気まぐれな祝福 〜ぴこぴこ耳と、ぶんぶん尻尾と、恋心〜
神々は人間に特別な力──『祝福』を授けた。
炎を操る者。風を駆ける者。傷を癒す者。心を詠む者。
その多くは、美しくも過酷な力であり、中には命を削る『試練』を背負う者もいたと伝えられている。
もっとも、これは遥か遠い昔の話。
今や『祝福』を信じる者はほとんどおらず、街角の昔話や古書の逸話として語られるだけの存在となっている。
◇◇◇
伯爵家に生まれたアランナ・ブラッケンは、幼い頃から礼儀作法と教養を叩き込まれ、立ち居振る舞いもまさに教本通りの娘だった。
微笑みは柔らかく、心配りも怠らない。
やや引っ込み思案ながら慎み深いと評され、貴族社会での評判も悪くはなかった。
努力すれば大抵のことはこなせた。
だが、そんなアランナにも上手くいかないことがあった。
それは、婚約者ウォルター・メイウェザーとの関係である。
ウォルターは、名門の侯爵家の次期当主。長身で、凛とした面差しの青年だ。落ち着いた眼差しとまっすぐな背筋が、寡黙さと義理堅さを物語っている。友人が多く、いつも輪の中心にいる人物だ。
そんな彼とアランナは学園入学と同時に婚約した。
けれど、こちらがどれだけ話しかけても、返事は素っ気ない。
お茶会でも昼食でも、険しい表情は崩れず、二人の間には高い壁が立ちはだかっていた。
アランナは、ウォルターとの距離を縮めようと何度も努力した。
彼の好みに合わせて紅茶を選び、話題にも気を配り、時には友人から趣味や興味を探ったりもした。
しかし、そのたびに彼の態度に心が折れそうになった。
ある日の昼下がり、学園の庭園で二人きりのランチがあった。
その日は、学園の剣術試験の中日。ウォルターの目の下には薄く影がさしていた。
アランナは緊張しながらも口元を和らげ、彼の前に座って声をかけた。
「ウォルター様、今日は少し顔色が優れませんね。どうかご無理なさらずに」
ウォルターはちらりとこちらを見たが、すぐに視線を外し、短く答える。
「無理などしていない」
「……」
彼の無愛想な態度に、アランナは息が浅くなり、指先から熱が引いていった。
心の扉は閉ざされ、会話の糸口は見えない。
──こうした日々の中で、アランナは一つの事実に思い当たった。
彼が他の友人たちと話す時には、笑みを浮かべることがあるという事実に。
その表情は、自分に向けられることのない、自然で柔らかなものだった。
なぜ、自分にはあの笑顔を向けてくれないのか。
自分は、彼にとってただの義務の相手なのか。
婚約者としての立場以外に、彼にとって自分はどんな存在なのか。
疑問は夜ごと胸を締め付ける。
アランナは次第に自信を失っていった。
どれだけ努力しても、彼の態度は変わらないのだから当然だ。
彼の冷たい視線に触れるたび、自分が何か重大な過ちを犯しているかのような感覚に囚われた。
◇
その日の放課後、アランナは学園の友人たちと街に出ていた。
通りは人々の往来で活気づき、店先には買い物客の声が弾んでいた。
店先には美しいドレスや装飾品が並び、甘い香りが漂うパン屋の前には、家族連れや若い恋人たちが楽しげに並んでいる。
アランナは彼らと並んで歩きながらも、笑い声が遠くで反響しているように感じていた。
ウォルターの笑顔は友人に向かい、アランナに返るのは短い相槌だけ。
喉の奥に言葉が引っかかるような、説明のつかないもどかしさが沈む。
少しでもその痛みから逃れたいという気持ちが、アランナを無意識のうちに足早にさせた。
気づけば、彼らの輪から少し離れていた。
雑踏に紛れたことに気づき、アランナは足を止めた。
カラフルな紙吹雪が舞い、小さな商店街では祭りが始まっていた。
その時、近くで何かが崩れる音がした。
