初夜をすっぽかされて丸一年、元没落令嬢な新妻は夜這いを決行いたします
この結婚に愛がないことは分かりきっていた。
成り上がりの商人の息子と、歴史だけある没落貴族の娘。地位と金銭、それぞれ欲しいものがあって、差し出すのにちょうど良い対価があった。
そんなありきたりな理由で結ばれた婚姻だ。だから甘やかな恋や愛は望めなくて。それでも二人が真摯に歩み寄れば、ゆくゆくは穏やかな家庭なら作れるのではないかとセラは思っていた。――そんなものは希望的観測に過ぎないと、初めての顔合わせで思い知らされたけれど。
彼は、トビーは。せめて第一印象は良くしたいとセラがクローゼットから引っ張り出した祖母のお古の盛装を、頭から爪先まで軽く流し見て開口一番。
「3世代は前の流行りだな。まあリバイバル・ブームの兆しも見えてるから、売れば買い手は着くんじゃないか。セットなら1万デルにはなる」と。
着用しているセラには一切触れないで、衣服の値段だけを口にした。
別に貴族だから平民は跪けなどと言う気はない。貴族とは名ばかり、歴史の他には負債だけが詰み上がった家で育っている。なんなら庶民の中でも平均以下の暮らしだったかもしれない。
それにしても酷い屈辱だ。挨拶より先に衣服の値段を口にする男がいるだろうか。それも結婚予定の相手との顔合わせの場で。
もしセラが一般的な貴族令嬢なら怒りのあまり失神していただろう。残念ながら一般的ではないセラのプライドも十分傷ついたが、反論することはできなかった。
実を言うと数年前、恥を忍んで同じものを古物商に持ち込んだことがある。その時は3000デルと言われた。相場が分からずともあからさまに足元を見られたことは浮かぶ嘲笑を見れば理解できる。見る目がないこと、と三下のような捨て台詞を吐いた過去を思えば、商会の跡取りとして立派に勤めるトビーの言に偽りがなかったことは寧ろ誠実さの象徴にも思えた。
しかしそれとこれは話が別である。
商売人として誠実な男が、夫として完璧かといえば決してそうは言えない。
「私たちはもう結婚してるって、多忙のあまりそんなこともお忘れなのかしらね!」
寝室に一人なのを良いことにセラは遠慮なく文句を言った。
頭の天辺から湯気でも出しそうな勢いで、着用しているナイトドレスを脱ぎ捨てていく。没落貴族の家にメイドなんぞ居ないのでセラは一人で身支度を整えられた。そもそも介添えが要るような凝った作りのドレスを持っていないし、コルセットで締める余分な肉もない。満腹になるまで食べたことがないからだ。実家で時刻を告げるのは常に誰かの腹時計だった。
「もしかしたら、今日こそはと待っていた私が馬鹿だったわ」
この寝室をトビーが訪れたことは未だない。初夜からずっと。
だが今日は結婚記念日だ。挙式して丁度一年目にあたる日である。
さすがにそんな日なら彼も来るかもしれないとセラは望みを掛けていた。
だからわざわざ扇情的なナイトドレスを着込み、更にその中も華やかなシュミーズにして、こんな夜中まで起きていたのに。
結果は言うまでもない。セラは一人で服を脱いでいる。
シュミーズの肩紐代わりのリボンを解く。体のどこにも凹凸がないから引っ掛からずに床まで滑り落ちる。その滑らかさがシルクの質の良さを改めて突きつけてくるようでセラは唇を噛んだ。実家ではこんな良いものは逆立ちしても着られない。
「そんなにも私が気に食わないっていうの?」
結婚自体はトビーの方から持ちかけられた話だと聞いている。セラは苦渋に満ちた顔の父に相談され、いちもにもなく頷いた。利子によってかさみ続ける借金のせいで、取れる手段が最早、若い娘の身売りぐらいしか無くなっていると知っていたから。
誰とも知らぬ相手に何度も肌を見せるぐらいなら、少なくとも婚姻という形でただ一人を相手にする方が幾分かましだ。
顔合わせは失敗に終わったが、少なくともトビーはセラが嫌だったなら結婚を中止できる立場だった。新進気鋭の若商人の相手としては古臭いドレスの貴族娘は不釣り合いすぎる。
だが無事に婚姻が成立したのだから、セラは妻として合格点をもらえたのと同義と思っていたのだ。
なのに昨年の式当日、夫は夜明けになっても戻らなかった。付き合いがあるからと知己と朝まで酒を飲んでいたと後で聞いた。
三ヶ月目の同日は、外せない商談がずっと前から入っていると脇目も振らず出掛けていった。
