私から婚約者を奪った女が、私が「自殺した」という噂を聞いて「濡れ衣着せたの、アタシなんだよね」とテヘペロ発言。元婚約者も「それほど俺が好きだったのか!」と喜ぶ始末。じつは死んでない私、今から復讐します
◆1
結婚まで、あと一ヶ月ーー。
私、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、間近に迫った結婚式に向けての準備に大わらわになっていた。
自分が生まれ育ったピレンヌ伯爵邸は、赤い屋根を載せた白亜の御殿で、私の結婚式の式場を兼ねていた。
おかげで今、大広間には、様々なものが運び込まれてきていた。
椅子やテーブル、装飾品や彩りを添える花々、席次を示すカードや、進行プログラムを記した白板など。
そして何より大切なものーー私の身を包む純白のウェディングドレスが、洋裁店から届いてきた。
すぐに二階の私の部屋に運び込まれた。
私の部屋には、天蓋付きのベッドと、大きな姿見の鏡ぐらいしかない。
そのベッドと鏡の間に、ドン! と、そのウエディングドレスが、針金で立体的に形作られた状態で置かれた。
私は指で布地の厚さを確かめながら、ドレスを見上げる。
頭に載せるヴェールが足下まで延びて、肩が膨らみ、袖口がキュッと締まっている。
スカートは大輪の花のように裾が広がっている。
自分がこの純白ドレスをまとって、赤い絨毯の上を歩く姿を想像して、私は青い瞳をキラキラと輝かせた。
そこへ背後から、声をかけられた。
「いよいよ、お式の日が近づいてまいりましたね。お嬢様」
振り向くと、黒髪に黒い瞳をした、細身の女性が、黒い作業着を着て立っていた。
私の専属侍女フランだ。
トーン男爵家の三女で、今年三十二歳となる彼女は、私が四歳の頃から仕えてくれているから、かれこれ十六年も働いていてくれていた。
彼女の隣で、私も一緒になって、ホウッと溜息をつきながら、純白のウェディングドレスを見あげた。
「ほんとうに、ここまで来るのに、いろいろありました。
今まで、我がピレンヌ伯爵家に仕えてきてくれて、ありがとうね、フラン」
私の両親、ヴィタ・ピレンヌ伯爵とマレー伯爵夫人が、事故と病気で相次いで亡くなったのは、一昨年のこと。
私、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、独りぼっちの身になっていた。
だけど、あと一ヶ月もして結婚式を挙げると、私は婚家のギース侯爵家に嫁ぐわけだから、慣れ親しんだ「ピレンヌ伯爵家」が消失することになる。
ピレンヌ伯爵家の、この屋敷も領地も、嫁ぎ先のギース侯爵家の財産として組み込まれ、私の実家ピレンヌ家は途絶えることになるのだ。
仕方のないことだけど、やはり寂しい。
でも、その事実に、特に不満があるわけではない。
一ヶ月後に夫になる予定の、婚約者リッツ・ギースは、寄親貴族家のギース侯爵家の嫡男だ。
ちょっと強引なところはあるけれども、男らしい人だし、独りっ子の私としては、そうした一面も、どこか頼もしいものと思っていた。
(もうこれで私はピレンヌ家ではなく、ギース家のお嫁さんになるんだわ……)
このウェディングドレスに袖を通した姿を、両親に見てもらいたかった。
そう思うと、ちょっと涙ぐんでしまった。
嬉しさと半分、不安をも半分、胸に抱いて、いろいろな感情が胸に込み上げてくる。
長年仕えてきた侍女フランも、黒い瞳を細めながら、
「良かったですね。お嬢様」
と祝福してくれる。
私は目尻の涙を指で拭きつつ、小首を傾げた。
「あら、フラン。なんだか上機嫌ね?」
侍女のフランは、三十歳を幾らか過ぎた年齢だ。
今まで良くピレンヌ伯爵家に仕えてきてくれた。
でも、ピレンヌ伯爵家がなくなるのを機に失職してしまうはず。
どうして朗らかなのか、ちょっと不思議に思った。
「ねえ、フラン。お仕事の紹介、受けなくて良いの?
私にだって、他の貴族家の奉公口もお世話できるのよ。
後見人のサンス公爵様にお願いして、紹介状だって書いてもらえるわよ?」
「必要ありません。
私、セーラお嬢様のご結婚を機に、田舎に帰ろうかと思っておりますので」
「そうなの?
貴女なりのプランがあるのね。
今までありがとう、フラン。
お互い、頑張りましょう」
侍女フランは黒い頭をチョコンと下げてから、無言で微笑む。
いつも通りの生真面目な対応。
それを眺めて、改めて気を取り直した。
私も新生活に向けて、期待と不安に胸を膨らませつつも、頑張ろうと、両拳に力を入れた。
だが、胸に秘めた明るい希望が光り輝いていたのは、この時までだった。
翌日、なんの前触れもなく、突然、私は不幸のどん底に突き落とされたのである。
根も葉もない言いがかりと悪い噂で、婚約者から捨てられてしまったのだ。
暴力まで振るわれてーー。
◆2
純白のウエディングドレスが自宅に届けられた、翌日ーー。
私、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、婚約者の屋敷ーーギース侯爵邸に呼び出された。
ギース侯爵邸は、我がピレンヌ伯爵邸より倍以上、広くて大きい。
床や壁の大理石が白く輝く御殿で、柱などに施された金装飾がキラキラと輝いていた。
黄金色に輝く頭髪を櫛で整えながら、私の婚約者リッツ・ギース侯爵令息が、応接間の上座のソファで脚を組み直しつつ、碧色の瞳を細める。
「ようやく来たか。
遅かったじゃないか」
私はリッツ侯爵令息を前に、片膝を付くような格好で、深々とお辞儀した。
「今朝になっての急な呼び出しで、驚きました。
いったい、何用でしょう?
やはり、結婚式について、何かご要望でもーー?」
婚約者リッツは、首を大きく振る。
ではいったい、何の用があるのか?
ふと、彼が座るソファの左右に居並ぶ貴族令嬢の姿に、私は目を遣った。
亜麻色の髪をなびかせるエミリ・ファーンズ伯爵令嬢と、ラシーヌ・ラング子爵令嬢、プル・バルサ子爵令嬢、ルブル・メール男爵令嬢といった取り巻き令嬢たちが、三人仲良く、色違いの扇子を手に、立ち並んでいたのである。
私は不思議に思った。
(どうして、この娘たちが……)
学園時代から、エミリ・ファーンズ伯爵令嬢と、その取り巻き令嬢たちは、同学年で幅を利かせていた意地悪グループだった。
私の胸に警戒心が芽生える。
そんな中、婚約者のリッツ・ギース侯爵令息から、いきなり尋問された。
「セーラ嬢、今日、君に来てもらったのは他でもない。
彼女たちから重大な話を聞いたんだ。
俺は本当に怒っている。
君に裏切られたからだ!」
「裏切り?」
私が銀髪を撫で付けながら、首を傾げる。
すると、エミリ伯爵令嬢の取り巻き連中が、扇子を広げつつ、言い募り始めた。
ラシーヌ・ラング子爵令嬢が、褐色の瞳を大きく広げながら、
「セーラ様。貴女、他に男がいるのでしょ!?
私、知ってましてよ」
と甲高い声を張り上げたかと思うと、プル・バルサ子爵令嬢が、黒髪をバサッと掻き上げて、
「私、見たの。
見知らぬ男からのプロポーズを受けていたわ」
と、青い瞳を輝かせる。
続いて、灰色髪のルブル・メール男爵令嬢までが、黒い瞳を細めて嘲笑う。
「貴女、別の男からプロポーズを受けて、喜んでたじゃない?」
私、セーラは、女どもをキッと睨み付ける。
「冗談でしょ?
私、そんなはしたないことはーー」
私が反論する前に、エミリ・ファーンズ伯爵令嬢が、私の前に歩を進めて、閉じた扇子を差し向ける。
「何しらばっくれてるのよ!
結婚間近なのに、貴女、それでも貴族令嬢なの!?」
ラシーヌ子爵令嬢、プル子爵令嬢、ルブル男爵令嬢の三人組が、声を揃える。
「そうよ、そうよ!」
「私たちは、その場面を直に姿を見たのよ」
「恥を知りなさい!」
私、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、胸を張って言い返す。
「そんなこと、あるわけないわ。
貴女方じゃあるまいし。
私にそんな男の人なんていません!」
すると、エミリ・ファーンズ伯爵令嬢が、口の端を綻ばせながら、
「嘘をおっしゃい!」
と甲高い声をあげ、私の真似をして胸を張る。
こうした、不毛な言い争いがしばらく続いた。
すると、それまで私たちの諍いを眺めていた、婚約者のリッツ・ギース侯爵令息は、金髪を掻きむしりながら吐き捨てる。
「これじゃあ、埒が開かないな。
仕方がない。
セーラのバックを寄越せ!」
リッツの突然の声に、私は目を丸くする。
(え!? なんなの、いきなり??)
戸惑う私を他所に、私の専属侍女フラン・トーンが、私が愛用している母譲りの牛革のバックをリッツに差し出す。
すると私の婚約者は、私の目の前で、バックの中に腕を突っ込み、無造作に掻き回す。
思わず、私は叫んだ。
「やめてください!
それは私のバックですよ!?」
いくら婚約者といえど、男性が女性のバックの中を漁るだなんて、無神経にも程がある。
だが、リッツは、困惑する私の顔を見ることができたからか、とても上機嫌だった。
「セーラ嬢。
貴女は、その男から、ラブレターや指輪をもらっていたそうだな?
彼女たちが、その一部始終を見たんだよ!」
と言って、ハンドバッグをひっくり返し、中身をザッ! と床にぶちまけた。
ハンカチやリップクリーム、手鏡やくしなど、私が日常使いしているものが、床に散らばる。
だが、その中に、これまで私が見たことがない、不審なモノがあった。
赤い封蝋がなされた、白い便箋ーー。
そして、ゴテゴテと装飾された、黒い宝石の指輪である。
私には初見のものであったが、リッツ侯爵令息は、あたかもそれらが、私のバックの中に入っているものと予見していたかのごとく、碧色の瞳を大きく見開く。
指輪を摘み上げ、次いで白い便箋から書状を取り出し、おどけた声で読み始めた。
「なになにーー
『貴女を一目見たその日から、お慕い申しておりました……』?
はっはは、なんとも絵に描いたようなラブレターじゃないか!
