第6話:完璧な鳥籠
酒場を出ると、港の生臭さが混じった空気が二人を迎えた。
ドレイクは街灯がまばらに光る大通りへ向かおうとしたが、アッシュは反対側へと進路を変えた。闇が口を開けている、狭い路地だった。
「ドブネズミにでも挨拶する気か?」
ドレイクはぼやいたが、アッシュは一欠片の躊躇いもなく、闇の中へと溶けていった。
水道管から錆びた水が滴る音。壁に描かれた正体不明の落書き。鼻を突く、酸っぱい汚物の臭い。建物と建物の間が狭く、空は一本の亀裂のように見えた。
音を殺す代わりに、音を読みながら進む。
夫婦の喧嘩する声、隅から聞こえる鼠たちの悲鳴、そして壁の向こう、古びたマナ導管が発する不安定な共鳴音まで。
この全ての騒音が、馴染んだ地図だった。対照的に、ドレイクは重い巨体を窮屈な隙間に押し込みながら、低く悪態を飲み込んだ。
影の中から、何かが素早く通り過ぎる。鼠、あるいは人の影。アッシュは視線すら向けなかった。
騎士団の行軍法は、光と秩序の言葉だ。だが、ここは影と沈黙、奇襲だ
騎士アッシュ・ヴァレンタインは忘れても、『灰色の狐』は覚えている。身体が、記憶していた。
リミナの中央広場は、驚くほど清潔で活気に満ちていた。
床の大理石は傷一つなく磨き上げられ、教団が設置した光輝石の街灯が、黄昏の都市を柔らかな白色光で染め上げている。
馬車ではなく、魔力軌道車が騒音もなくレールの上を滑るように動いていた。
広場の一角にある教会国営のパン屋の前には、人々が長く列を作っている。彼らの顔に、過去の飢えや絶望の影はない。むしろ、順番を待ちながら隣人と些細な談笑を交わす、安定した日常の平穏が宿っていた。
ドレイクが、低く言った。
「あのパン、品質も帝国で最高級だ。労働者には、賃金の半分を補助するらしい」
「腹の膨れた犬は、主人を噛まないからな」
アッシュは短く吐き捨てると、顔を背けた。一人の母親が目に入る。幼い息子が広場で駆け回ろうとすると、慌ててその腕を掴み、静かに言い聞かせていた。
その理由を、即座に理解した。広場の隅、不動の姿勢で立つ、ルーン・ゴーレム。
威嚇的な行動はない。ただそこに存在するだけで、広場のあらゆる突発的な行動を抑制していた。
全てが、秩序整然としていた。
アッシュは、その完璧さの真ん中で、息が詰まった。
それは生きているものの温もりではなかった。誤差なく噛み合うルーン回路の精密さであり、剥製にされた蝶の静けさだった。
鳥籠はあまりに心地よく、自ら扉を開けて出ていく者は、誰一人としていないだろう。
アッシュは、無意識に胸元に触れた。かつて、『白薔薇騎士団』の紋章が冷たく縫い付けられていた場所。今は、何もない。空っぽだった。
足は、広場の中央、巨大な鋼鉄の像へと向かっていた。剣を手に、世界を見下ろす『神の代理人』イゾルデの像。
ドレイクが像を見上げ、舌打ちをする。
「ちっ、肩部分のリベットを見てみろ。完全に見せかけじゃないか。本物の職人なら、あんな仕上げはしないしな。重心もめちゃくちゃだぜ」
声には、技術者としての矜持と、空虚な象徴への軽蔑が混じっていた。アッシュは像を見てはいなかった。代わりに、その足元に刻まれた文字を見ていた。
『反逆者どもの武器は溶かされ、秩序のための剣として生まれ変わった』
そして、その下には、異端という烙印と共に粛清された者たちの名が、びっしりと刻まれている。その中に、ひときわ見覚えのある名前があった
『異端者 ダンテ・クロウウェル』
『アッシュ、覚えておけ。教団の真の敵は混沌ではなく、慈悲を失った秩序だ』
尊敬していた先輩騎士の、最後の声。彼の信念さえもが、イゾルデを賞賛する装飾品と化していた。
アッシュは顔を背けた。目的地である『教団中央財務聖所』は、古い聖堂の隣に建っていた。
天に祈るようにそびえ立つ古い尖塔とは対照的に、財務聖所の建物は、眩い白大理石と黒水晶で建てられた、巨大な芸術品のようだった。
権威を誇示する要塞ではなく、効率と洗練で相手を圧倒する構造物だった。
「行こう」
ドレイクが、先を行く。アッシュは最後に、巨大な像の影の下、行儀よく手をつないで歩いていく子供の後ろ姿を見た。そして、声もなく、その後を追った。