第13話 ゴブリンたち
朝、拠点が騒がしかった。
ドナンが岩壁に金具を打ち込んでいる音。
レイスが設計図を広げながら何かを呟いている声。
ダンジョンから戻って三日が経っていた。
全員の傷は癒えた。ファルの腕の傷も、もうほとんど分からない。ドナンが打ち身を二か所負っていたが、「問題ない」と言って翌日から作業を再開した。
「今日はどこまで伸ばすんですか」
レイスが設計図を指差した。
「北側にもう一棟。それと、東の岩壁を利用して貯蔵庫を作りたい。素材の量が増えてきたから」
「ゴーレムから取れた岩の欠片も置き場が必要ですね」
「そうだ。ドナンが加工できるものを選り分けてくれている」
ドナンが遠くから「使えるものが多い」と言った。
「ゴーレムの岩は密度が高い。武器の素材になる」
「武器、か」とファルが静かに言った。コーヒーのように煮出した木の実の汁を飲みながら、外を見ている。「そういう段階になってきたな」
「拠点が広がれば、守る必要も出てくる」とレイスが言った。「早めに考えておく方がいい」
「今日は北側を探索したいと思っています」と僕は言った。「まだ白紙の部分が多い」
「全員で行くか」
「体力的には問題ないです。ダンジョンより楽なはずなので」
ファルが立ち上がった。
「行こう。ドナンとレイスは今日は作業があるか」
「私は行ける」とレイスが言った。「設計は頭の中に入っている。現場を見ながら考えたい」
「俺も行く」とドナンが言った。作業の手を止めずに、でも立ち上がりながら。「北側の地形を見ておきたい。素材が眠っているかもしれない」
シロが「出発するなら早い方がいい」と言った。すでに入口の傍に立っている。
全員で、北へ向かった。
*
北側の森は、今まで探索した場所と少し違った。
木が太い。密度が高い。足元に苔が多い。光が届きにくくて、昼間でも薄暗い感じがする。
「《波長理解》、どうだ」とファルが聞いた。
「反応が多い。ただ、ほとんどが小型で、遠い。近くには——」
少し、引っかかった。
「……何かいる。魔物じゃない。もっと細かい波長だ」
「人間か」
「人間とも違う。でも、知性がある感じがする」
シロが鼻を鳴らした。
「匂いがする。煙だ。火を使っている」
「この先に何かある」
全員で慎重に進んだ。
木々の間から、何かが見えてきた。
小さな建物が、いくつか並んでいる。木と泥で作られた小屋だ。大きさはまちまちで、丁寧に作られたものもあれば、急いで建てたような粗いものもある。
村だ。
「……こんな場所に」
「魔物の村か」とファルが低く言った。手が剣に伸びかけた。
「待って」と僕は言った。「敵意はない。《波長理解》で読める。怯えてる。こっちを怖がってる」
「怖がっているなら逃げる。逃げていない」
「何かに困っているからだと思う」
そのとき、茂みが揺れた。
小さな影が、転がるように飛び出してきた。
緑色の肌。大きな耳。丸い目。
ゴブリンだった。
一匹ではない。二匹、三匹——気づけば周囲に十匹ほどのゴブリンが集まっていた。でも誰も武器を持っていない。全員が、こちらを見て何かを言っている。
言葉が分からない。
「案内人、言葉は」
『解析します。……ゴブリン語系の方言です。標準的な魔物語とは少し異なりますが、基本的な意味は取れます』
「何て言ってる」
『「助けてくれ」「来てくれ」「早く」——繰り返しています。何かが急いでいる様子です』
「助けを求めてる」
ファルが剣から手を離した。
その中の一匹が、他より少し大きかった。年老いてはいないが、他のゴブリンよりも目に落ち着きがある。リーダーだろうと思った。
そのゴブリンが、僕の方に真っ直ぐ近づいてきた。
胸に手を当てて、頭を下げた。
「……デルタ」
自分の名前を言っているのだと分かった。
「カルドです」と僕は答えた。
デルタが顔を上げた。目が合った。
「カルド」とデルタが繰り返した。それから、森の奥を指差した。
その方向から、地面が揺れた。
「来る」とシロが言った。
*
森の奥から現れたのは、巨大な熊型の魔物だった。
