表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『駿府わくわく探偵団 〜お茶の香りと、黒はんぺんの謎〜』

作者: 百花繚乱
掲載日:2026/01/13

目次

1.乾杯のあとに、事件は起きる

2.駿府城公園で“消えた徳川”

3.青葉おでん街、黒い湯気の暗号

4.登呂遺跡、土の下のラブレター

5.日本平、風の上の“謎解き茶会”

6.久能山東照宮、金色の階段と失われた包み

7.三保の松原、松風が運ぶ答え

8.清水港、まぐろ丼と友情の最終推理

9.茶町で迷子になる午後

10.お茶の香りで、ハッピーエンド


________________________________________

1. 乾杯のあとに、事件は起きる

「静岡ってさ、**“おいしいのに優しい”**んだよ」

そう言ったのは、私――紗也香さやか、二十七歳。東京で広告の仕事をしている。大きな案件を回して、締切に追われて、評価と数字に追われて、気づけば“楽しい”の輪郭が薄くなっていた。

だから今日、私は静岡に来た。

幼なじみの結衣ゆいが「一回、呼吸を取り戻しにおいで」と言ってくれたから。

静岡駅の改札を抜けた瞬間、私は思わず立ち止まった。

――空気が、柔らかい。

スピードに慣れた体が、勝手にギアを落とす。

鼻の奥に、ふわっと緑の香りが入ってきた。駅ビルのどこかの茶葉の匂い。甘いのに、すっきりしている。

「でしょ?」

隣で、結衣がにやりとした。笑うと目が三日月になる。昔から、私が固くなると、結衣は先に笑う。私の鎧を軽くしてくれるために。

「この匂いだけでストレス一割は落ちるから」

「数字、適当すぎ」

「体感だから正しい」

意味不明なのに、妙に納得してしまう。私はもう一度深呼吸して、胸の奥が少しだけほどけたのを感じた。

「で、今日の予定は?」

「えっとね。静岡市の“うまい・たのしい・ちょい歴史”を全部詰め込む」

「三日じゃ足りないやつじゃん」

「足りないけど、足りないのがいいの。次の理由になる」

結衣はそう言って、駅から少し歩いた細い路地に私を引っ張った。提灯が並び、湯気が踊る。黒い鍋がいくつも並び、鼻が勝手に“空腹”を思い出す。

青葉おでん街。

「まずは、静岡おでん。ここで乾杯しないと始まらない」

「いきなり重い儀式」

カウンターに座ると、大将が鍋をかき混ぜた。黒い出汁が照明に光り、串がぎっしり。大根、玉子、牛すじ、黒はんぺん――静岡の名物が整列している。

一口目の大根。

熱い。舌がびっくりする。けど、出汁が染みていて、しょっぱさの角がなくて、口の中が“あったかい”。

「……え、なにこれ。優しい」

私が言うと、結衣がドヤ顔で頷いた。

「でしょ。濃いのに、急がせない」

次に黒はんぺん。

噛むと、魚のうま味がじゅわっと広がって、鼻から抜ける香りが意外に爽やかだった。

「これは……おでんのくせに、スポーツしてる味がする」

「なにそれ」

「分かんないけど、分かるでしょ?」

結衣は笑って、魚粉を小皿で差し出した。

「だし粉、追い粉、いってみよ」

私は半信半疑で、串の上にさらさらと魚粉を振った。

――香りが、爆発した。

「……無限」

「はい、静岡市の胃袋、ロックオン」

そんな会話をしていたとき。

大将が「あっ」と声を上げ、鍋の横の棚を探り始めた。

「……あれ? ない。ないぞ」

「なにがですか?」

「**“家康の小判チョコ”**が消えた!!」

店内が一瞬静まり、すぐに笑いが起きた。

「大将、それただの土産菓子だろ!」

「違う! うちの守り神なんだ! 開店日に貰って、忙しい日は必ず売れるようになった!」

私は結衣を見る。結衣の目が、完全に“イベント”の光り方をしている。

「……さやか」

「なに」

「来たよ。静岡初日から、ゆる事件」

「何その観光オプション」

大将は真剣だった。小判チョコがないと“出汁の機嫌”が変わる、と本気で言っている。

私は笑いながらも、胸のどこかがくすぐられた。

“くだらないのに大事なもの”を守るために、人は本気になる。

そういう本気が、今の私に足りていない気がしたから。

私は湯呑みを置いて言った。

「探します。……家康の小判チョコ」

結衣が拍手した。

「出た! さやかの“勝手に事件解決モード”!」

大将は目を潤ませて、串を差し出してきた。

「頼んだぞ、若い探偵さん。……お礼に、牛すじ一本追加だ」

静岡市、初日から手厚い。

________________________________________

2. 駿府城公園で“消えた徳川”

