第9話 ヴィラ
朝、ファルが地図を広げた。
「東側がまだほとんど白紙だ。今日はここを潰したい」
指先が、地図の右側を叩く。
川の先、森が深くなる方向。昨夜、気配がした方角だ。
「賛成」と僕は言った。「昨夜の気配も、東だったから」
ファルが少し目を細めた。
「今朝は感じたか」
「《波長理解》で確認したけど、遠くに薄く残ってる程度だった。今のところは来てない」
「……行くなら早い方がいい。戻りに時間がかかるようなら引き返す」
「了解」
シロがすでに立ち上がっていた。
「先行する」
ドナンが作業の手を止めずに言った。
「何かあれば戻れ」
「もちろん」
レイスが設計図から顔を上げた。
「壁の一面は今日中に終わらせる。夕飯までには帰ってきてくれ」
「了解です」
三人と一匹で、東へ向かった。
*
森が深くなるにつれて、空気が変わった。
じんわりと重い感覚。
魔力が濃い。
「《波長理解》に引っかかってくる」
「私も感じる」とファルが言った。「地面が違う。踏み心地が重い」
探索者の感覚だ。
足裏で地面を読んでいる。
シロが低く言った。
「魔力が溜まっている場所がある。近い」
「どっちだ」
「……まっすぐ」
三人で足を進める。
木々の密度が増す。光が届きにくくなる。
そして、開けた。
崖の手前に出た。
高さ十メートルほどの岩壁。その根元に、暗い口が開いていた。
洞窟だ。
ただの洞窟じゃない。
入口から、魔力が漏れ出している。濃い。石柱の丘で感じたものに似ているが、密度が違う。こちらの方が、ずっと濃縮されている。
《波長理解》を向けると、揺らぎが重なり合って見えた。
「……すごい濃度だ」
『高濃度魔力空間を確認。内部の構造は不明。通常の洞窟とは異なる魔力の流れを検知します』
「ダンジョンだ」とファルが言った。声が、少し変わった。探索者の目になっている。
「見たことあるんですか」
「数度。ただ、これほど濃度の高いものは初めて見る」ファルが入口を観察しながら言った。「魔力が外に漏れているということは、内部は相当の密度だ。無策で入れるものじゃない」
「今日は入らない方がいいか」
「絶対に入るな」ファルが断言した。「準備なしでここに入ったら、魔力酔いを起こす。最悪、出られなくなる」
「魔力酔い」
「空気中の魔力が濃すぎると、体が制御できなくなる。スキルが暴走したり、判断力が落ちたりする。探索者なら基本中の基本だ」
「……知らなかった」
「お前は冒険者だろ。習わなかったのか」
「底辺冒険者だったので」
ファルが少し間を置いた。
「……なるほど」
それ以上は言わなかった。
優しい人だと思った。
シロが入口の傍で鼻を利かせていた。
「中に魔物はいるか」
「いる。ただ、奥だ。入口付近は今のところ静かだ」
「今のところ、か」
「濃度が高い場所の魔物は強い。ここから先は別の話になる」とファルが言った。「準備を整えてから来よう。今日は場所を把握するだけでいい」
僕は地図を広げた。
崖の位置。洞窟の入口。周囲の地形。
丁寧に書き加える。
「ファルさんって、ダンジョンに入るとき何を準備するんですか」
「魔力遮断の道具。解毒薬。光源。それと、必ず複数人で入る。一人では絶対に行かない」
「そういうルールがあるんですか」
「私が決めたルールだ」ファルが静かに言った。「一度、仲間を亡くしてから」
誰も何も言わなかった。
風が吹いて、洞窟の入口から魔力の流れが揺れた。
「……行こう」とファルが言った。「情報は十分だ」
地図を折りたたんで、来た道を戻り始めた。
*
帰り道の途中だった。
《波長理解》が、左側で揺れた。
複数。
それも、かなり多い。
「シロ」
「知ってる。七、いや八つ」
ファルが剣に手をかけた。
「どんな魔物だ」
「中型。魔力は中程度。ただ、数が多い」
草むらが揺れた。
現れたのは、蜥蜴に似た魔物だった。直立して歩き、爪が長く鋭い。鱗が黒光りしている。
一匹、二匹——気づけば八匹が半円を描いて囲んでいた。
『警告。黒鱗蜥蜴型魔物です。群れで行動し、連携攻撃を得意とします。個体の強さより、数と連携が脅威です』
「囲まれた」と僕は言った。
「見れば分かる」とファルが静かに答えた。声は落ち着いている。
シロが僕の前に出た。
「後ろを守れ」
「うん」
ファルが剣を抜いた。
音がなかった。鞘から剣が出る音すら、消えていた。
