旦那様、その手引書通りに愛されても困ります
嫁ぎ先の辺境公爵領ヴェルナーに着いたとき、馬車の窓から見えたのは、荒野でも廃墟でもなく、手入れの行き届いた麦畑だった。
「……聞いていた話と違う」
冷酷非情、社交嫌い、笑わない、人を寄せ付けない。没落伯爵家の三女であるルティア・ヴァレンスが嫁ぎ先について聞かされた情報は、どれも暗い色をしていた。
実家の借金を肩代わりしてもらう代わりの政略結婚。誰もが「お気の毒に」と言った。姉は泣いた。父は何も言えなかった。
覚悟はしてきた。けれど、麦畑は金色に輝いているし、領都の通りには花が飾られているし、屋敷の門番は笑顔で会釈をくれた。
冷酷な公爵領とは。
案内された応接間で、辺境公爵セドリック・ヴェルナーは椅子から立ち上がった。銀灰色の髪、切れ長の目、無表情。なるほど、確かに怖い顔をしている。
だが。
「ようこそ。これを」
差し出されたのは、剣でも離縁状でもなかった。
革の装丁に金文字で『婚姻生活手引書』と刻まれた、分厚い冊子だった。
「…………」
ずしりと重い。表紙をめくると、目次が丁寧な手書きで並んでいた。
第1章 朝の挨拶——適切な距離と角度について
第2章 食事の席順——向かい合うか隣り合うか
第3章 会話の話題——初月に適したもの一覧
第5章 褒め言葉——頻度と適切な間隔
第12章 涙への対応——緊急時の手順
第23章 手を繋ぐ——段階的導入計画
第47章 (空白)
「……47章あるんですか」
「ある」
「手書きですか」
「書いた」
「……全部お一人で?」
「他に誰が書く」
無表情のまま、小さく頷いた。
「読んでおいてほしい。不明な点があれば質問を。随時受け付ける」
冷酷と聞いていた。非情と聞いていた。
けれど、47章を手書きで書くような人が、本当に冷酷だろうか。
部屋に通されて、手引書を開いた。
第1章。朝の挨拶。
『起床後、廊下で遭遇した際は「おはようございます」と声をかける。距離は2歩分を保つ。急に接近すると驚かせる可能性がある。なお、寝癖がついている場合でも指摘しない方がよいとの文献あり(「貴婦人との暮らし方」第3版、187頁)。ただし、寝癖が著しい場合は本人が気づいていない可能性もあるため、対応に迷う。要検討』
ルティアは手引書をそっと閉じた。もう一度開いた。もう一度読んだ。
「……この人、真面目すぎて逆に怖い」
荷物から栞を一枚取り出した。母が持たせてくれた押し花の栞。第1章に挟んだ。理由は分からない。ただ、この章を忘れたくないと思った。
翌朝。廊下で公爵と遭遇した。
「おはようございます」
きっちり2歩分の距離を保って立っていた。背筋が定規のようにまっすぐだ。
「……おはようございます」
「よく眠れたか」
「はい」
「そうか。手引書は」
「途中まで」
「不明な点は」
「たくさん」
「……随時受け付ける」
そう言って去っていった。きっちり2歩の距離のまま。振り返らなかった。
ルティアは廊下に一人残されて、少しだけ笑った。
3日目の夜、手引書の余白にペンを走らせた。
第5章「褒め言葉——頻度と適切な間隔」の余白。
『3日に1回では少なすぎます。かといって毎食ごとは多すぎます。あと「本日の髪型は適切です」は褒め言葉ではありません。適切かどうかを判定されても嬉しくないです』
翌日の朝食後、手引書を返却した。
「余白に少し書き込みました」
公爵はその場で開いた。読んでいる。眉が微かに動いた。
「……なるほど。改訂する」
2日後、改訂版が届いた。表紙に『第2版 ルティア殿のご指摘を反映』と几帳面に記されていた。
第5章が書き直されている。
『褒め言葉の改訂例:
・本を読んでいるときの横顔がきれいだ
・声が落ち着いていて、聞きやすい
・手引書への添削が的確で助かっている
※上記はいずれも事実に基づくものであり、社交辞令ではない。念のため補足する』
ルティアはしばらく第2版を持ったまま動けなかった。直接言えないくせに、文字にすると真っ直ぐだ。
新しい栞を挟んだ。2枚目。
6日目。来客があった。
隣領の男爵夫妻が表敬訪問に来て、公爵は応接間で出迎えた。ルティアは隣室で茶の用意をしながら、壁越しに会話を聞いていた。
「公爵閣下、ご結婚おめでとうございます。奥方様はお元気で?」
「元気だ」
「それは何より。奥方様のお好きなものなどあれば、今度お持ちしますわ」
「……少々待て」
物音がした。紙をめくる音だった。
「手引書の第8章によると、妻は柑橘系の焼き菓子を好む。以上だ」
「……て、手引書?」
