白い結婚と七人の王太子
(……さすが『完璧さん』ね)
目の前の花嫁にそう呼ばれているとも知らない王太子は、美しい声で堂々と愛を誓い、華奢な左手をスマートに取る。
その薬指に指輪を嵌めると、『貴女を愛しています。一生大切にします』と語りかけるような、それはそれは完璧な笑みを浮かべた。
◇◇◇
「私が王子様のお嫁さんに?」
宰相である父親から告げられた、ソランジュ8歳の誕生日。
魔女になってほうきで空を飛ぶという夢も、海賊になって世界中の宝を集めるという夢も、諦めなくてはいけなくなってしまった。
しょんぼりする娘を見ては、悲しい顔をする父。小さなソランジュの胸は痛み、窮屈で退屈なお妃教育も、『楽しい!』と笑顔でこなした。
元々前向きで明るい彼女のこと。絵本に載っている強くて優しいお妃様になろう、お妃様になってお城の大きな椅子に座れば、いつか魔法も宝物も見られるかもしれないと、新しい夢に切り替えたのである。
四歳上のアナン王太子に初めて会った時、ソランジュは驚いた。12歳にしては上背があり、同い年の馬番の少年と比べても、随分大人びて見えたから。
座っているだけでも漂う気品と、優しい雰囲気は絵本の王子様そのもの。
あと四年経ったら自分もこんな風になれるのかと、ソランジュはわくわくしていた。
一年……二年……
瞬く間に四年が過ぎ、12歳になっても。
ソランジュはソランジュのままだった。
少女から淑女へ、そして王太子妃へと花開こうとしている侯爵令嬢。
だが瞳の、新緑のような輝きは変わらなかった。
鏡を見てなあんだと呟くが、がっかりはしない。
よくも悪くもこれが自分だ、自分は自分だと、理解出来るようになっていたから。
それに、最近は絵本の王子様を見ても、少しもわくわくしなくなっていた。
絵も、本物も、どちらも綺麗で素晴らしいけれど。どちらも何かが足りないように感じていたから。
アナン王太子とは、年に数回王宮で会っていた。
テーブルに大人しく向かい合い、お茶を飲み、当たり障りのない会話をするだけの時間。何かが何も通っていない気がしたけれど、これもお妃教育の一環だと、ソランジュはそつなくこなした。
優秀過ぎて、僅か10歳の頃には、王立学園を首席で卒業出来るレベルの学力を身に付けていた王太子。
学園には通わず、王宮の研究室にこもったり、宰相の補佐として執務をこなしていた。
学生のように決まった休暇はないが、毎年夏になると避暑地の離宮で静養する為、数ヶ月間王宮を離れる。その為、夏が終わり久しぶりに会う王太子は、ソランジュの目には、一段と成長し大人びて映った。
17歳になり成人した王太子は『完璧』だった。
眉目秀麗、文武両道、穏やかで人望も厚い。
問題など何もないのに、ソランジュはずっと何かが足りない気がしていた。それどころか、成人した途端、彼の何かがピタリと止まってしまったような気さえする。
その何かが分からないまま、アナン王太子21歳、ソランジュは17歳となり、約束の年を迎えた。
婚礼までいよいよあとひと月。生まれ育った家を離れ王宮へ上がったその日、ソランジュは国王と宰相である父から、思いもよらぬことを告げられてしまう。
(王太子殿下が……五人?)
