵を置いて、王宮へ逃げ帰っていた。


    ◇


 王宮の門は、私の通行証で通れる。殿下の公務を代わりに運ぶために、3年前に作られた通行証だった。


「お嬢様の秘書の、田村です!」


 衛兵は、何も聞かなかった。


 殿下の執務室の机の上には、何もなかった。

 殿下は、窓辺で紅茶を飲んでいた。


「……クラリス。それと、貴様か」

「おはようございます、殿下!殿下の公務の、引き継ぎ資料でございます」


 殿下は、冊子を受け取りもしなかった。

「婚約者である私の補佐がクラリスの仕事だろう!クラリスにやらせておけ!」

「恐れ入りますが、殿下。騎士学校の卒業式の演説、隣国への書簡、王立病院の視察報告。いずれも、殿下のお名前で提出されるものでございます」

「だから何だ」

「殿下の、お仕事です」


 殿下が、笑った。

「貴様、誰に向かって口をきいている。わたしは第一王子だぞ。気に入らなければ、貴様の首など、すぐにでもはねられる」


「承知いたしました!」


 田村が、すっと紙とペンを差し出した。


「では、処刑命令書の作成をお願いいたします!」


「……は?」


「わたくしの首をはねるのでしたら、正式な書類が必要かと存じます。口頭では、のちに問題になりますので!」


 殿下が、ペンを取った。

 紙の一番下に、自分の名前を書いた。


 それで終わりだった。紙の上には、殿下の署名しかなかった。


 田村の首の布が、きゅっと締まった。


「――白紙に署名して、何をはねるつもりだ貴様ァ」


 低い声だった。


「罪状はどこだ。執行日はどこだ。執行者は誰だ。王族の名前で人を殺す書類に、てめえは名前しか書かねえのか。誰かが勝手に罪状を書き足したら、てめえの名前で誰でも殺せるんだぞ。わかってんのか」

