第7話 流れ着いた者
朝、浜へ向かった。
定期的に確認するようにしていた。魔物の死骸が打ち上げられることがあるし、何より海の様子を見ておきたかった。帰れる可能性が、ゼロではないと思っているから。
シロが隣を歩く。
すっかり、当たり前の光景になっていた。
浜が見えてきたとき、《波長理解》が揺れた。
「……ん?」
反応が、いつもと違う。
魔物じゃない。もっと細かくて、複雑な揺らぎ。知っている感覚だ。
「シロ、止まって」
シロが足を止めた。耳がぴんと立っている。
「人間だ」
『確認します。複数の人間の魔力反応を感知。敵対的な波長はありません』
人間。
この島で、初めてだ。
胸の奥が、少しだけざわめいた。
怖いわけじゃない。ただ、久しぶりすぎて、どんな顔をすればいいか分からない感覚があった。
慎重に、茂みの端から浜を覗く。
船の残骸が打ち上げられていた。
かなり大きな船だ。帆は引き裂かれ、船体の半分が砂浜に乗り上げている。昨夜の嵐か。波の音がいつもより荒かったのを思い出した。
その残骸の傍に、三人がいた。
一人は大柄な男で、船の板材を黙々と確認している。手つきが手慣れている。道具を扱う人間の動きだ。感情を表に出さない、職人の静けさがある。
一人は中背の男で、残骸を眺めながら何かを書き留めている。落ち着いた様子だ。消耗しているはずなのに、所作が整っている。
一人は女で、剣を腰に下げている。浜の周囲を絶え間なく警戒するように見回していた。三人の中で一番、生き残ることに慣れた目をしていた。
三人とも、消耗している。
濡れた服。疲れた顔。でも動いている。諦めていない。
『三名です。重傷者はいません』
「……助けに行くか」
シロがこちらを見た。
「大丈夫そうか?」
「敵意はない。でも警戒はしてる」
「そりゃそうだよね」
僕は茂みを出た。
*
女が、真っ先に気づいた。
剣に手が伸びる。
素早い。鍛えている。
「待って、敵じゃないよ」
両手を上げた。
女は剣を抜かないまま、こちらを見据えている。鋭い目だ。でも手は止まっている。判断できる人間だ、と思った。
大柄な男が顔を上げた。
中背の男が書き留めるのをやめた。
三人の視線が、僕に集まる。
そして——シロに。
女の目が、わずかに見開いた。
大柄な男の手が、腰の工具袋に伸びかけて止まった。
中背の男だけが、「ほう」と小さく声を漏らした。
「その魔物は……」と女が静かに言った。「飼っているのか」
「仲間です」
間を置かずに答えた。
三人がまた顔を見合わせた。
「……仲間」と中背の男がゆっくり繰り返した。「魔物が、人間の仲間」
「変ですか」
「変だな」と大柄な男が低い声で言った。「だが、嘘をついているようには見えない」
シロは何も言わなかった。
ただ、静かに三人を見ていた。値踏みしているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、見ている。
中背の男が一歩前に出た。
「失礼した。私はレイスという。建築を生業にしている。こちらはドナン、鍛冶師だ。そしてこちらがファル、探索者だ」
丁寧な口調だった。消耗しているのに、崩れていない。この人は、どんな状況でもこういう人なんだろうと思った。
「カルドです。冒険者、だったかな。今は……この島にいます」
「この島に、か」とレイスが言った。「君も流れ着いたのか」
「そうです。少し前に」
少し間を置いてから、聞いた。
「どちらの出身ですか」
レイスがドナンとファルを一度見てから答えた。
「ヴァルク国だ」
思わず声が出そうになった。
工業技術で大陸随一と言われる国。鍛冶も建築も、あそこの職人は別格だと冒険者仲間から聞いたことがある。
「……ヴァルク国の方が、なんでこんな場所に」
「それはこちらが聞きたい」とレイスは苦笑した。「嵐に巻き込まれて気づいたらここにいた」