翌朝。

私は結衣に引きずられながら、駿府城公園へ向かった。昨日の静岡おでんが体の奥に残っていて、歩くたびに幸福が揺れる。

「ねえ、昨日の事件、本当に城と関係あるの?」

「大将が言ってた。最後に小判チョコを見たのは“駿府城の夜イベントの帰り”」

「推理が雑」

「雑でも、当たるときは当たる」

城の堀は静かで、空が水面に映っていた。犬の散歩、ジョギング、ベビーカー。中心街なのに、時間がゆるい。

石垣に近づくと、私は思わず手を当てた。ひんやりした冷たさ。石は黙っていて、でも“ここにある”だけで説得力がある。

「ここ、家康が晩年に過ごした場所なんだよ」

結衣が言った。

「天下取った人が、最後に“静岡”を選ぶの、なんか良くない?」

「良いけど、理由が気になる。老後の趣味とか?」

「趣味、天下」

意味不明なのに笑える。

私たちは城内を歩き、案内板を眺め、売店に吸い寄せられた。

出てきたのは、静岡茶ソフト。

一口目で、私の脳が一瞬静かになる。

抹茶の苦みがちゃんとあるのに、後味が軽くて、鼻の奥に“新緑”が残る。

「……ズルい。静岡、ソフトで心を救う」

「これが“回復アイテム”」

そんなことを言いながら歩いていると、ベンチに座る男性が目に入った。何かをこそこそ食べている。手元が金色に光った。

……まさか。

結衣と私は視線を交わし、そーっと近づいた。

男性が顔を上げ、目が合う。

私はにっこり笑って言った。

「それ、家康の小判チョコですよね?」

男性は一瞬固まり、慌てて包みを隠した。

「ち、違う! これは金箔の飴だ!」

「包み紙、思いっきり“家康”って書いてます」

沈黙。

そして男性は、観念したように肩を落とした。

「……すまん。昨日、店で“守り神”って聞いてさ。

最近仕事がうまくいかなくて、縁起担ぎしたくて」

“守り神”。その言葉が、急に軽くなくなる。

「運とかさ。気持ちとかさ。守りたいじゃん」

男性の声は、恥ずかしさと弱さが混ざっていた。私は胸がちくりとする。東京で、私もそんな顔を何度もしていた。

結衣が優しく言った。

「返しなよ。あのお店、今日も混むよ。出汁が泣く」

男性が苦笑しながら、小判チョコを差し出した。

私は受け取り、代わりに売店で買った安倍川もちを差し出した。きな粉がふわふわ、黒蜜がとろり。

「代打の守り神。これ、効きます」

男性は一口食べて、目を細めた。

「……うまい。守られる味だな」

「でしょ」

男性は頭を下げて去っていった。

事件は解決――のはずだった。

けれど、その直後。

結衣が急に「あれ?」と立ち止まった。

「……包み紙、変じゃない?」

私は小判チョコの包みを見た。金色の紙。家康のイラスト。

でも、裏側に小さく、手書きの文字があった。

『黒い湯気は、幸せの匂い。次は“土の声”へ。』

「……え、なにこれ。だれが書いたの」

結衣が目を丸くした。

「大将、こんな粋なことするタイプ?」

「昨日の感じだと、粋というより“出汁が命”タイプ」

つまり――別の誰かが、わざわざ書いた。

私たちは顔を見合わせた。

「……第二章、始まってない?」

結衣の目が輝く。

「始まった! 静岡市、スタンプラリー型ミステリー!」

私は笑った。

でも、心のどこかがワクワクしている。

観光って、こういう“余計な面白さ”があると一気に濃くなる。

「次は土の声……って、登呂遺跡?」

「行こ!」

________________________________________

3. 青葉おでん街、黒い湯気の暗号

その日の夜、私たちは小判チョコを青葉おでん街へ返しに行った。

大将は包みを見た瞬間、両手で受け取って、真剣に拝んだ。

「戻った……! これで明日も出汁が安定する……!」

「出汁は、昨日も最高でしたよ」

私が言うと、大将は照れて、串を一本増やしてくれた。

「お礼に“裏メニュー”だ」

出てきたのは、牛すじのとろとろと、黒はんぺんフライ。

表はカリッと、中はじゅわっ。出汁の黒と、衣の金が眩しい。

「で、大将」

結衣がさらっと聞く。

「小判チョコの包み紙、誰かメッセージ書いてませんでした?」

大将は目をぱちぱちさせた。

「は? 書くわけねえだろ。俺、字が丸すぎて“家康”が“家鴨”になるぞ」

「かわいいミス」

「かわいくねえ!」

つまり、やっぱり大将ではない。

私が包み紙を見せると、大将は腕を組んで唸った。

「……それ、うちの常連の“沼田さん”かもな」

「さっきの人?」