「わ、わたしは」

「その署名は、何のためにあるんだ!!」

「王族の、責任のためだ!」

「なら責任を持って書けェ!!」


「はいっ!!」


 殿下が、背筋を伸ばして返事をした。

 返事をしてから、自分の口を押さえた。


 田村が、敬語に戻った。

「では、書式からご説明いたしますね!まず宛先です。近衛騎士団長様あてになります。次に罪状です。わたくしの罪状は何でしょう?」

「……王族への、不敬だ」

「では、不敬の具体的な内容を。日時と、場所と、発言を」

「今日、ここで、貴様が」

「今、何時でしょう」

「……10時、くらいだ」

「正確な時刻を、お願いいたします!」


 殿下は、壁の時計を見に立った。


 1時間後、殿下はまだ書いていた。罪状の欄で3回書き直し、「口答え」の定義を聞かれて、法典を引きに書庫まで行った。

 2時間後、執行日が王国の祝日と重ならないように、暦を確認していた。

 3時間後、印章の位置を間違えて、最初から書き直していた。


「殿下、素晴らしい集中力です!」

「黙れ!!」


 昼過ぎ。殿下は、完成した処刑命令書を、震える手で差し出した。

 生まれて初めて、一人で最後まで書いた公文書だった。


 田村が、一枚目から丁寧に読んだ。

「……大変よくできております!」


 殿下の顔が、一瞬、ほころんだ。


「では、こちらを騎士団長様にお届けする前に、本日の公務を片づけてしまいましょう。演説原稿と、隣国への書簡と、視察報告です!」

「待て。処刑は」

「わたくしの処刑は、公務のあとでも逃げませんので!」


 殿下は、処刑命令書を握ったまま、机に突っ伏した。


    ◇


 殿下の演説原稿は、ひどかった。

 一行目が「諸君」で始まり、二行目が「わたしは」で、それから30行、殿下の話だった。卒業生の話が、一つもなかった。


「殿下。こちら、主語が全部『わたし』でございます」

「わたしの演説だぞ」

「卒業生への祝辞でございます」

「そんなに言うなら、貴様が手本を書け!」

「ご発注、ありがとうございます!王宮様からの案件、確かに承りました!」


 田村は手本を書いた。殿下に写させた。写したものを読ませた。読めなければ、また書かせた。


 殿下が「次期国王に向かって」と言うたびに、田村は目を輝かせた。

「次期国王でいらっしゃるなら、祝辞の一本くらいは!」

「次期国王でいらっしゃるなら、隣国への書簡は3か国語で!」

「次期国王でいらっしゃるなら、視察報告に病床の数くらいは!」


 殿下は、だんだん「次期国王」と言わなくなった。


「お嬢様!殿下の書簡、3か国語分の確認をお願いいたします!婚約者でいらっしゃいますので!」

「婚約者って、そういう仕事だったかしら……」

「そういう仕事でございました!7年間!」


 反論できなかった。


 夕方、殿下がペンを置いた。

「……田村。わたしには、もっと大事な務めがある。王族には、こういう細かい仕事より、ずっと大事な務めがあるのだ」


「承知いたしました!では、その『大事な務め』も、業務一覧に追加いたします!具体的には?」


 殿下が、固まった。

 何も考えていなかった顔だった。


「……く、国の、未来を、考えることだ」

「素晴らしい!『国の未来を考える会議』、毎朝5時からでよろしいでしょうか!議題は、殿下に毎回3つご用意いただくということで!」

「5時!?」

「お昼からですと、ほかの公務と重なってしまいますので!議事録は、お嬢様にお願いいたします!」

「なんで私が5時に起きるのよ!!」

「起きる必要はございません!寝ないので!」


    ◇


 翌日、殿下は最後の手段に出た。


「父上に、お会いする。この男を国外に追放していただく」


 謁見の間。玉座に、国王陛下が座っていらした。

 私も同席した。婚約者として、殿下の後ろに控える決まりだった。


「父上!この男は、わたしに不当な労働を」

「陛下」


 田村が、殿下の横で一礼した。


「殿下の業務をお手伝いしております、田村と申します。本日は、殿下がご自身の業務計画をご報告なさりたいとのことで、資料をお持ちしました」


 殿下が、田村を見た。そんなことは一言も言っていない、という顔だった。


「殿下は、この2日間で、騎士学校への祝辞を12回書き直されました。隣国への書簡は、3か国語でご準備中です。王立病院の視察報告には、全病床の数と、必要な薬の量まで記載されました。さらに、毎朝5時から、『国の未来を考える会議』を開くと、殿下ご自身がご発案なさいました。『王族には、もっと大事な務めがある』と!」


 全部、本当のことだった。一つも、嘘はなかった。


「レオポルト……」

 陛下の声が、震えていた。

「お前が、ここまで、やる気になってくれるとは……!」

「ち、父上、違うのです、わたしは」

「謙遜するな!」


 陛下が、玉座から立ち上がった。目が潤んでいた。

「よし。そこまでの覚悟があるなら、任せよう。来月の建国祭、その全運営を、お前に一任する!」

「えっ」

「余は、うれしいぞ!」


 殿下は、国外追放を頼みに来て、王国最大の行事を持ち帰った。


 帰りの廊下で、田村が上機嫌に手帳をめくった。


「建国祭まで、あと32日です!王宮で進めるより、公爵家の大食堂を作業本部にしたほうが効率的かと存じます。お嬢様、配置表に加えておいてください!」

「加えておいてください、じゃないわよ……」

「人事部長でいらっしゃいますので!」


 こうして、殿下も公爵家の大食堂に住み込むことになった。

 私の配置表に、一行増えた。


    ◇


 7日目の夜。誰も寝ていなかった。


 正確に言うと、誰も眠くならなかった。

 大食堂の時計が3時を打った。父は決裁箱の前に座っていた。義母は出店者への挨拶状を書いていた。ミレーヌは水路の図面を書いていた。殿下は、建国祭の式次第を写していた。

