第15話 東の声
朝、デルタが拠点に来た。
いつもより早い時間だった。川の霧がまだ残っている。
「何かあったか」と僕は聞いた。
案内人が伝える。
デルタが少し間を置いた。それから、「東の声が、昨夜また近づいた」と言った。
『「近づいただけではない。止まった。待っている」』
「分かった。今日、みんなと話したい」
案内人が伝える。
デルタが頷いた。それだけで、火のそばに座った。
*
全員が揃ったのは、朝食の後だった。
珍しい顔ぶれだった。カルド、シロ、ファル、ドナン、レイス。それにデルタ。
ゴブリンたちは少し離れた場所で作業をしている。ネグルだけが、なぜか端のほうに陣取っていた。「聞こえないくらい遠い」という程度の距離に。聞こえているだろうと思ったが、追い払わなかった。
「東の気配の話をします」
「昨夜、波長で『明日会いに行く』と送りました。反応がありました。今朝、デルタから『待っている』と聞きました」
誰も口を挟まなかった。
「害意は読めない。でも確信はない。向かうかどうか、みんなの意見を聞きたい」
しばらく、沈黙があった。
「デルタ」とファルが言った。「東の声とは、何だ」
案内人が伝える。
デルタが少し目を細めた。それから、ゆっくり話し始めた。
『「古い言い伝えだ。この島に最初からある声、と言われている。悪いものではないと言われてきた。ただ、正体を知る者は誰もいない。近づこうとした者もいたが、近づけなかった」』
「近づけなかった、というのは」とレイスが言った。
『「道がなかった。東の森は深い。魔物も多い。たどり着く前に引き返した」』
「でも今は、向こうから来ている」
デルタが頷いた。
『「そうだ。それが変わったことだ。昔の言い伝えでは、声は呼ぶだけだった。こちらに来ることはなかった」』
「ダンジョンを攻略してから動き出した」とシロが言った。「僕たちが何かを変えた」
「可能性はある」
レイスが静かに言った。
「石板には『試された者よ、上に還れ。問いは続く』とあった。ダンジョンのボスを倒したことで、次の段階に進んだのかもしれない」
「山の頂の話と繋がるか」
「そう考えると筋が通る」
ドナンが腕を組んだ。
「行くなら全員か」
「それを決めたい」
僕は真剣な顔で言った。
「危険があるなら、人数を絞る方がいい場合もある。でも今回は、戦闘のための接触ではないと思っている」
「なぜ」とファルが聞いた。
「向こうが選べるなら、もう動いていたはずです。ダンジョンをクリアした直後から、観察している。でも攻撃はしていない」
「それは今まで、という話だ」
「そうです。だから断言はしない。でも、これは会話だと思っている」
ファルが少し間を置いた。
「……会話のために全員で行く必要があるか」
「ない。でも、全員に知っておいてほしい。僕が何をしようとしているのかを。それで、行きたい者だけ来てほしい」
シロが「行く」と言った。間を置かずに。
ドナンが「俺も」と言った。それだけだった。
レイスが「記録が必要だ。私も行く」と言った。
全員がファルを見た。
ファルは少し視線を落とした。火のそばで、両膝に手を置いたまま、何かを考えていた。
「ファル」と僕は言った。「無理に来なくていい」
「そういうことではない」とファルが言った。「……少し、思い出したことがある」
誰も急かさなかった。
「前に組んでいた仲間が、いた。四人いた。ある場所で、原因が分からない何かに接触した。一人が先に進もうとした。止めることができなかった。その者は戻ってこなかった」
静かな声だった。感情を乗せていない声だが、だからこそ、重かった。
「詳しくは話せない。まだ話す準備がない。ただ——」ファルが顔を上げた。
「正体が分からないものに近づくときは、引き返す条件を決めてから行け。あのとき、それをしていなかった」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。条件を決めるなら、一緒に決める」
それがファルの答えだった。
*
引き返す条件を決めた。
《波長理解》が敵対的な波長を感知したら即撤退。案内人が「断定できない」と言った時点で立ち止まる。デルタは拠点で待つ。ゴブリンたちには理由を伝えて、僕たちが戻るまで拠点を守ってもらう。
デルタが「分かった」と言った。それから付け加えた。
『「戻ってこい」』
「戻ります」
デルタが短く頷いた。
ネグルが端のほうから近づいてきた。袖を引っ張った。
「聞こえてたのか」
ネグルが何かを言った。
案内人が伝える前に、なんとなく分かった。「気をつけろ」と言っているようだった。