「そう。あの人、悩むと変なことする。

でも悪い人じゃねえ。昔、うちで働いてたこともあるし」

結衣が身を乗り出す。

「なんでメッセージ?」

大将は魚粉の缶を指でとんとん叩いた。

「知らねえ。ただな、あいつ、よく言ってた。

“観光は、うまいもん食うだけじゃない。

人の気持ちを連れて帰るんだ”って」

……なんだそれ、急に詩人。

私は湯呑みのお茶を飲みながら、包み紙の文字を撫でた。

黒い湯気は、幸せの匂い。次は土の声へ。

静岡市は、観光の皮をかぶった“人生相談所”なのかもしれない。

「じゃあ、明日。登呂遺跡で“土の声”を聞く」

私が言うと、結衣が満面の笑みで頷いた。

「静岡わくわく探偵団、出動!」

________________________________________

4. 登呂遺跡、土の下のラブレター

翌朝、登呂遺跡は、思っていたよりずっと広かった。

空が大きい。草が風にゆれる。復元された竪穴住居が点々と並んでいる。

「静岡市、急に弥生時代に飛ぶの、最高だよね」

結衣が言う。

「テンポが自由すぎる」

「自由を取り戻す旅だから」

私は展示館へ入り、土器や石器の展示を眺めた。

“昔の生活”って、もっと遠いものだと思っていたのに、説明文を読むと妙に近い。

食べる、作る、眠る、守る。

結局、人がやってることは変わらない。

「ほら、見て。米づくりの跡」

結衣がガラスケースを指さす。

小さな種、焦げた穀物、道具の痕。

そこに“誰かの必死”が残っている。

私はふと、包み紙の言葉を思い出した。土の声。

「ねえ、土の声って、なに」

私が言うと、結衣が肩をすくめた。

「“焦らないで”って言ってる気がする。

土は急がないでしょ。積もるの、得意だもん」

「静岡市、哲学」

外へ出て、復元住居の中に入った。

ひんやりして、土と木の匂い。

天井の低さが、妙に落ち着く。

そのとき、入口のスタッフのお姉さんが声をかけてきた。

「すみません、落とし物で……これ、お客様のですか?」

差し出されたのは、小さな封筒。

中に入っていたのは、メモと、茶色いスタンプカード。

メモにはこう書いてあった。

『土の声、聞こえた? 次は“風の上”。

合言葉:だし粉。』

スタンプカードには、かわいいイラストが並んでいる。

駿府城、登呂遺跡、日本平、久能山、三保、清水港、茶町。

それぞれの枠に、薄いスタンプの跡がある。

「……なにこれ、静岡市公式のやつ?」

結衣がスタッフさんに聞くと、お姉さんは笑った。

「いえ、公式ではないです。でも最近、時々見かけます。

“勝手に観光スタンプラリー”って呼ばれてるんですよ」

勝手に観光スタンプラリー。

静岡、市民が自由すぎる。

「これ、誰が配ってるんですか?」

お姉さんは首を振った。

「分かりません。でも、参加した方はみんな楽しそうです。

“誰かに背中押された”って言って帰る方が多いですね」

背中押された。

私は胸の奥が少し熱くなった。

――今の私も、背中を押されたい。

結衣が封筒をひらひらさせた。

「次、“風の上”って日本平だね」

「合言葉、だし粉って何」

「たぶん、どこかで言うと、何か起きる」

「RPGみたい」

私たちは、スタンプカードを持って外へ出た。

草原の風が、頬を撫でる。

弥生時代の空の広さが、今の私を見上げているみたいだった。

「ねえ、結衣」

私が小さく言う。

「東京に戻ったらさ、私、どうしたらいいと思う?」

結衣は、土を踏んでから言った。

「どうしたらいいか分かんないときはね、まず“うまいもん”食べる」

「解決になってない」

「なる。人間、腹減ると人生が暗くなる」

笑いながら、私は少し救われた。

________________________________________

5. 日本平、風の上の“謎解き茶会”

日本平へ向かう道は、だんだん空が近くなる。

車窓から見える街が小さくなって、海が広がっていく。

展望台に着いた瞬間、私は声が出た。

「うわ……」

駿河湾が広い。清水港が見える。

遠くに富士山が、薄く、でも確かに座っている。

風が強くて、髪がぐちゃぐちゃになるのに、笑ってしまう。

「ここね、静岡市の“深呼吸スポット”」

結衣が言う。

私は柵に手を置き、風を吸い込んだ。

胸の奥の砂が、少しだけ払い落とされるみたいに。

そのとき、売店の前に小さなテーブルがあり、手書きの札が立っていた。

『風の上の茶会(無料)