ちと古臭いがな。この指輪のデザインのように」
私、セーラ・ピレンヌは、銀髪を震わせて叫んだ。
「私、そんなの知らないわ!
誰よ!?
私のバックに、ヘンなものを入れたのは!」
侍女フランが、いつも通りの真面目な顔付きで、淡々と語る。
「このお手紙は、てっきりリッツ様からのラブレターかと、私は思っておりました。
セーラお嬢様は、いつも外出先からお屋敷へと帰ってくるたびに、そのお手紙を読んで、顔を上気させておりましたもの。
その指輪も、嬉しそうに薬指に嵌めては、うっとりと眺めておられました。
ですから、てっきり婚約者のリッツ様からの贈り物だと信じておりましたのに……」
私は、長年慣れ親しんだ女性の顔を、青い瞳で睨み付けた。
「嘘です!
私、そんなこと、しておりません。
フラン!
なぜ、貴女まで、そんな嘘をつくの?
皆とグルになって、私を嵌める気なの?」
フランはいつもと違って、長い黒髪を後ろで束ねるのをやめて、バサッと垂らす。
そして黒い瞳をゆっくりと細め、唇を赤い舌で舐めた。
「あら、セーラお嬢様。
嵌めるだなんて、人聞きの悪い。
私はただ、正直に、ありのままのことをお話しているだけですわ」
フランがそう言い終わると同時に、エミリ・ファーンズ伯爵令嬢、そして取り巻き令嬢たちが声をあげる。
「セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢!
貴女、この期に及んで、私たちにシラを切って、騙すつもり?」
「そうよ!
見たこともない怪しい男と抱き合って!」
「リッツ様に対しても裏切り行為でしょう!」
「この嘘付き女!」
リッツ・ギース侯爵令息は、令嬢たちの声に押される形で、私の前に立ちはだかった。
見上げると、金髪が逆立つほどに、怒り狂っていた。
「セーラ!
貴様、よくも婚約者である、俺の顔に泥を塗ったな!
男のプライドが傷つけられた。
侍女や令嬢たちの前で、堂々と俺を騙して、シラを切りやがって!」
太い腕を振るい、バシッ! と、私の頬を平手で打ち据える。
私は赤く腫れた頬に手を当てながら、婚約者の顔を正面から見据えた。
「やめてください!
なんで、そんな人たちの言うことを信じるのですか?
私はあなたの婚約者なのよ。
どうして婚約者の言うことを信じられないの!」
リッツ・ギース侯爵令息は、顔を真っ赤にさせて、怒号を張り上げる。
「嘘をつくな。証拠上がってるんだ。馬鹿が!」
リッツは拳を突き立てて、私を突き飛ばした。
私はお腹を両手で押さえて、床に崩れ落ちる。
銀髪が振り乱れ、青い瞳に涙が滲む。
それでも、リッツの怒りは、収まらないようだった。
金髪を振り乱して私の許に駆け寄ると、お腹を目掛けて集中的に蹴りを入れ始めた。
「おまえなんか、俺の婚約者に相応しくない!
セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢!
貴様に婚約破棄を宣言する。
二度と、俺の家の敷居を跨ぐな!」
嫉妬に狂った男の怒りは、誰にも止めようがなかった。
面白がって告発してきたエミリ・ファーンズ伯爵令嬢とその取り巻き令嬢たちも、身を強張らせて、生唾を呑み込む。
そこへ敢然と身体を張って止めに入った男がいた。
それまで応接間の扉脇に控えていた、ギース侯爵家の老執事モネ・アレバだった。
彼は青い瞳を鋭く光らせながら、低い声でリッツ・ギース侯爵令息を窘めた。
「リッツ坊ちゃん!
これ以上は、おやめなさい。
たとえ何があろうと、貴族令嬢に対して、このような仕打ちーー断じて、貴公子の振る舞いとは言えませんぞ!」
老執事モネが、胴体ごと背後から抱えて、引き留める。
それに対して、リッツ・ギース侯爵令息は、碧色の瞳で睨み返して、歯噛みする。
「うるさい!
コイツはもはや、親兄弟もいない、天涯孤独の身だ。
ここでどうなろうと……」
老執事モネは、両手でドン! と押して、リッツの身体を、私、セーラから突き放すと、嗄れ声で怒鳴った。
「ギース侯爵家の邸宅内で、死人を出したいのですか!
しかも、由緒正しき貴族令嬢を、暴行によって死に至らしめたという不名誉を身に受けるおつもりか!
少しは、お父上のバレット・ギース侯爵閣下のお立場もお考えください」
「チッ!」
父親の名前を出されたのが、効果的だったようだ。
リッツ・ギース侯爵令息は、ようやく私の身体を蹴るのをやめた。
私、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、痛みと虚脱感で、ぐったりとしてしまった。
銀髪は乱れ、青い瞳は裏返ってみえず、白眼を剥いていた。
エミリ・ファーンズ伯爵令嬢をはじめ、ラシーヌ子爵令嬢、プル子爵令嬢、ルブル男爵令嬢といった告げ口女どもは、扇子を広げて忍び笑い。
誰もがセーラの身を案じる様子はなかった。
独り老執事だけが、
「とりあえず、私がこのお嬢様をご自宅にお送りします。
リッツ坊ちゃんは、その間に、どうか怒りをお収めください」
と伏目がちに言い残して、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢を抱きかかえ、応接間から出て行った。
怒りの対象を運び出されたおかげで、リッツ・ギース侯爵令息の突発的な怒りは収まった。
その一方で、エミリ・ファーンズ伯爵令嬢ら、告げ口女たちは、良い気味とばかりに薄笑いを浮かべていた。
セーラ専属の侍女フランは、ようやくホッと安堵の吐息を漏らし、エミリ伯爵令嬢に目配せする。
そして、エミリに身を寄せて、耳打ちした。
「これで私の役割は終わりました。
お約束のお金をいただけまして?」
エミリは無言のままで、懐から袋を取り出して渡す。
侍女フランは、紐を緩めて、その中身を確認した。
袋の中には、何十枚もの金貨が詰まっていた。
翌日から、王都の貴族街において、若い貴族家の令嬢、令息たちの間で、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢について、悪い噂が広まった。
「婚約中の身でありながら、別の男からの求愛も受けて喜ぶ、ふしだらな女だ」と。
「これだから、二親を失った娘は身持ちが悪い」
「婚約者だったリッツ・ギース侯爵令息も、危ういところで結婚を回避できて、良かったではないか」
などと、舞踏会やサロンで、噂好きの貴族どもが囁き合う。
そして三ヶ月後ーー。
元婚約者リッツ・ギース侯爵令息は、告げ口女のエミリ・ファーンズ伯爵令嬢と結婚した。
金髪の貴公子と、亜麻色髪の令嬢の、若いカップルの誕生であった。
しかも、結婚式で純白のウエディングドレスをまとった新婦のお腹は、すでに人目につくほど大きくなっていた。
◆3
「セーラ伯爵令嬢が、リッツ・ギース侯爵令息との婚約中に、他の男の求愛を受けた。
それゆえに、婚約破棄させられたのだ」
という悪い噂が、巷で囁かれるようになって、一年後ーー。
セーラ嬢が自宅に引き篭もるようになり、貴族社交界から完全に姿を消していた。
その一方で、セーラの悪評を振り撒いたエミリ伯爵令嬢は、セーラの婚約者だったリッツ侯爵令息を略奪して、見事、できちゃった結婚を果たし、玉のような坊やを育んでいた。
ある春の日の朝、ギース侯爵邸の応接間においてーー。
朝食後、リッツとエミリの夫婦が、ソファで隣り合わせで座りながら、互いの金髪と亜麻色の髪を弄り合って、イチャイチャしていた。
抱き合う二人の間には、オムツをした可愛い幼児がいる。
母親譲りの亜麻色の髪に、父親譲りの碧色の瞳をした彼の名はドミノ・ギース。
父母の愛を一身に受けて育てられていた。
そこへ、老執事モネ・アレバが入室してきた。
銀髪が整えられることなく、だらしなく垂れ下がり、青い瞳は伏目がちだ。
いつになく元気がなく、悄然としており、皺が多く刻まれた顔に見える。
リッツ・ギース侯爵令息が、金髪を掻き上げて問いかける。
「いつにも増して、浮かない顔だな。
どうした?」
老執事はうつむき加減に、ボソリと呟いた。
「ピレンヌ伯爵家のセーラお嬢様が、お亡くなりになりました」
突然の訃報に、元婚約者のリッツは、碧色の瞳を大きく見開いた。
「最近、姿を見ないと思っていたら……何か重い病気でも患っていたのか?」
老執事が顔をあげ、
「毒をあおいで自殺なされた、とのことです」
と喉を震わせると、さすがにリッツも息を呑んだ。
「……そ、それは不幸なことだな。
ちと、悪いことをしたかな」
自殺の原因は、貴族の社交界に、彼女の悪い噂が広まったからに違いない。
「ピレンヌ伯爵家のセーラ嬢は、婚約中の身でありながら、別の男からの求愛を受けて喜ぶ、ふしだらな女だ」
という悪評が、この一年もの間、盛んに囁かれていた。
もちろん、新妻のエミリ・ギース侯爵令息夫人と、その取り巻き令嬢たちが積極的にばら撒いた風聞だった。
だが、同世代の貴族家の令嬢、令息たちの間で、これほど噂になっていたのには理由があった。
セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、学園時代、生徒会副会長を務めた優等生だった。
それなのに、両親を突然失って以来、おかしくなって、無軌道な恋愛に狂ったのでは?
と驚きとともに、推測されたからだ。
つまり、セーラがとびきりの優等生だったがゆえに、余計に悪い噂が広まったのだ。
そして、その婚約中のセーラ嬢に言い寄った不謹慎な男は誰なのか?
ラシーヌ嬢、プル嬢、ルブル嬢といった、三人娘の目撃情報がありながら、杳として知れない。
そのことが、かえって噂が広まるのに拍車を掛けた。
「お相手は、生徒会長だった第二王子だ!」
とか、
「隣国から留学していた公爵令息だ!」
とか、様々に噂された。
婚約破棄を宣言して以来、セーラ伯爵令嬢が自宅に引き篭もってしまったことは、リッツも知っていた。
当然、悪い噂に巻き込まれるのを嫌ってのことだと思っていた。
が、まさか自殺するほど、気に病んでいたとは思わなかった。
リッツは顎に手を当て、眉を八の字にする。
その一方で、彼の隣に座る奥さんのエミリ・ギース侯爵令息夫人は、大変に上機嫌になっていた。
「へー。死ぬにまで行っちゃったんだ?
