復讐の為に悪魔召喚をしたら、社畜がきた件
夜の2時を回っても、私の机の上は減らなかった。
右の山が、レオポルト殿下の演説原稿。10日後、殿下が騎士学校の卒業式で読むものだ。左の山が、領地の収支報告。父が月末に財務院へ出すことになっている。その奥に、義母が各貴族家に出す礼状が12通。義妹ミレーヌの、刺繍の課題。
どれも、私の名前では出ない。
夕食は、パンを半分かじったきりだった。もう半分は、原稿の重しになっている。
インクが切れた。
予備を取りに廊下へ出たとき、サロンの扉が少しだけ開いていて、笑い声が漏れていた。
「――本当に、よく働く子だこと」
義母の声だった。
「便利よねえ。何を頼んでも、はいって言うんですもの」
「お姉様、わたくしの課題、もう3年もやってくださってるのよ」
ミレーヌが笑った。
「先生に褒められるたびに、お姉様のお顔を思い出して、おかしくって」
殿下の声もした。今夜は泊まっていくと聞いていた。
「あれは道具だ。よく切れる、便利な道具。妻にするには愚かすぎるが、手放すには惜しい」
「娘を褒めてくださって光栄ですな」
父だった。
「いや、褒めておりませんぞ、公爵」
「おや、そうでしたか」
四人の笑い声が、廊下に転がり出てきた。
私は、インク壺を握ったまま立っていた。
手の中で、蓋がかちかちと鳴っていた。
7年。
7年間、私は、家族のためだと思っていた。殿下のためだと思っていた。役に立てば、いつか誰かが「ありがとう」と言ってくれると思っていた。
道具に礼を言う人はいなかった。
◇
屋敷の地下には、曾祖父の代から鍵のかかった書庫がある。鍵は、父の書斎の二段目の引き出しに入っている。
父の書斎の掃除も、私の仕事だったので知っていた。
黒い革の本。表紙に、読めない文字。
開いた頁に、悪魔召喚の儀式が載っていた。
床に、指先を切った血で円を描いた。紋様を三重に。古い言葉を七つ。
頁の最後には、こう書いてあった。
『呼ばれし者は、呼びし者の望みを叶える。その代価は、呼びし者の――』
そこから先は、虫に食われて読めなかった。
構わなかった。
「来なさい」
声が震えた。
「地獄から来て。あいつらに、地獄を見せて」
円が燃えた。
紫の炎が天井まで噴き上がり、地下室の空気が裏返った。耳の奥で、何百人もの悲鳴みたいな音がした。
炎の中に、影が立った。
影は、ゆっくりと片膝をついた。
両手で、小さな四角い紙を差し出した。
「お疲れさまです!」
はっきりした声だった。
「田村と申します!本日から、こちらでお世話になります!」
炎が消えた。
黒い服の男が、そこにいた。上下とも同じ色の、妙にぴったりした服。白いシャツ。首に細い布を巻いて、結んでいる。目の下に、濃い隈。
差し出された紙には、見たことのない文字が並んでいた。
「……あなた、悪魔?」
男は、少し首を傾げた。
「前の職場では、よくそう言われておりました」
悪魔だった。たぶん。
「我を呼びしは汝か、とか、言わないの?」
「失礼いたしました。お呼びいただいたのは、お客様でよろしかったでしょうか」
「……そう」
「ありがとうございます!それで、ご依頼内容を伺ってもよろしいでしょうか」
私は、拳を握った。
「復讐よ。父と、義母と、義妹と、婚約者。四人に、地獄を見せて。私にしたことを、死ぬほど後悔させて」
田村は、胸ポケットから小さな手帳を出した。何か書きつけた。
「承知いたしました!」
即答だった。
「それではまず、現状の把握からまいりましょう。お嬢様が現在お持ちの業務を、すべて出していただけますか」
「……は?」
「業務です。お仕事。抱えていらっしゃるもの、全部」
悪魔の最初の命令は、書類を全部出せ、だった。
◇
地下室に、机を3つ運び込んだ。
最初は私が運んだ。田村は、私が書類を抱えて階段を往復するたびに「ありがとうございます!」と言い、4往復目からは私の倍の量を抱えていた。
机3つ分の紙の山を前に、田村は黙った。
一枚ずつめくっていく。演説原稿。収支報告。礼状。刺繍の下絵。王宮の慈善式典の席次表。殿下が隣国の大使に出した手紙の、下書きの下書き。
田村の肩が、震えはじめた。
「……これを」
声が、かすれていた。
「これを、お一人で……?」
目が、潤んでいた。
私は、少しうろたえた。
この人は泣いている。私のために。
7年間、誰も言わなかったことを、この悪魔は言おうとしている。
「……そう。全部、私一人で」
「素晴らしい……!」
ん?