合言葉:だし粉』

「……来た」

結衣が目を輝かせる。

テーブルには、急須と湯呑み、そして小さな紙箱。

そこに座っていたのは、白髪の上品なおじいさん。

穏やかな目をして、でもどこか少年みたいな悪戯っぽさがある。

「いらっしゃい」

おじいさんは笑った。

結衣がこそっと囁く。

「この人……どこかで見た気がする」

私は勇気を出して、札に書かれた通りに言った。

「合言葉……だし粉、です」

おじいさんの目が、にやっと細くなった。

「よろしい。では、風の上の一服を」

急須からお茶が注がれる。

湯気が立つ。香りがふわっと広がる。

静岡の緑が、風と一緒に鼻の奥へ入ってくる。

一口飲んだ瞬間、私は背筋が伸びた。

さっきの茶ソフトとは違う。

甘さ、苦み、香り、全部が“生きてる”。

「……おいしい」

「でしょう」

おじいさんは紙箱を私たちに差し出した。

「次の手がかりだよ。若い探偵さん」

紙箱の中には、小さな木札と、メモ。

木札には、焼き印でこう書いてある。

『金色の階段を登れ。息切れは正解。』

メモには、さらに。

『“守り神”は甘いが、真の守りは“塩”にあり。

次:久能山。

その前に、茶町で“迷子の練習”をしてもよい。』

「迷子の練習ってなに」

私が言うと、おじいさんは笑った。

「迷子になったら、人に尋ねる。

人に尋ねたら、人と繋がる。

繋がったら、旅は完成する」

……静岡市、人生の授業を無料で出しすぎ。

結衣が思い出したように言った。

「ねえ、あなた……もしかして、昨日のおでん屋の大将の知り合い?」

おじいさんは肩をすくめた。

「昔ね。

“黒い湯気は幸せの匂い”って言い出したの、実はわしなんだよ」

「犯人!」

結衣が指さすと、おじいさんは楽しそうに笑った。

「犯人ではない。仕掛け人。

静岡市の名所を回って、うまいもの食べて、

帰る頃にちょっと元気になってたら、それでいい」

私は湯呑みを両手で包んだ。

熱が手のひらに伝わってくる。

「……でもなんで、私たち?」

おじいさんは、少しだけ真面目な顔になった。

「君の顔がね。

“勝ってるのに疲れてる顔”だったから」

胸が、すこし痛んだ。

図星だった。

おじいさんはまた笑顔に戻った。

「さあ、久能山へ。

家康公に会いに行きなさい。膝が笑うけど」

________________________________________

6. 久能山東照宮、金色の階段と失われた包み

久能山東照宮の階段は、噂通りだった。

「……何段あるの」

「数えると心が折れるから、数えない」

結衣の言う通り、途中から私は無心になった。

息が上がる。太ももが熱い。膝が笑う。

でも不思議と、嫌じゃない。

息切れは、“生きてる実感”がある。

ようやく辿り着いた社殿は、金色と朱色が眩しくて、彫刻が細かくて、息が止まった。

「すごい……」

「ね。天下人の“最後の家”」

私たちは手を合わせた。

家康のことは歴史で習った。天下を取った人。

でもここに立つと、急に“人間”に近くなる。

――この人も、疲れたのかな。

――この人も、どこかで深呼吸したのかな。

そんなことを考えていたら、結衣が「あっ」と声を上げた。

「見て、あれ」

石段の端に、小さな包みが落ちている。

金色の紙。家康の小判チョコと同じ柄。

拾い上げると、中には――チョコではなく、小さな塩袋が入っていた。

そしてメモ。

『真の守りは塩。

海へ行け。松風に答えがある。

――“迷子の練習”を忘れるな。』

「塩……海……松風……三保の松原?」

結衣が頷く。

「でも、その前に“迷子の練習”って書いてある。茶町、行く?」

「行く。なんか怖いけど」

私たちはロープウェイで降り、街へ戻った。

空気が、少しだけ夕方の匂いに変わっている。