ちょっとかわいそうかも」
と、妖しい笑みを浮かべて、口から小さな舌を出した。
そして、亜麻色の頭をコツンと自ら叩き、突然、告白したのだ。
「じつはアレ、アタシが仕組んだことなんだよね」と。
リッツ・ギース侯爵令息は、さすがに目を丸くして問い直す。
「アレってなんだ?」
エミリ夫人は、幼児を膝上に抱っこして頭を撫でながら、頬を膨らます。
「『セーラが、別の男から求愛されて、喜んでた』
っていうヤツ。
アイツが言ってたように、ほんとは、そんなこと、なかったんだもん」
「なんだと!? おまえ……」
エミリは執事に幼児を預けると、悪戯っぽい笑みを浮かべて、夫の胸にしなだれかかる。
「あら。私のこと、嫌いになった?」
エミリが甘えるように囁く。
リッツは、ちょっとうろたえながら問いかける。
これにエミリが得意げに答えることで、会話が進んだ。
「いやーーだけど、どうやってハメたんだ?
ラブレターとか指輪とか、証拠があったじゃないか。
他の男から求婚されたっていうのはーー」
「簡単よ。
ラブレターの代筆屋がいるのよ。恋文専門のね。
たくさん書いてもらって、あの子のバックに入れておいたの。
指輪は安いアンティークのもの。
それらしく見えるわよね、祖母の代から伝わった大切な指輪に。
そして、あの女が『別の男から求婚された』という証言を、ラシーヌ嬢、プル嬢、ルブル嬢といった女友達三人組に言ってもらったの。
女同士の連携プレってやつね。
『アタシが結婚できたら、向こう三年間のお茶会の費用を全部、持ってあげる』
と約束したら、彼女たち、喜んで応じてくれたわ」
「アイツに仕えていた侍女はーー?」
ピレンヌ家の侍女フラン・トーンは、長年、セーラ嬢専属で仕えてきて、セーラの私物の管理すら任されていた。
セーラ嬢と会うときは、その傍らに、たいがい、黒髪を後ろに束ねて、黒い瞳でこちらを見据える彼女の姿があったものだ。
だが、そんな彼女も、エミリからの誘惑に、抗しきれなかったようだった。
エミリ夫人は、亜麻色の髪をサラッとなびかせ、得意げに語った。
「あの侍女、じつはウンザリしてたのよ。
セーラの専属をずっとやってたけど、何も良いことがなかったって。
しかも、セーラが結婚したら、ピレンヌ家がなくなっちゃって、失職しちゃうでしょ?
また他所の家に仕えることはできても、もう侍女仕事はまっぴら御免、と思ってたみたい。
男爵家の三女とはいえ、一応、貴族家の令嬢に生まれたのに、他の娘に仕える一生だなんて、我慢ならない、さっさと引退したい、と思ってたのよ。
だから、田舎に引っ込んでも、しばらくは豊かに暮らせるだけの金貨を譲る約束をしたの。
そうしたら、彼女、喜んでセーラのバックに手紙と指輪を仕込んでくれたわ。
彼女、長年仕えたお嬢様に恨みを持ってたのよ。
『三十オーバーで仕事を探す身になってみてください。
私だって、結婚したかった。
ウエディングドレスを着たかった。
お嬢様ばっかりズルい。
だから、これはちょっとした意趣返し。
私は絶対悪くない!』
と言ってたわ」
「……」
エミリは、無実の令嬢を罠に嵌めたことを、誇らしげに暴露する。
膝には、あーあーと片言を喋る幼児を乗せたままだ。
リッツは、そんな新妻の姿を、無言のままに見詰める。
いつになく真剣な眼差しである。
エミリは、ちょっと気後れした。
つい、得意になって暴露してしまったけど、マズかったか? とも思った。
が、もう後には退けない。
覚悟を決めた。
エミリ夫人は幼児の金髪頭をワシャワシャと掻き乱して、堂々とした笑みを浮かべる。
「わかった?
そういう努力をして、アタシは貴方と結ばれて、こうして子供も授かったの。
どう? 浅ましいって軽蔑してくれても良いのよ?」
エミリは少し緊張して、身を強張らせる。
だが、そのように身構える必要はまったくなかった。
案に反して、夫のリッツは大きく手を広げて、妻のエミリを、幼児ごと抱き締めた。
リッツ・ギース侯爵令息は、エミリの耳元に熱い息を吐きかけながら、喉を震わせる。
「とんでもない!
俺はますます君が好きになった。
それぐらい、俺を奪い取りたいって思っていたのだろう?
君の手腕には驚かされた。
その熱意に脱帽するよ。
実際、この世の真理は弱肉強食なんだ。
奸計を用いてまで、妻の座を勝ち取ろうとする、君は素敵だ!」
エミリは心底、勝ち誇った笑顔になって、天井を見上げる。
(ああ、私たち、似合いの夫婦だわ!)
腕を伸ばして、夫リッツと少し距離を取り、正面から見詰め合う。
そして、エミリとリッツは、熱い口付けを交わした。
左右から大人の身体に挟まれて、幼児があうあうと苦しそう。
見かねた老執事が、幼児をソファから抱え上げる。
今、この部屋では、幼児を抱えた老執事がソファの脇で直立していた。
だが、夫婦にとっては、居ないも同然。
この部屋は、二人だけの愛の空間となっていた。
リッツとエミリ、ギース侯爵家の新婚夫婦は、互いの愛情を確信し、幸せを噛み締めていた。
◇◇◇
数十分後、ギース侯爵邸の執務室ーー。
机を挟んで、ギース侯爵家の父子が向かい合っていた。
机を前にした父バレット・ギース侯爵が、口髭を撫でながら不満げに唇を歪める。
机を挟んで立っている息子リッツ・ギース侯爵令息は、からかう口調で問いかける。
「父上。いまだに俺たちの結婚に反対なのか?
もう一年も経って、子供も生まれたっていうのに」
「もったいないことをした。
そのことを、おまえはわかっておらんのだ」
ギース侯爵家の嫡男リッツを、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢と婚約させ、縁付かせようと努力していたのは、父親のバレット・ギース侯爵だった。
バレットは、ピレンヌ伯爵家が所有する領地の鉱石に目をつけていた。
国内のみならず、外国への販路を開拓できていたバレットには、その鉱石を何倍もの高値で売り付けてボロ儲け出来る自信があった。
だが、ピレンヌ伯爵家は慣習に従って、国内販売のみで満足している。
しかも、寄親貴族家であることを活かして、共同事業を提案したものの、ピレンヌ伯爵家側は、
「外国に鉱石を輸出するのは、本来、王家に嫌われている」
と及び腰で、提案に乗ってこない。
それが我慢ならなかった。
幸い、自分の息子を、ピレンヌ家の令嬢と婚約させることには成功していた。
あとは、邪魔なピレンヌ伯爵夫妻を始末するだけ。
そう思って、様々な手立てを使って、ついにピレンヌ伯爵夫妻の暗殺を成功させた。
公的には事故死、病没ということで片付けられた。
だが、ピレンヌ伯爵夫婦の続け様の不審死については、バレット・ギース侯爵の関与も噂されたせいもあって、これ以上、ピレンヌ伯爵家に手が出せなくなっていた。
その結果、両親を亡くしたセーラ嬢の後見人は、バレットにとっても寄親貴族家であるサンス・ソリドゥス公爵になってしまった。
ますます、ピレンヌ伯爵家に対して、迂闊に手を出せなくなってしまった。
だが、ピレンヌ伯爵領の鉱石が手に入るのは、時間の問題でもあった。
セーラ嬢が結婚すると同時に、後見人は解任され、亡き両親の遺産を彼女が相続することになっていたからだ。
そして、ギース侯爵家に嫁入りしたセーラの資産は、半ば我が家で好きに活用できると見て良かった。
「おまえがおとなしくセーラ嬢と結婚していたら、今頃はピレンヌ伯爵家の財産も丸ごと我がギース侯爵家のものになっていたであろうに……」
唇を噛む父の姿を見て、息子は軽い口調で切り出した。
「そのピレンヌ伯爵家のセーラ嬢、自殺したらしいですよ。
俺も今日、知ったんですが、それを父上に報告するために執務室に伺ったんです」
「なんだと!?」
バレットは一瞬、碧色の瞳を見開いてから、
「なるほど。
おまえに捨てられたことが、よほど衝撃だったようだ。
ということは、今現在、ピレンヌ伯爵家の財産も所領も、宙に浮いているようなものだな」
と呟き、顎に手を当て、考え込む。
それを見て、息子の方は机に手を突き、身を乗り出した。
「それで、父上、どうなんです?
誰もいなくなったら、ピレンヌ伯爵家って、どうなるのかな?
財産だけでも、ウチらのもになりませんかね」
バレット・ギース侯爵は、腕を組み、口をへの字に曲げる。
「元婚約者という肩書きだけでは、財産を横取りする口実には弱過ぎる。
寄親貴族家として、我がギース侯爵家も代々、それなりにピレンヌ伯爵家の面倒を見てきたはずなんだが……。
このままでは、家屋も財産も領地の資産も、すべて彼女の後見人であるサンス・ソリドゥス公爵のものになるはずだ。
ソリドゥス公爵家は我がギース侯爵家の寄親でもあるから、ウチが噛むのは、ちょっと難しくなったがーー。
むう、これは、サンス公爵閣下と話し合う必要があるかもしれん。
その前準備として、まずはピレンヌ伯爵邸へと、直接、足を向けるとするか。
あの家には、ギース侯爵家の執事モネと懇意にしている者がいるはずだ。
それに、当主であったセーラ嬢が自殺したとあらば、寄親貴族家当主として、儂も顔を出した方が良かろう」
「俺も何かしましょうか?」
息子のリッツは碧色の瞳を輝かせるが、父のバレットは手を広げて、彼の動きを制した。
「遠慮しろ。
おまえは彼女との婚約を破棄した。
それが自殺原因となっているのなら、おまえはピレンヌ伯爵家の者から怨まれているに違いない。
しかも、別の女と結婚して、後継まで産んでいる。
面倒なことになるから、俺が独りで行ってくる」
「もう夜も更けております。
お独りで向かわれるのは……」
「そう、すでに夜になっておる。
ゆえに、使用人や従者どもは引き払っておるから、呼び戻すのも面倒だ。
そして、なにより財産や権利の絡んだ案件だ。
出来るだけ人目のつかぬところで決着をつけたい」
バレット・ギース侯爵は、これまでも数々の陰謀に直接、手を下して目的を果たしてきた実績がある。
もっとも、その大半が、二、三十代の若く活気に溢れていた頃の体験だったが、五十代を超えた今でも、あの若かりし頃と同様の活躍ができると過信していた。
足早に廊下を歩き、玄関へと向かう。
その間も、随行してくる息子リッツに、
「おまえがセーラ嬢の自殺を知ったのは、つい先程だったのだろう?