振り返ると、一人の年老いた女性が石畳でよろめき、手にしていた買い物袋の中身が地面に散らばっていた。
細く震える手でなんとか起き上がろうとしているが、足元が覚束ないようだ。
アランナはとっさに駆け寄り、老婆の腕を支えた。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
「ああ、なんともないさ。ただ、少し足が滑っただけさね」
老婆は顔に深い皺を刻みながら、穏やかな笑みを浮かべた。
その様子に少し安堵し、アランナは地面に散らばった野菜や果物を拾い集め、袋に戻して差し出した。
「どうぞ、これで全部です。あの、お家までお送りしましょうか?」
「いいや、お嬢さん、それには及ばないよ。でも、そうだねえ、こんな優しい娘さんには、せめてお礼をせんとねえ」
「そんな、お礼なんて要りませんわ」
老婆はしばし考えるように目を細めた後、小さな囁きを漏らす。
「そうさねえ、三か月分あげようかねえ」
「……三か月分?」
「なあに、心配はいらない。あたしは昔、神様から祝福をもらってね、ずっと人の為に使ってきたんだよ。そのおかげで、少しくらいなら分けてやれるようになったのさ。短い期間なら負担も試練もついてこない。安心しなさい」
「?」
「あと、この力は自分以外の『気配』しか映さない。人は自分の背中は見えんだろ? それと同じさね」
「あ、あの、なんの話でしょう?」
「お嬢さんには、何が見えるのかねえ……ふふふ」
アランナは老婆の言葉を頭の中で繰り返そうとしたが、形にならないまま霧のように散っていく。意味が分からず、ただ戸惑いが胸に広がっていた。
「そうれ」と囁くと同時に、老婆の手から白い粉が舞い、頭上に降りかかった。
甘い香りが鼻をくすぐり、意識がふっと攫われる。
そして、まばたきの間に、老婆の姿は群衆に紛れていた。
周囲のざわめきに我に返った時には、もうどこにも見当たらない。
(……今のは何だったの?)
数秒ぼんやりしていると、誰かが名を呼ぶ声がかすかに聞こえた。
振り向くと、通りの向こうで背の高い青年が人混みをかき分けているのが見えた。銀色の髪が陽を受けてきらりと光り、視線はまっすぐこちらを捉えていた。
──ウォルターだ。
「アランナ嬢! ……ここにいたのか」
「あ……ウォルター様、すみませ──」
謝罪の途中で、アランナは思わず言葉を失った。
ウォルターの頭に、見たこともないものが生えていたからである。
ほわりと立つ、灰色の──
(犬……いえ、狼の耳?)
背後では、もふもふとした尻尾がゆらゆら。ふわりと跳ねては体に巻きつくように回った。
(え、えええっ!?)
胸を締めつけていた感情が反転し、視線は耳と尻尾に釘付けになった。
(なんで、耳と尻尾が!?)
尻尾を勢いよく揺らしながら真っ直ぐにこちらを見るその姿に、アランナは思わず現実感を見失い、足元の石畳が頼りなく感じられた。
アランナは、もふんっと揺れる尻尾から目を逸らせないまま、なんとか平静を装って歩き出した。
だが、心臓は早鐘のように鳴り続けている。
老婆の言葉と、頭上に降った粉の感触が離れない。
今の光景が現実なのか、夢なのかも分からなかった。
(……私、疲れているのかしら?)
しかし、冷静になろうとするほどに、視界の隅で動く耳と尻尾が気になって仕方がない。
彼の歩みに合わせて、尻尾は弾み、ちらりと振り返るたびに耳の先が傾く。
(どういうことなの?)
やがて、曲がりくねった石畳の通りを抜けると、先に進んでいたウォルターの友人たちが待っていた。
アランナは内心の混乱を押し隠しながら、なんとか笑顔を取り繕い、彼らの輪に加わった。
けれど、その安堵はほんの束の間だった。
視線の先──レオポルドとミシェルの頭上に、またしても、『ありえないもの』が生えていた。
(嘘でしょう!?)