体長は四メートルを超えている。全身の毛が逆立っていて、目が赤く充血している。普通の熊型魔物とは違う。魔力が膨れ上がっている。凶暴化しているか、縄張りを荒らされて怒り狂っているか。
村の方向に向かっていた。
「村を狙ってる」
『警告。凶暴化した大熊型魔物です。通常個体より身体能力が約二倍に増強されています。魔力も不安定な状態です』
「不安定というのは」
『感情的に暴走しています。理性的な判断ができない状態です。ただし、それが弱点にもなります』
「どういうこと」
『冷静な個体は弱点を本能的に守ります。この個体は守りません』
「つまり弱点を狙いやすい」
「状況を説明してくれ」とファルが言った。剣を抜きながら、でも目は魔物から離さずに。
「弱点が露出している大型魔物です。ただし速くて力が強い。《慧眼》で急所を確認します——」
《慧眼》を向ける。
凶暴化した状態でも、急所は変わらない。首の付け根。左前足の関節。腹部の毛が薄い部分。
「首の付け根、左前足の関節、腹部の薄い部分。三か所です」
「連携で各部位を同時に崩す」とファルが言った。「シロ、左前足を頼む。ドナン、腹部に入れるか」
「できる」とドナンが、短く言った。目が鋭くなっている。
「私は後方で状況を見る」とレイスが言った。「全体の動きを把握する」
「カルド、首の付け根を頼む。《魔力圧縮》を使え」
「了解」
そのとき、デルタが声を上げた。
他のゴブリンたちが散った。でも逃げたわけじゃない。村の方向に走りながら、何かを取ってきた。
石を括りつけた棒。粗末な弓。
武器だ。
「……一緒に戦うつもりか」
デルタが短く何かを言った。
『「私たちの村だ。私たちも守る」』
「案内人、デルタに伝えてくれ。左前足の付け根に集中してほしい。そこが一番崩れやすい」
『伝えます』
案内人が何かを言った。デルタが頷いた。他のゴブリンたちに素早く指示を出す。
「行く」とファルが言った。
魔物が、こちらに気づいた。
赤い目が、向いた。
「来い——」
魔物が動いた。
速い。凶暴化した分、動作が荒い。でも力は本物だ。
ファルが正面から向かう。
魔物の爪を、剣で流す。一本、二本。
「シロ!」
シロが左前足の関節に飛びかかった。牙が関節を捉える。
同時に、ゴブリンたちが棒で左前足の付け根を叩き始めた。ばらばらではなく、デルタが指示した通りに、集中して。
魔物の左前足が揺れた。
「今だ」
魔力を引き込む。圧縮する。
首の付け根に向けて放つ。
《魔力圧縮》を乗せた火球が、首の付け根に直撃した。
魔物が大きくよろけた。
ドナンが腹部に棒を突き刺す。
「続けて」とファルが言った。
魔物が向き直った。今度はシロを狙った。
「シロ、右!」
シロが跳んだ。
魔物の爪がシロをかすった。
「シロ!」
「問題ない」と、少しだけ荒い息で言った。「続けろ」
魔物がもう一度こちらを向いた。
ゴブリンたちが叫びながら棒を振り続けている。怖いはずなのに、誰も逃げない。デルタが先頭に立って、一番近い場所で戦っている。
レイスが後方から言った。
「右後足、さっきから庇っている。元々傷があるはずだ」
「急所じゃないが、そこに集中すれば動きが鈍る」とファルが言った。「カルド」
「分かった。デルタに伝えてほしい」
案内人が伝える。
デルタが即座に動いた。ゴブリンたちが右後足に集中し始める。
ファルが正面から圧力をかける。
魔物の動きが落ちた。
「今」
シロが首の付け根に飛びかかった。
僕が《魔力圧縮》を重ねた火球を腹部に叩き込む。
ドナンが関節に棒を捻じ込む。
爆発。
魔物が倒れた。
地面が、揺れた。
静寂。
ゴブリンたちが、一瞬止まった。
それから、一斉に声を上げた。
喜びの声だった。
*
「……みんな、無事ですか」
「問題ない」とファルが答えた。腕の古傷の近くを少し押さえているが、新しい傷ではないようだ。
「シロ」
「かすり傷だ」と、耳を少し伏せながら言った。「問題ない」