「なんという生産性!なんという処理能力!しかもこの演説原稿、論点が3つに整理されている!お嬢様、ぜひ、うちのエースになってください!」
「同情じゃないの!?」
「同情ですか?なぜです?」
田村は、心の底から不思議そうな顔をした。
「お嬢様は、これだけの業務を回せる方なんですよ。誇るべきです!」
「誇れないわよ!寝てないのよ私は!」
「それは……睡眠時間の管理も、業務のうちですね。後ほど一緒に見直しましょう」
だめだ、この人。
言葉は通じているのに、話が通じていない。
「それで、復讐はどうなるの」
「はい。こちらの業務の大半は、本来ほかの方の担当ですよね」
田村は、山を指で仕分けていった。演説原稿は殿下の山。収支報告は父の山。礼状は義母の山。刺繍はミレーヌの山。
「まずは、これらを本来の担当者様に、お返しいたします」
「……返す」
「引き継ぎです!」
満面の笑みだった。
悪魔の笑みかどうかは、分からなかった。
その夜、田村は一睡もしなかった。私が目を覚ましたとき、地下室の机の上には、4冊の冊子が並んでいた。表紙の色が、全部違う。父は紺、義母は紅、ミレーヌは桃、殿下は金。
『業務引継書』と、表紙にこちらの文字で書いてあった。昨日まで読めなかったはずの文字で。
「覚えました!一晩あれば、だいたいの言語は業務に支障がない程度になりますので!」
田村の目の隈が、倍になっていた。
◇
朝食の席には、四人がそろっていた。殿下も、まだいた。
私が食堂に入ると、ミレーヌがくすっと笑った。私の目の下を見たのだと思う。
その後ろから、田村が入ってきた。
4冊の冊子を、銀の盆にのせていた。
「おはようございます!お食事中に失礼いたします。わたくし、本日付でクラリスお嬢様の案件を担当させていただきます、田村と申します。こちら、皆様への業務の引き継ぎ資料でございます」
紺の冊子を、父の皿の横に置いた。
父は、それを汚いものでも見るように見た。
「……クラリス。この男は何だ」
「悪魔よ。召喚したら、それが来たの」
父が、鼻で笑った。
「くだらん。下男を雇う金があるなら、領地の帳簿でも」
「その領地の帳簿でございますが」
田村が、にこやかに冊子を開いた。
「本来、当主である公爵閣下のご担当です。財務院への提出は月末。閣下のご判断が必要な箇所に付箋を貼ってございます。本日中にご確認を」
「誰に口をきいている」
父が立ち上がった。
椅子が、床をこすって鳴った。
「わしは、ハイネマン公爵だぞ。下郎が、当主に指図をするのか」
「はい。ご担当ですので」
「わしは公爵だと言っている!」
「存じ上げております。ですので、ご担当なのです」
父の手が、田村の胸ぐらに伸びた。
「そんなに働きたければ、貴様がやれ!このわしが、仕事をくれてやると言っているんだ!」
田村の顔が、ぱあっと輝いた。
「ご発注、ありがとうございます!公爵家様からの案件、確かに承りました!」
「は?」
「つきましては」
田村は、胸ぐらをつかまれたまま、紺の冊子の32頁を開いた。
「受託者として、ご確認いただきたい事項が47点ございます。まず1点目、領地の小麦の売上が、去年より2割減っております。去年の秋、小麦の取引先を変えるご決裁をなさったのは、閣下ですよね」
「……覚えておらん」
「では、この決裁書の、この署名は」
「知らん!娘が勝手に書いたんだろう!」
田村が、父の手首をそっと外した。
胸ぐらを直した。首の布を、きゅっと締め直した。
そして、顔を上げた。
「――知らんだァ?」
声が、別人だった。
大きいわけではなかった。低くて、平らで、逃げ道を一つずつ塞いでいくような声だった。
「てめえの判子だぞ。てめえの判子が押してある書類を、てめえが知らねえで誰が知ってんだ。娘か?娘が書いたのか?じゃあ娘が当主か?違うだろ。当主はどこのどいつだ!!」
「わ、わしだ!」
「聞こえねえ!!」
「わし……いや、私です!!」
「じゃあ誰の仕事だ!!」
「私の仕事です!!」
「その肩書きは飾りかァ!!」
「飾りではありません!!」
「なら判子を持てェ!!」
「はいっ!!」
父の背筋が、伸びていた。手が、懐の印章入れを握っていた。
五十年「わし」で通してきた父が、「私です」と言っていた。
父は、自分の手を見下ろした。何が起きたのか分からない顔をしていた。私にも分からなかった。
田村が、首の布をゆるめた。
にこっと笑った。
「ありがとうございます!では、9時から決裁会議です。場所は大食堂をお借りします。お茶はこちらでご用意いたしますので!」
ミレーヌが、スプーンを落とした。
義母の扇が、半開きのまま止まっていた。殿下は、口に入れかけたゆで卵を、そのまま口の前で持っていた。
父だけが、印章を握りしめて、会議の準備を始めていた。
顔には「やりたくない」と書いてあった。体だけが、やる気だった。
すごい。
これが、悪魔。
胸がすっとした。思わず、口が動いた。
「田村。義母と、ミレーヌにもやらせて」
田村が、くるりとこちらを向いた。
「承知いたしました!それでは、前任者のお嬢様から、お二人へ引き継ぎ説明をお願いします!資料は紅と桃の冊子です。10時から、所要時間はおよそ2時間。質疑応答は無制限で!」
「……なんで、私まで」
「前任者ですので!」
悪魔に救われるつもりだった。
気がつくと、悪魔の部下になっていた。
◇
9時。大食堂の長いテーブルは、書類の山で埋まっていた。
上座に父。その横に義母とミレーヌ。下座に私。田村は、テーブルの周りを歩き回りながら、全員の前に紙を配っていた。自分の席はない。座る気がないのだと思う。