男爵夫人の困惑した声が聞こえた。ルティアは隣室で額を押さえた。
来客対応に手引書を持ち出す人が、この世界のどこにいるのか。
来客が帰った後、ルティアは応接間に入った。
「セドリック様」
「何か」
「来客の前で手引書を開くのはやめてください」
「必要な情報が記載されている」
「記載されていても、です」
「なぜだ」
「……怖がられます」
「怖がられているのか」
「はい」
「困ったな。第37章に『社交的であること』と書いたのだが」
ルティアは口元を押さえた。笑ってはいけない場面だ。たぶん。
「書いただけでは社交的にはなりません」
「では、どうすればいい」
「……私が隣にいます。来客のときは私が話します」
「助かる」
公爵は初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。それが彼の安堵の表現なのだと、ルティアはもう分かっていた。
7日目。第23章「手を繋ぐ——段階的導入計画」に到達した。
『段階1:同じ方向を歩く(1週目)
段階2:腕の距離まで接近する(2週目)
段階3:手の甲に軽く触れる(3週目以降。相手の許可を得てから)
段階4:指を絡める(時期未定。要協議)
※段階3から4への移行には双方の合意が必要。一方的な進行は手引書の趣旨に反する
※手が冷たい場合に備え、事前に温めておくことが望ましい(文献未確認。経験則)』
余白にこう書いた。
『4段階で1か月以上かかる計画は政略結婚でも聞いたことがありません。あと「手が冷たい場合に温めておく」は文献ではなく常識です』
夕食後、庭を散歩していたとき。公爵が隣を歩いていた。きっちり腕一本分の距離。
「セドリック様」
「何か」
「いま段階いくつですか」
「2」
「計画通りですか」
「計画通りだ」
ルティアは足を止めた。
「手を繋ぐのにフローチャートを使う人を、私は生まれて初めて見ました」
「効率的だろう」
「効率の問題ではないんです」
公爵が首を傾げた。本気で意味が分かっていない。
困っているのに嫌ではない。不思議だった。
10日目。使用人のマルタが洗濯物を畳みながら言った。
「奥様、旦那様がまた手引書を書き直しておられましたよ」
「……また?」
「第3版だそうです。奥様のお好きなお茶の銘柄を全章に反映されたとか」
「全章に? お茶と関係ない章にもですか」
「第23章の改訂理由が、『散歩前に温かいお茶を飲めば手が冷たくならない。前提条件の変更により段階3への移行を前倒し可能』だそうです」
ルティアは膝の上のティーカップを見つめた。確かに好きな銘柄の茶葉だった。
「マルタさん」
「はい」
「あの人は、いつも、こうなんですか」
「いいえ。奥様がいらしてからですよ」
マルタがにこにこしている。
「目が違うんです、昔とは」
14日目。実家から手紙が届いた。
『辺境での暮らしは大丈夫ですか。無理をしているなら帰ってきてもいいのですよ』
姉の字だった。行間に心配がにじんでいる。
ルティアはペンを取った。
『ご心配なく。手引書が第4版になりましたので、帰る暇がありません』
封をした。迷わなかった。
帰りたくないのだ、と自分で分かっていた。
ただ、それが「手引書が面白いから」なのか「手引書を書いた人がいるから」なのか、ルティアはまだ自分に訊かないことにした。訊いてしまったら、政略で来ただけの自分が、あの真面目な人に何かを期待してしまう。それは、手引書のどこにも書かれていない領域だ。
18日目の朝。
手引書を読み返していて気づいた。47章のうち、栞を挟んでいない章がほとんどなくなっていた。
午後、公爵の書斎を訪ねた。本棚を見せてもらっている最中、机の引き出しが半開きになっていた。中にもう一冊、薄い手帳があった。表紙に何も書かれていない。
「……セドリック様、これは」
「見るな」
初めて、声に色がついた。低い声がほんの少し揺れた。
ルティアは見た。
『ルティア殿の観察記録
・読書中に口元が緩むのは、物語の佳境に入ったとき
・紅茶を飲むとき、最初に香りを確かめる癖がある
・手紙を書く前に、指先で紙の端を撫でる
・笑うとき、少しだけ左に首を傾ける
・初日、手引書を読んで笑った。書いてよかったと思った
・5日目、余白に書き込みを返してくれた。嬉しかった
・7日目、「困ります」と言いながら笑っていた。意味が分からなかった。だが胸が痛んだ
・本日、書斎に来た。本棚を見ている横顔が美しかった。記録する』
ルティアは手帳を閉じた。指が震えていた。
「……これは」
「調査だ。第4章に記載がある。配偶者の好みを理解するには日常的な観察が——」