________________________________________

7. 三保の松原、松風が運ぶ答え

……の前に、茶町。

と言いたいところだが、夕暮れの勢いで私たちは先に三保へ向かった。

だって“松風に答え”って言われたら、気になる。

三保の松原は、想像以上に“音”が多かった。

波の音。松葉の擦れる音。遠くの子どもの声。

そして、風の音。

松の並木を歩くと、空が長く見える。

砂が足を取るのに、なぜか心は軽い。

「……ここ、ずっといられる」

私が言うと、結衣が笑った。

「いられるよ。静岡市、住むのにも向いてる」

私たちは海を見ながら、コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチを食べた。

高級じゃない。

でも、こういうのが最高の日がある。

そのとき、風で何かが足元に転がってきた。

木片。小さな札。

拾うと、焼き印でこう書いてある。

『迷子の練習は茶町で。

合言葉: “お茶で酔いました”』

「合言葉、ふざけてる」

「でも言いそう」

私たちは笑って立ち上がった。

松風が背中を押してくる。

まるで「次へ行け」と言うみたいに。

________________________________________

8. 清水港、まぐろ丼と友情の最終推理

翌日。

午前中に清水港へ行った。

市場の食堂。まぐろ丼が運ばれてくる。

赤身、中トロ、ネギトロ。艶がやばい。

一口目で、私たちは黙った。

「……言葉いらない」

結衣が箸を止めずに言う。

「静岡、食で殴ってくる」

食べ終わる頃、心が妙に整っていた。

うまいものって、心を“普通”に戻す。

私はふと、今回の“勝手に観光ミステリー”の仕掛け人の顔を思い出した。日本平のおじいさん。

そして、おでん屋の大将。

そして、小判チョコおじさん。

「ねえ結衣。これ、誰がやってるんだろ」

「仕掛け人ネットワークじゃない? 静岡の優しい大人たち」

「優しい大人、遊び心が強すぎる」

そのとき、店の入口で見覚えのある後ろ姿が見えた。

――小判チョコおじさん(沼田さん)。

私は立ち上がって近づいた。

「沼田さん!」

沼田さんは驚いて振り返り、そして気まずそうに笑った。

「……ああ。昨日の。安倍川もちの」

「これ、あなたですか? メッセージとか、スタンプとか」

沼田さんは一瞬黙ってから、観念したように言った。

「半分は俺。半分は、あの爺さん」

「やっぱり!」

結衣が勝ち誇った顔をする。

沼田さんは、まぐろ丼を指さしながら言った。

「俺さ、去年まで東京で働いててな。

うまくいかなくて、静岡に戻ってきたんだ。

戻ったら……おでん屋の大将が言ったんだよ。

“帰ってきたなら、静岡の良さを誰かに渡せ”って」

「渡す、って?」

沼田さんは照れくさそうに頭をかいた。

「観光って、地図見て回るだけじゃないだろ。

誰かが一個、背中押してくれたら、

次の一歩が軽くなることがある。

だから、俺たちで“勝手なスタンプラリー”作った」

結衣が目を丸くする。

「え、これ、悩んでる人を拾うための企画?」

「拾うって言うな。犬猫じゃないんだから」

沼田さんは笑った。でもすぐに真面目な顔になった。

「昨日さ、あんた(私)が“勝ってるのに疲れてる顔”だったから、

爺さんが“仕掛けるか”って」

私は鼻の奥がツンとした。

見透かされて、恥ずかしくて、でも嬉しい。

「最後は茶町だ」

沼田さんは言った。

「そこで“迷子の練習”して、終わり。

終わったら、好きなお茶を買って帰れ。

それが“おみやげ”だ」

________________________________________

9. 茶町で迷子になる午後

午後、私たちは茶町を歩いた。