奇妙な光景に、ソランジュは息を呑む。
国王の部屋から続く、入り組んだ隠し通路の先。そこに広がる隠し部屋には、同じ顔なのに背丈や体つきが違う、五人の王太子が並んで立っている。小さいのから大きいのへ、きちんと背の順に。
そのうち一番大きいのは、夫になる予定の王太子。成人してからずっと変わらない、ソランジュが内心『完璧さん』と呼んでいる彼だ。
────今から九年前、何者かが、12歳のアナン王太子に強力な死の呪いをかけた。
この世に生を受けた瞬間から、政権争いに巻き込まれることを危惧されてきた王子。微弱な呪いで少しずつ耐性を高めてきた為、幸いにも死には至らなかったが、後遺症を負い意識が戻らなくなってしまった。
犯人は不自然なほど呆気なく捕まったが、取り調べの最中に、呪い返しで命を落とした。確実に口を封じる為か、体内から遅効性の毒も検出されており、何者かに指示され実行しただけの捨て駒であると窺われた。
おそらく黒幕は、国王の腹違いの弟であるイザド公爵。高位貴族の半分以上を掌握しつつ、蛇のように玉座を狙っている男だ。
不毛な権力争いを避ける為、側妃は持たないと決めた現国王。授かった子は、王妃との間に生まれたアナン王太子一人だけ。
もしも意識が戻らぬことを知られれば……公爵はここぞとばかりに、自分の息子を王太子にすげ替えようとするだろう。
頭を悩ませる国王と宰相。そこでふと、『分身』の存在に気付いた。
単なる偶然か、はたまた身の危険を察知していたのか。呪いに倒れる前日、王太子は自身が編み出した高度な魔術で、あるものを創り上げていた。
それは五体の『分身』。13歳から17歳まで、成長した自分の外観や能力をイメージしながら創った、精巧な人形である。自我は持たないが知能は高く、臨機応変に適切な言葉を発する。食事は必要ないが、食べて排泄することも可能。それらは全て、王太子の命令で自由に操れた。
いくら高度な魔術を以てしても、王太子の意識が失われれば、通常は分身達も消えるはず。
ところが何故か一体も消えることなく、国王の命令で操ることが出来た。
主治医の診立てでは、王太子は十代のうちに意識を取り戻す可能性が高い。それならば当面の間、分身達に王太子の代わりをさせようと決意したのだ。
12歳から13歳までは、13歳の人形を使用。
その後は毎年、一歳上の人形へ交換し、身代わりの役目を引き継いだ。王太子が王宮を長く空ける夏の静養期間を利用し、出来るだけ自然な成長に見えるように。
このことを知っているのは、国王、宰相、主治医。眠り続ける『本体』のケアにあたる王妃、侍女長、側近。そして選び抜かれた数人の護衛だけ。
徹底した管理により、イザド公爵を欺くことには成功したが……
十代のうちにという期待も虚しく、最後の人形へ交換してからもう四年の月日が流れている。
17歳の分身で誤魔化すのも、厳しくなりつつある二十代。時間稼ぎに終わるかもしれないと焦る中、いわば目眩ましにと用意されていたのが、ソランジュとの結婚だった。
大切な娘を、目覚める保証もない王太子の元へ嫁がせ、権力争いに巻き込むことになる。
ソランジュの父親は苦しんだが、一国の宰相として、泣く泣く受け入れるしかなかった。
(あれ……もう一人いるわ)
お行儀良く並ぶ五人から離れた部屋の隅。
シンプルなシャツとトラウザーズを纏った、奇妙な人形が、ソランジュの目に留まる。
17歳の『完璧さん』よりも、筋肉質で男性らしい体つき。なのに天辺の顔は、幼い子供の落書きのように歪だ。
ソランジュの視線に気付いた国王は、問われる前に説明する。
「あれは失敗作だ。動けないし、知能もなければ会話も全く出来ない。分身にはなり得ないが、王太子が目覚めるまでは消すことも出来ずに、仕方なくここへ置いている」
確かに……『完璧さん』には程遠いわねと納得するソランジュ。
だが、不思議と惹きつけられ、部屋を出るまで目が離せなかった。
◇◇◇