アンダーソン伯爵の息子であるレオポルドには、鋭く尖った狐のような耳がつんと立ち、軽口を叩くたび、長い尾は緩くしなるようにゆったりと波打ち続ける動き。
隣に立つ、優雅で美しいミシェル嬢には、丸くて短い耳が嬉しそうに震え、尻尾はリズムを刻むように小さくぴょこぴょこと弾んでいた。
アランナは思わず息を呑んだ。
どうやら、この奇妙な現象はウォルターだけではないらしい。
次に目を向けたサイラスは、垂れた犬の耳をすっと持ち上げ、大きく力強い尻尾を感情を押し隠すようにゆったりと振り下ろし、隣のヘレナ嬢の耳は、楽しげな笑みのたびにぱたぱたと跳ね、ふんわり小さな尻尾も、嬉しそうに身を寄せていた。
(ま、まさか、全員なの……?)
通りの一角から軽やかな弦の音が流れ、金属を打つ澄んだ響きと交じり合っていた。商人の呼び込みや馬車の車輪の音が絶え間なく続き、人々のざわめきが石畳を伝って足元にまで響く。
アランナは混乱しながらも、友人たちの耳や尻尾がそれぞれ異なる形をしていることに気づいた。それぞれの個性や感情が反映されているかのようだ、と。
そして、さらに妙な光景が目に留まった。
(アンダーソン様とミシェル様の尻尾が、絡み合うように、常にお互いに向き合っている……?)
二人が話すたびに、その尻尾はお互いの方へと向きを変え、距離が近づくとぴたりと寄り添うようにそよぐ。
対して、少し離れた位置にいるサイラスの耳は、ヘレナ嬢が笑うたびに反応していた。
二人は幼馴染同士で、一年前にお互いに強く希望し、婚約に至ったと聞いている。
そして、ふと視線を戻すと、ウォルターの灰色の尻尾が自分の方にしっかりと向けられていることに気づいた。
(ウォルター様の尻尾が、私に向いている?)
アランナの心はさらに大きく波立った。
その瞬間、自分にはどんな耳や尻尾が生えているのだろうと気になった。
腰のあたりを見下ろすが、尻尾らしきものは見当たらない。
耳は、近くのショーウィンドウに映してみても、それらしい影すら見えない。
不思議なことに、レオポルドたちの耳や尻尾はガラス越しでも揺れて見えるのに、自分のだけは影すら映らなかった。
(……私には、ない……? それとも、自分のは見えないだけ?)
心の中で自問しながらも、アランナは必死で平静を装った。それでも意識は自然とウォルターへ向かい、街の喧騒の中で彼の様子を盗み見た。
前を行く灰色の尻尾は根元まで張りつめ、左右に揺れ、耳は絶えず周囲を探っていた。
(? 今の動きは、何?)
友人たちと軽口を交わす時には、尻尾は軽やかに揺れているのに、アランナが視線を向けた途端、動きを止め、不器用な戸惑いが滲むのだ。
(……もしかして)
わざわざ安全な歩道側を選ぶ姿や、人混みでアランナが歩きにくそうにしている時にさりげなく距離を詰める仕草──彼の優しさが、そんな何気ない行動の端々にあることに気づき始めた。
(私のことを、気にかけてくれているの?)
無愛想な態度の奥に、照れや緊張が覗いた気がした。
(私は、嫌われてないの?)
ふいに、アランナは立ち止まった。
ウォルターが首だけで振り返り、小さく首を傾げるのを見たアランナは、少し震える手を伸ばして、彼の制服の袖をそっと掴んだ。
「あ、あの、はぐれないように……その、いいですか?」
彼の瞳が一度だけきらめいた──気がした。
だが、すぐにその瞳は元に戻る。
次の瞬間、背後で灰色の尾が弧を描くように大きく振り切られた。
「……もっとしっかり掴んで」
その声に、アランナは頬を熱くしながら袖をもう少し強く握る。
尻尾が弾み、毛先が空気をすくった。
隠しきれない心の揺らぎがそこにあり、アランナはふと笑みを漏らす。
(嫌われてなんて、いなかった)
そう思った瞬間、胸の奥に熱が広がった。
◇
それからというもの、アランナは少々、大胆になっていった。
というのも、ウォルターの反応があまりに可愛らしいからである。
彼を何気なく褒めただけで、尻尾が勢いよく回るのだ。
まるで感情を刻むメトロノーム……いや、プロペラ。全力でこちらに向かって、ぶん回る。
切れてしまいそうなほど激しい尻尾に加えて、耳もつんと立ち、ぴくぴくと震えている。
(な、なに、この可愛さは……!)
