第21話 沈む地
翌朝、地面が静かだった。
いや、静かすぎた。
最初に気づいたのはドナンだった。
作業場に向かう途中、岩盤の上を歩いていたドナンの足が、一瞬だけ沈んだ。
靴の底から伝わる感触が、いつもと違った。岩が柔らかくなったわけではない。ただ、踏んだ瞬間に、地面が一呼吸分だけ、下に向かって動いた。
ドナンは足を止めた。もう一度踏んだ。
今度は何も起きなかった。
「……」
そのまま作業場に向かった。でも、しばらく足元を見ながら歩いた。
*
次に気づいたのはシロだった。
朝の見回りをしていたシロが、拠点の北側の岩場で立ち止まった。
「おかしい」
「何が」とカルドが聞いた。
「地面の匂いが変わっている。昨日と違う」
「どう違う」
「深いところから来ている。地表の匂いではない。もっと下の、普段は届かないところの匂いだ」
カルドは地面を見た。何も変わっていない。草が生えていて、岩が転がっていて、いつもの地面だった。
《波長理解》を向けた。
地表は何も感知しない。ただ——
「……深い」
「何かいるか」と、シロが聞いた。
「分からない。ただ、何かある。地面の下に、波長がある。遠い。でも、確かにある」
「魔物か」
「魔物の波長とは違う。もっと——」カルドは言葉を選んだ。「静かだ。動かない。でも、意思がある感じがする」
シロが鼻を下げて、地面に近づけた。深く吸った。「……生き物ではない。でも、死んでもいない」
二人でしばらく地面を見ていた。
地面は何も答えなかった。
*
朝食の後、カルドはドナンに話しかけた。
「今朝、足元で何か感じませんでしたか」
ドナンが少し間を置いた。「感じた。作業場に向かう途中だ」
「地面が沈んだ感覚がありましたか」
「一瞬だけ。気のせいかと思ったが」
「気のせいではないと思います。シロも地面の匂いが変わっていると言っていた。《波長理解》でも、地面の下に何か感じる」
ドナンが地面を見た。自分の足元を、じっと。「建築でいう、地盤の変化か」
「そうかもしれない」
「地盤が変わると、建物が傾く。基礎から揺らぐ」ドナンは腕を組んだ。「どこから来ている」
「北側が強い。南は今のところ普通です」
ドナンが立ち上がった。「見てくる」
「一緒に行きます」
レイスも加わった。三人で拠点の北側を歩いた。
レイスが地面を指で押した。「硬い。いつもと変わらない」
「でも匂いが違う」とシロが言った。後ろからついてきていた。
「匂いは地表ではなく地下から来ている」とカルドが言った。「《波長理解》で感じるのも、かなり深いところだ」
「どのくらい深い」
「感覚だが——十メートルより深い気がします。もしかしたらもっと」
レイスが「地下に空洞がある可能性がある」と言った。「建築の知識で言えば、地下に空洞ができると地表が少し動く。ドナンが感じた『沈む』感覚はそれかもしれない」
「空洞が、最近できたのか」
「あるいは、ずっとあったものが、最近動き始めた」
三人でしばらく黙った。
「炎だけが試練ではない」カルドは小声で言った。
レイスがカルドを見た。「サラマンダーが言った言葉か」
「そうです。」
まだ試練は終わらないのか…
*
その日の午後、ゴブリンたちの間でも話題になった。
キズラが「北側の柱が少し傾いた」と言った。昨日建てたばかりの支柱が、今朝見たら角度が変わっていた。わずかだが、確かに動いていた。
「地面が動いたのか」とレイスが聞いた。
「動いたとしか思えない。土台は固めたはずだ。でも、土台の下が変わったなら防ぎようがない」
ドナンが柱を見に行った。しばらく調べて「修正できる」と言った。「ただ、また動くなら意味がない。原因を先に分からないといけない」
ガンズが「地震か」と言った。
「地震ではない」シロが答えた。「揺れはなかった。静かに動いた」
「静かに動く地面なんてあるか」
「あった。今日それを経験した」
ガンズが「怖い」という顔をした。それから「でも戦えるか」と聞いた。
「地面と戦うのは難しい」とカルドが言った。
「精霊か」
「分からない。でも、可能性はある」
テオが「炎の次は土だな」と言った。前回のサラマンダーとの一件から、テオは精霊の話題に敏感になっていた。「炎舞剣みたいに、土に触れる方法を考えないといけないか」
「それは違うかもしれない」とカルドは言った。「サラマンダーとのことも、炎に触れることだけが目的じゃなかった。問いに答えることが核心だった」