半年後も、誕生日も、何かしらの理由をつけてトビーは夜は帰って来なかった。
セラは別にトビーを特別に愛してはいないが、深い感謝の念は抱いている。妻の実家への援助をトビーは躊躇わなかった。鎮痛剤を買えるようになったので母は持病の痛みを堪えなくて済むようになった。弟妹は少ない二食どころかおやつの時間が増え、好きな菓子を手紙に書いて教えてくれるようになった。
だからその資金援助の理由である妻としての責務を果たそうと考えた。その中には当然、夜の営みが含まれている。
だが避けられている。きっかけにしやすそうな日に限ってトビーは夜に用事があった。セラは鈍くないので、あら偶然とは思わない。
いちど意を決して、今夜のご予定は?と尋ねたことがある。
トビーは何も答えなかったが、その翌日から山と海を越えた遠方に買い付けに行った。分かりやすい拒絶である。
夜が駄目なら、とセラは次に昼間にアプローチしてみることにした。
商人の妻なら目利きが出来た方が良いと教えてくれたのは別居の姑だ。結婚祝いにと服や宝石がたくさん贈られて、どこそこの布は織り綾が美しいとかそっくりな宝石の見分け方のコツだとかを教わった。
セラはそれらを積極的に吸収し、買い付けから戻っても目も合わない夫の気を引こうと試みる。昼の食事が数少ない共に過ごせる機会だったから、都度、衣服と装飾品には工夫を凝らした。それまでは実家暮らしの影響が抜けず、家の中ではエプロンにワンピースだったので、女として花が無さすぎるのが原因だとも思ったからだ。
例えば彼が隣国に行くと聞けばそこにある鉱山の宝石を身に付ける。とあるワインを出すと料理長に聞けば、そのワインの産地を治める貴族が好む意匠のドレスを選び取る。あなたの役に立てますよ、という無言の主張でもあった。
だがトビーは、座して待つセラを見て、「今日は××デルだな」と言う。
トビーはセラの身につけたものの値段を計算していた。
叫ばなかったのを褒めてほしい。
宝石に合わせて服の色と化粧を揃えたり、町で流行りの髪型を自力で再現してみたりしたのに。
着眼点がまさかの金額。
初顔合わせの悪夢を思い出して気が遠くなった。
「いいわ。そっちがその気なら私にだって考えはあるのよ」
そんなことを繰り返して今日である。一年。セラは自分にしては頑張った方だと自賛する。元来短気なのである。
トビーはセラに興味がないのかもしれない。欲しいのは家名だと最初に告げられているのだから、この努力は無意味な可能性もある。
から回るセラに、使用人たちは優しかった。セラの心が折れていないのは彼らのお陰である。
知らないことがあっても馬鹿にしないし、逆に貴族なら普通知らないことを知っていても嘲りはしない。
慣れない差配にも文句を言わず然り気無く助言してくれる。セラが気に入った花はよく花瓶を飾るようになったし、口にしなかったのに好みだと思った紅茶のブレンドは常備された。実によくできた使用人たちだった。
そんな彼らでも、トビーについては何故か口を噤む。わたくしどもからは、なんとも。悪い方ではないんですよ。
セラだって、それはよく分かっていた。色目も嘲笑もトビーは一度たりともセラへ向けていない。
過ごしやすい環境は整えてもらっている。食事も服も、娯楽も知識も、今は望めば幾らでも手に入る。
だがもう限界だ。
まる一年放置された新妻がどんな気持ちかあの男には分かるまい。
責務とか建前とかいったん全部脇に避ける。単純な話、プライドの問題である。
セラは決意した。
向こうが来ないなら此方から乗り込んでやれば良いのだ。
乗り込んでどうするのかといえば、新婚夫婦がすることといったら一つしかない。
今では古いしきたりはとっくに廃れて、初夜に見届け人を立てることはなくなった。教会で式をあげ、誓いを立てれば男女は夫婦として認められる。
だがセラとトビーは同じ家に暮らしているのに、夫婦らしい関係は全く築けていない。であればいっそ形から入れば良いと考えた。
夫婦共有の寝室とは別で、仮眠用のベッドを置いた小さな部屋が屋敷の一階にあるのを知っている。ここに来ないならそちらにいるに違いない。
服をすべて取り去り――さすがに全裸になる勇気はなかった――ぐるぐるとシーツを巻き付ける。これは商会で取り扱っている品なのでセラも値段を把握している。最初から値が分かっていれば、幾らだと突きつけられる衝撃は薄いはず。
