第5話:リミナ
風が死んだ街は、吐き出した息のように生温かった。
国境都市『リミナ』の夕暮れは、いつも湿気を帯びている。ソランティスから吹く自由な潮風は帝国の高い城壁を越えられず、澱んだ空気の中漂う生臭いオゾンと安酒の酸っぱい香りだけが、路地を重く満たしていた。
酒場は二階にあった。都市の監視網から一歩だけ踏み外したような、危うい解放感が漂う空間。
窓の外には、街を見下ろすように教団の黒い尖塔がそびえ立っていた。決して逃れられないという烙印のように。
アッシュは椅子に背を預けたまま、グラスの中の氷を無心に転がしている。
ドレイクは違った。身体は狭い空間に窮屈そうに収まっていたが、その視線には猟犬のような執拗な光が宿っていた。
左の義眼から、微かな赤い光が漏れる。歯車が噛み合う、小さな音が響いた。
低い声で、彼が口火を切る。
「あの男。テーブルの下で渡された袋の重さ、そして手首に微かに付着した銀光草の粉塵。俺の計算では、『影の商人団』の末端の運び屋である確率、八十七パーセントだ」
グラスを持ち上げ、付け加えた。
「あの男が十分以内に自力で出て行ったら、次の停泊時のエンジンフィルターの掃除は、お前の番だ」
アッシュは男をろくに見もしないまま、気怠げに答えた。
「違うな」
「データがそうだと言っているのに、何が違うんだ?」
ドレイクの声には、自信が滲んでいた。
「奴は運び屋じゃない。教団に尻尾を掴まれ、他の運び屋を売りに来た情報屋だ。何かを運ぶには、手が綺麗すぎる。その代わり、汗でぐっしょりだ」
アッシュは、ようやくドレイクへと視線を向けた。青い瞳に、微かな嘲笑が浮かんでいる。
「奴は十分以内に出ていくんじゃない。五分以内に、引きずり出されるさ。掃除はお前がやれ」
まさに、その時だった。
話し声と油の煮える音でざわつく酒場の一階から、規則的な音が響いてきた。軋む扉の音ではない。
軍靴が、古い木の階段を踏みしめて上がってくる、鈍く威圧的な足音。
瞬間、酒場内の全ての騒音が、刃物で切り裂かれたかのように止んだ。
扉が開き、教団の白い制服をまとった警備兵が二人、入ってくる。彼らの視線は、真っ直ぐに隅の男へと注がれた。
躊躇いのない歩み。男は青ざめた顔で、椅子から引きずり出される。
その目には、「来るべき時が来た」という諦観が宿っていた。
警備兵たちと男が消えると、止まっていた騒音は何事もなかったかのように、再び蘇った。
ドレイクが、低く舌打ちをして杯をあおる。
「ハッ、その勘は時々、反則みたいなもんだな」
アッシュは返事の代わりに、空になったドレイクのグラスを手に取り、バーテンダーに向かって顎をしゃくった。
カウンターを拭いていた若い女が、一瞬、手を止める。まるで、この灰色の都市の全ての混沌が、一瞬にして消え去ったかのような表情だった。しばし呆然としていたが、慌てて頭を下げ、酒瓶を手に近づいてきた。
勘定書を受け取ったドレイクの表情が、再び歪んだ。
「くそっ、これは酒代か? それとも献金か? 教団の奴ら、祈りより商売の方が才能あるんじゃねえのか?」
アッシュが懐から古びた銀貨を数枚取り出し、カウンターの上へと放る。
チャリン、と鈍い音がした。使い古された銀貨の片面には帝国の初代皇帝の顔が、反対の面には『白薔薇騎士団』の紋章が、微かに残っている。
だが、酒場の主人は困惑の表情を浮かべ、引き出しを開けた。
「お客さん、ありがたいんですが…もう帝国では、これは使えないんですよ」
彼が取り出して見せたのは、鋳造されたばかりのような銀貨だった。皇帝の顔があった場所には、『マエストロ』イゾルデの、完璧で感情のない横顔が冷ややかに刻まれている。
アッシュの動きが、止まった。硬貨を直接見たわけではない。だが、そこに刻まれた存在の視線を、肌で感じるかのようだった。過去の声が、脳裏をよぎる。
すべては、あるべき場所に、あるべき。アッシュ、君は私の隣に。
その声は命令というより、世界の法則を説くかのように、ひどく淡々としていた。虚無が、喉元までせり上がってくる。ドレイクが不平を言いながら、新しい銀貨を二枚取り出して置くのを、ただ見ていることしかできなかった。
彼は先に席を立ち、軋む階段へと、逃げるように歩を進めた。
背後から、窓の外の建物の壁に描かれたイゾルデの巨大なフレスコ画が、声もなく彼を見下ろしていた。
フェルマータ(Fermata): 特定の音符や休符を、指揮者の裁量によって任意に長く伸ばして演奏するよう指示する記号。指揮者が次の合図を出すまで全ての演奏を停止させ、聴衆の息さえも止めさせる劇的な緊張感を生み出す。