ゴブリンたちが、こちらに集まってきた。デルタが先頭に立って、全員に頭を下げた。
『「ありがとう。村を守ってくれた」』と案内人が訳した。
「一緒に戦ったのはあなたたちだ」と僕は言った。「案内人、伝えてくれ」
案内人が伝える。
デルタが少し目を見開いた。それから、照れたように鼻を鳴らした。
「デルタ、一つ聞いていいか」と僕は言った。「案内人に頼んで伝えてもらう」
デルタが頷いた。
「あの魔物は、前からここにいたのか。それとも最近来たのか」
『「最近だ。三日前から現れた。ダンジョンの方から来た」』
ダンジョンの方から。
「ゴーレムを倒したから、縄張りが崩れたのかもしれない」とレイスが静かに言った。「ダンジョン内の生態系に影響が出た可能性がある」
「僕たちのせいでこの村が危険になったということか」
「結果としては、そうかもしれない」
レイスが少し眉をひそめた。
「ただ、こうして解決できた。次のことを考えよう」
デルタが何かを言った。
『「あなたたちは、どこから来た。この島に人間がいるとは知らなかった」』
「この島の南側に拠点を作っています。僕たちは流れ着いた者です」と僕は答えた。「この島で、一緒に生きていきたいと思っている。良ければ、仲間になってほしい」
案内人が伝える。
デルタが黙った。
他のゴブリンたちを見回した。何か話し合っている。
長くはかからなかった。
デルタが振り返った。
『「条件がある」』
「聞かせてほしい」
『「村は残す。ここは私たちの場所だ。ただ、若い者と手先が器用な者は、あなたたちの拠点で学びたい。行き来できるようにしたい」』
「もちろんです」
『「それと——」』デルタが少し間を置いた。『「あなたたちのことを、もっと知りたい。この島で何をしようとしているのか」』
「強い者も弱い者も、人間も魔物も関係なく、生きていける場所を作りたい」
案内人が伝える。
デルタは少し目を細めた。
「どんな顔をしてる?」と僕は案内人に聞いた。
『……笑っているようです』
デルタが何かを言った。
『「面白い人間だ」』
「よく言われます」
デルタが短く笑った。言葉が分からなくても、笑いは分かった。
*
「一つお願いがある」と僕は言った。
デルタが頷く。
「みんなに名前をつけさせてほしい。もし良ければ、こちらで呼び名を考えたい。嫌なら断ってくれていい」
案内人が伝える。
デルタがしばらく考えた。
それから、何かを言った。
『「私たちは名前を持たない者が多い。リーダーと古い者だけが名前を持つ。若い者たちに名前をつけてくれるなら、嬉しい」』
「分かった。ただ、今日はまだ顔も覚えられていない。一緒に過ごしながら、一人ずつつけていきたい」
案内人が伝える。
デルタが少し目を細めた。それから、笑った。
『「焦らなくていい。名前は、その者を見てつけるものだ」』
「そうします」
デルタが何かを言った。
『「ただ、一つだけ言っておく。私たちの言葉では、名前はつけた者への誓いだ。名前を受け取った者は、つけた者に忠誠を誓う。それでもいいか」』
静かな言葉だった。
全員が、こちらを見ていた。
ゴブリンたちだけじゃない。
ファルも、シロも、ドナンも、レイスも。
「……受け取ります」
案内人が伝える。
デルタが深く頭を下げた。
それから、顔を上げて、笑った。
『「では、よろしく頼む、カルド」』
*
拠点への帰り道は、にぎやかだった。
十五匹のゴブリンが一緒に歩いている。きょろきょろしている一匹がシロの尻尾を追いかけようとして、シロに睨まれた。道具好きらしい一匹はドナンの工具袋をずっと眺めていた。一番小さい一匹は途中から僕の隣を歩き始めた。子供のはずなのに、一番堂々としていた。
「ドナン」と僕は言った。
「何だ」
「その子、道具に興味があるみたいです」
ドナンが後ろを見た。その子がさっと目をそらした。
「……こっちに来い」
おずおずと近づく。
ドナンが工具袋から小さな鉄片を取り出した。手渡した。
その子が、両手で受け取った。しげしげと眺める。
「素材が分かるか」
案内人が伝える。