だったら、今なら、儂が先んじて動くことができる。
明朝になれば、セーラ嬢の後見人が使者を送ることだろう。
そうなってからは遅いこともある」
父親バレットは、そのまま玄関を出て、馬車に乗り込む。
その際、後に従ってきた息子に言い残した。
「とりあえず近況を確かめなければ。
自殺とあれば、なおさらな。
さらに後見人のサンス・ソリドゥス公爵と話をする必要がある。
ギース侯爵家も寄親貴族家として、ピレンヌ伯爵家の面倒を見てきたんだ。
遺産の処分に際しては、口を出す権利ぐらいはあるのではないか。
そのように交渉するしかないがーー。
ったく、おまえが別の女と結婚するばっかしに、面倒なことに。
こんなんじゃぁ、もう弟のマネにギース侯爵家を継がせるしかないかもしれんな」
父親バレットの捨て台詞を耳にして、息子リッツは歯噛みした。
弟のマネ・ギース侯爵令息は現在、外国に留学中だった。
成績の良い弟で、一族内でも声望が高く、予定の許嫁セーラ嬢ではない女性ーーエミリ嬢と結婚したこともあって、ギース侯爵家嫡男の地位も危ぶまれる状況になっていた。
リッツ・ギース侯爵令息は、親指の爪をガリガリと噛んだ。
(手をこまねいてばかりはいられない。
妻子のためにも、俺も何か手を打たねば……)
◆4
数時間後、ギース侯爵邸において、晩餐を終えた、新婚夫婦水入らずのときーー。
「お義父様は?」
ティーカップを手にした新妻エミリの問いかけに、夫リッツはソファに深くもたれて吐き捨てた。
「出かけて、もう随分経つ。
ピレンヌ伯爵家の遺産が手に入らないか、探りに行ってるんだ」
幼児ドミノを抱きかかえる妻に、夫リッツは、掻い摘んで状況を説明をする。
「まぁ!
セーラと貴方が婚約していたのは、そういう理由があったのですね。
それなのに、アタシと結婚してくれたなんて、嬉しいわ」
エミリに感心されたものの、リッツは少し気恥ずかしかった。
じつは父親から「ピレンヌ伯爵家の財産と所領についての狙い」と、「リッツがセーラと婚姻する目的」等々を色々と説明されていたものの、今まで馬耳東風で、聞く耳を持っていなかった。
それよりも、何処へデートに行くのか、男友達と何処へ遊びに行くのかといった娯楽にしか興味がなかった。
エミリとの結婚後に、ようやく父バレットのピレンヌ伯爵家に対する目論見を知ったような気がしていた。
たしかに、俺、リッツがセーラと婚約したままで結婚にまで至っていれば、事実上、寄親貴族家であるギース侯爵家が、ピレンヌ伯爵家を丸ごと接収する形となっていただろう。
そうなれば、ギース侯爵家は破格の豊かさとなっていたに違いない。
夫リッツは金髪をもみあげながら、吐息を漏らす。
「ちと惜しいことをしたかな」
「あら。まさか、私と結婚したの、後悔してるの?」
「いや。俺は愛を取ったからな。
子供もできたことだし」
息子ドミノを挟んで、ふたりはイチャイチャと互いの身体をまさぐりあう。
こんな状況でもスヤスヤ眠っているのだから、ドミノもかなりのタマである。
そこへ老執事モネ・アレバが、
「念のために、ご報告にあがりました」
と嗄れ声をあげながら入室してきた。
「この度、ピレンヌ伯爵家の遺品管理を任されましたので、しばらく、こちらギース侯爵邸を留守にいたします。
どうかご理解を賜りたく」
リッツは、銀髪の初老男に、不審げな顔を向けた。
「なぜだ?
おまえは古くから我がギース侯爵家に仕えていただろう?
なぜ、ピレンヌ伯爵家の資産管理を任されたのだ?」
老執事は、リッツに対して、深々と頭を下げる。
「私は、セーラ嬢と縁戚関係でして。
相続の問題も含めて、後見人のサンス・ソリドゥス公爵閣下から、後始末を命じられたのです」
リッツは、ポンと膝を打った。
(なるほど。
だから、俺が蹴りまくったとき、セーラを助けたのか……!)
あのとき、執事のモネが凄い剣幕で割って入り、セーラを助け出した。
どうにも不自然に感じていたが、縁戚関係とあれば、合点が入った。
考えてみれば、「セーラ嬢が自殺した」と報告してきたのも、この老執事モネだった。
ちなみに、我が国では、貴族家の子弟でも、長男以下は、寄親筋の貴族家に執事として仕えることは多い。
セーラ嬢の実母は、実家のピレンヌ伯爵家よりさらに下位貴族家の令嬢だったから、その兄弟が我がギース侯爵家の執事として仕えていてもおかしくはない。
リッツは、ふと、父のバレット侯爵が数時間前に馬車でピレンヌ伯爵邸に赴いたことを思い出した。
「おまえはピレンヌ伯爵邸から、ギース侯爵邸に出向いてきたのだろう?
だったら、父上ーーバレット・ギース侯爵に会わなかったか?」
リッツからの問いかけに、老執事は首を傾げながら、
「いえ。どうやら、行き違いになったようで」
と答えてから、
「でも、私がギース侯爵邸に出向いて参りましたのは、リッツ坊ちゃんに、今は亡きセーラお嬢様のお言葉をお伝えしようと思ってのことで」
と声を低めた。
リッツはギョッとして、思わず隣に座る妻エミリの顔を見る。
エミリの方も生唾を呑み込んでいる。
しばらく無言で、互いに顔を見合わせたあと、リッツは居住まいを正し、
「どういうことを言われているのか?」
と問うた。
老執事モネの方も、ピシッと背筋を伸ばして、あたかも遠い過去の出来事を想起するかのように、目を細める。
「生前のセーラお嬢様は、
『リッツ様に婚約を破棄されたことは残念でしたけど、これまで、ギース侯爵家には、寄親貴族として、大変、お世話になってきたことは承知しております』
と言っておられました。
そして後見人であるサンス・ソリドゥス公爵閣下に言っておられたようなのです。
『私に何かあった場合、私名義の財産を、元婚約者のリッツ・ギース侯爵令息にお譲りします』と」
思いも寄らぬ「遺言」を耳にして、リッツは興奮しながら立ち上がる。
てっきり恨み言でも遺されたかと思っていたが、違っていた。
碧色の瞳を爛々と輝かせる。
「よし! これで、セーラのモノは、全部、俺たちのモノだ!」
両拳を握り締めて叫ぶ夫に、妻のエミリも同調して、
「ほんと、貴方と結婚してよかったわ!」
と歓声をあげた。
夫のリッツは、妻の肩を両手で掴んで、今後の活動計画を口にした。
「父上は後見人のサンス・ソリドゥス公爵に頭が上がらない。
ヘタをしたら、遠慮して、ろくにセーラの遺産を分取れないかもしれない。
だけど、遺産管理を任された執事の発言を聴いただろ?
セーラの遺産は、父上でも、公爵閣下でもなく、この俺ーーリッツ・ギース侯爵令息に譲られたのだ!
だったら、俺が誰よりもまずは遺産を手に入れなければならない。
今からでも、俺たちがピレンヌ伯爵家の屋敷に急行して、めぼしい財産を差し押さえておこう。
そうだな、従者を何人か付けてーー」
老執事モネ・アレバは、慌てて両手を振る。
「リッツ坊ちゃん!
もう、夜が更けておりますゆえ、そのような大事にされては……」
執事の制止を受け、リッツも、
「そうだな。
まずは、俺だけでピレンヌ伯爵邸に向かって、めぼしいものを確認しよう」
と口にして、自身の興奮を鎮めた。
そして、新たな思いつきとともに、質問する。
「そうだ。
父上も、セーラの遺した財産を確かめる作業に取り掛かっているから、合流しよう。
当主であったセーラが自殺したとはいっても、向こうにも、誰かはいるんだろう?」
「もちろん、従者や下男がおります」
と、青い瞳をした執事が答えると、リッツ坊ちゃんは、彼の皺だらけの手を引っ張った。
「こっちには資産管理を任された執事がいるんだ。
とりあえずピレンヌ伯爵邸に行こう。
馬車を用意しろ!」
リッツに引きずられる執事、そんな男二人を駆け慕いながら、妻のエミリも声をあげる。
「待って。
私も連れてって。
誰か、この子をお願い!」
かくして、寝ぼけ眼の幼児ドミノ・ギースを侍女に預けて、老執事に先導される形で、リッツとエミリは、夫婦連れ立って馬車で出発したのだった。
◆5
老執事モネが御者となった馬車で、リッツとエミリの新婚夫婦が、ピレンヌ伯爵邸に乗り付けた。
ちょうど月に黒雲がかかり、リッツの金髪も、エミリ亜麻色の髪も、夜闇に隠れて良く見えない。
執事が「どうぞ」と新婚夫婦を誘うが、門を開けて玄関まで進んで屋敷の中に入っても、人気がなく、ひっそりとしている。
真っ暗で不気味な雰囲気が漂っていた。
リッツはランプに灯りをつけて、高く掲げる。
「たしか、真っ直ぐ廊下を進めば、応接間に入れるはずだ」
リッツは婚約者であったセーラに誘われて、何度かお茶を共にしている。
だから、彼の父親バレットと同様、ピレンヌ伯爵邸の基本構造を熟知していた。
重いマホガニー製の扉を開けて、奥の応接間に入る。
すると、急に足下が覚束なくなり、思わず滑りそうになる。
それは後続してきたエミリも同様だったようで、
「あれ?