細い通りにお茶屋さんが並び、店先から香りが溢れている。

緑の匂いの種類が多すぎて、頭がふわっとする。

試飲、試飲、また試飲。

「……私、緑茶で酔ってる」

結衣が笑って言う。

「合言葉、来たね」

私は店員さんに、言われた通りに言ってみた。

「すみません……お茶で酔いました」

店員さんが一瞬固まり、次の瞬間にっこりした。

「ようこそ、迷子の方ですね」

店の奥から、小さなスタンプ台が出てきた。

スタンプカードの最後の枠に、ぽん。

可愛い“急須”のスタンプ。

そして店員さんは、静かに言った。

「迷子の練習は、ここからです。

“自分の好き”を言葉にしてみてください。

香り、苦み、甘み、のどごし。

どれが好きですか?」

私は急に、答えに詰まった。

仕事のときは、言葉を作るのが仕事なのに。

自分の好きは、意外に言葉にできない。

私は湯呑みを持って、香りを吸った。

深蒸し茶。

甘い香りの奥に、少しだけ青い苦み。

「……香りが好きです。

あと、飲んだあとに鼻に残る感じ。

それがあると、深呼吸できる」

店員さんが頷いた。

「いいですね。じゃあ、それに合うお茶を探しましょう」

そのやり取りだけで、私は妙に救われた。

“好き”を選ぶって、ちいさな決断なのに、ちゃんと自分の足で立つ感じがする。

結衣が隣で言った。

「さやか、顔、戻ってきた」

「なにが」

「呼吸」

私は笑って、深呼吸した。

お茶の香りが、胸の奥に落ちる。

最後に、私は少し高い煎茶を買った。

袋を持つだけで、なんだか“守り札”を手に入れた気分になる。

________________________________________

10. お茶の香りで、ハッピーエンド

夕方、駅へ向かう途中。

青葉おでん街の前を通ると、大将が手を振った。

「探偵さん! その後、守り神は絶好調だ!」

「出汁、守られてますね!」

私が言うと、大将は笑って、串を一本おまけしてくれようとした。

さすがに新幹線前なので断ったけど、気持ちだけで嬉しい。

日本平のおじいさん――仕掛け人も、どこからか現れて(どうやって?)

手を振りながら言った。

「迷子になったら、またおいで」

私は思わず笑った。

「迷子になる予定はないですけど……また来ます」

結衣が隣で頷く。

「静岡は、待つの得意だから」

新幹線のホーム。

私は買ったお茶の袋を抱えて、胸の奥が少しだけ軽いのを感じた。

東京に戻ったら、全部は変えられない。

でも、ひとつは変えられる。

たとえば、疲れたときに深呼吸すること。

たとえば、好きな香りを思い出すこと。

ドアが閉まり、列車が動き出す。

窓の外で、静岡市の街がゆっくり遠ざかる。

私はお茶の袋に鼻を近づけて、こっそり吸った。

緑の香りが、確かにそこにある。

――黒い湯気は、幸せの匂い。

――お茶の香りは、迷子の心を連れ戻す。

私は笑って、静かに言った。

「また来よう。今度は、誰かを連れて」

静岡市はきっと、変わらず迎えてくれる。

おでんの湯気と、松風と、まぐろと、そしてお茶の香りで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「黒い湯気は幸せの匂い、お茶の香りは迷子の心を連れ戻す」という結びの言葉通り、読んでいるだけで深呼吸したくなるような一冊でした 。忙しい日常の中で「自分がどうしたいか」を見失いそうになっているすべての…
読み終えたあと、思わず深呼吸しました。 この作品は“謎解き小説”の顔をしながら、実は心の回復を描いた物語だと思います。 事件はどれも小さく、命の危険もない。 でもその分、「疲れている大人の心」に真正…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