「それは調査じゃないです」
「何だ」
真顔だった。
「好き、って言うんです。これは」
公爵は黙った。耳が赤くなった。首まで赤くなった。
「……そうか」
「はい」
「そうだったのか」
公爵は窓の外を見た。ルティアも黙った。
胸が痛かった。同じ場所が。
23日目。実家から再び手紙が届いた。父と姉の連名で「様子を見に行く」と書いてあった。
3日後、父と姉が領を訪れた。
出迎えたのは、手入れの行き届いた庭と、ルティアの好みに改装された書斎と、第5版の手引書だった。食事はルティアが好む薄味。窓辺には彼女が好きだと一度も言ったことのない——けれど確かに好きな——白い小花が飾られていた。
「ルティア」
父が食後に言った。
「あの公爵は、お前のことをよく見ておる」
「存じております」
「……冷酷とは聞いておったが」
「ええ。私もそう聞いておりました」
姉は帰り際、馬車に乗り込む寸前にルティアを抱きしめた。「あなた、すごくいい顔してる」とだけ言った。
馬車が遠ざかるのを門の前で見送った。哀れまれて送り出された先で、こんなに穏やかでいられるとは思わなかった。
30日目。
書斎を訪ねた。
「セドリック様。手引書の第47章が空白のままです」
「……ああ」
「何を書くつもりだったんですか」
公爵は手引書を開いた。最後のページ。白紙。
「分からなかった。第1章から第46章まで全部調べた。文献も読んだ。他家の事例も参照した。だが、これだけはどこにも書いてなかった」
手引書を閉じた。
「好きだと伝える手順が分からなかった。文献の例文は全部他人の言葉だ。借り物では意味がない。自分の言葉で書こうとすると——何度書いても消した。46章分の知識があって、これだけが書けなかった」
ルティアは最後のページを開いた。白紙だが、何十回も書いては消した跡が紙の繊維に残っている。
「セドリック様」
「何だ」
「第3章の会話の話題一覧に、『天候、食事、書物、花の名前』と書いてありました」
「書いた」
「私が好きな話題ばかりです」
「……」
「第8章のお茶の銘柄は、私が社交界で一度だけ『美味しい』と言ったものでした」
「……覚えていたか」
「第12章の『涙への対応』に、『決して一人にしない』と書いてありました。あれは文献からですか」
「いや」
公爵は目を伏せた。
「あれは、私が書いた」
ルティアは息を吸った。
「この手引書は——政略結婚の相手のために書いたものじゃないんですね」
公爵は答えなかった。代わりに、静かに言った。
「社交界で見かけた。隅の方で本を読んでいた。誰も話しかけない場所で、一人で、とても穏やかな顔をしていた。あの顔を毎日見たいと思った。婚姻はこちらから申し込んだ。政略でもある。だが理由はそれだけではない」
ルティアはペンを取った。
白紙の最後のページに、1行だけ書いた。
『第47章 これは栞がなくても覚えている』
公爵が読んだ。
「栞が要らないということは」
「忘れない、ということです」
手引書から栞を1枚ずつ抜いた。第1章の栞。第5章の。第12章の。第23章の。母がくれた押し花の栞を含めて、全部。
「もう要りません。全部覚えましたから」
公爵はルティアの手元を見ていた。
「……私も覚えている。手帳を見なくても。君が笑うと首を左に傾けることも、紅茶の香りを先に確かめることも、手引書に書き込みを返してくれた日のことも」
ルティアの目が熱くなった。
「最初からだったんですね」
「最初からだった」
公爵は何も言わなかった。
代わりに、段階を全部飛ばして手を握った。第23章の手順を完全に無視した、不器用で、ぎこちなくて、少しだけ震えている手だった。
ルティアは握り返した。
手引書に書いてない行動をするのは、この人にとって、たぶん、とても怖かったのだ。
だからこの手は、47章の全部より重い。
後日。
使用人のマルタが書斎の掃除をしていて、手引書が机に開かれているのを見つけた。最後のページにルティアの字で1行。その下に公爵の字でもう1行。
『第48章は不要。彼女がいれば手引書はもう要らない』
マルタはそっと手引書を閉じた。
閉じた手引書の間から、たくさんの栞がはみ出していた。抜いたはずの栞が全部戻されていた。二人分の栞が、同じページに重なっていた。
これは、冷酷公爵と呼ばれた不器用な男と、没落伯爵家の聡明な三女の、47章から始まった恋の話。
いちばん大事なことは、手引書には書いてなかった。
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