案内人が訳した。『「早く帰ってこい。隣が空く」』
「……帰ります」
ネグルが満足そうに離れた。
コトが遠くから見ていた。目が合った。短く頷いた。それだけだった。
*
東へ向かった。
五人と一匹。
森の密度が増した。昼間でも薄暗くなってきた。木の根が複雑に絡み合っている。足元に苔が多い。
「《波長理解》はどうだ」とファルが聞いた。
「近い。ずっと同じ場所にある。動いていない」
「待っているのか、それとも動けないのか」
「動けない、という感じではない。意図して待っている」
シロが鼻を鳴らした。
「匂いがある。嗅ぎ慣れた匂いが。」
「どういう意味だ」とドナンが言った。
「この島で、ずっと嗅いできた匂いだ」
「ずっと」
「この島に生まれてから、ずっと」
誰も言葉を続けなかった。
シロがこの島の生まれであることを、全員が知っている。
「シロ」と僕は言った。
「怖いか」
シロが少し間を置いた。
「分からない」と言った。「でも、逃げたくはない」
「それで十分です」
木々が開けた。
小さな空間があった。岩が積み重なって、自然には作られたとは思えない形をしている。正確に、ある意図を持って積まれている。石柱の丘と似ているが、もっと小さい。
その中央に、何かがいた。
形は、はっきりしない。人間でも魔物でもない。光の塊のようで、でも光よりも密度がある。波長が、ここから全方向に広がっている。
《波長理解》が、それを読んだ。
害意はない。
でも、それ以上が分からない。
「案内人」
『感知しています。既知の生物・魔物のパターンと一致しません。ただし、敵対的な波長は検出されていません』
「何者かは」
『断定できません』
それが、東の声だった。
ファルが剣に手をかけたまま、でも抜かずに立っている。ドナンが僕の横に位置を取った。レイスが後方で全体を見ている。シロが前に出た。
東の声が、動いた。
ではなく、波長が変わった。
言語ではない。でも、意味がある。《波長理解》がそれを読もうとする。
「……何かを言っている」
「分かるか」とレイスが言った。
「言葉じゃない。でも——」
集中した。
波長の中に、形があった。島の形。山の頂。石柱の丘。ダンジョン。そして、拠点の場所。
「島のことを言っている。全部知っている」
次の波長が来た。
今度は、問いの形をしていた。
言葉にするなら——
「お前たちは、何をしに来た」
そういう意味だと、思った。
僕は、東の声を見た。
……漂流してきました。
波長に乗せ答えた。
東の声が、静止した。
それから、また波長が来た。
今度は長かった。複雑だった。《波長理解》だけでは全部は読めない。でも、断片は分かった。
驚いている。そういう答えを、待っていなかった。
「一度引き返しましょう。意思疎通ができました。詳しくは拠点で。」
シロが低く息を吐いた。ファルが剣から手を離した。ドナンが一度だけ瞬きをした。レイスもほっとした様子だ。
*
帰り道は、行きより静かだった。
誰も余計なことを言わなかった。でも、重い沈黙ではなかった。何かが始まったという、少し不思議な感覚が、全員にあったと思う。
「正体は分からないままだな」とドナンが言った。
「そうですね」
「でも、悪いものではない、という感じはした」
「俺は素材を見るとき、形だけじゃなく匂いも確かめる。あれは、悪い匂いじゃなかった」
ドナンなりの判断だった。
ファルが「条件は破らなかった」と言った。
「ファルのおかげです」
「違う。お前が決めた。私は手伝っただけだ」
「……それでも」
ファルが短く息を吐いた。それ以上は言わなかった。
シロが僕の隣に来た。
「あの匂い」と、小さな声で言った。
「うん」
「また嗅いだことがある。産まれたとき、最初に嗅いだ匂いに似ている気がする」
僕は何も言えなかった。
シロが「気のせいかもしれない」と続けた。「でも、気のせいではない気もする」
「次に会うとき、聞いてみよう」
「……聞けるのか」
「何とかして聞きます」
シロが短く息を吐いた。
拠点が見えてきた。
ネグルが入口のそばで待っていた。僕を見て、素早く自分の定位置に戻った。何食わぬ顔で。
「待ってたんじゃないのか」
案内人が伝える。
ネグルが何かを言った。
『「待っていない。たまたまここにいた」』
「そうか」
コトが遠くから見ていた。目が合った。短く頷いた。今日で二度目だった。
火を起こした。
地図を広げた。
東の岩場に、小さく印をつけた。「東の声」と書いた。
それから、余白に記した。「問いは続く——」
石板に刻まれていた言葉が、今日初めて、本当の意味を持った気がした。