ドナンが低く「ああ」と言った。
ファルは何も言わなかったが、表情が少し緩んだ。
ファルが剣から手を離した。
ドナンの肩から、少し力が抜けた。
「助かった」とファルが短く言った。「ここが無人島だと思っていた」
「無人島と思って来たんですか?」
「いや」とレイスが苦笑した。「嵐に巻き込まれて流れ着いた。そもそもこの島の存在を知らなかった」
「地図にないですよね、ここ」
「……知っているのか」
「案内人に確認しました」
また、三人が顔を見合わせた。
「案内人……スキルか?」とファルが聞いた。
「そうです」
「それも変わったスキルだな」
ドナンが静かに言った。
批判じゃない。ただの感想だった。こういう言い方をする人間は、信用できる気がした。
*
残骸から使えるものを引き上げる作業を、一緒に手伝った。
ドナンは無口だが、手が早い。何をどう使うかを瞬時に判断して、黙々と動く。僕が「これはどうですか」と聞くと、短く「使える」か「いらない」か答えた。余分な言葉がない。でも必要なことは全部言う。
「この金具、鍛え直せば別の用途で使える」
そう言って、ドナンは慎重に金属部品を外し始めた。大きな手が、細かい作業を丁寧にこなしていく。
レイスは板材の状態を確かめながら、何かを計算しているようだった。「この板材なら小屋が一棟建つな」と独り言のように言った。そして僕の方を見て付け加えた。「雨露をしのげる建物があった方がいい。岩壁の下だけでは、長雨に耐えられない」
「そうですね」
「どのくらいの人数を想定している」
「……まだ分からないけど、増えるとは思っています」
レイスが少し目を細めた。何かを考えている顔だった。
ファルは警戒を続けながらも、少しずつ口数が増えた。
「魔物はどのくらいいる」
「結構います。でも拠点の周辺は把握できてるので、そこまで危険じゃない」
「把握、とは」
「魔力の波長を読んで、位置や状態を確認できます。スキルで」
レイスが立ち止まった。
「……それは、案内人とは別のスキルか」
「そうです。《波長理解》という」
三人が、また顔を見合わせた。
今度は、さっきより少し長い沈黙だった。
「二つ持っているのか」とレイスが静かに言った。
「そうなりますね」
「……」
スキルは原則、一人一つ。二つ持っているだけで、神に愛された者と呼ばれる。
レイスは何か言いかけて、やめた。
ドナンが低く「なるほど」と言った。
ファルだけが、少し目を細めてこちらを見ていた。
誰も深く聞いてこなかった。
三人とも、そういう人間らしかった。
「……それは便利だな」とファルが言った。
「助かってます」
「拠点があるのか」
「川沿いの岩壁の下に。簡単なものだけど」
「案内してもらえるか」
「もちろん」
シロがこちらを見た。
『警戒は続いています。ただ、敵意ではありません』
「分かってる」と小声で返した。
ファルが目を細めた。「今、魔物と話したのか」
「少し」
「……本当に変な人間だな」
でも、と彼女は続けた。
「嫌いじゃない」
シロがぴくりと耳を動かした。
*
拠点に着くと、三人は無言で周囲を見回した。
岩壁の天井。川の音。干した肉。壁に刻んだ地図。
レイスが地図に近づいた。
「これは君が作ったのか」
「うん。まだ全然途中だけど」
「……丁寧だな」彼は地図を眺めながら言った。「ここに来てどのくらいになる」
「少し経ちます」
「一人で、か」
「最初は。今はシロがいる」
レイスが振り返った。
シロが岩壁の端に座って、三人を静かに見ている。
「……慣れるな、なかなか」とレイスは言ったが、笑っていた。
ドナンが火の跡を確認して、「火の管理は上手い」と短く言った。
褒めているのか確認しているのか分からなかったけど、悪い気はしなかった。
ファルは拠点の入口から外を見ながら、「ここは守りやすい」と言った。「岩壁が背後を塞いでいる。川が外敵の接近を知らせる。悪くない場所を選んだ」