父が、最初に手を挙げた。
「田村とやら。当主として命じる。この収支報告の残りは、ミレーヌに任せる」
「いいですわよ、お父様」
ミレーヌは、軽く笑った。
「どうせ、お姉様がやるんですもの」
「いえ!今回は、ミレーヌ様ご本人のご担当でございます!」
田村が、即座に言った。
「なぜ?」
「ご担当ですので!」
「だから、お姉様にやらせれば――」
「ご自分のお仕事を他人に押し付けるのは、感心いたしませんね!」
ミレーヌが、私を見た。
私は、紅茶を飲んだ。
ミレーヌは、紺の冊子を受け取って、3頁めくった。
4頁目で、手が止まった。
5頁目で、唇がとがった。
6頁目で、目に涙がたまった。
「……田村さぁん」
「はい、ミレーヌ様!」
「ミレーヌ、これ、全然分からないですぅ……」
ぽろり。
大粒の涙が、紺の冊子に落ちた。
これは、ミレーヌの必殺技だった。家庭教師も、父も、殿下も、この涙で落ちた。宿題も、刺繍も、全部この涙で私のところに来た。
田村が、ゆっくりとミレーヌの前にしゃがんだ。
ハンカチを差し出した。
「ミレーヌ様。泣くほど、悔しいんですね」
「……え?」
「分からないことが、泣くほど悔しい。素晴らしい向上心です!その気持ち、買います!では、理解を深めるために、関連する業務もあわせてお任せいたしますね!小麦の取引先の比較表と、来季の作付け計画です!」
ミレーヌの前に、紙が倍になった。
ミレーヌは、ハンカチを握ったまま、紙の高さを目で測っていた。
私は、紅茶のカップで口元を隠した。
だめだ。笑ってしまう。3年分の刺繍の課題が、今、利子をつけて返っていく。
気がついたら、口が動いていた。
「ねえ、田村。その子、もっと厳しく教えてあげたら?」
ミレーヌが、信じられないものを見る目で私を見た。
「承知いたしました!」
田村の顔が、輝いた。
「では、ミレーヌ様の育成計画を強化いたします!毎朝の小テスト、毎晩の復習、週末の実地研修!」
田村は、手帳に何か書きつけた。
「つきましては、教育係はお嬢様にお願いいたします!」
「……はあ!?」
「最も経験豊富な方が適任ですので!ミレーヌ様の課題を3年間、代わりに処理してこられたのは、お嬢様ですから!」
「せっかく押し付け返したのに!」
「小テストの作成と、採点と、毎晩の復習の付き添いをお願いいたします!」
ミレーヌが、涙の跡の残る顔で、にやっと笑った。
「お姉様、よろしくお願いしますわね」
私は、テーブルに額をつけた。
私が余計なこと言ったせいじゃない。
◇
義母が、扇を閉じた。
食堂には、使用人たちも控えている。娘が泣いていた。人前で母親が知らん顔をするわけにはいかない。
「まあ、ミレーヌ。お母様が手伝ってあげますからね」
「ありがとうございます!」
田村が、義母より深く頭を下げた。
「母娘での共同業務体制、大変心強いです!では、イザベラ様には作付け計画の副担当として、まず倉庫の小麦袋の数量確認をお願いいたします!」
「……数量、確認?」
「はい!去年の在庫が、帳簿と240袋ずれております。実物を数えるのが一番早いかと!」
義母は、倉庫に入ったことがない。
小麦袋を数えるのは、いつも下男の仕事だった。下男に命じるのは、いつも私の仕事だった。
昼過ぎ、私は倉庫の入口から、義母を見ていた。
絹のドレスの裾を片手で持ち上げて、小麦袋の山の前に立っていた。下男たちが、遠巻きにそれを見ていた。誰も手を出せなかった。義母が「わたくしがやります」と言ってしまったからだ。
「ひゃく……ひゃくさんじゅう……」
義母の声が、震えていた。笑顔だった。笑顔のまま、粉まみれだった。
ちょっとだけ、すっとした。
ちょっとだけ、声を出して笑った。
「お嬢様、楽しそうですね!」
背後に、田村がいた。
「では、イザベラ様の検品の立ち会いと、数量の記録をお願いいたします!」
「なんでよ!」
「楽しそうでしたので!」
夕方、私は倉庫の中で、義母の数えた数を帳面に書いていた。
義母は3回数え直した。私は3回書き直した。
大食堂に戻ると、父が手を挙げた。
「クラリス。この、『輪作』とは何だ」
説明した。
自分の席に座った。ミレーヌの小テストを作りはじめた。
「クラリス。この、『小作料』とは」
説明した。
座った。
「クラリス。この、『麦』とは」
「それは知ってるでしょ!!」
父は、領地の帳簿を一度も読んだことがなかった。
その帳簿を、一頁ずつ、私が説明する仕事が増えた。
◇
翌日、ミレーヌが反撃に出た。
「田村さん!見てくださいませ!」
差し出したのは、厚い報告書だった。表紙に『ハイネマン領・水路改修に関する考察』。去年の春、私が3晩かけて書いたものだ。去年の秋、ミレーヌの名前で学園に提出されて、優秀賞をもらっていた。
「わたくし、ちゃんとできるんですのよ。これ、わたくしが書いたんですの」
ミレーヌは、ちらりと私を見た。
勝ち誇った目だった。
田村が、報告書を受け取った。一枚ずつ読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「これを、ミレーヌ様が!」
「ええ!」
「素晴らしい……!特にこの、上流の堰の改修案!」
「でしょう?」
「では、実施をお願いいたします!」
「……え?」
「これだけの計画を書かれた方が、実施をご担当にならない理由がありません!水路の改修、来月着工でいかがでしょう。作業員の手配と、資材の見積もりと、上流の村との調整を!」
ミレーヌが、私を見た。
私は、紅茶を飲んだ。