あまりの破壊力に、顔どころか首の範囲にまで熱が帯びた。
驚きよりも、全身を満たしていくのは、ただただ愛しさだった。
また、ある日のこと。急な家族の用事で、お茶会の日程を後ろ倒しにせざるを得なくなった。
「ウォルター様、申し訳ありませんが、お茶会の日程を少し先に延ばしてもよろしいでしょうか?」
その瞬間、ウォルターの耳がぺっしょりと垂れ、尻尾は糸の切れた人形のように落ちた。
その反応があまりに分かりやすく、そして切なげで、アランナは思わず口元を押さえそうになった。
(……そんなに楽しみにしてくださっていたの?)
自分との時間を、こんなにも大切に思ってくれていたなんて……。
それだけで、過去の不安がふっと溶けていく。
沈黙に怯えていた頃とは違い、今は彼の変化を見つけて微笑める。
いきいきと満ちていく感覚があった。
ウォルターもまた、アランナが沈んだ顔をしなくなったせいか、態度が和らいだ……ように見える。
二人で歩く時、彼は以前よりも歩幅を合わせ、アランナと目を合わせることが増えた。
その些細な仕草の一つひとつに、言葉よりも確かな優しさと、心の距離の変化が滲んでいた。
アランナが視線を向けるたび、耳がぴょんと跳ね、尻尾がぶんぶん揺れた。
その愛らしい動きに、体の芯まで温もりが満ち、彼がますます愛おしくなった。
──しかし、その愛らしい耳と尻尾は、永遠には続かない。
まるで幻のように、その姿を消していくことになるとは、この時のアランナはまだ知る由もなかった。
◇◇◇
三か月が過ぎた、ある朝。
目を覚ました世界は、何も変わらないはずだった。
けれど、人々の頭に見えていた耳も尻尾も、跡形もなく消えていた。
通学路で笑い合う友人たちの声は、いつも通り賑やかで、街も商店街も変わらず色と音にあふれている。
それなのに、自分の中の景色だけが、ぽっかりと色を失っていた。
カフェで湯気の立つカップを手にしても、ふさふさと揺れる尾はもう見えない。
何より、ウォルターのあの可愛らしい耳と尻尾が消えた事実が、重い石のように心に沈んだ。
(どうして、見えなくなってしまったの……?)
その時、脳裏に、あの老婆の声が蘇った。
「あっ……」
──そうさねえ、三か月分あげようかねえ。
──見えるのは、ほんのちょっとの『気配』だよ。
(最初から期限付きの『贈り物』だったのね)
確かめる術はないが、そうとしか思えない。
確かなことは、もう『贈り物』を目にすることはできないということだ。
不安はじわじわと広がり、かつての恐れを引きずり出す。
(私は嫌われていない。あの尻尾は、あの耳は、確かに私に向いていたもの)
必死にそう言い聞かせても、日を追うごとに確信は薄れていく。
もはや彼の心の在り処を知る術はない。
あの優しさも、もしかしたら自分の見たい夢を映していただけなのかもしれない──そう思うたび、胸の奥に暗い影が深く落ちていった。
そんなある日、アランナは学園の廊下でウォルターの笑い声を耳にした。
そこには、美しいブロンドの髪を揺らし、輝くような笑顔を浮かべる可憐な少女がいた。
彼女は最近転入してきた生徒で、その愛らしい容姿と気さくな性格から、瞬く間に学園の人気者になっていた。
指先が無意識にスカートの布を握りしめる。
ここ最近、ウォルターと転入生が言葉を交わす姿を一日に一度は目にする。
見たくないのに、つい探してみてしまうのだ。
一度、彼が照れたような笑みを見せ、アランナは衝撃を受けた。……自分には見せたことのない表情だった。
(あ)
ふと、ウォルターと目が合った──けれど、気づいた時には、踵を返し、足早にその場を離れていた。
心の内側がざわつき、まだ落ち着かない。
そんな背後から、不意に低く嘲るような笑い声が落ちてきた。