ひと月後、無事に婚礼を挙げ、初夜のベッドに並んで横たわる新婚夫婦。
自ら眠ることが苦手だという『完璧さん』の瞼を、ソランジュは指でそっと閉じた。
(完璧さんにも苦手なことがあったのね)
分身に生殖機能はないらしく、瞼を閉じた途端すやすや寝息を立て始める。国王の命令通り、瞼をつまんで引っ張らない限りは、朝の5時半まで決して目を覚まさないらしい。
形の良い額に高い鼻、つんと尖った薄い唇。端正な横顔をじっと見ながら、ソランジュはこの奇妙な『白い結婚』について考えていた。
もちろん最初は驚いた。
が、悲観することもなかった。
宰相の娘として生まれた以上、個人的な感情よりも、王室に仕え国を繁栄させることが最優先だと心得ていたから。
それにソランジュ自身も、伝統的な貴族社会を維持しようとするイザド公爵より、平民を大臣に登用するなど、新しい風を取り込もうとする国王を支持していた。
権力争いや呪いが怖くない訳ではないし、父親が悲しい顔で自分を見つめていた理由を知れば、何とも言えない気持ちになる。
それでも……
アナン王太子が無事に玉座に就くまで、妃として全力でサポートすること。それが自分に与えられた使命であり、天命だと思っていた。
初めて『分身』の存在を知ったあの日、別の隠し部屋に眠る『本体』とも初めて対面し、ソランジュは感動した。
ベッドの上で静かに眠るのは、何も取り繕っていない21歳の自然な男性の姿で。今にも起き上がりそうな、瑞々しい生命力を湛えていたからだ。
『綺麗』
思わず口にしてしまった言葉に、肩を震わせる王妃。
息子と国の行く末を憂う涙に、ソランジュは六人……いや、七人の王太子と運命を共にする覚悟を決めたのだ。
『完璧さん』の規則正しい寝息を確かめると、ソランジュは身体を起こし、ランプを手にウォークインクローゼットへ向かう。
教わった手順で特殊なハンガーをずらし、溝へ引っ掛けていくと、棚の後ろに隠し通路が現れる。
頭に叩き込んだ通りに複雑な道を辿れば、『分身』が並ぶ例の部屋へと繋がった。
ソランジュはホッとしながら鍵を開け、暗い室内をランプで照らす。
ひと月前と変わらず、四人の分身は壁に沿って静かに並んでおり、国王が失敗作だと言ったあの人形も、隅にポツリと立っていた。
(うう、何度も一緒にお茶を飲んだ王子様達とはいえ、夜中に一人で見るとなかなか……)
粟立つ腕を擦りながら、『失敗作』の元へ向かう。
ランプを掲げ、歪な顔をまじまじと見上げれば、そこにはやっぱり『完璧さん』にはない何かがある気がした。
すうと息を吸い、出来るだけ軽やかに話しかけてみる。
「こんばんは!」
……もちろん返事はない。
それでも何かが通った気がして、ソランジュは話し続ける。
「私、このたび王太子妃になりました、ソランジュと申します。他の殿下とはお話ししたことがありますが、貴方とは初めてですので。……その、先日はご挨拶もせずに失礼致しました」
気のせいか、歪な表情が柔らいだように見える。
「……ここだけの話ですが、私は17歳の王太子殿下のことを『完璧さん』とお呼びしていまして。あ、もちろん心の中でですよ? でも、お会いすればするほど、年を重ねれば重ねるほど、『完璧』だとは思えなくなっていたのです」
更に柔らぐ表情に、ソランジュの恐怖心はすっかり薄れ、彼の前によいしょと座り込む。
「自我がない、17歳のままお身体が成長していないというご事情を知ってスッキリしました。けれど……貴方にお会いした時、再び違和感を抱きました。私が王太子殿下の中にずっと探していた何かが、貴方の中にある気がして」
ランプの灯りが揺らめいたせいだろうか。左右非対称の歪な目が、パチリと瞬いて見える。
宝物を見つけたみたいに楽しくなり、ソランジュは笑みを浮かべた。
「不思議ですね。私が一方的にお話ししているだけなのに、今までのどの殿下よりも、一番会話をしている気がします。……深夜であれば、自由にこちらへ伺う許可を頂いておりますので。よかったらまたお話ししてくださいね」