「お、お姉様が、手伝ってくださるわよね?」
「あら。あなたが書いたんじゃなかったの?」
ミレーヌの口が、ぱくぱくした。
「なお、お嬢様は教育係ですので、ミレーヌ様の実施計画の添削をお願いいたします!」
「結局、私に来るんじゃない!!」
◇
その翌日、義母が動いた。
「クラリス。午後に、ブランシュ侯爵夫人をお招きしたわ。あなたも、田村とやらも、同席なさい」
ブランシュ侯爵夫人。社交界で一番声の大きい方だ。この方が「あの家は品がない」と言えば、その家は1年間、どの夜会にも呼ばれなくなる。
義母の狙いは分かった。侯爵夫人に田村を無礼な下男だと言わせて、社交界の評判で父を動かし、田村を追い出させるつもりだ。
午後。客間に、侯爵夫人がいらした。
「まあ、イザベラ様。お噂の、悪魔ですって?」
「ええ。ご覧になって。この男が、我が家を好き放題に」
田村が、一礼した。
「田村と申します。侯爵夫人様、来月の慈善バザーの会場は、こちらの南庭でございますね」
「……ええ。なぜご存じ?」
「お嬢様の引き継ぎ資料にございましたので」
田村は、手帳を開いた。
「南庭は、入口が1つしかございません。昨年は正午の時点で入口に200人の列ができ、ご婦人が3人倒れたと記録にあります。そこで、ご提案なのですが」
田村は、テーブルのナプキンに、さらさらと図を描いた。
入口を2つ。屋台を4列。休憩所を木陰に。寄付の受付を出口側に。
「お楽しみいただいたあとのほうが、皆様、お財布を開きやすいかと存じます」
侯爵夫人が、ナプキンを手に取った。
「……素晴らしいわ」
義母の扇が、ぴたりと止まった。
「わたくし、毎年あの入口で頭を抱えていたのよ!ああ、これなら!」
侯爵夫人が、義母の手を取った。
「イザベラ様!そういえば5年前のお茶会で、おっしゃっていたわね。『来年のバザーは、わたくしが仕切りますわ』って!」
義母の顔が、凍った。
覚えている。5年前、義母はたしかにそう言った。そして翌日、その仕事を私に回した。それから5年間、バザーの準備は全部私がやってきた。侯爵夫人には「イザベラ様のお心遣いで」と伝えて。
「5年間、陰で動いてくださって、本当にありがとう。さすがイザベラ様だわ」
「い、いえ、わたくしは」
「今年はぜひ表に出て、共同委員長をお願いしたいわ!この、田村さんの案で!」
相手はブランシュ侯爵夫人だった。断れば、5年分の手柄が嘘だったことになる。
「……光栄ですわ」
「ありがとうございます!」
田村が、深々と頭を下げた。
「では、イザベラ様には、全出店者42件への直接のご連絡もお願いいたします!ご挨拶状と、出店場所の地図と、搬入時刻のご案内を、お一人ずつ!」
義母は、笑顔で頷いた。
笑顔のまま、扇の骨が一本、ぱきっと折れた。
私は、扇の折れる音を、少しだけいい音だと思った。
「クラリス様も、手伝ってくださるのでしょう?」
侯爵夫人が、私に微笑んだ。
「5年間、イザベラ様の陰で、ずっとそうだったんですもの」
え。
「それはいい!」
田村が、手を打った。
「では、お嬢様には、会場準備の確認役をお願いいたします!テント32張り、椅子400脚、案内板18枚!」
「なんで私の仕事が増えてるのよ!!」
侯爵夫人が帰ったあと、義母は客間のソファに座ったまま、1時間動かなかった。
私は、その隣で椅子の数を数えていた。
◇
3日目の夜、父が爆発した。
大食堂のテーブルに積まれた決裁箱は、7つになっていた。ミレーヌの水路計画。義母のバザーの予算。作付け計画。収支報告。全部、最後は父の判子が要る。
「田村!貴様は、解雇だ!今すぐ出ていけ!」
「恐れ入ります」
田村は、丁寧に頭を下げた。
「わたくしの人事に関する権限は、本案件の依頼主である、クラリスお嬢様にございます」
父が、ぐるりとこちらを向いた。
「クラリス!この男を解雇しろ!」
ここで解雇すれば、全部私のところに戻ってくる。父の判子も、義母のバザーも、ミレーヌの水路も。
冗談じゃない。
「いやよ。私の悪魔よ。私が決めるわ」
父の顔が、紫色になった。
生まれて初めて、父に「いや」と言った。気持ちがよかった。
「ありがとうございます、お嬢様!」
田村が、晴れやかに言った。
「人事権者が、明確になりましたね!それでは、お嬢様には人事部長も兼任していただきます!全員の業務量の調整と、勤怠の確認と、明日の配置表の作成をお願いいたします!」
「……人事部長?」
「人事権がございますので!」
配置表を書いた。書き終えた。ペンを置いた。
「お嬢様!ミレーヌ様の小テストの採点がまだです!」
採点した。終えた。ペンを置いた。
「お嬢様!イザベラ様が、出店者42件の住所が分からないと!」
住所録を出した。渡した。座った。
「クラリス。この、『堰』とは何だ」
「明日にして!!」
「さて」
田村が、最後の一冊を手に取った。金色の表紙。
「では、明日はこちらに伺いましょう!」
殿下の冊子だった。
殿下は、あの朝食のあと、ゆで卵を置いて、王宮へ逃げ帰っていた。
◇
王宮の門は、私の通行証で通れる。殿下の公務を代わりに運ぶために、3年前に作られた通行証だった。
「お嬢様の秘書の、田村です!」
衛兵は、何も聞かなかった。
殿下の執務室の机の上には、何もなかった。
殿下は、窓辺で紅茶を飲んでいた。
「……クラリス。それと、貴様か」
「おはようございます、殿下!殿下の公務の、引き継ぎ資料でございます」
殿下は、冊子を受け取りもしなかった。
「婚約者である私の補佐がクラリスの仕事だろう!クラリスにやらせておけ!」