 体は、ちゃんと動いていた。目も、ちゃんと開いていた。


 ただ、顔が死んでいた。


 父は、決裁箱のふたを開けるたびに、小さく「ひっ」と言った。

 義母は、笑顔のまま、挨拶状の上に涙を一粒落としていた。笑顔の練習を20年してきた顔は、泣いていても笑っていた。

 ミレーヌは、窓から逃げようとしていた。窓枠に片足をかけたところで、手が勝手に図面の続きを書きはじめ、片足を窓にかけたまま、器用に水路の断面図を描いていた。

 殿下は、式次第の余白に、小さな字で何か書いていた。


 田村が、それを拾った。

「殿下、こちら、『王族をやめたい』の『族』の字が違っております!」

「添削するな!!」


 私の前には、殿下の隣国への書簡があった。3か国語で、3枚。確認の判を押すのが、私の仕事だった。


 一枚目の、真ん中の一文で、ペンが止まった。


『貴国の王女殿下は、肖像画では少々残念なお顔立ちでしたが、実物は見違えるほどお美しいと伺っております』


 会ったこともない王女を、肖像画ごとけなしていた。


 私は、殿下を見た。

 殿下は、余白に「やめたい」をもう一度書いていた。


 ――恥をかけばいい。


 私は、確認の判を押した。

 7年分の演説原稿の、ほんの少しのお返しだった。


「お嬢様、確認済みですね!早馬で発送いたします!」

 田村が、書簡をさらっていった。


    ◇


 5時少し前。

 父が、ミレーヌの水路計画の予算書に判子を押した。


 押した瞬間、田村の手が止まった。


「……閣下」

「なんだ」

「こちら、橋の本数が、10本になっております」


 父が、予算書を見た。

 ミレーヌの計画では、橋は「1本」だった。その「1」の横に、父のペンが、勝手に「0」を書き足していた。


「10本」


「……眠くないのに、頭が回らん」

 父は、ぼんやりと言った。

「取り消せ」


「いえ、閣下」

 田村の目が、輝いていた。

「せっかく、10本分の計画がございます!」

「は?」

「先ほど地図を確認いたしましたら、ちょうど10か所、橋があれば村同士の行き来が半日短くなる場所がございます!これは、閣下のご英断です!」

「英断ではない、間違いだ!取り消せ!」

「すでに、各村へ告知の早馬を出しました!」

「いつ!?」

「3秒前に!」


 窓の外で、馬の蹄の音が遠ざかっていった。


「一つ目の村では、もう村長様が、祝いの酒樽を開ける準備をしていらっしゃるかと!」


 父は、判子を握ったまま、天井を見上げた。

 領主が自分で約束した橋を、翌日に取り消す。そんなことをした領主が、どうなるか。父も、知らないわけではなかった。


 5時。

 殿下が、のろのろと立ち上がった。

「……国の未来を、考える会議の、時間だ」


 自分で言って、自分で絶望していた。


 議題の一つ目は、隣国への書簡だった。

 田村が、控えを読み上げた。

「『貴国の王女殿下は、肖像画では少々残念なお顔立ちでしたが、実物は見違えるほどお美しいと伺っております』」


 大食堂が、凍った。


「殿下、こちらは、肖像画も王女殿下も侮辱しております」

「褒めたつもりだった!!」

「4時に、早馬で発送いたしました」

「なぜ止めなかった!」

「確認済みの判がございましたので!」


 田村が、書簡の控えの、判のところを指さした。

 全員が、判を見た。

 それから、全員が、私を見た。


「……眠かったのよ」

「眠くはないはずだ!」

 殿下が叫んだ。

 そうだった。


 田村が、すぐに手帳を開いた。

「謝罪の使節を出しましょう!殿下ご自身で!往復で12日です!謝罪文は3か国語で、確認担当はお嬢様に引き続きお願いいたします!」


「私が見逃したせいじゃない!!」


 殿下が、机に額を打ちつけた。

 ごん、と鳴った。痛そうだった。でも、眠くはなさそうだった。


    ◇


 東の窓が、白くなってきた。


 7日間、一睡もしていなかった。それなのに、誰も倒れなかった。倒れられなかった。