少し考えてから、頷いた。何かを言った。
『「硬い。でも、熱を加えると変わる」』
ドナンが少し目を細めた。
「……正しい」と、低い声で言った。
それだけだったが、その子は嬉しそうに鉄片を抱えた。
レイスは腕の長い一匹に気づいて、「建築の仕事に向いている」と言った。その子が首を傾けた。案内人が伝えると、目が輝いた。
ファルはずっと自分を観察している一匹に気づいていた。
「何を見ている」と剣に手をかけながら聞いた。
案内人が伝える。
その子が真剣な顔で何かを言った。
『「あなたの剣の動きを見ていた。速い。どうやって動くのか知りたい」』
ファルが少し間を置いた。
「……探索者になりたいのか」
案内人が伝える。
力強く頷いた。
ファルが短く息を吐いた。そして、少し口角を上げた。
「教えられるかどうかは分からないが、見ていろ」
拠点が見えてきたとき、十五匹のゴブリンが全員立ち止まった。
広い空間。岩壁に支えられた小屋。川の音。火の跡。
ルカが何かを言った。
『「大きい」』
「まだ大きくなります」と僕は言った。
ルカが目を丸くした。
コトが僕の袖を引っ張った。
『「ここが、新しい場所か」』
「そうです。みんなの場所でもある」
コトが拠点を見た。
それから、短く何かを言った。
『「悪くない」』
*
夜、火を囲んだ。
今までで一番多い人数だった。
ゴブリンたちは慣れない場所でも、思ったより落ち着いていた。ルカだけがずっとそわそわしていたが、シロの傍に座ることで落ち着いたようだった。シロは特に何も言わなかった。ただ、追い払いもしなかった。
「今日は疲れた」とレイスが笑いながら言った。「いい疲れだが」
「一気に増えましたね」
「三十人分の名前をこれからつけていくのか」とファルが、少し呆れた目で言った。
「一人ずつ、顔を見ながらつけます」
「……そういうものか」
ドナンが鉄片を抱えたまま眠ってしまったゴブリンの子を見た。手から離さずに。
「……使える」と、静かに言った。
「弟子にするつもりですか」
「そんな大袈裟なものじゃない」と言いながら、少しだけ口角が上がっていた。
レイスが腕の長い一匹を見た。その子はレイスの設計図の切れ端を借りて、何かを描いていた。
「何を描いているんだ」
案内人が伝える。
見せてもらった。
小屋の絵だった。ゴブリンの村の小屋を、拠点の建築と組み合わせたような設計だった。荒削りだが、発想が面白い。
「……なるほど」とレイスが言った。「ゴブリンの建築様式は知らなかった。学べることがあるかもしれない」
ファルが剣を観察し続けている一匹を見た。
「もう寝ろ」とファルが言った。
案内人が伝える。
「明日教えてくれるか」と返ってきた。
「……考える」とファルが言った。
でも、断らなかった。
小さな一匹が僕の隣で丸まっていた。いつの間にか眠っていた。小さな体が、規則正しく上下している。
「増えたな」
「そうですね」
「以前は一人だった」
「今は——」
数えた。カルド、シロ、ファル、ドナン、レイス。そしてゴブリンが十五匹。
「二十人だ」と、シロが言った。
「村に残った十五匹も仲間です。向こうにも顔を出すつもりだから、実質三十人」
「国の始まりだな」
シロが、珍しくそう言った。
「そうかもしれない」
「お前が望んでいたものに、少し近づいた」
「まだ遠い。でも、近づいてる」
シロが短く息を吐いた。
「……急ぐな」
「急いでないよ」
「急いでないなら、寝ろ。明日も探索がある」
コトが僕の隣で丸まっていた。いつの間にか眠っていた。小さな体が、規則正しく上下している。
地図を広げた。
北側の森に、ゴブリンの村を書き加えた。
デルタという名前も。
それから、余白に小さく記した。「名前、29人分——これから」。
三十の命。
「……忘れない」
火が、静かに燃えている。
川の音が続いている。
東の気配が、また揺れた。
いつもより、はっきりしている。
でも今夜は、怖くなかった。
三十の名前を預かった夜は、なんとなく、大丈夫な気がした。