立ち上がり、入り口へと戻るソランジュ。数歩進んだところでふと足を止め、くるりと振り返った。
「貴方のことは何とお呼びしましょうか? 『失敗作さん』……だなんて思えませんし、『落書きさん』……も失礼ですし。ここはストレートに、お名前で『アナン様』とお呼びしたら怒られてしまうでしょうか」
への字型の分厚い唇が、優しく歪む。
『いいよ』と答えてくれた気がして、ソランジュは嬉しくなった。
それからも、ソランジュはたびたび『アナン様』の元を訪ねた。
初めての公務で危うく転びかけたけど、咄嗟に『完璧さん』の腕を掴んで、仲睦まじい感じに見せつつ事なきを得たこと。
夜中に目を覚ましたら『完璧さん』がいなくなっていて、焦って探したらベッドの下に転がっていたこと。
自分が蹴飛ばしているのだと気付いてからは、足を布でぐるぐると巻いて、ミイラのように端っこで寝ていることなど。
話しかければ話しかけるほど、『アナン様』の表情は柔らかく豊かになっていく。
左右非対称の目がくしゃりと垂れ、への字型の唇がくっきりと上がった時には、気のせいなんかじゃないと確信していた。
『完璧さん』の話ばかりだと退屈なのか、目も口も可笑しいくらい平行になったり。触れてはいけない何かに触れてしまうと、悲しそうに縮こまらせたり。
そんな時は、幼い頃から貯めてきたとっておきの話で、彼を思いきり笑わせるのだった。
どうせ信じてもらえないだろうしと、ソランジュは誰にも言わなかった。
むしろ信じてもらいたくない……奪われたくない。
いつしか、そんな気持ちの方が強くなっていく。
慣れない王宮暮らしに加え、一致団結して蛇から玉座を守るという緊張感の中、『アナン様』との一時は、大切な心の拠り所だったから。
◇
王太子妃となって半年が過ぎた頃、風邪に似た症状が長引き、ソランジュは部屋から出られなくなった。
何も知らない使用人達は、御懐妊かとそわそわしているが……百パーセントあり得ない。
主治医が原因を探っている内に、体調はどんどん悪化し、ついには一日中ベッドから起き上がれなくなってしまった。
国王が命じた通りに、毎日心配そうな顔を浮かべながら、妻を見舞う『完璧さん』。
体調が悪いせいか、そこに何もないことが無性に悲しくなり、布団に潜っては何度も枕を濡らした。
(『アナン様』はどうしているかしら……また明日、とっておきの話をすると言って別れたきり、もう随分会っていないわ。きっと心配されているわよね)
熱で朦朧とする中、ソランジュはそんなことを考えてしまう。
自我も知能もない、会話だって出来ないのに。彼からは確かに、温かな『心』を感じていたから。
早く治して会いに行きたいとうつらうつらしていた時、見たことのない男性が部屋に飛び込んで来た。
「ソランジュ!」
声には聞き覚えがあるのに、誰だか分からない。
端正な顔立ちもよく知っているはずなのに、こんなに輝いている瞳は見たことがない。
戸惑う中、ソランジュは逞しい体躯にある人を重ね、自然とその名を口にしていた。
「アナン……様?」
男の瞳はパチパチと瞬き、薄紫色の光を放つ。
美しい唇は、優しく歪みながら弧を描いた。
(やっぱりアナン様だわ……)
ぼんやり微笑んでいると、ソランジュの炎みたいな額に大きな手が置かれる。
『アナン様』は、控えていた主治医と側近を振り返り、厳しい声で命じた。
「何者かに呪いをかけられた可能性がある。すぐに調査を」
あれきり意識を失い、眠り続けているソランジュ。
調査の結果、体調不良の原因は、やはり病ではなく呪いで。軽い風邪に見せかけて少しずつ命を蝕む、非常にたちが悪いものであることが判明した。
アナン王太子の時と同じく、王宮に潜んでいた捨て駒は呆気なく捕らえられたが、黒幕を吐くことなく命を落としてしまう。