「あーあ、あいつ、お前と結婚した途端、浮気するぜ? ははっ」
振り返ると、そこにはオルセン伯爵家の嫡男、ジョン・オルセンが立っていた。
鋭い目つきと、不敵な笑みを浮かべたその表情に、アランナの背筋が冷える。
彼は幼い頃からアランナに意地悪を言っては泣かせ、時には追いかけ回して困らせた、嫌な思い出しかない相手だった。
成長した今、ジョンがこんな風に人を小馬鹿にする調子で話すのは、なぜかアランナだけだ。
「お前、つっまんねえもんな。浮気されて当然だよな。まあ、でも、俺が拾ってやってもいいぜ? 愛人にしてやるよ。お前んちは兄貴が二人で、お前は卒業と同時に家を出なきゃいけない。でも、結婚したら、夫は浮気三昧でお前は放っておかれる。でも、俺なら──」
「そんなことはありえない!」
怒気孕む声が割り込んだ。
振り返ると、そこにはウォルターがいた。鋭い視線でジョンを射抜く。その一瞬で廊下の空気が凍り付いた。
二人は視線を交わし、一歩も引かない。張り詰めた空気が、見ているだけで息苦しい。
この二人が穏やかに会話している場面など、思い返しても一度もない。いつだって言葉の端に棘があり、会えば必ず小さく火花が散る。
ジョンは一瞬たじろいだものの、すぐに口元を歪めて嘲笑を浮かべる。
「なんだよ、メイウェザー。お前だって、あの転入生と随分仲良くしてたじゃねえか」
「勘違いするな。あの子は短期留学で不在の弟の内々の婚約者だ。幼馴染みで、妹のような存在に過ぎない」
(そういえば、前にお父様がそんな話をしていたような……。あの頃は毎日が奇妙で、耳や尻尾ばかりに目がいっていたから、右から左に抜けてしまっていたかも……)
「妹のような存在? はっ、浮気男の常套句みたいだな」
「好きな女を泣かせて空回ってるやつの言葉に、信憑性はない」
ウォルターは一歩前に進み、アランナを背後に庇うように立ち塞がる。
「俺の婚約者に近付くな」
その低く冷えた声に、アランナはほっと息をつき、表情をゆるめた。
すると、ジョンの表情が一瞬だけ翳ったように見えた。
嘲笑も言葉も続かず、彼は大きな舌打ちを残して去っていった。
ウォルターが、自分を守ってくれた。
その事実が、アランナに深く染み渡る。
ジョンが去り、廊下に静けさが戻った。
だが、立ち尽くすアランナには激しい感情の波が押し寄せていた。呼吸が苦しくなり、目頭に熱いものがこみ上げる。
(私はこれからもずっとこんなに不安な気持ちを抱えて生きていくの? ウォルター様は私を裏切ることなどしないのに……勝手に疑って、勘ぐって……? そんなの……嫌)
耳と尻尾が消えてから、彼の心は再び遠くに感じられた。
その不安が、今、溢れ出し、とうとう堪えきれず、アランナはぽろりと大粒の涙を零した。
ウォルターはその様子に気づき、わずかに目を見開いた後、すぐ眉を寄せてアランナに歩み寄った。
「……泣かないでくれ」
低い声に驚いて顔を上げると、彼はそっと屈み、ポケットから取り出したハンカチでアランナの濡れた眦をそっと拭った。
その動作は不器用ながらも慎重で、彼の大きな手から緊張が伝わってくる。
「ウォルター様……」
かすれた声で名前を呼ぶと、彼は少しだけ眉を寄せた。
アランナは勇気を振り絞って、言葉を続ける。
「わ、私にも、あの転入生のように……接していただけませんか? 私を、妹だと思ってもらうことは難しいでしょうか?」
その言葉に、ウォルターは一瞬だけ息を止めた。
そして、彼の瞳に動揺が走り、ハンカチを握る手が強張る。
「無理だ。あなたを妹だなんて、俺には思えない」
彼の返事に、アランナは一瞬、息が止まるような感覚に襲われた。
「で、でも……私も、私にも、笑いかけて欲しいです……」
