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旦那様、その手引書通りに愛されても困ります

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/15

 嫁ぎ先の辺境公爵領ヴェルナーに着いたとき、馬車の窓から見えたのは、荒野でも廃墟でもなく、手入れの行き届いた麦畑だった。


「……聞いていた話と違う」


 冷酷非情、社交嫌い、笑わない、人を寄せ付けない。没落伯爵家の三女であるルティア・ヴァレンスが嫁ぎ先について聞かされた情報は、どれも暗い色をしていた。

 実家の借金を肩代わりしてもらう代わりの政略結婚。誰もが「お気の毒に」と言った。姉は泣いた。父は何も言えなかった。

 覚悟はしてきた。けれど、麦畑は金色に輝いているし、領都の通りには花が飾られているし、屋敷の門番は笑顔で会釈をくれた。

 冷酷な公爵領とは。


 案内された応接間で、辺境公爵セドリック・ヴェルナーは椅子から立ち上がった。銀灰色の髪、切れ長の目、無表情。なるほど、確かに怖い顔をしている。

 だが。


「ようこそ。これを」


 差し出されたのは、剣でも離縁状でもなかった。

 革の装丁に金文字で『婚姻生活手引書』と刻まれた、分厚い冊子だった。


「…………」


 ずしりと重い。表紙をめくると、目次が丁寧な手書きで並んでいた。


 第1章 朝の挨拶——適切な距離と角度について

 第2章 食事の席順——向かい合うか隣り合うか

 第3章 会話の話題——初月に適したもの一覧

 第5章 褒め言葉——頻度と適切な間隔

 第12章 涙への対応——緊急時の手順

 第23章 手を繋ぐ——段階的導入計画

 第47章 (空白)


「……47章あるんですか」

「ある」

「手書きですか」

「書いた」

「……全部お一人で?」

「他に誰が書く」


 無表情のまま、小さく頷いた。


「読んでおいてほしい。不明な点があれば質問を。随時受け付ける」


 冷酷と聞いていた。非情と聞いていた。

 けれど、47章を手書きで書くような人が、本当に冷酷だろうか。


 部屋に通されて、手引書を開いた。


 第1章。朝の挨拶。

 『起床後、廊下で遭遇した際は「おはようございます」と声をかける。距離は2歩分を保つ。急に接近すると驚かせる可能性がある。なお、寝癖がついている場合でも指摘しない方がよいとの文献あり(「貴婦人との暮らし方」第3版、187頁)。ただし、寝癖が著しい場合は本人が気づいていない可能性もあるため、対応に迷う。要検討』


 ルティアは手引書をそっと閉じた。もう一度開いた。もう一度読んだ。


「……この人、真面目すぎて逆に怖い」


 荷物から栞を一枚取り出した。母が持たせてくれた押し花の栞。第1章に挟んだ。理由は分からない。ただ、この章を忘れたくないと思った。


 翌朝。廊下で公爵と遭遇した。


「おはようございます」


 きっちり2歩分の距離を保って立っていた。背筋が定規のようにまっすぐだ。


「……おはようございます」

「よく眠れたか」

「はい」

「そうか。手引書は」

「途中まで」

「不明な点は」

「たくさん」

「……随時受け付ける」


 そう言って去っていった。きっちり2歩の距離のまま。振り返らなかった。

 ルティアは廊下に一人残されて、少しだけ笑った。


 3日目の夜、手引書の余白にペンを走らせた。


 第5章「褒め言葉——頻度と適切な間隔」の余白。


『3日に1回では少なすぎます。かといって毎食ごとは多すぎます。あと「本日の髪型は適切です」は褒め言葉ではありません。適切かどうかを判定されても嬉しくないです』


 翌日の朝食後、手引書を返却した。


「余白に少し書き込みました」


 公爵はその場で開いた。読んでいる。眉が微かに動いた。


「……なるほど。改訂する」


 2日後、改訂版が届いた。表紙に『第2版 ルティア殿のご指摘を反映』と几帳面に記されていた。


 第5章が書き直されている。


『褒め言葉の改訂例:

