第2話:ラクリモーサ屋敷
白い月光が、『ラクリモーサ伯爵屋敷』の尖塔を照らしていた。
屋敷は巨大な棺のように、丘の上に沈黙していた。かつては華麗だったであろう庭園は、とうに雑草の墓場と化している。
干からびて捻じくれた蔦は、死骸の腕となって建物の壁に食い込んでいた。
錆びついた鉄の門が風に揺れ、獣の呻き声を闇の中へと吐き出す。
アッシュは影に身を隠したまま、屋敷を見上げた。ドレイクが巨体を低くしながら近づいてくる。
「正門は無理だ。あの音じゃ亡者も目を覚ます」
左の義眼から、微かな赤い光が漏れた。歯車が細かな騒音を立てながら、屋敷の外壁の亀裂を舐めるように走っていく。
「二階、西側のバルコニー。蔦が支えになってくれるだろう。重さにさえ、耐えてくれればな」
アッシュは返事の代わりに、腰の袋から干した薬草の葉を一枚取り出し、口に入れた。
苦い味が舌を麻痺させる間、視線は枯れた茨が巻きつくバルコニーへと注がれていた。まるで巨大な蛇が獲物に絡みついているかのようだ。
屋敷が、こちらを見ている。死んだような目で。
乾いた熱が、喉の奥から込み上げてきた。ベラの警告が脳裏をよぎる。
‘過去の亡霊に、足を捕らわれるかもしれないわ’
アッシュは薬草をくちゃくちゃと噛み、ベラの警告を頭から追い出した。
仕事だ。金になる仕事。ただ、それだけ。
* * *
バルコニーから侵入した屋敷の内部は、外よりもさらに深い闇に沈んでいた。
中央ホールの天井では、巨大なシャンデリアが幽霊船のようにぶら下がり、光の一片もない空間を支配していた。
床には分厚い埃。そして、ホール中央へと続く、ただ一人の足跡。まるで舞台へと歩み出た役者の動線のようだった。
空気は傷口のようにねっとりと纏わりつき、足音は厚いカーペットに吸い込まれて、音一つしなかった。
アッシュが先に、音もなく踏み出した。その動きは、埃ひとつ立てない。ドレイクが後に続いた。義眼だけが、闇の中で唯一生きているかのように動いている。
不意に、ドレイクが腕を伸ばしアッシュを制した。
「待て」
視線が、床の特定の地点に固定される。
月光がかろうじて差し込む床、釣り糸よりも細い糸が、淡く光っていた。その先は、天井のシャンデリアへと繋がっている。
「圧力感知式の起爆装置か。触れればシャンデリアが丸ごと落ち、中に詰められた鉄屑やガラスが四方へ飛び散る仕組みだ。単純だが、効果的だな」
アッシュは黙って腰を屈め、糸を検分した。手が腰の剣の柄へと伸び、そして止まる。抜かなかった。代わりに、触れぬよう慎重にまたいだ。
それは、単なる罠ではなかった。警告だった。
入るな。ここは、俺の墓だ。
アレクトの切迫した思いが読めた。だが同情はない。飢えた獣は、他の飢えた獣の獲物でしかない。
中央ホールを抜けると、長く暗い廊下が現れた。両側の壁には、ラクリモーサ伯爵家の歴代の人物たちの肖像画が、埃をかぶったまま掛かっている。
油絵の具がひび割れた顔、生気のない瞳が、闇の中からじっとこちらを見下ろしているかのようだった。
ドレイクは先頭を歩き、周囲を警戒した。アッシュは後を追っていたが、最後の伯爵夫妻の肖像画の前で足を止める。
青白い顔の伯爵夫人は、どこか聖女『ルクレツィア』に似ていた。視線は、絵の中の女が浮かべる、悲しみと諦めが入り混じったその瞳に釘付けになった。
「アッシュ?」
ドレイクが振り返り、低く呼んだ。アッシュは答えない。肖像画の中の女の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめているかのようだった。
無意識に、腰の剣の柄を固く握りしめる。指の関節が白くなるほどだった。短く舌打ちをして、顔を背ける。重なって見えていた幻影が、嘘のように消えた。
「…何でもない。行こう」
再びドレイクの後に続く。廊下の突き当たり、固く閉ざされた書斎の扉。その隙間から、何かが漏れ出ていた。
新しく流れた血の生臭さと、古く澱んだ死の
悪臭。そして、その二つを無理矢理こね合わせたかのような、不安定なマナのオゾン臭。
扉を押すと、匂いが逆流するように噴き出し、二人を迎えた。
書斎と思われる、広い部屋だった。中央の机と椅子は、誰かが乱暴に片付けた様子だ。
がらんとした空間の床には、炭とまだ乾ききらない血で描かれた、稚拙な魔法陣が傷跡のように刻まれている。
だが、アッシュの目にはそれ以上のものが視えていた。分厚く積もった埃を掻き出した痕跡と、より精巧で古びた魔法陣の輪郭が。
二つの魔法陣が、同じ空間に重なっていた。古い羊皮紙の上に、新しい文字を書き殴ったかのようだ。
ドレイクが鼻を塞ぎ、顔をしかめる。
「ちくしょう、ここで一体何をしようとしてやがったんだ」
床を注意深く検分していたが、やがて義眼のレンズを絞った。
「これは…生命力抽出の儀式の亜種か。お粗末なもんだ。竜の涙がなくては、始められもしなかったんだろうが」
指で、古い輪郭をなぞる。
「本物は、この下にあるやつだ。ベラの言っていた伯爵夫妻は、間違いなくこの祭壇で死んだ。アレクトは、先人の痕跡を辿ってここを見つけ出したってわけだ」
アッシュはドレイクの言葉に応えなかった。視線は新しい血痕ではなく、その下に染み付いた、黒赤く古い染みに固定されていた。
此処は、墓場だった。一度ならず、何度も使われた。
失敗した者の足掻きと、そして恐らくは成功したであろう誰かの悍ましい悲願が、幾重にも折り重なった場所。
『静寂の聖所』。
破壊したあの祭壇が、再び脳裏に浮かんだ。あの場所もまた、イゾルデが最初に作った祭壇ではなかったのかもしれない。そんな考えが、閃光のように頭をよぎった。
教団の歴史の中に、一体どれほどの祭壇が隠されているのだろうか。
ギィ――。
まさにその時、天井の方から、微かに床板が擦れる音が聞こえた。上の階だ。
ドレイクが即座に、巨大なリボルバーを抜き放つ。
「上にいやがる」
アッシュは動かなかった。過去と現在が重なるこの空間で、全ての感情は冷たく、冷たく、冷え切っていく。
ひどい虚しさだけが残った。
「アッシュ、2500ゴールドの獲物がお待ちかねだぜ」
ドレイクの重い声が、錨のように彼を現実に繋ぎ止めた。ゆっくりと、顔を上げる。
その目には、もはや過去の幻影はなかった。灰色の狐の、冷たく飢えた眼差しだけが残っている。
「そうだな。狩りの時間だ」