なんか、床が濡れてない?」
と不安げな声で呟く。
実際、エミリは滑って、上体を大きく崩してしまった。
「キャッ!」
何かにつまずいて、エミリがこける。
床に手をついたら、ベットリとした感触があった。
「なに、これ?」
エミリが手を広げ、リッツがランプの灯りを近づけると、手のひらが真っ赤になっていた。
リッツの注意は、床面に向かった。
「これは……血か!?」
エミリが転んだ際、何につまずいたのか。
自分たち夫婦のすぐ足下、暗いところに何かが転がっている。
ランプを床に近づけたら、そこにあったのは血塗れの人間だった。
リッツがしゃがんで、その人間の顔を確かめた。
すると、そこにあったのは、見慣れた顔ーー口髭を蓄えた父親バレット・ギース侯爵が白眼を向いて絶命した顔だった。
「ち、父上!?
なんだよ。これは!?」
「キャアアア!」
リッツが大声をあげ、エミリが絶叫する。
そのとき、彼らの背後で、ガタンと音がした。
壁に立て掛けてあったものが、倒れたのだ。
リッツが壁際に進んで、倒れたモノを手にして、眉間に皺を寄せる。
「大振りの斧か。
凶器はこいつか!?」
刃に血糊がベットリとついている。
「いったい、誰が父上を!?
ーー誰か、誰か人はいないのか!」
リッツが金髪を振り乱して、大声で叫ぶ。
すると、部屋のドアが開き、クスクスと笑い声が聞こえる。
リッツとエミリの二人が声の聞こえる方に振り向く。
そこには、ランプを手にした女性ーーセーラ・ピレンヌ伯爵令嬢が、銀髪をなびかせ、青い瞳を細めながら立っていた。
「キャアアア!」
エミリは碧色の瞳を見開いて、悲鳴をあげる。
血に濡れた手で顔を覆いながら、
「まさか、私を恨んで……。
怖い。取り憑かれる。
いやああああ!」
と金切り声を張り上げて、部屋の外へと、脱兎の如く、逃げ出した。
その一方で、リッツ・ギース侯爵令息も碧色の瞳を大きくして、呆然としていた。
ランプをセーラの方へと掲げて、疑問を呈する。
「まさか、セーラ、おまえが生きてたなんて。
自殺したんじゃなかったのか?
じゃぁ、俺の父上を殺ったのは……」
セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は何も答えない。
ただ、青い瞳を細めて、微笑むばかり。
そこへ窓の外から明かりが差し込み、喧騒が響いてくる。
屋敷の外がいきなり騒がしくなっていた。
数台の馬車と何十頭もの騎馬が、ピレンヌ伯爵邸に、いっせいに乗り付けてきた。
屋敷を出ていた老執事からの出動要請があって、貴族街専門の治安騎士団が、駆けつけてきたのだ。
そんな彼ら、騎乗する騎士団員たちの許へ、エミリ・ギース侯爵令息夫人が、亜麻色の髪振り乱して飛び込んできた。
「幽霊が出たの。
セーラの幽霊が出た!」
灯りを近付けてみると、エミリの顔や手、衣服までにも、ベットリと血糊が付着しており、それでも血塗れのままで騒ぐから、騎士団員としては保護しなければならなくなった。
治安騎士団の第二部隊隊長デュラン・アングル伯爵は、錯乱したエミリを部下に任せるよう指示すると、颯爽と下馬し、松明を手に、ズカズカと屋敷へと乗り込んでいく。
当然のごとく、部下の騎士団員数十名が、これに後続する。
彼らが奥へと進み、応接間へと雪崩れ込んだ、そのときーー。
「きゃあああ!
人殺し!
なんで私の屋敷で、こんな酷いことを!」
と、甲高い女性の悲鳴が響き渡る。
セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢が、自分の頬を両手で押さえながら、叫んでいた。
デュラン騎士団長が、片膝を付いて礼儀正しく振る舞いつつも、大声で問いかける。
「何があったのです、貴女の家で!?」
松明の灯りで、すでに血塗れの死体と、斧を手にした貴族男性の凄惨な姿が映し出されていた。
セーラは震える指で、血に濡れた斧を持つ、金髪の貴公子を指し示した。
「突然、ギース侯爵家の父子が、我が家に乗り込んできたんです。
そして、リッツ様が、お父上のバレット様をーー」
と言って、膝を折り、デュラン騎士団長の身体に向けて倒れ込み、気を失う。
騎士員たちが「貴様!」と叫んで、斧を手にしたリッツに体当たりして押し倒す。
それから、金髪を鷲掴みにして、顔面を床に強く叩き付けた。
父親の流した血溜まりに、息子の顔全体が浸かる。
我に返ったリッツ・ギース侯爵令息が、血に塗れた床に、額を付けた状態で叫ぶ。
「違う!
俺は何もしていない。
濡れ衣だ!」
セーラ嬢の身柄を部下に引き渡し、デュラン騎士団長が身を屈め、血に塗れたリッツの顔を覗き込む。
貴族街の治安を預かるデュランは、即座にこの金髪の貴公子が、一年ほど前に結婚したばかりの、ギース侯爵家の嫡男リッツだと認めた。
とすれば、自分の家より爵位が上の身分の子弟が相手だ。
デュランは言葉使いに気をつけながらも断定する。
「何をおっしゃいます。
凶器は、貴殿が手にしておりますでしょうに。
その斧を振り回して、自分の父親を殺したんですね?」
リッツは、ジタバタと両手両足を動かして、もがく。
が、三人の屈強な騎士団員に背中から押し潰された体勢なので、身動きができない。
「俺は殺ってない。
どうして、父上を殺すことなど、できようか!
そうだ、アイツーーここのセーラ嬢が……」
デュランは凶器の斧を手にしながら、眉を顰める。
「この重い斧を振り回す力量が、この、気絶したお嬢さんにあると思えますか?
ここまで残虐に人を切り刻んでいるんですよ?」
リッツは生唾を飛ばしながら、必死に無実を訴え始める。
それをデュラン騎士団長が、軽くいなす展開となった。
「とにかく、父上を殺したのは、俺じゃないんだ。
話を聞いてくれ。
そうだ。妻のエミリに事情を聞けばーー」
「妻? ああ、先程から『幽霊が出た』って、外で騒いでいるご婦人ですか?
そんなの、無理に決まってますよ。
ただでさえ錯乱しているというのに、まともな話が聞けるわけがありません。
ーーそもそも、貴方がた、ギース侯爵家の者たちが、なぜこの屋敷ーーピレンヌ伯爵邸に、父子揃ってやって来たのですか?」
「いや、ここの主人の、俺の元婚約者であった、セーラ伯爵令嬢が自殺したって言うから……」
「まさか、貴方も錯乱しておられるのですか?
生きてるじゃありませんか、このセーラ嬢は」
デュランはちょっと振り向いて、部下に抱えられた状態で安らいでいる貴族令嬢に目を遣りながら言う。
「いや、だから、ギース侯爵家の執事が、このピレンヌ伯爵家の管財人になって、それから……」
必死の形相で説明をしようとするリッツを、デュラン騎士団長は、手を開いて押し留めた。
「ああ、慌てなくとも結構です。
詳しい事情は駐屯所で聞きますから」
そう言って立ち上がり、デュラン騎士団長は、リッツにのしかかっている騎士団員たちに命じた。
「殺人の容疑者だ。
父親殺しのな。
とはいえ、侯爵家のお血筋だ。
丁寧に扱えよ。
連れて行け!」
騎士団員たちは、父親の血で汚れたリッツ・ギース侯爵令息を強引に引き立たせる。
そして、後ろ手に縄で縛りつけた状態で、馬車へと押し込め、駐屯所の取調室へと連行した。
言葉とは裏腹に、まるで下人か平民かを引っ立てるような、荒い扱いであった。
◇◇◇
ピレンヌ伯爵邸に、治安部隊の騎士団が雪崩れ込む、数時間前ーー。
セーラ嬢の元婚約者リッツの父親、バレット・ギース侯爵が、密かにピレンヌ伯爵邸に玄関脇から押し入って、家探しをしていた。
馬車で乗り付けたときには、真っ暗で、屋敷には誰もいないと思っていたのに、ギース侯爵家に仕えているはずの執事モネ・アレバが玄関扉を開けて、中へと招き入れてくれたのだった。
訊けば、本来、ギース侯爵家に仕える執事でありながら、セーラ嬢の縁戚ゆえに、モネ・アレバが後見人のサンス・ソリドゥス公爵から、お屋敷を一時的に任されたという。
「ご報告が遅れて、申し訳ございません」
と、顔馴染みの老執事が頭を下げるが、主人のバレット・ギース侯爵は喜色満面の笑みを浮かべた。
「そいつは都合良い。
セーラ嬢が亡き今、この屋敷には主人がいない。
まるで好きに探ってくれと言わんばかりではないか!」
バレット侯爵は、老執事を押し除けて玄関から上がり込み、廊下の奥へと突き進む。
一階の奥に応接間があり、そのさらに奥に執務室がある。
最重要な私物はたいがい執務室に秘蔵するものと、この国では相場が決まっていた。
老執事が制止するのを無視して勝手に入り込んで、バレット侯爵は、ピレンヌ伯爵家の執務室で、ガサガサと金目のモノを探る。
このあと、すべての資産が後見人の管理下に置かれることになったとしても、今、この時に持ち出したものまで差し押さえることはできまい、と高を括り、バレット・ギース侯爵は火事場泥棒と化していたのだ。
あまりの剣幕に、老執事は気を利かせたかのように、現場から姿を消す。
それからしばらくして、バレット侯爵は、背後から野太い声で、
「そこにいるのは、何者だ!」
と叱責された。
ランプは床の上に置き放しているから、しゃがんだ状態で振り向いても、相手の顔が暗くて良く見えない。
「貴様こそ、何者だ!?」
バレット侯爵が問い返すと、
「オラは下男のボッシュだ。
応接間と執務室の薪がそろそろ少なくなってる頃だで、補充に来た。
皆の迷惑になれねえよう夜に行く決まりだ」
と、屈強な身体付きの男が、ガラガラと薪を床に放り出して答えた。
バレットは、ホッと安堵の息を吐く。
てっきり後見人の手の者が派遣されてきたのか、と思ったからだ。
格下の伯爵家の使用人、それも下男ごときに口を利くのも勿体無いとばかりに、くるりと背を向け、家探しを再開する。
「儂はバレット・ギース侯爵だ。
本来なら、貴様ごときが口を利ける身分ではない。
わきまえろ」
下男は疑わしそうに、険しい顔つきになった。
ボッシュは三度の従軍体験者だ。
敵を前にしたような感触を全身に覚えた。
「侯爵様?