 ・本を読んでいるときの横顔がきれいだ

 ・声が落ち着いていて、聞きやすい

 ・手引書への添削が的確で助かっている

 ※上記はいずれも事実に基づくものであり、社交辞令ではない。念のため補足する』


 ルティアはしばらく第2版を持ったまま動けなかった。直接言えないくせに、文字にすると真っ直ぐだ。

 新しい栞を挟んだ。2枚目。


 6日目。来客があった。

 隣領の男爵夫妻が表敬訪問に来て、公爵は応接間で出迎えた。ルティアは隣室で茶の用意をしながら、壁越しに会話を聞いていた。


「公爵閣下、ご結婚おめでとうございます。奥方様はお元気で?」

「元気だ」

「それは何より。奥方様のお好きなものなどあれば、今度お持ちしますわ」

「……少々待て」


 物音がした。紙をめくる音だった。


「手引書の第8章によると、妻は柑橘系の焼き菓子を好む。以上だ」

「……て、手引書?」


 男爵夫人の困惑した声が聞こえた。ルティアは隣室で額を押さえた。

 来客対応に手引書を持ち出す人が、この世界のどこにいるのか。


 来客が帰った後、ルティアは応接間に入った。


「セドリック様」

「何か」

「来客の前で手引書を開くのはやめてください」

「必要な情報が記載されている」

「記載されていても、です」

「なぜだ」

「……怖がられます」

「怖がられているのか」

「はい」

「困ったな。第37章に『社交的であること』と書いたのだが」


 ルティアは口元を押さえた。笑ってはいけない場面だ。たぶん。


「書いただけでは社交的にはなりません」

「では、どうすればいい」

「……私が隣にいます。来客のときは私が話します」

「助かる」


 公爵は初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。それが彼の安堵の表現なのだと、ルティアはもう分かっていた。


 7日目。第23章「手を繋ぐ——段階的導入計画」に到達した。


『段階1:同じ方向を歩く(1週目)

 段階2:腕の距離まで接近する(2週目)

 段階3:手の甲に軽く触れる(3週目以降。相手の許可を得てから)

 段階4:指を絡める(時期未定。要協議)

 ※段階3から4への移行には双方の合意が必要。一方的な進行は手引書の趣旨に反する

 ※手が冷たい場合に備え、事前に温めておくことが望ましい(文献未確認。経験則)』


 余白にこう書いた。


『4段階で1か月以上かかる計画は政略結婚でも聞いたことがありません。あと「手が冷たい場合に温めておく」は文献ではなく常識です』


 夕食後、庭を散歩していたとき。公爵が隣を歩いていた。きっちり腕一本分の距離。


「セドリック様」

「何か」

「いま段階いくつですか」

「2」

「計画通りですか」

「計画通りだ」


 ルティアは足を止めた。


「手を繋ぐのにフローチャートを使う人を、私は生まれて初めて見ました」

「効率的だろう」

「効率の問題ではないんです」


 公爵が首を傾げた。本気で意味が分かっていない。

 困っているのに嫌ではない。不思議だった。


 10日目。使用人のマルタが洗濯物を畳みながら言った。


「奥様、旦那様がまた手引書を書き直しておられましたよ」

「……また?」

「第3版だそうです。奥様のお好きなお茶の銘柄を全章に反映されたとか」

「全章に? お茶と関係ない章にもですか」

「第23章の改訂理由が、『散歩前に温かいお茶を飲めば手が冷たくならない。前提条件の変更により段階3への移行を前倒し可能』だそうです」


 ルティアは膝の上のティーカップを見つめた。確かに好きな銘柄の茶葉だった。


「マルタさん」

「はい」

「あの人は、いつも、こうなんですか」

「いいえ。奥様がいらしてからですよ」


 マルタがにこにこしている。


「目が違うんです、昔とは」


 14日目。実家から手紙が届いた。


『辺境での暮らしは大丈夫ですか。無理をしているなら帰ってきてもいいのですよ』


 姉の字だった。行間に心配がにじんでいる。

 ルティアはペンを取った。


『ご心配なく。手引書が第4版になりましたので、帰る暇がありません』


 封をした。迷わなかった。

 帰りたくないのだ、と自分で分かっていた。

 ただ、それが「手引書が面白いから」なのか「手引書を書いた人がいるから」なのか、ルティアはまだ自分に訊かないことにした。訊いてしまったら、政略で来ただけの自分が、あの真面目な人に何かを期待してしまう。それは、手引書のどこにも書かれていない領域だ。