「あなたは俺の妻になるんだ。妹だなんて思えない。思いたくない」
「……え」
彼は顔を伏せ、ハンカチを握ったまま少しだけ苦笑した。
「……アランナ嬢といると、どうしても気持ちが高ぶって……表情が緩みそうになる。けれど、あなたは『寡黙でクールな騎士』が好みだと聞いていたから……そういう風に振る舞えば、少しは気に入ってもらえると思ったんだ。……でも結局、不自然な態度になってしまって……情けない話だ。すまない。本当に申し訳ない」
アランナは一瞬、ぽかんとした表情になり、次の瞬間、頬にぶわりと熱が広がった。
(それって……)
彼が指しているのは、女生徒たちの間で流行っている小説の登場人物のことだった。
アランナがその話を友人と交わしていたのを、どうやら彼は聞いていたらしい。
「そ、それは、女生徒の間で流行っている小説の人物の話です」
視線の端で、ウォルターも耳をはっきりと赤く染めているのが見える。
「……そうか。じゃあ、俺は、勘違いしていたんだな……」
それからおそるおそるアランナの手を取った。
「ならば、これから俺は、あなたに笑いかけたい、と思う。本当は、ずっと、そうしたかったんだ」
彼の言葉が、長く固まっていた何かを解きほぐす。
アランナの瞳に、再び涙が滲んだ。
その雫が落ちる前に、ウォルターの指がぎこちなく頬をなぞる。
「したいようになさってください。……私も、笑いかけてほしいです」
「……したいことなら、まだある」
「なんですか?」
「アランナ嬢の好きなことやものを教えてほしい」
「はい。私も、ウォルター様のことを知りたいです」
「それに、いろんなところに一緒に行きたい」
「ふふ、はい。行きましょう」
「……その、改めて、よろしく頼む」
「はい、よろしくお願いします」
握られた手に力がこもる。
その温もりが、胸の奥まで満ちていく。
この日、二人はようやく心を通わせた。
◆◆◆
さて、その後の話をしよう。
結果から言うと、二人は完全にバカップル街道まっしぐらとなった。
ウォルターはすっかりキャラ変。
廊下で婚約者を見かければ迷わず満面の笑みを向け、食堂で隣に座れば飲み物を注ぎ、自分のデザートまで差し出す。「太っちゃう……」と案じれば即座に「どんな姿でも素敵だよ」と返る。
指先が触れれば、そのまま絡めて離さない。
当然、周囲は黙っていない。
友人には「また見せつけか」と呆れられ、廊下でも「相変わらずね」とため息をつかれる。
それでも二人は意に介さず、むしろ密着度を増す。
さらには、あの転入生であり、ウォルターの弟の婚約者である少女からも、こんなセリフが飛んできた。
「お義兄様ったら、あなたの話ばっかりなさるんです。もう、耳が痛くなるほどです!」
その言葉にも二人は顔色一つ変えず、笑い合うばかり。
誰の目にも手の施しようのないバカップルだった。
そんなこんなで、今日も二人は変わらず手を繋ぎながら歩いている。
アランナがふと見上げると、ウォルターは満面の笑みを浮かべていた。
背中では、柔らかな毛並みが風を受けて揺れている──気がする。
耳がぴくりと動いた気もするが、あの三か月の記憶のせいだろう。
妄想……もとい、幻まで可愛いとは、どういうことなのか。
考えても分からない。
結局、可愛いものは理屈抜きで可愛い。
でも、彼に「可愛い」と言うと「アランナのほうが可愛い」などと三倍になって返ってくるし、時間を食うのでそれは結婚後に取っておきたい(※時間がある時に飽きるほど聞きたい)。
とどのつまり、アランナは幻も現実も変わらぬまま愛で続けるということである。
【完】
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