「恐れ入りますが、殿下。騎士学校の卒業式の演説、隣国への書簡、王立病院の視察報告。いずれも、殿下のお名前で提出されるものでございます」
「だから何だ」
「殿下の、お仕事です」
殿下が、笑った。
「貴様、誰に向かって口をきいている。わたしは第一王子だぞ。気に入らなければ、貴様の首など、すぐにでもはねられる」
「承知いたしました!」
田村が、すっと紙とペンを差し出した。
「では、処刑命令書の作成をお願いいたします!」
「……は?」
「わたくしの首をはねるのでしたら、正式な書類が必要かと存じます。口頭では、のちに問題になりますので!」
殿下が、ペンを取った。
紙の一番下に、自分の名前を書いた。
それで終わりだった。紙の上には、殿下の署名しかなかった。
田村の首の布が、きゅっと締まった。
「――白紙に署名して、何をはねるつもりだ貴様ァ」
低い声だった。
「罪状はどこだ。執行日はどこだ。執行者は誰だ。王族の名前で人を殺す書類に、てめえは名前しか書かねえのか。誰かが勝手に罪状を書き足したら、てめえの名前で誰でも殺せるんだぞ。わかってんのか」
「わ、わたしは」
「その署名は、何のためにあるんだ!!」
「王族の、責任のためだ!」
「なら責任を持って書けェ!!」
「はいっ!!」
殿下が、背筋を伸ばして返事をした。
返事をしてから、自分の口を押さえた。
田村が、敬語に戻った。
「では、書式からご説明いたしますね!まず宛先です。近衛騎士団長様あてになります。次に罪状です。わたくしの罪状は何でしょう?」
「……王族への、不敬だ」
「では、不敬の具体的な内容を。日時と、場所と、発言を」
「今日、ここで、貴様が」
「今、何時でしょう」
「……10時、くらいだ」
「正確な時刻を、お願いいたします!」
殿下は、壁の時計を見に立った。
1時間後、殿下はまだ書いていた。罪状の欄で3回書き直し、「口答え」の定義を聞かれて、法典を引きに書庫まで行った。
2時間後、執行日が王国の祝日と重ならないように、暦を確認していた。
3時間後、印章の位置を間違えて、最初から書き直していた。
「殿下、素晴らしい集中力です!」
「黙れ!!」
昼過ぎ。殿下は、完成した処刑命令書を、震える手で差し出した。
生まれて初めて、一人で最後まで書いた公文書だった。
田村が、一枚目から丁寧に読んだ。
「……大変よくできております!」
殿下の顔が、一瞬、ほころんだ。
「では、こちらを騎士団長様にお届けする前に、本日の公務を片づけてしまいましょう。演説原稿と、隣国への書簡と、視察報告です!」
「待て。処刑は」
「わたくしの処刑は、公務のあとでも逃げませんので!」
殿下は、処刑命令書を握ったまま、机に突っ伏した。
◇
殿下の演説原稿は、ひどかった。
一行目が「諸君」で始まり、二行目が「わたしは」で、それから30行、殿下の話だった。卒業生の話が、一つもなかった。
「殿下。こちら、主語が全部『わたし』でございます」
「わたしの演説だぞ」
「卒業生への祝辞でございます」
「そんなに言うなら、貴様が手本を書け!」
「ご発注、ありがとうございます!王宮様からの案件、確かに承りました!」
田村は手本を書いた。殿下に写させた。写したものを読ませた。読めなければ、また書かせた。
殿下が「次期国王に向かって」と言うたびに、田村は目を輝かせた。
「次期国王でいらっしゃるなら、祝辞の一本くらいは!」
「次期国王でいらっしゃるなら、隣国への書簡は3か国語で!」
「次期国王でいらっしゃるなら、視察報告に病床の数くらいは!」
殿下は、だんだん「次期国王」と言わなくなった。
「お嬢様!殿下の書簡、3か国語分の確認をお願いいたします!婚約者でいらっしゃいますので!」
「婚約者って、そういう仕事だったかしら……」
「そういう仕事でございました!7年間!」
反論できなかった。
夕方、殿下がペンを置いた。
「……田村。わたしには、もっと大事な務めがある。王族には、こういう細かい仕事より、ずっと大事な務めがあるのだ」
「承知いたしました!では、その『大事な務め』も、業務一覧に追加いたします!具体的には?」
殿下が、固まった。
何も考えていなかった顔だった。
「……く、国の、未来を、考えることだ」
「素晴らしい!『国の未来を考える会議』、毎朝5時からでよろしいでしょうか!議題は、殿下に毎回3つご用意いただくということで!」
「5時!?」
「お昼からですと、ほかの公務と重なってしまいますので!議事録は、お嬢様にお願いいたします!」
「なんで私が5時に起きるのよ!!」
「起きる必要はございません!寝ないので!」
◇
翌日、殿下は最後の手段に出た。
「父上に、お会いする。この男を国外に追放していただく」
謁見の間。玉座に、国王陛下が座っていらした。
私も同席した。婚約者として、殿下の後ろに控える決まりだった。
「父上!この男は、わたしに不当な労働を」
「陛下」
田村が、殿下の横で一礼した。
「殿下の業務をお手伝いしております、田村と申します。本日は、殿下がご自身の業務計画をご報告なさりたいとのことで、資料をお持ちしました」
殿下が、田村を見た。そんなことは一言も言っていない、という顔だった。
「殿下は、この2日間で、騎士学校への祝辞を12回書き直されました。隣国への書簡は、3か国語でご準備中です。王立病院の視察報告には、全病床の数と、必要な薬の量まで記載されました。さらに、毎朝5時から、『国の未来を考える会議』を開くと、殿下ご自身がご発案なさいました。『王族には、もっと大事な務めがある』と!」