「ありがとう」
三人が落ち着いたところで、食事にした。
鎧熊の干し肉と、川で獲った魚。質素だけど、量はある。
ドナンが一口食べて、「悪くない」と言った。
レイスが「助かります」と頭を下げた。
ファルは何も言わずに、でも綺麗に食べた。
シロは少し離れた場所で、自分の分を静かに食べていた。
三人はそれを横目で見ながら、何も言わなかった。干渉しない。それがこの三人の流儀らしかった。
食事が落ち着いた頃、ファルが口を開いた。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「魔物と暮らして、怖くないのか」
率直な質問だった。
「最初は怖かったよ」と僕は答えた。「でも、シロは怖い存在じゃない。怯えながら生きてる存在だって分かったから」
「怯えながら」
「この島は弱肉強食だから。強い魔物が縄張りを持って、弱い魔物はその隙間で息を潜めて生きてる。シロもそうだった」
ファルが少し黙った。
レイスが静かに聞いていた。
「……人間と、似ているな」とレイスが言った。「どこの国でも、弱い者は隙間で生きる」
「そうですね」
「だから国を作るのか」
レイスの声は穏やかだった。責めているわけじゃない。ただ、繋げていた。
「うん」
レイスが口を開いた。
「カルド、もう一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「この地図を見ると、かなり広範囲を把握している。この島で、何をしようとしているんだ」
三人の視線が集まった。
シロも、こちらを見ていた。
僕は少し考えてから、正直に言った。
「国を作ろうとしてます。強いも弱いも関係なく、生きていける場所を」
沈黙。
レイスが静かに目を細めた。
ドナンが腕を組んだ。
ファルが、少し口を開けた。
「……一人で?」とファルが言った。
「今はシロがいる」
「魔物と二人で」
「うん」
また沈黙。
それからレイスが、ゆっくりと笑った。
「荒唐無稽だな」
「よく言われます」
「でも」
レイスは地図を見た。
「こうして地図を作って、拠点を整えて、魔物を仲間にしている。荒唐無稽なことを、着実にやっている」
ドナンが低く唸った。
「……船に戻れない」と彼は言った。「修理には時間がかかる。それまでの間、厄介になることはできるか」
「もちろん」
ファルが立ち上がった。
「私は探索者だ。この島の地図を完成させる手伝いくらいはできる」
「助かります」
レイスが最後に言った。
「国を作るというなら、建物が必要になる。私にできることがあるかもしれない」
僕は少し笑った。
「ありがとう」
ドナンが、ぼそりと付け加えた。
「道具が要るなら、作る」
それだけだった。でも、それで十分だった。
シロが、ぽつりと言った。
「……増えたな」
「うん」
火が、静かに燃えている。
川の音が、遠くで続いている。
夜が深まるにつれて、少しずつ会話が生まれた。
レイスが各地の建築様式の話をして、ドナンが素材の相性について短く補足した。ファルが探索中に見つけた奇妙な遺跡の話をして、僕は石柱の丘のことを少し話した。
「それは気になるな」とファルが言った。「明日、案内してもらえるか」
「もちろん」
シロはずっと黙って聞いていた。
でも眠ってはいなかった。耳が、会話の度に微妙に動いていた。
「シロは口数が少ないな」とレイスが言った。
「そういう性格で」
「悪いことじゃない。私も職人は口より手の方が正直だと思っている」
ドナンが無言で頷いた。
シロが、ほんの少しだけ、レイスの方を見た。
それだけだった。
でも、確かに見た。
地図の余白に、三つの名前を刻んだ。
ドナン。レイス。ファル。
二人目、三人目、四人目だ。
まだ白紙の部分の方が多い。
でも今日、また大きく埋まった。