 田村が、上着の内ポケットから、小さな瓶を出した。

 王宮の薬師が売っている、回復のポーションだ。普通は、戦場で騎士が飲むものだった。


 田村は、その栓を親指で弾いた。

 腰に手を当てて、一気に飲み干した。


「――っはあ!」


 空き瓶を、テーブルに置いた。こん、といい音がした。

 そして、全員に向かって、満面の笑みで言った。


「さあ、本日も頑張ってまいりましょう!」


 全員が叫んだ。

 父も、義母も、ミレーヌも、殿下も、私も。


「次の会議は、7時からです!」


 もう一度、叫んだ。


    ◇


「あんた、何なのよ!」


 私は、田村の首の布をつかんでいた。

 いつ立ち上がったのか、覚えていなかった。


「なんで誰も眠くならないの!なんで、みんな怒鳴られたら返事しちゃうの!あんた、何かしてるでしょ!」


「ああ、はい」

 田村は、首をつかまれたまま、あっさり答えた。

「召喚していただいたとき、頭の中に声がしたんです。能力を2つ、授けるとか何とか」

「早く言いなさいよ!」

「業務に関係あるとは思わなかったので!」


 田村は、指を一本立てた。

「1つ目が、『24時間働けますよ!』です。わたくしがお仕事を割り振った方は、そのお仕事が残っている限り、眠らなくても体が動きます!ただ、精神的な心の疲れは、どんどん溜まっていくそうです!」


 大食堂を見回した。

 心の疲れが、全員の顔に溜まっていた。


「2つ目が、『歩く労基違反』です」

「名前がもう罪状じゃない!!」


「わたくしが厳しく指導すると、相手の方が、なぜか従ってくださるんです。指導が理不尽であればあるほど、よく効くそうです。お気持ちまでは変わらないので、皆様、不満はおっしゃれますよ!」

「犯罪の匂いしかしない!!」

「便利ですよね!」

「便利って言うな!!」


 父が、テーブルの向こうで、ぼそりと言った。

「……では、私たちは、操られていたのか」

 一人称は、まだ戻っていなかった。


「いいえ、閣下!体が従うだけで、お気持ちは自由です!ご自分のお仕事をご自分の手でなさっていたのは、閣下ご自身です!」


 父は、何か言い返そうとして、やめた。


「むしろ、安心してお仕事に集中できますね!」

「安心できるか!!」


 四人と私の声が、また、そろった。


    ◇


 7時の会議の前に、私は田村を地下室に引っぱっていった。

 最初に、田村を呼んだ部屋だ。床の魔法陣は、まだうっすら残っていた。


「こんなの、私が望んだ復讐じゃない」


 たしかに、あいつらは苦しんでいる。父は判子を見ただけで泣くし、義母は笑ったまま泣くし、ミレーヌは窓に足をかけたまま図面を書いているし、殿下は王族をやめたがっている。

 望んだとおりだった。

 なのに、私も7日寝ていなかった。教育係で、検品係で、人事部長で、議事録係で、確認係だった。


「なのに、あんたは楽しそうで」

「はい!楽しいです!」

「知ってるわよ!!」


 田村は、少し首を傾げた。

 それから、珍しく、静かな声で言った。


「お嬢様。では、何をもって、復讐の完了とするのでしょうか」


 答えられなかった。

 四人は泣いた。苦しんだ。7年は、返ってこなかった。


「……どうしたら、あいつらは、本当に後悔するの」


「お嬢様が、幸せになることです」


 田村は、すぐに答えた。

 からかっている顔ではなかった。


「道具だと思っていた方が、自分たちの手の届かないところで、楽しそうに暮らしている。あの方々にとって、それ以上の罰はございません」


 喉の奥が、熱くなった。

 この人は、ときどき、こういうことを言う。


「……田村。あんた、たまには、まともなこと」


「そして、幸せとは、やりがいのある仕事です!」


 え。


「やりがいのある仕事に、朝から晩まで、いえ、朝から朝まで打ち込める!これ以上の幸せはございません!お嬢様にはその才能がおありです!さあ、一緒に幸せになりましょう!レッツワーク!」