全部、本当のことだった。一つも、嘘はなかった。
「レオポルト……」
陛下の声が、震えていた。
「お前が、ここまで、やる気になってくれるとは……!」
「ち、父上、違うのです、わたしは」
「謙遜するな!」
陛下が、玉座から立ち上がった。目が潤んでいた。
「よし。そこまでの覚悟があるなら、任せよう。来月の建国祭、その全運営を、お前に一任する!」
「えっ」
「余は、うれしいぞ!」
殿下は、国外追放を頼みに来て、王国最大の行事を持ち帰った。
帰りの廊下で、田村が上機嫌に手帳をめくった。
「建国祭まで、あと32日です!王宮で進めるより、公爵家の大食堂を作業本部にしたほうが効率的かと存じます。お嬢様、配置表に加えておいてください!」
「加えておいてください、じゃないわよ……」
「人事部長でいらっしゃいますので!」
こうして、殿下も公爵家の大食堂に住み込むことになった。
私の配置表に、一行増えた。
◇
7日目の夜。誰も寝ていなかった。
正確に言うと、誰も眠くならなかった。
大食堂の時計が3時を打った。父は決裁箱の前に座っていた。義母は出店者への挨拶状を書いていた。ミレーヌは水路の図面を書いていた。殿下は、建国祭の式次第を写していた。
体は、ちゃんと動いていた。目も、ちゃんと開いていた。
ただ、顔が死んでいた。
父は、決裁箱のふたを開けるたびに、小さく「ひっ」と言った。
義母は、笑顔のまま、挨拶状の上に涙を一粒落としていた。笑顔の練習を20年してきた顔は、泣いていても笑っていた。
ミレーヌは、窓から逃げようとしていた。窓枠に片足をかけたところで、手が勝手に図面の続きを書きはじめ、片足を窓にかけたまま、器用に水路の断面図を描いていた。
殿下は、式次第の余白に、小さな字で何か書いていた。
田村が、それを拾った。
「殿下、こちら、『王族をやめたい』の『族』の字が違っております!」
「添削するな!!」
私の前には、殿下の隣国への書簡があった。3か国語で、3枚。確認の判を押すのが、私の仕事だった。
一枚目の、真ん中の一文で、ペンが止まった。
『貴国の王女殿下は、肖像画では少々残念なお顔立ちでしたが、実物は見違えるほどお美しいと伺っております』
会ったこともない王女を、肖像画ごとけなしていた。
私は、殿下を見た。
殿下は、余白に「やめたい」をもう一度書いていた。
――恥をかけばいい。
私は、確認の判を押した。
7年分の演説原稿の、ほんの少しのお返しだった。
「お嬢様、確認済みですね!早馬で発送いたします!」
田村が、書簡をさらっていった。
◇
5時少し前。
父が、ミレーヌの水路計画の予算書に判子を押した。
押した瞬間、田村の手が止まった。
「……閣下」
「なんだ」
「こちら、橋の本数が、10本になっております」
父が、予算書を見た。
ミレーヌの計画では、橋は「1本」だった。その「1」の横に、父のペンが、勝手に「0」を書き足していた。
「10本」
「……眠くないのに、頭が回らん」
父は、ぼんやりと言った。
「取り消せ」
「いえ、閣下」
田村の目が、輝いていた。
「せっかく、10本分の計画がございます!」
「は?」
「先ほど地図を確認いたしましたら、ちょうど10か所、橋があれば村同士の行き来が半日短くなる場所がございます!これは、閣下のご英断です!」
「英断ではない、間違いだ!取り消せ!」
「すでに、各村へ告知の早馬を出しました!」
「いつ!?」
「3秒前に!」
窓の外で、馬の蹄の音が遠ざかっていった。
「一つ目の村では、もう村長様が、祝いの酒樽を開ける準備をしていらっしゃるかと!」
父は、判子を握ったまま、天井を見上げた。
領主が自分で約束した橋を、翌日に取り消す。そんなことをした領主が、どうなるか。父も、知らないわけではなかった。
5時。
殿下が、のろのろと立ち上がった。
「……国の未来を、考える会議の、時間だ」
自分で言って、自分で絶望していた。
議題の一つ目は、隣国への書簡だった。
田村が、控えを読み上げた。
「『貴国の王女殿下は、肖像画では少々残念なお顔立ちでしたが、実物は見違えるほどお美しいと伺っております』」
大食堂が、凍った。
「殿下、こちらは、肖像画も王女殿下も侮辱しております」
「褒めたつもりだった!!」
「4時に、早馬で発送いたしました」
「なぜ止めなかった!」
「確認済みの判がございましたので!」
田村が、書簡の控えの、判のところを指さした。
全員が、判を見た。
それから、全員が、私を見た。
「……眠かったのよ」
「眠くはないはずだ!」
殿下が叫んだ。
そうだった。
田村が、すぐに手帳を開いた。
「謝罪の使節を出しましょう!殿下ご自身で!往復で12日です!謝罪文は3か国語で、確認担当はお嬢様に引き続きお願いいたします!」
「私が見逃したせいじゃない!!」
殿下が、机に額を打ちつけた。
ごん、と鳴った。痛そうだった。でも、眠くはなさそうだった。
◇
東の窓が、白くなってきた。
7日間、一睡もしていなかった。それなのに、誰も倒れなかった。倒れられなかった。
田村が、上着の内ポケットから、小さな瓶を出した。
王宮の薬師が売っている、回復のポーションだ。普通は、戦場で騎士が飲むものだった。
田村は、その栓を親指で弾いた。
腰に手を当てて、一気に飲み干した。
「――っはあ!」
空き瓶を、テーブルに置いた。こん、といい音がした。
そして、全員に向かって、満面の笑みで言った。
「さあ、本日も頑張ってまいりましょう!」
全員が叫んだ。
父も、義母も、ミレーヌも、殿下も、私も。