なして、こんな夜更けに、侯爵様が盗人みたいな真似をするだ?」
バレット侯爵は、苛立ちながらも、身を屈めたまま、ピレンヌ伯爵家の下男ボッシュと問答を繰り広げた。
「セーラ嬢が亡くなったから、遺品を調べに来たのだ。
儂は寄親貴族なのでな。
今回のことは執事のモネ・アレバから許可を得ておる。
それゆえ、好きにさせてもらおう。
下男ごときが気にすることはない。
早々に立ち去れ」
「モネ・アレバ?
ここには、そんな執事はおらん」
「それは、そうだ。
アレは我がギース侯爵家の執事ゆえーーええい、面倒臭い。
うるさい、下郎が。
少し下がっておれ。邪魔だ」
「下郎だと?
貴様こそ、何様だ。
盗人のくせに!」
いきなり盗人が入り込んできたと思ったうえに、言い訳をするときに自分を下郎呼ばわりして侮辱した。
一連の問答での態度に腹を立て、ボッシュは即座に手にした斧を振り下ろした。
彼にとって、盗賊が侵入した際、屋敷の使用人がその者を討ち果たすのは当然の行為だった。
「ぎゃあ!」
右肩に強い衝撃を受け、バレット・ギース侯爵は面喰らう。
手にしていた数枚の書類を床に落として、うずくまる。
痛みが激しい肩に左手を遣ったら、手のひらが真っ赤に染まった。
(これはヤバい!?)
ようやく危険を察知したバレットは慌てて立ち上がり、執務室を飛び出して隣の応接間へと駆け出す。
そのまま、扉を開けて、さらなる外へと足を向ける。
だが、全身が痺れて、足がもつれた。
ドタッと床に倒れ込む。
やがて、ミシミシと床を踏み締める音が、後方から迫ってきた。
バレット侯爵は、斧を手にした下男を見上げつつ、喉を震わせる。
「き、貴様! 無礼だぞ。
儂を誰だと思ってーー」
血濡れた手を差し伸べてくる。
なので、さらに、無言のままに、ボッシュは斧を何度も振り下ろした。
盗賊がぐうの音も出ないようになるまで。
ザン、ザン!
鈍い音とともに、暗がりの中を血飛沫が舞う。
執事モネと連れ立って、お嬢様セーラ・ピレンヌが顔を出してきたのは、その直後であった。
モネから、バレット・ギース侯爵が突然、来訪し、家探しを始めたとの通報を受け、急ぎ面会しようとした。
が、すでに寝巻き姿になっていたので、衣装を替えるのに手間取るうちに、一階では惨劇が展開してしまっていた。
下男ボッシュが一仕事を終えて、斧を壁に立てかけ、汗に濡れた茶髪を掻き上げている最中だった。
ランプを掲げると、バレット・ギース侯爵の頭がかち割られていた。
「どうして、こんなことにーー」
セーラが青い瞳を見開いて絶句する。
その反応を見て、この盗人が、どうやら盗人とは違って、お嬢様と既知の間柄であるらしい、とボッシュはようやく悟った。
お嬢様が驚いているところをみると、この盗人は、自分で言っていたように「侯爵様」なのか?
ボッシュは、血塗れの床に、へたり込む。
血溜まりに沈むように倒れている貴族男性。
そして、褐色の瞳を濡らせて、全身を震わせる下男ーー。
二人の男性の姿を、暗がりの中で見詰めながら、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は口許を引き締めながら、考え込んだ。
「バレット侯爵閣下ともあろうお方が、我が家で泥棒みたいな真似を、どうしてーー。
これも真実が明らかになったからでしょうか……」
セーラの傍らには、老執事モネがいた。
彼は元婚約者リッツの実家ギース侯爵家に仕えているが、じつは、セーラ嬢の亡き実母マレー・ピレンヌ伯爵夫人の兄であった。
◇◇◇
かつて、横取り女エミリ・ファーンズ伯爵令嬢と、その取り巻き令嬢たちから、根も葉もない「目撃証言」を重ねられた結果、婚約者リッツ・ギース侯爵令息から、暴力を振るわれた直後ーー。
虫の息になっていたセーラ・ピレンヌ伯爵令嬢を馬車に運び込み、自宅の寝室にまで連れて行って、看病までしてくれた人物ーーそれが、ギース侯爵家に仕える老執事モネ・アレバであった。
彼はセーラの枕頭にあって、額に当てる濡れ布巾を取り替えつつ、静かな声で問いかけた。
「セーラお嬢様ーー可愛い我が姪よ。
貴女が、
『婚約中に、別の男からの求愛を受けていた』
というのは本当なのですか?」と。
「とんでもない濡れ衣です」
とセーラはベッドに横たわりながらも、凛とした声で答える。
「おそらくあの女ーーエミリ・ファーンズ伯爵令嬢が、偽の目撃証言をでっち上げて、リッツ様に婚約破棄を決意させたんだと思われます。
根も葉もないことを『証言』をしたのも、あの女の取り巻き、ラシーヌ、プル、ルブルといった連中だった。
彼女たちは、いつもくだらないいじめをしては、学園で得意になってた人たちだから、今回の悪意のある『証言』も、軽い遊びの延長のつもりでいるのでしょう。
あの人たちに泣かされた令嬢方は、結構いるのよ。
私は、昔から大嫌い。
でもリッツ様は、ああいう悪い噂にコロコロと騙されやすいのよね。
ったく、オンナに良い顔をしたがるオトコってのは、とかく節穴で困るわ……」
「それは気に入りませんな。
しかも、婚約破棄までされて……」
老執事のモネ・アレバ伯父さんにとって、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、自分の妹の娘であり、可愛い姪っ子だった。
セーラの後見人はサンス・ソリドゥス公爵となっているが、それは表向きのことで、本当のセーラの父親役は自分だと彼は自負していたのだ。
妹亡き後、忘形見の姪っ子の幸せを実現することこそ、自分の使命だと密かに思っていた。
だから、妹の死後も、ちょくちょく時間を見つけてはピレンヌ伯爵邸に出向いて姪っ子セーラのご機嫌伺いをしており、このお屋敷の使用人たちとはすっかり顔馴染みとなって、こうして顔パスで屋敷の奥にまで進むことができていた。
モネは、背筋を伸ばして襟元を正し、ベッドで半身を起こしたセーラと問答する。
「さて、セーラお嬢様。
これから、どうなさるおつもりで?」
「そうね。しばらくは屋敷内に引き篭もるわ。
どうせあのヒトたちに、悪口を吹聴されるのですから、社交界に顔を出しても面白くない。
それに、近いうちにあの女、エミリがリッツと婚約するんじゃないかしら?
あるいはすぐに結婚するかも」
姪の推測に、伯父は懐疑的な反応をする。
「ご当主のバレット・ギース侯爵閣下は、ぜひセーラ嬢と結婚を、と仰せになっておられますが……」
セーラは銀髪を左右に振る。
「それも、モネ伯父様とは違って、私への愛情に根差したものとは思われません。
バレット侯爵様は、いつも私、セーラではなく、ピレンヌ伯爵家の財産にばかり目を向けておいででした。
それはともかくーー」
と、セーラは話題を転換し、以降、彼女が提案をして、モネ伯父さんがその案に応じる格好で会話が進んで行った。
「今後の展望としては、あの女ーーエミリがリッツと結婚するでしょうね。
そのために、デマを流してまでして、婚約者を私から奪ったのですから。
でも、私、セーラ・ピレンヌは、濡れ衣を着せられたまま、黙って引き下がるつもりはないわ」
「なるほど。
『陰謀を働いた場合、最も得をする者が、その陰謀の犯人』
と言いますからな。
では、事の仔細を後見人のサンス・ソリドゥス公爵にお伝えしますか?」
「もちろんです。
サンス公爵閣下は、私の後見人なのですから。
ただし、『手出しは一切ご無用』とお伝えください。
名誉回復は、自分自身の手で行います、と」
「それでこそ、私の姪っ子です。
いつ頃に、目にモノを見せてやりますか?」
「そうね。
あの女が結婚したあとーーいえ、結婚してしばらくしてーーそうね、一年以上が経った頃かしらね。
その頃には子供だって生まれてるかもしれないし。
案外、出来ちゃった婚になってるかもだし。
それぐらい経った頃の方が、私の復讐は光る気がするの。
『復讐という料理は冷ましてから食うのが一番うまい』
って言うでしょ?」
「了解しました。
でも、なんだか癪ですな。
このままリッツ坊ちゃんが、あの女に騙されたまま夫婦生活をしているっていうのは」
長年仕えてきたゆえ、老執事モネは、オシメを替えたこともあるリッツに、それなりに親しみがあった。
「だったら、頃合いを見て、私が『自殺した』とでも、リッツ様とあの女が一緒にいるときに、報告してやればどうかしら?
あの女ーーエミリ・ファーンズ伯爵令嬢のことですもの。
それだけで得意になって、何でも話すんじゃないかしら?」
「そうですか?
普通なら評判を落としかねないので、極力、他言しないのでは?」
ふう、とセーラは吐息を漏らす。
「普通なら、ね。
でも、エミリは違うのよ。
自らが練り上げた策略が上手くいったら、それを自慢しないではいられないーーそういう性格してるのよ」
改めて老執事は、背筋を伸ばす。
「わかりました。
では、リッツ坊ちゃんに、『セーラお嬢様が自殺した』と、あの女がいる際に伝えてみます。
お嬢様の見立て通り、あのエミリとかいう女が得意げにペラペラと白状したら、たしかに面白いですなぁ。
私なら、そんな女ーー嘘をついて他人を貶めるような人物を、妻に持ちたくはありません。
ですから、きっとリッツ坊ちゃんも、さすがに目を覚ますでしょう。
かといって、すでに一年以上が経過して、子供までできている頃なら、早々に離婚するわけにもいきませんし、夫婦喧嘩が絶えない、不幸な家庭になるでしょうな。
なるほど、これがお嬢様が画策する復讐の第一場面、というわけですな!」
セーラは自らの銀髪を指でいじりながら、皮肉げに笑みを深くする。
「いえ。それは、わかりませんよ。
世の中、そうそう思い通りにはならないものですから……」
そして、一年後、老執事が「セーラ嬢が自殺した」と話した途端、事態はセーラが思った通りに展開した。
すでにギース侯爵令息夫人となりおおせていたエミリ自身から、セーラ・ピレンヌを嵌めたと暴露した。
そして、その際、老執事が両手で顔を覆いたくなるような真実が発覚した。
リッツ・ギース侯爵令息が、
「とんでもない!