 18日目の朝。

 手引書を読み返していて気づいた。47章のうち、栞を挟んでいない章がほとんどなくなっていた。


 午後、公爵の書斎を訪ねた。本棚を見せてもらっている最中、机の引き出しが半開きになっていた。中にもう一冊、薄い手帳があった。表紙に何も書かれていない。


「……セドリック様、これは」

「見るな」


 初めて、声に色がついた。低い声がほんの少し揺れた。

 ルティアは見た。


『ルティア殿の観察記録

 ・読書中に口元が緩むのは、物語の佳境に入ったとき

 ・紅茶を飲むとき、最初に香りを確かめる癖がある

 ・手紙を書く前に、指先で紙の端を撫でる

 ・笑うとき、少しだけ左に首を傾ける

 ・初日、手引書を読んで笑った。書いてよかったと思った

 ・5日目、余白に書き込みを返してくれた。嬉しかった

 ・7日目、「困ります」と言いながら笑っていた。意味が分からなかった。だが胸が痛んだ

 ・本日、書斎に来た。本棚を見ている横顔が美しかった。記録する』


 ルティアは手帳を閉じた。指が震えていた。


「……これは」

「調査だ。第4章に記載がある。配偶者の好みを理解するには日常的な観察が——」

「それは調査じゃないです」

「何だ」


 真顔だった。


「好き、って言うんです。これは」


 公爵は黙った。耳が赤くなった。首まで赤くなった。


「……そうか」

「はい」

「そうだったのか」


 公爵は窓の外を見た。ルティアも黙った。

 胸が痛かった。同じ場所が。


 23日目。実家から再び手紙が届いた。父と姉の連名で「様子を見に行く」と書いてあった。


 3日後、父と姉が領を訪れた。

 出迎えたのは、手入れの行き届いた庭と、ルティアの好みに改装された書斎と、第5版の手引書だった。食事はルティアが好む薄味。窓辺には彼女が好きだと一度も言ったことのない——けれど確かに好きな——白い小花が飾られていた。


「ルティア」


 父が食後に言った。


「あの公爵は、お前のことをよく見ておる」

「存じております」

「……冷酷とは聞いておったが」

「ええ。私もそう聞いておりました」


 姉は帰り際、馬車に乗り込む寸前にルティアを抱きしめた。「あなた、すごくいい顔してる」とだけ言った。

 馬車が遠ざかるのを門の前で見送った。哀れまれて送り出された先で、こんなに穏やかでいられるとは思わなかった。


 30日目。

 書斎を訪ねた。


「セドリック様。手引書の第47章が空白のままです」

「……ああ」

「何を書くつもりだったんですか」


 公爵は手引書を開いた。最後のページ。白紙。


「分からなかった。第1章から第46章まで全部調べた。文献も読んだ。他家の事例も参照した。だが、これだけはどこにも書いてなかった」


 手引書を閉じた。


「好きだと伝える手順が分からなかった。文献の例文は全部他人の言葉だ。借り物では意味がない。自分の言葉で書こうとすると——何度書いても消した。46章分の知識があって、これだけが書けなかった」


 ルティアは最後のページを開いた。白紙だが、何十回も書いては消した跡が紙の繊維に残っている。


「セドリック様」

「何だ」

「第3章の会話の話題一覧に、『天候、食事、書物、花の名前』と書いてありました」

「書いた」

「私が好きな話題ばかりです」

「……」

「第8章のお茶の銘柄は、私が社交界で一度だけ『美味しい』と言ったものでした」

「……覚えていたか」

「第12章の『涙への対応』に、『決して一人にしない』と書いてありました。あれは文献からですか」

「いや」


 公爵は目を伏せた。


「あれは、私が書いた」


 ルティアは息を吸った。


「この手引書は——政略結婚の相手のために書いたものじゃないんですね」


 公爵は答えなかった。代わりに、静かに言った。


「社交界で見かけた。隅の方で本を読んでいた。誰も話しかけない場所で、一人で、とても穏やかな顔をしていた。あの顔を毎日見たいと思った。婚姻はこちらから申し込んだ。政略でもある。だが理由はそれだけではない」


 ルティアはペンを取った。

 白紙の最後のページに、1行だけ書いた。


『第47章 これは栞がなくても覚えている』


 公爵が読んだ。


「栞が要らないということは」

「忘れない、ということです」


 手引書から栞を1枚ずつ抜いた。第1章の栞。第5章の。第12章の。第23章の。母がくれた押し花の栞を含めて、全部。


「もう要りません。全部覚えましたから」


 公爵はルティアの手元を見ていた。


「……私も覚えている。手帳を見なくても。君が笑うと首を左に傾けることも、紅茶の香りを先に確かめることも、手引書に書き込みを返してくれた日のことも」


 ルティアの目が熱くなった。


「最初からだったんですね」

「最初からだった」


 公爵は何も言わなかった。

 代わりに、段階を全部飛ばして手を握った。第23章の手順を完全に無視した、不器用で、ぎこちなくて、少しだけ震えている手だった。


 ルティアは握り返した。


 手引書に書いてない行動をするのは、この人にとって、たぶん、とても怖かったのだ。

 だからこの手は、47章の全部より重い。


 後日。

 使用人のマルタが書斎の掃除をしていて、手引書が机に開かれているのを見つけた。最後のページにルティアの字で1行。その下に公爵の字でもう1行。


『第48章は不要。彼女がいれば手引書はもう要らない』


 マルタはそっと手引書を閉じた。

 閉じた手引書の間から、たくさんの栞がはみ出していた。抜いたはずの栞が全部戻されていた。二人分の栞が、同じページに重なっていた。


 これは、冷酷公爵と呼ばれた不器用な男と、没落伯爵家の聡明な三女の、47章から始まった恋の話。

 いちばん大事なことは、手引書には書いてなかった。


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