「次の会議は、7時からです!」
もう一度、叫んだ。
◇
「あんた、何なのよ!」
私は、田村の首の布をつかんでいた。
いつ立ち上がったのか、覚えていなかった。
「なんで誰も眠くならないの!なんで、みんな怒鳴られたら返事しちゃうの!あんた、何かしてるでしょ!」
「ああ、はい」
田村は、首をつかまれたまま、あっさり答えた。
「召喚していただいたとき、頭の中に声がしたんです。能力を2つ、授けるとか何とか」
「早く言いなさいよ!」
「業務に関係あるとは思わなかったので!」
田村は、指を一本立てた。
「1つ目が、『24時間働けますよ!』です。わたくしがお仕事を割り振った方は、そのお仕事が残っている限り、眠らなくても体が動きます!ただ、精神的な心の疲れは、どんどん溜まっていくそうです!」
大食堂を見回した。
心の疲れが、全員の顔に溜まっていた。
「2つ目が、『歩く労基違反』です」
「名前がもう罪状じゃない!!」
「わたくしが厳しく指導すると、相手の方が、なぜか従ってくださるんです。指導が理不尽であればあるほど、よく効くそうです。お気持ちまでは変わらないので、皆様、不満はおっしゃれますよ!」
「犯罪の匂いしかしない!!」
「便利ですよね!」
「便利って言うな!!」
父が、テーブルの向こうで、ぼそりと言った。
「……では、私たちは、操られていたのか」
一人称は、まだ戻っていなかった。
「いいえ、閣下!体が従うだけで、お気持ちは自由です!ご自分のお仕事をご自分の手でなさっていたのは、閣下ご自身です!」
父は、何か言い返そうとして、やめた。
「むしろ、安心してお仕事に集中できますね!」
「安心できるか!!」
四人と私の声が、また、そろった。
◇
7時の会議の前に、私は田村を地下室に引っぱっていった。
最初に、田村を呼んだ部屋だ。床の魔法陣は、まだうっすら残っていた。
「こんなの、私が望んだ復讐じゃない」
たしかに、あいつらは苦しんでいる。父は判子を見ただけで泣くし、義母は笑ったまま泣くし、ミレーヌは窓に足をかけたまま図面を書いているし、殿下は王族をやめたがっている。
望んだとおりだった。
なのに、私も7日寝ていなかった。教育係で、検品係で、人事部長で、議事録係で、確認係だった。
「なのに、あんたは楽しそうで」
「はい!楽しいです!」
「知ってるわよ!!」
田村は、少し首を傾げた。
それから、珍しく、静かな声で言った。
「お嬢様。では、何をもって、復讐の完了とするのでしょうか」
答えられなかった。
四人は泣いた。苦しんだ。7年は、返ってこなかった。
「……どうしたら、あいつらは、本当に後悔するの」
「お嬢様が、幸せになることです」
田村は、すぐに答えた。
からかっている顔ではなかった。
「道具だと思っていた方が、自分たちの手の届かないところで、楽しそうに暮らしている。あの方々にとって、それ以上の罰はございません」
喉の奥が、熱くなった。
この人は、ときどき、こういうことを言う。
「……田村。あんた、たまには、まともなこと」
「そして、幸せとは、やりがいのある仕事です!」
え。
「やりがいのある仕事に、朝から晩まで、いえ、朝から朝まで打ち込める!これ以上の幸せはございません!お嬢様にはその才能がおありです!さあ、一緒に幸せになりましょう!レッツワーク!」
「そんな幸せ、いらないわよぉぉ!!」
◇
7時。大食堂。
四人が、そろって上座に立っていた。7日ぶりに、全員が同じ方向を向いていた。
父が、一歩前に出た。目の下が、真っ黒だった。でも、目だけが光っていた。
「田村。それから、クラリス」
父は、紙を一枚掲げた。
「クラリス・フォン・ハイネマン。本日をもって、お前を勘当する」
殿下が、続けた。
「それに伴い、わたしとクラリスの婚約も、破棄する」
義母が、扇を開いた。骨の折れた扇だった。
「田村さん。あなたは、クラリスに呼ばれて来たのでしょう?依頼主がこの家の娘でなくなれば、あなたがこの家にいる理由もないわね」
ミレーヌが、胸を張った。
「お姉様と一緒に、出ていってくださいな!」
「それから、田村」
父が言った。声が、7日ぶりに、公爵の声だった。一人称も、戻っていた。
「わしが貴様に頼んだ仕事も、全部取り消す。もう二度と、この家に来るな」
「王宮にもだ」
殿下が言った。
「二度と、わたしの前に顔を見せるな」
四人の顔に、笑みが広がっていった。
7日間かけて、ようやく見つけた出口だった。
勘当。婚約破棄。
この家を出たら、私には何もない。名前も、居場所も、明日食べるパンも。
足元が、少しだけ揺れた。
「――承知いたしました!」
隣で、明るい声がした。
田村が、深々と頭を下げていた。
「公爵家様、王宮様。ご契約の打ち切り、確かに承りました!短い間でしたが、大変お世話になりました!」
四人が、顔を見合わせた。
拍子抜けした顔だった。
「つきましては、ご精算の手続きに入らせていただきます!」
田村が、上着の内ポケットから、紙の束を出した。
最初の夜、地下室で、田村が書類の山を仕分けながら作っていた台帳だった。
「まず、わたくしの分です。閣下は『そんなに働きたければ、貴様がやれ』と。殿下は『ならば貴様が手本を書け』と。確かにご発注をいただきました。受託業務の未精算分と、契約打ち切りに伴う退職金を」
父と殿下が、同時に、自分の口を押さえた。
田村は、一枚目の紙をテーブルに置いた。
それから、二枚目を、その横に置いた。