「カルド。弱点は」
「《慧眼》で確認します」
八匹を順番に見る。
鱗の薄い場所。首の付け根、左側。脇腹の鱗が逆立っている場所。そこだ。
「首の左側と、脇腹の鱗が逆立ってる場所。そこが薄い」
「了解」
魔物が動いた。
三匹が同時にファルへ向かう。
二匹がシロへ。
三匹が僕へ。
「来る——」
《高速移動》で横に跳ぶ。
一匹をやり過ごして、火球を脇腹に叩き込む。
命中。鱗が割れた。
一匹が怯む。
シロが向かってきた二匹の間をすり抜けた。
速い。魔物が反応できていない。
振り返りながら、一匹の首に牙を当てる。正確に、弱点を狙った。
一匹、動かなくなった。
ファルの方を見た。
三匹を相手に、まったく後退していない。
剣が、光の軌跡を描く。
一匹の攻撃を流して、そのまま体を回転させて別の一匹の首を払う。流れるような動作だった。止まっていない。常に動き続けている。
「……すごい」
思わず声が出た。
『ファル氏の剣技は高度な連携対応型です。複数の攻撃を一つの動作で捌きながら反撃に転じています』
案内人が珍しく他人のスキルを分析した。
残り五匹。
僕が怯ませた一匹にシロが追撃を入れて、二匹目が倒れた。
残り四匹。
ファルが三匹のうち一匹を仕留めた。
残り三匹。
三匹が一度下がって、また半円を作り直そうとした。
「逃がすな」とファルが言った。
シロが一匹を追って、森の中に消えた。
僕が《慧眼》で残り二匹の弱点を確認して、収束した火球を脇腹に叩き込む。
一匹、動かなくなった。
残り一匹。
その一匹が、少し距離を取った。
仲間が減ったことで、本能が退くよう叫んでいるのかもしれない。
でも、遅かった。
ファルが地面を蹴った。
剣を大きく引いて、弧を描くように振る。
風が鳴った。
一撃。
それは斬撃というより、波だった。
剣の軌跡が空気ごと圧縮されて、魔物の鱗を吹き飛ばす。
広範囲に、魔力の余波が広がった。
魔物が倒れた。
静寂。
シロが森から戻ってきた。
「こちらも終わった」
全滅。
「……ファルさん、今の最後の技」
ファルが剣を鞘に戻した。
「《圧剣》だ。魔力を剣に乗せて、広範囲に解放する。消耗が激しいから最後の手段だが」
「あれがスキルなんですか」
「私のスキルだ」
「一つだけ持ってるということですか」
「そうだ」ファルが少し笑った。「たった一つだが、十分だと思っている」
《圧剣》。
広範囲の剣技。
ファルが探索者として一人でも生き残ってきた、その力の核心だ。
「かっこいいです」
ファルが少し目を逸らした。
「……慣れないことを言うな」
シロが「同感だ」と短く言った。
ファルの耳が、少し赤くなった気がした。
*
拠点に戻ると、壁の一面が完成していた。
岩壁と板材が組み合わさって、しっかりとした壁になっている。昨日の屋根に続いて、小屋らしい形になってきた。
「おかえり」とレイスが言った。「何かあったか」
「いくつか」
食事の準備をしながら、今日の報告をした。
ダンジョンの発見。魔物との戦闘。
ドナンが「ダンジョンか」と低く言った。
「行くつもりか」
「準備してから。ファルさんが必要なものを教えてくれました」
「魔力遮断の道具は作れる」とドナンが言った。「素材があれば」
「どんな素材ですか」
「魔力を通さない鉱石だ。この島にあるかどうか」
「調べてみます」
レイスが「ダンジョンの濃度はどのくらいだったか」と聞いた。
「石柱の丘より高かった。案内人が既存データと一致しないと言ってました」
レイスが少し目を細めた。
「この島は、普通じゃないな」
「そうみたいです」
「島全体が、何かの力で維持されているのかもしれない」
「そう感じることはあります」
「石柱。高濃度の洞窟。山の頂の存在。東の気配」レイスが静かに並べた。「全部、繋がっているように見える」
「……僕もそう思ってます」
食事が始まった。
今日はファルが仕留めた黒鱗蜥蜴の肉を焼いた。脂が多くて、香ばしい匂いが漂う。
「うまい」とドナンが言った。
「鱗を剥ぐのが大変でしたけど」
「鱗は素材になる。捨てるな」
「取っておきます」
食事が進むうちに、会話が広がった。
レイスが「ヴァルク国を出てから、各地を見てきたが」と切り出した。
「世界は今、穏やかではない」
「魔王の話ですか」
「お前も知っているか」