「そんな幸せ、いらないわよぉぉ!!」


    ◇


 7時。大食堂。

 四人が、そろって上座に立っていた。7日ぶりに、全員が同じ方向を向いていた。


 父が、一歩前に出た。目の下が、真っ黒だった。でも、目だけが光っていた。


「田村。それから、クラリス」


 父は、紙を一枚掲げた。


「クラリス・フォン・ハイネマン。本日をもって、お前を勘当する」


 殿下が、続けた。

「それに伴い、わたしとクラリスの婚約も、破棄する」


 義母が、扇を開いた。骨の折れた扇だった。

「田村さん。あなたは、クラリスに呼ばれて来たのでしょう?依頼主がこの家の娘でなくなれば、あなたがこの家にいる理由もないわね」


 ミレーヌが、胸を張った。

「お姉様と一緒に、出ていってくださいな!」


「それから、田村」

 父が言った。声が、7日ぶりに、公爵の声だった。一人称も、戻っていた。

「わしが貴様に頼んだ仕事も、全部取り消す。もう二度と、この家に来るな」

「王宮にもだ」

 殿下が言った。

「二度と、わたしの前に顔を見せるな」


 四人の顔に、笑みが広がっていった。

 7日間かけて、ようやく見つけた出口だった。


 勘当。婚約破棄。

 この家を出たら、私には何もない。名前も、居場所も、明日食べるパンも。


 足元が、少しだけ揺れた。


「――承知いたしました!」


 隣で、明るい声がした。

 田村が、深々と頭を下げていた。


「公爵家様、王宮様。ご契約の打ち切り、確かに承りました!短い間でしたが、大変お世話になりました!」


 四人が、顔を見合わせた。

 拍子抜けした顔だった。


「つきましては、ご精算の手続きに入らせていただきます!」


 田村が、上着の内ポケットから、紙の束を出した。

 最初の夜、地下室で、田村が書類の山を仕分けながら作っていた台帳だった。


「まず、わたくしの分です。閣下は『そんなに働きたければ、貴様がやれ』と。殿下は『ならば貴様が手本を書け』と。確かにご発注をいただきました。受託業務の未精算分と、契約打ち切りに伴う退職金を」


 父と殿下が、同時に、自分の口を押さえた。


 田村は、一枚目の紙をテーブルに置いた。

 それから、二枚目を、その横に置いた。


「そして、こちらは別件です。クラリスお嬢様が、この7年間、皆様に代わって処理された業務の一覧と、お嬢様への清算金でございます。演説原稿が312本。礼状が1,400通。収支報告が84回。刺繍の課題が、3年分。王宮書記官の給金で換算いたしました」


 四人が、二枚目の紙の、一番下の数字を見た。


 ミレーヌが、小さく悲鳴を上げた。


「ふ、ふざけるな!」

 父が、テーブルを叩いた。

「そんな金を払う義務はない!法のどこに、そんなことが書いてある!」


「承知いたしました!」


 田村は、即座に答えた。

 笑顔だった。


「では、未精算の案件がございますので、引き続き、こちらで勤務させていただきます!お支払いが済むまで、毎朝5時に出勤いたします!閣下の決裁箱も、殿下の会議も、引き続きご一緒に!」