「そして、こちらは別件です。クラリスお嬢様が、この7年間、皆様に代わって処理された業務の一覧と、お嬢様への清算金でございます。演説原稿が312本。礼状が1,400通。収支報告が84回。刺繍の課題が、3年分。王宮書記官の給金で換算いたしました」
四人が、二枚目の紙の、一番下の数字を見た。
ミレーヌが、小さく悲鳴を上げた。
「ふ、ふざけるな!」
父が、テーブルを叩いた。
「そんな金を払う義務はない!法のどこに、そんなことが書いてある!」
「承知いたしました!」
田村は、即座に答えた。
笑顔だった。
「では、未精算の案件がございますので、引き続き、こちらで勤務させていただきます!お支払いが済むまで、毎朝5時に出勤いたします!閣下の決裁箱も、殿下の会議も、引き続きご一緒に!」
「払う!!」
父が叫んだ。
「いくらだ!今すぐ払う!」
「王宮の分も払う!!」
殿下が、父より大きい声で叫んだ。
「全額だ!今日中に!ペンを貸せ!」
二人は、田村が差し出した支払い証書に、奪い合うように署名した。
殿下の署名は、処刑命令書のときより、ずっと速かった。
「こちら、退職合意書でございます。ご署名を」
父は、読まずに署名した。殿下も、読まずに署名した。
一番下に、小さな字で一行あった。
『なお、再契約の際は、本精算額の3倍を申し受けます』
誰も、読んでいなかった。
私だけが、読んだ。
◇
昼前、私は、自分の荷物を一つの鞄にまとめた。
7年住んだ部屋なのに、持っていきたいものは、鞄の半分にもならなかった。地下室の黒い本だけ、最後に鞄の底へ入れた。
玄関に、四人が並んでいた。見送りではない。本当に出ていくか、確かめに来たのだと思う。
田村が、四人の前に立った。
「では、最後に、残務の引き継ぎをさせていただきます!」
四人の顔が、引きつった。
「お引き受けいただいた業務は、わたくしたちが退職いたしましても、そのまま残りますので」
田村は、手帳を開いて、明るく読み上げた。
「建国祭の全運営。陛下のご命令です。あと29日です」
殿下の顔から、色が消えた。
「隣国への謝罪使節。殿下ご自身がご出発です。往復12日です」
殿下が、壁に手をついた。
「慈善バザー。ブランシュ侯爵夫人とのお約束です。出店者42件です」
義母の扇が、床に落ちた。
「水路の改修。来月着工です。上流の村には、ミレーヌ様のお名前で告知済みです」
ミレーヌが、膝から崩れた。
「橋、10本。一つ目の村では、もう祝いの酒樽が空いたそうです」
父が、目を閉じた。
「それと、毎朝5時の『国の未来を考える会議』。陛下が大変お喜びで、来週からご自身もご出席なさるそうです!」
殿下が、その場に座り込んだ。
「なお、『24時間働けますよ!』は、お仕事が残っている限り有効です。皆様、眠らずに働けますので、どうぞご安心ください!」
「……田村」
父が、かすれた声で言った。
「その……やはり、もうしばらく……」
「再契約でございますか!合意書のとおり、先ほどの精算額の3倍で、喜んで承ります!」
父が、合意書の写しを見た。
一番下の、小さな一行を見た。何も言わなかった。
「……逃げれば」
ミレーヌが、震える声で言った。
「全部放り出して、逃げれば」
「建国祭を放り出したら、父上のお怒りを買う」
殿下が、床に座ったまま言った。
「バザーを放り出したら、二度と社交界に出られないわ」
義母が、扇を拾いもしないで言った。
「橋を放り出したら、10の村が押しかけてくる」
父が、目を閉じたまま言った。
四人とも、よく分かっていた。
7年間、それを全部、私がやっていたのだから。
「それでは皆様!お世話になりました!ご健勝と、ご多忙をお祈り申し上げます!」
田村が、玄関の扉を開けた。
秋の風が、吹き込んできた。
馬車が門を出るとき、振り返ると、大食堂の窓に灯りがついていた。
まだ昼だった。
たぶん、今夜も消えない。
◇
王都を出て、街道を半日走った。
膝の上の袋が、重かった。金貨の重さだった。7年分の重さだった。誰にも渡さなくていい、私だけの重さだった。
窓の外を、知らない領地の麦畑が流れていった。
今日の予定が、何もなかった。明日の予定も、何もなかった。
胸の真ん中が、ぽっかりと軽かった。
「そういえば、お嬢様」
向かいの席で、田村が手帳を開いた。
「召喚の本の、虫食いの部分ですが。王宮の書庫に、同じ本の写本がございました」
「……いつ調べたのよ」
「殿下が処刑命令書の法典を引きに行かれたとき、ご一緒に!」
田村は、手帳の頁を読み上げた。
「『その代価は、呼びし者の抱える全て』だそうです」
私は、膝の上の袋を見た。
家族の仕事。殿下の仕事。7年分の仕事。全部、持っていかれていた。
「……ちゃんと、払っていたのね。私」
「はい!確かに、頂戴いたしました!」
田村は、手帳の頁をめくった。
「それで、お嬢様。次の職場は、どちらでしょう!」
「ないわよ。もう仕事なんてしないの」
「では、今後のご予定は?」
「世界を見て回るの。あんたと一緒にね」
田村の顔が、ぱっと輝いた。
「なるほど!各国に、王家と公爵家の支店を展開するのですね!」
「勘当されたって言ってるでしょ!それに、他国で勝手にそんなことしたら戦争になるわよ!」
「では、海外視察ですね!」
「だから仕事から離れなさい!!」
私は、袋を抱え直した。
窓の外の麦畑が、金色に揺れていた。
「私とあんたの次の仕事はね」
「はい!」
「仕事以外で、幸せを探すことよ」
田村は、手帳に大きな字で『幸せ』と書きつけた。
そして、顔を上げて、いつもより、柔らかめな笑みで言った。
「かしこまりました!必ず、ご期待以上の幸せを納品いたしますね」




