第3話:灰と砕けた翼
軋む階段を上がると、空気の質感が変わった。闇の中で、濃密なマナが息づいている。
廊下の突き当たり、寝室の扉の隙間からは、光の一片も漏れていなかった。アッシュは躊躇いなく、扉を押した。
蝶番が上げる悲鳴が、静寂を切り裂いた。
扉の向こうは、悍ましい演劇の幕が下りた舞台、そのものだった。
青白い月光だけが窓を越え、床に刻まれた稚拙な魔法陣を照らし出している。癒えることのない傷跡だった。
そして、一人の男がいた。
壊れた錬金術の道具の只中で、砕けた神像のように、呆然と座り込んでいる。
貴族狩り、アレクト。
その目は狂気よりも深い、敗北感に沈んでいた。
ドレイクが先に部屋へと踏み込み、巨大なリボルバーを構える。
「動くな、アレクト。懸賞金の受け取りは、後腐れない方がいいんでな」
「…結局、来たんだな」
アレクトは、独り言のように語り始めた。『マナ狂い』が、いかに彼の魂を蝕むのか。毎夜、夢の中で己の肉と骨が溶け落ちる感覚に苛まれるのかを。
床の魔法陣を、指先で微かに撫ぜた。
「生き残るっていうのは、こういうことなんだ。お前たちが金のために引き金を弾き、剣を振るうのと同じ、命の代価を払うってことなのさ」
「詭弁が長いな」
ドレイクが鼻で笑う。
「お前のせいで死んでいった貴族たちに、何の罪があった?」
「罪?」
アレクトは、待ってましたとばかりに応酬した。
「奴らは生まれた時から全てを持っていた。安定したマナ、富、名誉…何もかもだ。俺は…ただ、この病さえ治ればよかった。涙も、祭壇も…最後の希望が、すぐ手の届くところに! それを、あんた達を寄越した奴らが踏みにじったんじゃないか!」
狂気に満ちた視線が、ドレイクの銃口からアッシュの無表情な顔へと移る。侮蔑と嫉妬が入り混じった、壊れた笑い声が迸った。
「そうさ…あんたみたいなやつには、分かりっこないさ」
アッシュは表情を変えぬまま、問い返した。
「なんだ?」
「生まれた時から全てを持つやつが、地の底を這う人間の気持ちなど分かるものか! その力…その才能…! それさえあれば、俺とて…!」
アレクトの絶叫は、最後まで結ばれなかった。それは起爆剤となり、最後の理性を吹き飛ばした。
「ぐ、アアアアアアッ!」
アレクトの身体が、悍ましく捻じくれた。
骨が砕け、再構築される音が肉を突き破る。皮膚は煮えたぎる溶岩のように膨れ上がり、背中からは黒赤い魔力の棘が噴出し、上半身を奇怪な甲殻のように覆い尽くした。
両目は溶け落ち、純粋な魔力が溜まった水溜りと化した。
「ちくしょう!」
ドレイクが先に引き金を引いた。
重い銃声が炸裂したが、弾丸はアレクトの変異した肉体にめり込んだまま、何のダメージも与えられない。
怪物が猛然と突進してくると、ドレイクは歯を食いしばって立ち向かった。
義眼が絶え間なく相手の動きを分析するが、データは「分析不能」「パターン無し」という警告を返すだけだ。
力で押し負けたドレイクの巨体が、壁に叩きつけられた。砕けた壁の破片が、彼の上に降り注いだ。
阿修羅場の中、アッシュだけが静かだった。
剣を抜かぬまま、一歩、踏み出す。
その瞬間、周囲の空間が凍てついたガラスのように、パリン、と砕ける音を立てた。彼の姿が数十の残像に分かれ、部屋を満たす。
『ミラーダンス』
全ての残像が、それぞれ異なる角度から、同じ虚ろな目で怪物を凝視した。
アレクトは標的を失い、狂ったように虚空へ向かって咆哮する。
だが、絢爛たる幻影の舞は、一瞬で終わった。
アッシュの本体が、アレクトの背後、虚空に現れる。そして、遂に、剣を抜いた。
ス、と。
音も、光もない、ただ一本の線。
空間そのものを斬り裂く、『次元斬り』だった。
怪物の動きが、そのまま固まった。
暴走していた黒赤い魔力が陽炎のように消えていくと、奇怪に膨れ上がっていた肉体もまた、萎みながら元の人の形へと戻っていく。
致命傷だったが、まだ息はあった。力なく膝をつき、ゆっくりと項垂れる。
自らの手を、見下ろした。
指先から、徐々に灰色に変わり、崩れていくのを。
顔に浮かんだのは、苦痛でも怒りでもなかった。全てを失くした子供のような、呆然とした表情。
アッシュは、ただ沈黙の中でその最期を見届けた。
アレクトの乾いた唇が、微かに動く。残った息が、その隙間から漏れ出た。
それは、音というより、一つの名前の残像を描く、響きだった。
「……エラ」
それが、最期だった。
身体の全てが、完全に灰となって崩れ落ちる。
彼がいた場所には、人のかたちをした黒い灰の山だけが残された。
コトッ。
何か小さなものが、落ちた。
焼け落ちた服の中から出てきたらしい、無骨に削られた小さな木の鳥の彫刻。
片翼が、折れていた。
アッシュの視線が、しばし、灰の上の木の鳥に留まる。拾わなかった。ただ、観察するだけだ。
部屋の中には、砕けた壁の間から染み込む、夜風の音だけが満ちていた。
「ゲホッ、ゴホッ!」
瓦礫の山から、荒々しい咳と共にドレイクが身を起こした。
口の中の埃を床に吐き捨て、灰と埃に塗れた上着を払いながら、唸る。
「ちくしょう、てめえのせいで全身灰まみれじゃないか!今度の洗濯代は、分け前から引くぞ」
アッシュは返事の代わりに、腰から干した薬草の葉を取り出し、口に入れた。くちゃくちゃと噛む音だけが、二人の会話の間を埋めていく。
視線は、いつしかアレクトが消えた場所に残る、黒い灰の山へと向いていた。
その上には、冷たい月光の下──翼の折れた小さな木の鳥の彫刻だけが、ぽつんと置かれている。