ところが、なんと今回は黒幕にも呪い返しの症状が現れた為、これが確固たる証拠となり、王太子妃暗殺未遂の容疑で捕らえることが出来た。
通常は呪術をかけた者にのみ跳ね返る呪い。だが、九年前にも強力な呪術で人を殺めようとしたことが祟り、捨て駒だけでなく、指示した黒幕にも影響をもたらし始めたのだ。
まさに悪因悪果。手の平を返した貴族らの証言により、九年前の王太子暗殺未遂事件の主犯であることも確定したイザド公爵。極刑となり、強欲な妻子とイザド公爵派の中心人物らも、身分を剥奪され辺境の流刑地へ送られた。
王太子の婚約者に決まった時から、呪いや毒の耐性を高めてきたソランジュは、元々の丈夫な体質もあり、後遺症が出ることなく回復した。
もう心配はいらないと主治医が太鼓判を押したその日、ベッドにしっかりと身体を起こす彼女へ向かい、『アナン様』は真実を告げた。
「12歳のあの日、身体は全く動かなくなってしまったけど、意識ははっきりしていて。それは、あの『失敗作』にも繋がっていたんだ」
ああ、だから……と頷くソランジュに、『アナン様』も複雑な顔で頷く。
「よりによって、上手くイメージ出来なかったあの『失敗作』と繋がるなんて……皮肉なもんだよ」
「どんなお姿を創ろうとされたのですか?」
「誰にも、何にも脅かされない、強い王太子の姿。何を以て強いというのか、考えれば考えるほど分からなくなって。まさか次の日に呪いに倒れるなんて思わずに、そのまま残してしまったけど」
「そうだったのですか」
「僕が弱いから……だから簡単に狙われて死にかけたんだろうな」
「そのようなこと……! あれほど強力な呪いをかけられて、お命が助かっただけでも奇跡なのですよ? 殿下はお強い方です」
「そう……かな。まあ確かに、あの呪いを乗り超えたことで、こちらも強力な耐性を得た訳だけど。お蔭で一生、呪いに怯えることはなさそうだ。……あ、君もね」
痩せたソランジュの頬に手を伸ばし、優しく労るように触れる『アナン様』。幼い頃から命を狙われ続けたその身の上を思うと、彼女の胸は激しく痛んだ。
頬の温もりに自分の手を添え、ソランジュは問う。
「……貴方のこのお身体は、眠り続けていたあの『本体さん』なのですよね?」
「うん、そうだよ。突然君が会いに来なくなって、何かあったんじゃないかと不安になって。会いたくて会いたくて、気付いたら目を開けていた。
……『失敗作』、いや、『アナン様』として君と過ごす時間が楽しくて。毎日夜が来るのが待ち遠しかった。『完璧さん』のことばかり話されると悔しくなるし、ちゃんと会話したくなるし、その……触れたくなるし。もうそろそろ起きたいと、ずっと願っていたんだ」
一気に語られる想いに、ソランジュの頬は熱くなる。
(アナン様も、私と同じように想っていてくださったなんて……)
「君が寝込んでいると聞いて、いてもたってもいられなかった。すぐに飛び起きようとして、母上や皆を困らせてしまったけどね」
「あ……そうですよね。『完璧さん』と交替するには、色々お仕度を整えなければいけませんもの」
ソランジュはくすりと笑いながら、筋肉質な身体を見つめる。そして、ずっと抱いていた疑問を口にした。
「失礼ですが……長い間眠っていらっしゃったのに、どうしてすぐに動くことが出来たのですか? その……『アナン様』と似て、お身体もご立派で」
すると王太子は、気まずそうに口を開いた。
「本当は……本当はね、まだ誰にも言っていないんだけど……『アナン様』は、動けるし喋れたんだ。失敗したのは顔だけで」
思わぬ告白に、ソランジュは「ええっ!?」と叫ぶ。
「退屈を紛らわせる為に、あの隠し部屋でよく運動していたんだよ。……医師は知らないから首を傾げていたけど、多分身体も『本体さん』と繋がっていたんじゃないかと思う」
「すごいわ……というか、何故隠していたのですか? もし、『アナン様』を通して意思の疎通が出来ると知ったら、両陛下もお喜びでしたでしょうに」