「払う!!」


 父が叫んだ。


「いくらだ!今すぐ払う!」


「王宮の分も払う!!」

 殿下が、父より大きい声で叫んだ。

「全額だ!今日中に!ペンを貸せ!」


 二人は、田村が差し出した支払い証書に、奪い合うように署名した。

 殿下の署名は、処刑命令書のときより、ずっと速かった。


「こちら、退職合意書でございます。ご署名を」


 父は、読まずに署名した。殿下も、読まずに署名した。

 一番下に、小さな字で一行あった。


『なお、再契約の際は、本精算額の3倍を申し受けます』


 誰も、読んでいなかった。

 私だけが、読んだ。


    ◇


 昼前、私は、自分の荷物を一つの鞄にまとめた。

 7年住んだ部屋なのに、持っていきたいものは、鞄の半分にもならなかった。地下室の黒い本だけ、最後に鞄の底へ入れた。


 玄関に、四人が並んでいた。見送りではない。本当に出ていくか、確かめに来たのだと思う。


 田村が、四人の前に立った。


「では、最後に、残務の引き継ぎをさせていただきます!」


 四人の顔が、引きつった。


「お引き受けいただいた業務は、わたくしたちが退職いたしましても、そのまま残りますので」


 田村は、手帳を開いて、明るく読み上げた。


「建国祭の全運営。陛下のご命令です。あと29日です」

 殿下の顔から、色が消えた。

「隣国への謝罪使節。殿下ご自身がご出発です。往復12日です」

 殿下が、壁に手をついた。

「慈善バザー。ブランシュ侯爵夫人とのお約束です。出店者42件です」

 義母の扇が、床に落ちた。

「水路の改修。来月着工です。上流の村には、ミレーヌ様のお名前で告知済みです」

 ミレーヌが、膝から崩れた。

「橋、10本。一つ目の村では、もう祝いの酒樽が空いたそうです」

 父が、目を閉じた。

「それと、毎朝5時の『国の未来を考える会議』。陛下が大変お喜びで、来週からご自身もご出席なさるそうです!」


 殿下が、その場に座り込んだ。


「なお、『24時間働けますよ!』は、お仕事が残っている限り有効です。皆様、眠らずに働けますので、どうぞご安心ください!」


「……田村」

 父が、かすれた声で言った。

「その……やはり、もうしばらく……」


「再契約でございますか!合意書のとおり、先ほどの精算額の3倍で、喜んで承ります!」


 父が、合意書の写しを見た。

 一番下の、小さな一行を見た。何も言わなかった。


「……逃げれば」

 ミレーヌが、震える声で言った。

「全部放り出して、逃げれば」

「建国祭を放り出したら、父上のお怒りを買う」

 殿下が、床に座ったまま言った。

「バザーを放り出したら、二度と社交界に出られないわ」

 義母が、扇を拾いもしないで言った。

「橋を放り出したら、10の村が押しかけてくる」

 父が、目を閉じたまま言った。


 四人とも、よく分かっていた。

 7年間、それを全部、私がやっていたのだから。


「それでは皆様!お世話になりました!ご健勝と、ご多忙をお祈り申し上げます!」


 田村が、玄関の扉を開けた。

 秋の風が、吹き込んできた。


 馬車が門を出るとき、振り返ると、大食堂の窓に灯りがついていた。

 まだ昼だった。

 たぶん、今夜も消えない。


    ◇


 王都を出て、街道を半日走った。


 膝の上の袋が、重かった。金貨の重さだった。7年分の重さだった。誰にも渡さなくていい、私だけの重さだった。


 窓の外を、知らない領地の麦畑が流れていった。

 今日の予定が、何もなかった。明日の予定も、何もなかった。

 胸の真ん中が、ぽっかりと軽かった。


「そういえば、お嬢様」

 向かいの席で、田村が手帳を開いた。

「召喚の本の、虫食いの部分ですが。王宮の書庫に、同じ本の写本がございました」

「……いつ調べたのよ」

「殿下が処刑命令書の法典を引きに行かれたとき、ご一緒に!」


 田村は、手帳の頁を読み上げた。


「『その代価は、呼びし者の抱える全て』だそうです」


 私は、膝の上の袋を見た。

 家族の仕事。殿下の仕事。7年分の仕事。全部、持っていかれていた。


「……ちゃんと、払っていたのね。私」

「はい!確かに、頂戴いたしました!」


 田村は、手帳の頁をめくった。

「それで、お嬢様。次の職場は、どちらでしょう!」

「ないわよ。もう仕事なんてしないの」

「では、今後のご予定は?」

「世界を見て回るの。あんたと一緒にね」


 田村の顔が、ぱっと輝いた。


「なるほど!各国に、王家と公爵家の支店を展開するのですね!」

「勘当されたって言ってるでしょ!それに、他国で勝手にそんなことしたら戦争になるわよ!」

「では、海外視察ですね!」

「だから仕事から離れなさい!!」


 私は、袋を抱え直した。

 窓の外の麦畑が、金色に揺れていた。


「私とあんたの次の仕事はね」

「はい!」

「仕事以外で、幸せを探すことよ」


 田村は、手帳に大きな字で『幸せ』と書きつけた。

 そして、顔を上げて、いつもより、柔らかめな笑みで言った。


「かしこまりました!必ず、ご期待以上の幸せを納品いたしますね」

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― 新着の感想 ―
面白い!!呼び出した本人も楽になるどころか仕事増えてるのもすきww無茶苦茶で理不尽で正に悪魔の契約ですね!
直接AIの帳簿ものなのに、しっかり面白く読めました!やはりこの作者さんはコメディ寄りにするのが上手いなぁ
最高に面白い!シリーズ化して下さい!
2026/10/21 10:28 コペルニクスの使徒
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