俺はますます君が好きになった。
それぐらい、俺を奪い取りたいって思っていたのだろう?
君の手腕には驚かされた。
その熱意に脱帽するよ。
実際、この世の真理は弱肉強食なんだ。
奸計を用いてまで、嫁の座を勝ち取ろうとする君は素敵だ」
と発言して、エミリと抱きつき、その性格の酷さが、浮き彫りになってしまったのだった。
◇◇◇
そして、今ーー。
セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢と老執事モネ・アレバの目の前には、床にへたり込む下男ボッシュと、血塗れになったバレット・ギース侯爵の惨殺死体が足下に転がっていたーー。
往時を思い出して、老執事モネ・アレバは青い瞳を閉じつつ、しみじみ語る。
「リッツ坊ちゃんが、あのように下衆な心をお持ちだとは。
つくづくセーラお嬢様が結婚しなくて良かったと思いますよ」
でも今の問題は、下男ボッシュが盗賊と信じ切って斧を振り下ろし、元婚約者リッツの父親バレット・ギース侯爵を殺してしまったことであった。
「ボッシュをこのまま、お上に捕まえさせるのは可哀想……」
下男の身を気遣うことーー。
それが、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢が、まず最初に心掛けたことであった。
下男ボッシュの一家は平民家庭だ。
貴族家の、しかも当主を殺したとなれば、実行犯であるボッシュ本人が処刑されるばかりか、一族郎党まで皆殺しになってしまう。
彼には若い奥さんと三人の子供もいる。
実際、下男ボッシュは、自分が斧で叩き殺した相手が貴族と知って、畏れ慄き、身を震わせていた。
それに対し、主人として、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は胸を張った。
「ボッシュ。あなたは悪くありません。
月夜の晩に、主人の屋敷に押し入って来た盗賊を討ち果たして、どこが悪いというのですか?
早く井戸の水で身体を洗い、自分のお家にお帰りなさい。
あとはすべて私に任せなさい」
ボッシュは大きな身体で、のっそりと起き上がり、血の気が退いた顔で、ペコリと一礼する。
「あ、ありがとうございます。セーラお嬢様」
そして、スゴスゴと、血濡れた殺人現場から立ち去って行った。
下男の背中を見送ると、セーラは改めて老執事モネと二人で語る。
「どうなさるおつもりで?」
とモネが問うと、セーラは改めて腕を組み、青い瞳を細める。
「まずは、リッツ様ーー私の元婚約者を、この屋敷に呼び寄せてください。
そうですねーー貴方がピレンヌ伯爵家の管財人に任命された、とでも言って、誘い出せば良いでしょう。
そうだわ。
もう彼らの間では、私が自殺したことになっているはずですから、私が、
『遺産の譲渡をリッツ様に、と遺言していた』
とでもいった餌を与えてやれば、喜んで飛びついてくるんじゃないかしら?
あの女ーーエミリを妻にしたことだし。
昔よりも欲望に忠実になっていることでしょう」
「わかりました。
それから先は、セーラお嬢様にお任せしますよ」
老執事は、襟をシュッと整えると、クルリと踵を返す。
そのまま、ギース侯爵邸へと向かった。
伯父さんの背中を見送りながら、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、両拳に力を込めた。
「見てらっしゃい。
目には目を、歯には歯をーー。
今度は、あなたたちに立派な濡れ衣を着せて差し上げますわ!」
◆6
ピレンヌ伯爵邸から、リッツとエミリの新婚夫婦を連行した翌日ーー。
貴族街での治安を守る騎士団第二部隊駐屯所で、参考人による供述が行われた。
午前中に、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢が語ったことによればーー。
寄親貴族家の者であることを笠に着て、元婚約者のリッツ・ギース侯爵令息が、夜分遅くにピレンヌ伯爵邸を訪れ、
「子供が生まれた祝儀を寄越せ!」
と、父親のバレット・ギース侯爵と妻のエミリを引き連れてやって来た。
さすがにセーラ嬢は腹に据えかねた。
「婚約中に他の男性と付き合った」というデマに乗せられて婚約を破棄されたうえに、さらに、そのデマを流した張本人と結婚して出来た子供の誕生を祝えと強要したのだ。
セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、毅然とした態度で、その申し出を拒絶した。
「こちらとしては、後見人のサンス・ソリドゥス公爵様のご意見を伺ってからでないと、祝儀一つも出すことはできません。
そもそもリッツ様。
貴方が勝手に行った婚約破棄の件で、私の後見人であるサンス公爵様は、とうに怒っておいでです。
これから先、お立場を悪くなれされても知りませんよ」
とセーラ嬢は、元婚約者に語ったという。
それでも元婚約者が「祝儀を寄越せ」と言い続けたから、セーラ嬢は困惑したという。
「だから、ギース侯爵家の執事モネ・アレバにお願いして、治安を預かる騎士団の方々に護衛をしていただけるよう、出動要請したのです。
その結果、外聞を恐れたバレット侯爵が『もう帰ろう』と訴えたのに対し、元婚約者のリッツ・ギース侯爵令息は更に激昂し、
『そんなのは俺の誇りが許さない。その女の財産は俺のものだ!』
と、父親に向かって、いきなり斧を振るって、ビックリしたんです。
逃げるバレット侯爵に追い縋り、背中から何度も切り刻む、凄惨な事件となりました。
それなのに、妻のエミリ夫人は、夫がなした親殺しに目を瞑り、
『呪いを受けた。幽霊を見た!』
と騒ぎ始めるばかり。
もう何がなんだか、わかりませんでした。
親子喧嘩、夫婦喧嘩なら、ご自宅でなさってください、と言いたい気分です。
でも、エミリ夫人が真っ先に外に飛び出してくださいましたので、騎士団の方々は、『これは事件だ!』と真剣に応じてくださって、すぐに屋敷に突入してくださった。
なので、私、セーラは、元婚約者に殺されることなく、助かったのだと思います。
ありがとうございました」
そして、その日の午後ーー。
以上のセーラ・ピレンヌ伯爵令嬢の供述に基づいて、父親殺しの容疑者リッツ・ギース侯爵令息の尋問が行われた。
「セーラ嬢の供述を聞いて、貴殿はいかに思われる?」
と、騎士団長デュラン・アングル伯爵が、赤い瞳で真っ直ぐ見詰めた。
すると、容疑者リッツは、ドン! と机を叩いて声を荒らげた。
「セーラが言ったことは、嘘ばかりだ!
俺は全く知らない。
遺産が貰えると聞いたから、執事の先導で、妻と一緒にピレンヌ伯爵邸に出向いただけだ。
そしたら、父上が死体になって、床に転がっていた。
血塗れで……」
デュラン騎士団長は、顎を突き出す。
「どうも、おっしゃられることが腑に落ちないんですが。
どうして、貴殿から婚約破棄されたセーラ嬢が、貴殿に財産を渡すことになるのでしょうか?
恨みを買うのがせいぜいでしょうに。
そもそも、彼女は死んでなんかいなかったではありませんか。
現に、我々、治安部隊に供述なさっておられるんだし。
無実を訴えるにしても、荒唐無稽が過ぎますよ。
作り話はよしてください」
リッツ容疑者は、自分が言うことを、まるで信じてもらえていないことを察して、怯み始めた。
「いや、それは、我がギース侯爵家の執事のモネが、
『ピレンヌ伯爵家のセーラ嬢が自殺した』
と言ったからーー」
デュラン騎士団長は、赤い髪を掻き上げる。
「それがですね、そのギース侯爵家に仕えるモネという執事によれば、
『セーラ嬢が自殺などするはずがないではありませんか。
世間ではどうなのかわかりませんが、セーラ嬢が濡れ衣を着せられた挙句に、婚約を破棄された、という事実を旦那様ーーバレット侯爵様はご存知でしたよ。
そうした下品なデマを流した張本人こそが、嫁入りしてきたエミリ嬢であるということも。
ですから、日頃から、旦那様とリッツの坊ちゃんが険悪な仲になっており、二人で話し合われてばかりで、執事の私は始終、蚊帳の外でした』
と供述しているんですよ。
やっぱり、結婚を反対されたことが、惨殺の遠因なんでしょうかね?」
「嘘だ!
それこそ出鱈目、濡れ衣だ!!」
リッツは、バンバン! と机を激しく叩いて吼えるが、容疑が晴れそうにはなかった。
一方、ほぼ同時刻、妻エミリ・ギース侯爵令息夫人と、その取り巻きたち、ラシーヌ・ラング子爵令嬢、プル・バルサ子爵令嬢、ルブル・メール男爵令嬢らも、別室で事情聴取を受けていた。
エミリは、
「幽霊が出たの。セーラの幽霊。
え? まだ生きてる?
だったら、そいつは偽物よ。
悪魔と契約を結んだに違いないわ」
などと一頻り喚いてから、一転、いかなる尋問を受けても、無言を貫くようになってしまった。
その一方で、取り巻きの三人は金切り声を響かせながら、罪をエミリに擦り付けて、大騒ぎとなっていた。
彼女たちも、この一年もの間に、それぞれに結婚したり、婚約したりしていたが、何度か騎士団駐屯所に連行されて尋問されるうちに、その関係のすべてが破綻してしまった。
殺人事件に関わった可能性が出てきた以上、彼女たちから縁切りする者が相次いだのだ。
ラシーヌ・ラング子爵令嬢は婚約破棄され、プル・バルサ子爵令嬢は実家から勘当された挙句、母親までが娘の教育失敗を理由に離縁され、ルブル・メール男爵令嬢は結婚してわずか半年で離婚となり、妊娠中だったにも関わらず、「誰の胤だか、わかりはしない」と婚家で罵られ、追い出されてしまった。
しかも、彼女たちが取り調べを受ける過程で、「セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢が、婚約中に別の男から求愛された」という事実自体がない、まったくのデマであることを白状した。
その結果、セーラ嬢に関する悪い噂が、すべてでっち上げなことが、明らかにされた。
ラシーヌ・ラング子爵令嬢が、褐色の瞳を瞬かせながら、
「今回の件は、学園時代のからリーダーのエミリ様がやったことに応じただけなの」
と言えば、別室で尋問されていたプル・バルサ子爵令嬢も、自身の黒髪をいじりながら、
「今回も『面白いゲームをするわよ』って言われて、私たちは呼び出されただけなの」
と青い瞳を伏せる。
ルブル・メール男爵令嬢は、自身の大きくなったらお腹をさすりながら、
「どうして私ばっかり、こんな不幸な目に遭わなきゃいけないの!?