優雅に見えるよう下ろしていた髪もザッと掻き上げ、質素な紐で手早く結ぶ。
今日は無理を言って使用人たちは全員家に帰した。住み込みで家のない者にはわざわざ宿を取らせて休養を言い渡したほどだ。
だからこの家に残っているのは、何も知らない夫のトビーと自分のみ。
セラは勇んで踏み出した。
「こんばんはごきげんよう旦那様!あなたの新妻セラですよ!」
「ギャーッ!?」
扉を押し開けると同時に腹の底から高らかに叫んだ。
セラの予想通り夫は仮眠室にいたので、片手で胸元のシーツを押さえながらずんずんと距離を詰める。
まずその大声に驚いて弾かれたように振り返ったトビーが、更に悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。尻餅をついたまま、ずざざざっ!と高速で後ずさる。
トビーがここまで動揺を露にするのは初めて見たセラはぽかんとした。
「ちょ、な、何してんだアンタ!」
「夜這いです」
「夜這い!!?」
トビーの声が盛大にひっくり返っている。
初対面の時は頑張って口調を整えていたと結婚三日目ぐらいで発覚した過去があるのだが、つまりぶっきらぼうで淡々とした語調がトビーの平素だ。声だっていつも抑え込んだような低い調子で、商人としてなら決してゴマはすらず堂々とした態度を崩さない。
そんな男が激しく動揺している。
少なくとも無関心からは脱したと見て、セラは胸を張った。
「あなたが来ないから、私から行くことにしましたの。新進気鋭の商人様は、待てない女はふしだらだなんてお考えは持ってませんわよね?」
微笑みながら座して待つだけの女を好むような男は、このご時世では生きた化石である。罷り間違ってそんな思想を口にしようものなら時代錯誤の謗りは免れない。
もっと言えば、他者にそのような疑念を向けるのは喧嘩を売るのと動議である。侮辱されたと腹を立てられても文句は言えない。
そうとわかっていて言っている。だからこれで駄目なら最早手立てがない。
どうか、トビーが何か言ってくれますように。セラは祈るようにぎゅっと目を閉じた。
が、一向に返事が返ってこない。
怪訝に思ってセラは恐る恐るトビーを見た。
トビーは湯で上がったみたいな赤面のまま固まっている。
それは奇しくも寝室を飛び出す直前のセラとよく似ていた。
「旦那様?」
トビーは何も言わない。目も合わない。
セラは不安になって、取り繕うように微笑むと謝罪を述べた。
「急ぎのお仕事中でしたか。邪魔してしまったならごめんなさい」
「そうじゃ、ねえが」
「では、何故かたくなに私の方を見ないんです?」
もしかして、この行動こそがトビーから完全に愛想を尽かされるきっかけになってしまったのだろうか。
よくよく考えれば好きでもない女がほぼ全裸で乗り込んでくるなんて、気持ち悪いに違いない。
セラは次第に背筋が冷えていくのを感じた。昔から視野が狭まりやすいから気を付けようと常々自制していたはずなのに。
黙り込む妻と挙動不審な夫。
膠着を破ったのはトビーの方だった。
「……ッ、だーもうチクショウ、そんな顔すんなよ!」
まず勢いよく立ち上がる。次いで自分の上着を乱暴に脱ぐと、ばさばさと埃を落とすように豪快に振った。それから驚くセラに大股で歩みより、付き出してきた。
「俺ので悪りぃが今すぐ着てくれ頼むから」
「はい、……?」
その時セラは初めて気がついた。
自室だからか気を抜いていたらしいトビーの襟は緩められ、袖も捲り上げられている。そこから見える太い首も、突き出された腕の内側も、すべてが真っ赤に染まっていた。
あれ?と首を傾げるセラから思い切り目線を外したまま、トビーはボソボソと続けた。
「いいか、俺たちは確かに結婚したがな。俺ァお前の家が困窮してンのを知ってて負債の返済を盾に求婚するような真似をした。……好きな女を金で買うみてぇなことして、当然って顔で手を出すほど人間性捨てちゃいない。分かったら早く着てくれ、目に毒なんだわ」
セラは理解に十秒ほど要した。今、彼はなんと言ったか。
好きな女。
――好きな女!
直後、驚きのあまり手が緩んだセラの胸元からシーツが滑り落ち。
動くものを反射的に目で追ったトビーは、何も隠すもののない肌を至近距離で目撃してしまう。
この日一番大きな声を上げたトビーの悲鳴が、二人以外誰もいない屋敷に響き渡った。