「……逃げていたんだ。『王太子』の地位と責任から。怖くて、恐ろしくて、このまま分身に引き継いでしまいたいと、本気で思っていた。身体の交換時期が近付くたびに……父上と母上の顔を見るたびに……本当のことを言わなければと思っていたけど。時間が経てば経つほど、動けなくなってしまったんだ」
今にも消え入りそうな声に、ソランジュの胸は締め付けられる。
(────12歳。
どんなに優秀でも、どんなに大人びていても、たった12歳の少年。
死を願われ、かけられた残酷な呪いは、どれだけ彼を傷付け恐怖を与えたことだろう)
「僕は王太子の器じゃないんだ。王になるなんてとても。でも……こんなに奇妙な結婚生活を、王太子妃として立派にこなす君を見ているうちに、段々自分が恥ずかしくなった。望まぬ結婚だろうに……たった一人で心細かったろうに……毎日明るく振る舞って」
美しい頬を涙が伝う。
ソランジュの視界も、ゆらゆらとぼやけていった。
「これからは、僕が君を守りたい。その為には、もっと強くなりたい。だけど……父上は僕を許さないだろうな。こんなに情けない理由で、九年間も意識がないふりをしていたのだから。最悪廃位も免れないかもしれない」
項垂れる王太子。
ソランジュは震える彼の手を両手で包み、悪戯っぽく笑った。
「内緒にしておきましょ。『本体さん』にも『アナン様』にもずっと意識はなかった。だけど、妻の声は聞こえていて、会いたくて会いたくて、気付いたら目覚めていた。……それでいいのではないでしょうか」
「……欺き続けろと?」
「正直になるばかりが正しいとは限りません。時には必要な嘘も。それに、愛の力で目覚めたのは本当でしょう? まるで眠り姫……いえ、眠り王子だわ」
くすりと笑う王太子に、ソランジュは安堵する。
ハンカチで彼の頬を拭いながら、初めて『アナン様』と会った時の、国王の言葉を思い出していた。
『あれは失敗作だ。動けないし、知能もなければ会話も全く出来ない。分身にはなり得ないが、王太子が目覚めるまでは消すことも出来ずに、仕方なくここへ置いている』
冷たい口調とは反対に、国王の眼差しは温かかった。『失敗作』などではなく、まるで『幼い息子』を慈しむような。
(お義父様は、本当は気付いていたのかもしれない。
気付いていたから、深夜の交流を許可してくれたのかもしれない)
「……二人だけの秘密にしましょう。ね?」
差し出された細い小指に、王太子は力強く未来を絡めた。
◇◇◇
不穏分子が一掃され、平穏が戻った王宮。
必死に九年間を取り戻そうとする王太子を、ソランジュは妃として懸命にサポートしていた。
12歳から21歳までの彼の記憶は、『本体さん』が聴いていた話し声と、『アナン様』の隠し部屋での狭い世界のみ。
苦労しながらも公務や執務を積極的にこなし、『王太子』の地位と責任に、真摯に向き合った。
それから更に一年が過ぎ、晴れて結ばれた二人は、あの隠し部屋へと向かう。
相変わらず静かに並んでいる、13歳~17歳までの分身……と、『アナン様』。王太子が手をかざすと、六人はすうと溶けるように消えていく。
自我はないはずなのに。どの顔も、みんな幸せそうに微笑んでいた。
(今までありがとう)
完全に見えなくなるまで、手を振り続けるソランジュ。やがてそっと下ろし、殺風景な壁に向かい、しんみりと呟いた。
「なんだか寂しいですね」
『アナン様』だったあの時、触れたくて堪らなかった妻をぐいと抱き寄せ、王太子は不満げに言う。
「……僕がいるのに?」
への字型に尖った唇に、ふふっと笑みがこぼれる。
四歳も上の夫を、妻が可愛いと感じていることは内緒だ。
ソランジュは夫の唇を指でつまむと、爪先を上げ、思わせぶりに顔を寄せる。
唇が触れ合う寸前でパッと離れると、入り口へ走り、明るく手招きした。
「お部屋へ戻りましょう! アナン」
二人だけの時のとっておきの呼び方に、完璧な美貌はくしゃりと歪んだ。
ありがとうございました。




