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灰と影の歌  作者: Fugato
第二章:フェルマータ
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第8話:唯一の失敗作

 サイラスの執務室は、彼のあだ名である「金庫」そのものだった。窓一つなく、完璧に防音処理された空間。


 壁には宗教的な象徴の代わりに、大陸の経済の流れと資源の移動経路が刻まれた巨大なホログラムの地図が、青い光を放ちながら生き物のように脈打っていた。


 地図の前に、一人の男が立っていた。やがて、その男が振り返る。塵一つない純白の司祭服をまとった男、サイラス。地図から放たれる光が、彼の横顔の半分を青く染めていた。


「お久しぶりです、ヴァレンタイン卿」


 声は、蜂蜜のように甘かった。非の打ち所がない丁寧な笑みを浮かべ、アッシュに歩み寄る。だが、その眼差しは昨日の同僚を見るものではなかった。希少で危険な資産の価値を値踏みする、鑑定士のそれだった。


「相変わらず……()()()()でいらっしゃるようですね」


 サイラスはアッシュの古びた身なりを見ながら、茶を勧めた。東部の荒野でしかごく少量生産されないという、月光の霜の花茶。ティーカップから立ち上る芳しい香りが室内の空気を支配したが、アッシュは手もつけなかった。


 沈黙にも、サイラスは意に介さないといった様子で穏やかな笑みを保ち、口を開いた。


「マエストロは、あなたをお許しになりました。いつでもお戻りください」


 極めて事務的な口調だった。アッシュは答えない。サイラスは待っていたとばかりに、フッ、と短く笑った。


 ティーカップを傾け一口飲むと、興味深いゴシップでも共有するかのように本題に入った。


「……近頃、南部から上がってきた報告書に、実に奇妙な事例が一つありましてね。『(なみだ)聖女せいじょ』と呼ばれる女の件なのですが……」


 サイラスは聖女という言葉を、まるで安物の偽造硬貨でも鑑定するように舌の上で転がした。声には、あからさまな不快感が滲んでいる。


「聖女、とはな。今や誰でもその名を勝手に使うらしい」


 再び事務的な口調に戻り、言葉を続ける。


「彼女の奇跡には、代償が伴います。治癒の瞬間は完璧に見える。患者は苦痛から解放され、平穏を取り戻しますからな。しかし……時が経つにつれ、その人間をその人間たらしめていたものが、消え始めるのです」


 サイラスは、綺麗にまとめられた報告書の一節を読み上げるように、事実だけを並べ立てた。


「激しい感情、尖った個性、些細な癖に至るまで……。魂の角が、すり減ってなくなるように、です。最後に残るのは、誰に対しても()()()()()()()()()だけ」


 一度言葉を切り、アッシュの無表情な顔を観察する。そして、尋ねた。


「ご興味はございますか?」


 魂の角が、すり減ってなくなる。


 サイラスの乾いた説明が、灰の山の中に埋めていた記憶の引き金を引いた。五年前、『白薔薇の葬儀日』に目撃した、生きた燃料たちの姿と正確に重なった。


 次第に色を失い、感情を失い、やがて空っぽになるまで。別の祭壇、別の名、同じ手口。


 サイラスは、アッシュの沈黙から答えを読み取った。


「ご興味がおありでしたら、この件、ぜひあなたにお願いしとうございます。もちろん、教団は相応の報酬をお支払いします。あなたの三年分の稼ぎにはなるでしょうな」


 アッシュは、しばし目を閉じてから開いた。視線がサイラスの顔から離れ、青く輝く巨大なホログラムの地図に留まる。全てがあるべき場所に収まった、完璧に制御された世界。


 ゆっくりと首を巡らせ、再びサイラスと向き合う。そして、短く言った。


「……いいだろう」


 これは、依頼を受けるということではなかった。このタチの悪い世界が、またしても同じ手口の芝居を舞台に上げるのを、確かめに行くというだけだ。役者と舞台が変わっただけで、脚本はうんざりするほど同じだった。


 サイラスが、満足げに頷いた。


「賢明なご判断です。南部へ行けば、教団から派遣した我々の者があなたを補佐します。実に篤実で、有能な方でございますよ」


 アッシュが背を向け、扉へ向かおうとした、その時だった。背後からサイラスの声がした。先程までの慇懃さが完全に消え失せた、氷のような声だった。


「ヴァレンタイン」


 アッシュの歩みが止まる。振り返る代わりに、傍らの巨大なホログラム地図を見る。光る表面に、サイラスの歪んだ姿が映っている。


「貴方は、あの方の汚点でございます」


 地図の表面に、サイラスの口の端が微かに吊り上がるのが見えた。アッシュは、固く握った拳に、さらに力を込めた。関節が白く浮き出た。


 サイラスの声が、楔のように突き刺さった。


「……()()()()()()でございますよ」


 アッシュは、最後まで振り返らなかった。身を翻し、名もなき亡者たちの廊下へと、再び歩を進めた。入ってきた時と同じ廊下だったが、もはや、同じ空間ではなかった。

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