「冒険者だったので、噂程度は」
「五年ほど前から、魔王の動きが活発になっている」とレイスが言った。「幹部が各地に現れて、国を脅かしている。ヴァルク国も無関係ではない」
「ヴァルク国にも来たんですか」
「幹部の一人が国境近くまで来た。ただ」
レイスが少し間を置いた。
「その幹部は、ヴィラが倒した」
「ヴィラ」
「世界最強の魔法使いと呼ばれている人間だ」とファルが言った。「単独で魔王幹部を撃破した。それだけでも化け物じみているが、エクストラスキルを持っているという噂がある」
エクストラスキル。
「……エクストラスキルって、なんですか」
「複数のスキルが融合して生まれる、上位のスキルだ」とレイスが言った。「理論上は存在すると言われていたが、実際に持つ者はほとんどいない。魔王や幹部クラスに稀に見られるという話だが」
「人間でも持てるんですか」
「ヴィラが証明したとも言われている。ただ、確認した者はいない。本人が姿を見せないから」
「どんな人なんですか」
「謎が多い」とファルが言った。「単独行動で、国に属さない。助けを求めていない場所にも現れることがある。悪意があると思われている節もあるが、実際に害を与えたという話は聞かない」
「……何がしたいんでしょうね」
「さあ」とファルが言った。「でも、幹部を一人減らしてくれたのは事実だ。それだけは感謝している」
ドナンが「会ったことがある」と言った。
全員が、ドナンを見た。
「いつですか」
「旅の途中で。一度だけ」
「どんな人でしたか」
ドナンはしばらく考えた。
「……静かな人だった。目が、遠くを見ていた」
それ以上は言わなかった。
でも、ドナンが「静かな人だった」と言ったことが、何となく印象に残った。
レイスが「ヴィラのことは誰も正確には知らない。ただ、存在しているということは確かだ」と締めた。
「いつか会ってみたいな」
「会えるかどうかも分からない。でも、お前なら会えるかもしれないな」
真剣な顔でファルは言った。
「なんでですか」
「変な人間には、変な人間が引き寄せられるから」
そこには笑みが溢れていた。
シロが短く「同感だ」と言った。
僕は少し笑った。
「あはは、それ褒めてます?」
あぁ、楽しいな……
*
夜が深まった。
レイスとドナンが先に寝た。
ファルが番をしながら、剣の手入れをしている。
僕は地図に今日の発見を書き加えた。
ダンジョンの入口。周囲の地形。帰り道の魔物の生息域。
「ファルさん」
「何だ」
「今日の《圧剣》、本当にかっこよかったです」
ファルが手を止めた。
「……さっきも言っただろ」
「もう一回言いたくて」
「……」
ファルが剣の手入れを再開した。
「お前は変なところで素直だな」
「そうですか」
「悪いことじゃない」
しばらく沈黙が続いた。
「ファルさんが仲間を亡くした話」
「……聞くな」
「ごめんなさい」
「いや」ファルが短く言った。「いつか話す。今じゃないだけだ」
「分かりました」
「お前は待てる人間か」
「待てます」
ファルが少し息を吐いた。
「……そうか」
その一言だけだった。
でも、何かが決まった気がした。
シロが「寝ろ」と言った。
「もう少し」
「番は私がやる」
「シロも寝ないと」
「眠くない」
そう言いながら、シロは目を閉じた。
「……眠そうだけどな」
返事はなかった。
地図を折りたたもうとしたとき、《波長理解》が揺れた。
東だ。
確認する。
昨夜より、大きい。
昨夜より、近い。
まだ遠い。でも、昨夜は感じなかった輪郭がある。
『東方向の高濃度魔力反応、増大を確認。昨夜比、約一・四倍。ただし接近はしていません』
「……案内人、これって」
『不明です。ただ』
一拍置いた。
『反応のパターンが、ダンジョンの魔力と類似しています』
ダンジョンと、同じパターン。
「……関係があるってこと?」
『断定できません。ただ、この島の魔力構造に共通点がある可能性があります』
石柱の丘。ダンジョン。東の気配。
レイスが言っていた通り、全部繋がっているのかもしれない。
僕は東の方向を見た。
暗い森。その先に何かがいる。
怖いかと聞かれれば、怖い。
でも、知りたいとも思う。
「……また明日、考えよう」
地図を折りたたんだ。
火が、静かに燃えている。
川の音が続いている。
東の気配は、今夜も消えなかった。