酷いわ。悪いのはリーダーのあの女よね?」
と、非難の矛先をエミリに向ける。
ラシーヌ・ラング子爵令嬢が、茶髪を自分で結えながら、
「いつもの通りに、相手を嵌めただけなのよ。
ちょっとした嫌がらせとゲーム感覚でやったのに、私は婚約破棄されて、ルブルさんは結婚していたのに離婚、挙句の果て、もう一人のプル嬢は実家から追い出されて……」
と総括し、プル・バルサ子爵令嬢は、
「そうよ。悪いのはエミリよ。
いつも美貌を鼻にかけて、私たちをゲームの駒のように使って」
と非難し、ルブル・メール男爵令嬢は灰色髪を震わせながら、
「許せない。
自分だけリッツとうまくやった挙句、バレット侯爵様を殺したりするもんだから、私たちまで、行き場を失ってしまうだなんて。
あんな女ーーエミリなんか、死刑になれば良いのよ」
と毒を吐いた。
さすがに名誉を重んじた実家によって罰金を支払ったから、彼女ら三人は監獄行きを免れた。
が、エミリ、そしてリッツ対して、深い恨みを持ったまま、転落の人生を歩むことになった。
さらに、エミリの策謀に加担した四人めの女、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢の専属侍女フラン・トーンも、駐屯所への任意同行を求められ、長い尋問を受けた。
「私は、エミリ嬢に言われたままに、手紙と指輪を、セーラお嬢様のバッグに入れただけ。
私だってお金が欲しかった」
と、フランは供述した。
が、尋問に当たった騎士は、
「でも、その貰った金額が大金だったから、自分が行ったことが犯罪行為であると自覚していたはずですよね!?」
と食い下がられ、フランは沈黙を強いられた。
結局、侍女フランは逮捕されて労役場留置と決し、以降、王宮の地下で、貧民に交じって洗濯作業を十年間強いられる強制労働刑に服することになった。
あまり陽光の射さない場所で、汚物にまみれた作業を十年間も繰り返すことで、普通の女性より十歳は歳を取ると言われていた。
裁判所で、この判決を言い渡されたとき、フラン・トーンはボサボサになった黒髪を振り乱して泣き叫んだ。
「そんな! お金だったら、あります。
罰金を払うので、免除してください。
私、そんな悪い事してません。
お願いです。それだけは、やめてください」と。
だが、長年仕えていた主人セーラを裏切って、悪評を立てさせる証拠をでっち上げた詐欺行為が、貴族社会においては大きな問題とされていた。
判事は、カンカン! と木槌を叩いて宣告した。
「罰金で罪を逃れることは許されぬ。
長年仕えてきた主人に対して、良くもそんな酷いことをしたものだ。
被告が自身の身体で償わなくてはいけない。
強制労働刑は免れぬ!」
フランは黒い瞳を涙でいっぱいにして膝を折って、裁判長に向かって懇願する。
「地下で十年なんて……それでは私、四十を過ぎてしまいます。
私だって、結婚を夢見ていたし、純白のウェディングドレスを着て、結婚したかったのに。
酷い、酷すぎる!
四十を過ぎてしまったら、私、どうすればーーうう……」
喪服のように黒い衣服に身を包んだ侍女フランは、泣き崩れてしまった。
たしかに薄暗い地下において、貧民に交じって、王宮勤めの文官や騎士団員、その他使用人たちの大量の衣服を毎日洗濯するのは重労働だ。
手も荒れる。
みるみるうちに、普通の生活をする女より、五年も十年も早く老いてしまうに違いない。
そんな過酷な状況になってしまった。
年若い、同性の主人に対する「ちょっとした意趣返し」が高くついた結果となったのである。
◇◇◇
裁判が行われて、三ヶ月後ーー。
セーラの元婚約者リッツ・ギース侯爵令息は、父親バレット・ギース侯爵を斬殺した「父親殺し」の罪で、死刑となった。
尊属殺人の罪の重さから、毒杯をあおることも許されず、一般の罪人のように、市中引き回しの後、絞首台に昇った。
「俺は無実だ!」
と、リッツは金髪を震わせながら、最期まで叫んでいた。
錯乱した心情を表すかのごとく、主張する内容は刻々と変化していき、刑場に向かう頃には、すっかり被害者の悲鳴になっていた。
「妻のエミリが、濡れ衣をセーラ嬢に着せたんだ。
だから、セーラから、俺は復讐されたのだ!
そうとも、俺だって騙されたんだ。
セーラは……セーラは俺に復讐したんだが、それも当然だ。
俺が馬鹿だった。
考えてみれば、元の婚約者のセーラの方が、気立てが良かった。
性悪女のエミリと結婚したばっかりに、俺が……。
違うんだ。間違えてたんだ。
なんで俺が処刑されるんだ。
馬鹿野郎、騙されるな!
誰も信じられない。
女はみんな悪魔だ。
女は皆、空気を吸うように、シレッと嘘ばっかりつくんだよ。
女を殺せよ。
女を殺すべきなんだ。
女は汚い奴らだ。
害虫と一緒だ。
なんで男の俺が殺されるんだ!」
首に縄が巻かれる際には、わあああ! と泣き崩れた。
絞首台の周りに集まった群衆に野次られながら、リッツ・ギース侯爵令息は足場を落とされ、首吊りの状態となった。
最期の顔はじつにみっともなかった。
鼻水が垂れ、口からは泡立った涎とともに、赤い舌がダラリとはみ出していたという。
一方、エミリ・ギース侯爵令息夫人が口を開けば、刑死した夫とは違って、セーラ・ピレンヌに対する一貫した恨み節に終始した。
「学園では、セーラなんかより、私の方が美貌もあって、ずっとモテてたのよ。
夫のリッツだって、私の方が大好きって言ってくれたわ。
だから、私は幸せになって当然だった。
なのに、負け犬のセーラが強かに、背後で動き回ったのよ。
結果、私にまでとばっちりが来たわ。
セーラ・ピレンヌ……なんていう女なのかしら。
許せない。
あの女ーーセーラは、きっと悪魔と取引したに違いないわ。
結局、彼女の復讐で、私の夫は死刑になったんでしょ?
そんな残酷なこと、私にはできないもの。
セーラの魂は永遠に悪魔のものだわ!」
結局、エミリは修道院送りとなった。
実家のファーンズ伯爵家は、早々に彼女と縁切り宣言をしていたからだ。
後年になって、修道女としての活動を早朝から深夜まで従事しながらも、エミリの錯乱状態は止むことがなく、自分を世俗から追放したセーラ・ピレンヌのことを恨み続け、
「私だって悪魔に頼んで、セーラを呪ってやる!」
と決意し、亜麻色の髪を切って神前に捧げ、浮浪者の死体から盗んだ髑髏と蝋燭を並べて、悪魔の名を声高に叫んで悪魔崇拝を深くして、おかしくなってしまったという。
今回の事件において、一番の被害を受けたのは、当主のバレット侯爵を失い、嫡男のリッツまでをも失ったギース侯爵家であった。
外国に留学中だった、弟のマネ・ギース侯爵令息は急遽、本国に帰還して、ギース侯爵家の家督を継いだ。
が、彼には数々の試練が待ち受けていた。
まずは、「嫡男による父親殺し」という、この上ない不祥事を起こしたことから、お家取り潰しの危機に直面してしまった。
だが、彼は親戚や派閥の力を借りて王家とのパイプを強化し、廃絶をなんとか免れた。
それでも試練は終わらない。
今度はセーラ・ピレンヌ伯爵令嬢に慰謝料を支払うよう、王家から命じられた。
兄のリッツがデマに乗せられて婚約を破棄したうえに、セーラの実家ピレンヌ伯爵邸で陰惨な殺人事件を起こした責任を果たすよう、申し渡されたのだ。
マネにしても、兄の婚約者として、セーラ嬢と何度か顔を合わせたことのある仲だったので、邪険にも出来ず、慰謝料をケチることなく支払った。
その結果、ギース侯爵家は、半分以下の規模に縮小せざるを得なかった。
しかも、これで試練は終わらず、経済の弱体化を口実に、侯爵から子爵にまで降爵させられてしまった。
それでも、弟マネが奮闘したおかげで、ギース家はなんとか貴族家として生き残ったのであった。
ちなみに、リッツとエミリの忘れ形見、碧色の瞳がクルクルとして愛らしい幼児ドミノ・ギースは、この縮小したギース子爵家で引き取られることとなった。
いまだ結婚していない当主マネにとっては、単なる甥というよりは、事実上の嫡男としてドミノを迎え入れており、元エミリ付きの侍女だった女たちが精力的に世話を焼いているようだ。
そして、元婚約者と嘘の告げ口女に対して、見事に復讐を果たしたセーラ伯爵令嬢は、相変わらず実家のピレンヌ伯爵邸に居残り、母方の伯父である老執事モネ・アレバを迎え入れて、一緒に住み始めていた。
エミリやその取り巻きたちによってばら撒かれた悪い噂を信じていた貴族の令嬢、令息たちは「セーラ嬢に悪かった」と反省した結果、セーラ・ピレンヌはお茶会に招かれたり、求婚されたりする機会がグンと増えて、賑やかな毎日を過ごすようになっていた。
でも、心中のわだかまりは消えない。
ふつふつと復讐心が湧き起こる。
中庭のカフェテラスで、モネ伯父さんに淹れてもらったコーヒーを嗜みつつ、私、セーラ・ピレンヌ伯爵令嬢は、自分に言い聞かせる。
まずは領地内の海辺の別荘で、ゆっくり療養しましょう。
下男ボッシュと、その家族も、気鬱にならないよう、同行させて。
それから、どうするかを考えましょう。
気分が晴れたら、それで良し。
晴れなかったら、復讐心が赴くままに行動しましょう。
王都に戻って、あの馬鹿女どもの口車に乗って、私を陰で貶めた人物を、一人ずつ炙り出していって、罠に嵌めていくのも悪くない。
その過程で、様々な人物と出逢い、その人となりを知っていくことになるでしょうから、将来を誓い合うようなお相手にも、ひょんなことから巡り合うかもーー。
そんなことを思いながら、いろいろと想像を膨らます。
(ちょっと、私の心は壊れちゃったのかも。
それも無理ないわ。
いろんなことが、ありすぎたもの。
休養とリハビリが必要ね……)
いまだ仕事に就いていない私は、しばらくは、豊かな自然に囲まれた状態で、楽しい日々が過ごせそうで、私は気持ちを昂らせていた。
(了)