「じゃあ土の問いは何だ」
誰も答えなかった。
*
夕方、カルドは一人で北側の岩場に戻った。
《波長理解》を向けた。
昨日よりも、波長が近くなっていた。
地面の下から来ている。深い。静かだ。炎の波長とはまったく違う。炎は揺れていた。動いていた。熱があった。
これは、動かない。
沈黙している。でも、確かにそこにある。
「……聞こえますか」
声に出してみた。
地面は何も答えなかった。
「炎の精霊とは接触しました。あなたのことは、まだよく分からない」
沈黙。
「地面が動いているのは、あなたがいるから?」
沈黙。
「それとも、僕たちに気づいてほしかったから?」
少し間を置いた。
地面が動いた。
足の裏から伝わる、わずかな振動だった。揺れではない。ただ、一瞬だけ、地面が呼吸するように動いた。
カルドは地面を見た。
答えではないかもしれない。偶然かもしれない。
でも、タイミングが合いすぎた。
「……いるんですね」
地面は何も言わなかった。
《波長理解》が、深いところの波長を拾った。昨日より近い。でも、まだ深い。地表まで出てくる気はないらしい。
「今日はここまでにします。またきます」
踵を返した。
三歩歩いたところで、足元が一瞬だけ沈んだ。
さっきドナンが経験した感覚と同じだった。
振り返った。
地面はいつも通りだった。
「……返事ですか」
答えはなかった。でも、悪い感じはしなかった。
*
夕食の後、全員に話した。
「地面の下に何かいる。まだ確認は取れていない。ただ、波長がある。意思があるように感じる」
「精霊か」とファルが聞いた。
「サラマンダーが『炎だけが試験ではない』と言った。四大精霊のうち、炎はサラマンダーだった。土を司る精霊がいるなら——」
「ノーム」とレイスが言った。「文献ではそう呼ばれていた。土と岩を司る精霊だ」
「ノーム」カルドは繰り返した。「地面の下にいるのかもしれない」
「接触するか」とシロが聞いた。
「まだ分からない。今日、声をかけてみた。返事とも取れる反応があった。でも確信はない」
「サラマンダーのときと違うな」ファルが言った。「あれは向こうから来た。今回は、こちらが探している」
「そうです。向こうの都合があるかもしれない。急かしたくない」
ドナンが「建物は直せる」と言った。「地面が動くなら、それに合わせた建て方をすればいい。素材の性質に逆らうより、従う方が長持ちする」
「さすがですね」
「職人の話だ。精霊とは別の話だ」ドナンは言ったが、少し口角が上がっていた。
コトがカルドの隣に来た。「地面の下の声、俺も感じた」
カルドは少し驚いた。「感じましたか」
「今日の朝から。ずっと足の裏がくすぐったかった」
「それを言ってくれたら——」
「言葉にしたくなかった」コトは静かに言った。「なくなる気がして」
コトらしかった。
「でも今は言いましたね」
「お前に話すのは別だ」それだけ言って、コトは丸まった。
ネグルが「俺は何も感じなかった」と言った。少し悔しそうな顔をしていた。
「ネグルは見る方が得意だから」
「見えもしなかった」
「地面の下は見えないので」
「……それはそうだな」ネグルは納得した顔で丸まった。
*
夜、火を囲んだ。
炎を見ていた。
この前の夜と同じ炎だった。でも、今日は炎より地面が気になった。足元がいつもより気になった。
炎は揺れる。動く。熱い。
土は動かない。静かだ。重い。
サラマンダーとの一件は、揺れを止めることが鍵だった。自分の炎の揺れを止めて、接触した。
ノームとの接触があるとしたら——土に触れる、とはどういうことか。
逆だろうか。
炎の揺れを止めることが接触だったなら、土に対しては——動かないことか。重さを受け入れることか。
「分からない」
独り言だった。
シロが「寝ろ」と言った。
「もう少し」
「毎日それを言う」
「毎日考えることがあるので」
シロが短く息を吐いた。
地図を広げた。
拠点の北側に小さく印をつけた。「地面の変化・波長あり」と書いた。それから、別の余白に記した。
「炎=揺れる。土=動かない。次の試験は——」
続きが書けなかった。
火が燃えている。
川の音が続いている。
足元が、一瞬だけ静かに動いた。
気のせいかもしれなかった。
でも、カルドは地面を見た。
「また明日」
地面は何も言わなかった。




