第9話:聖女の肖像
「あり得ん……」
震える声が、操舵室の静寂を切り裂いた。ドレイクは己の手と、目の前で砕け散った計器盤を、信じられないというように交互に見つめる。
左の義眼の中で、歯車が無意味な分析を試み、空しく回転していた。
視線の先、煙を上げるエンジンのカバーの隙間から、小さな金属板が覗いている。今回の旅のために、闇市場で割増金まで払って手に入れた、まさにそのエンジンフィルターだった。
表面には故郷、アイゼンガルドの職人が刻む『鋼の心臓』の品質保証の刻印が、鮮明に残っている。
「あの刻印は……マイスターの名で保証された、約束だったじゃねえか!」
呟きは、静寂の中へと力なく掻き消えた。少し前、波止場の管理人に誇らしげに叫んだ自らの声が、耳元で木霊する。
「教団の見掛け倒しの代物とは違う! 本物の鋼でできた、アイゼンガルド製だってんだ!」
だが、プライドを込めた叫びに返ってきたのは、軽薄な破裂音と共に噴き出した、黒く噎せ返るような煙だけだった。
アヴァロン号は制御を失ったまま波止場の古い支柱に激突し、砕け散ったマナ・フィルターの破片いくつかが、放物線を描いて濁った海水の中へと落ちていった。
この全ての騒動の中心で、アッシュだけが一歩引いていた。
彼は灼けつくような太陽の下、塩と埃を含んで肌にまとわりつく、南国の空気を感じていた。
港湾都市『ソレイユ』の第三波止場。
海の生臭さ、腐った魚油の匂い。それを隠蔽するかのように噴射される、教団の人工的な消毒剤の香りが入り混じり、鼻を突く。
波止場の端で、こちらへ向かって何かを叫んでいる若い港湾管理人がいた。視線は、その苦々しげな顔へと向く。そして再び、茫然自失のドレイクの背中へと戻る。
アッシュは煙を上げるエンジンを一瞥すると、ドレイクの肩を軽く叩いて通り過ぎた。
「完璧に、壊れたな」
* * *
修理費と解決策を探すため、二人は都市の中心へと向かった。広場は秩序整然として清潔だったが、巨大なマエストロの像が落とす影が、全てを冷たく覆っていた。
「こっちだ」
ドレイクが先に足を向けたのは、混沌が支配する波止場の古い倉庫地帯だった。教団の目を逃れて形成された、この地域の闇市場だ。
ドレイクの目的は明確だった。ある露店の前で足を止めると、商人と熱の入った交渉を始める。
「おい、この錆び具合じゃ、中の回路は見るまでもない。半値にしろ」
アッシュは彼らの会話に興味などないというように、人込みの中を亡霊のように歩いた。
喧しい怒鳴り声、正体不明の動物の奇妙な鳴き声、異国の香辛料の匂いが、感覚を掠めて通り過ぎる。全てが、どうでもいい騒音と風景に過ぎなかった。
その時だった。足が、ぴたりと止まった。
片隅の、古びた天幕の下に、ありとあらゆるガラクタを山と積んで商う露店があった。視線が埃まみれの歯車と、ひび割れた食器の間を彷徨い、ある一点で凍りつく。
そこに、それはあった。
額縁から乱暴に引き剥がされたような、古いカンバス。かつて聖所の最も高い場所に掲げられていたであろう、『聖女』ルクレツィアの肖像画だった。
顔の部分は誰かが意図的に切りつけたのか長く裂け、慈愛に満ちた笑みを浮かべていたであろう口元は、カビで黒く染まっていた。
絵の価値を解せぬ商人は、その上に「安物の飾り、銀貨二枚」という札を、無造作に置いている。
視線が触れた瞬間、過去の声が耳元を掠めた。
『アッシュ、あなたの剣は……誰かを傷つけるためのものではありません』
囁きがまだ終わらぬうちに、意志とは無関係に、手が腰へと伸びる。霜の花びらを探そうとする、長年の癖だった。だが、そこにあるのは空虚な感触だけ。
どれほどの時間、そうしていただろうか。いつの間にかうたた寝をしていた露店の主人が目を覚まし、警戒心に満ちた目でこちらをじっと見ていた。まるで、泥棒でも見るかのように。
アッシュは構うことなく、絵の傷跡に視線を釘付けにされたまま、そこにこびりついて腐っていく過去の時間を凝視した。