第1話:空腹と2500ゴールド
記憶は灰色の、色褪せた古い歌のように蘇る。
萎れた白薔薇の花びら。彼女の囁く祈り。剣を振るった手の感触。
ガシャン、と。聖所を照らしていたステンドグラスが蜘蛛の巣のようにひび割れ、霜の花となって散った。
魔法が爆ぜる音だったか。それとも、誰かの引き裂かれるような悲鳴だったか。
霞む記憶の中で、ただ背に触れた大理石の冷たい感触だけが、鮮明だった。
「……」
目を、開いた。
神殿のドームではなかった。古びた魔法船『アヴァロン号』の天井だった。
馴染んだ魔力回路の低い唸りが、骨の芯まで染み渡る。過去の冷気は消え、黴の匂いが混じった湿った空気が肺腑を満たした。
上体を起こす。身体は記憶の中の傷ではなく、ずっしりとした疲労感がのしかかっている。
甲板の隅、擦り切れた絨毯の上で古代剣術の形を描いていた。流れる水のような、淀みない動き。
だが、込められたものはない。身体に染み付いた、時間を殺すためだけの虚しい仕草。
ギシリ――
鈍い音と共に扉が開いた。巨大な影が内へと踏み入る。重々しい足音。
ドレイクだった。
「まだそうしているのか、アッシュ」
ドレイクは片手の依頼書を振りながら、不機嫌そうにこちらを睨みつけた。左の義眼の奥、歯車が光を受け、微かな音を立てて噛み合う。
「仕事だ。『貴族狩り』のアレクト。『影の商人団』を裏切り、『竜の涙』を持って高飛びしたとさ。懸賞金は2500ゴールドだ」
アッシュは肩をすくめるだけだった。視線はドレイクの手に持つ羊皮紙ではなく、その向こうの軋む床板に留まっている。
2500ゴールド。ただインクで記された数字に過ぎなかった。
ドレイクの溜め息が聞こえた。いつものことだと言わんばかりの、諦めが混じった溜め息。
背を向け、調理室の方へ向かう。アッシュはもうしばらく座っていたが、やがて緩慢に身体を起こし、その後を追った。
厨房はむせ返るような草の匂いがした。ドレイクが鍋をかき混ぜている。木の器に盛られて出てきたのは、根菜と茸を煮込んだ水っぽいシチュー。どこか寂しげな、その見た目。
「マッシュルームシチューだ」
ドレイクが、投げやりに言った。アッシュはスプーンでぐにゃりとした茸のかけらを掬い上げる。味の薄い汁、何の味もしない味。
数回、噛むふりをしてからスプーンを置いた。
「食欲がない」
「干からびて死にそうな顔をしておいてか?」
返事の代わりに席を立つ。腰の古びた袋から薬草の葉を取り出し、くちゃくちゃと噛み始めた。苦い香りが口の中に広がる。
視線が再び、ドレイクがテーブルに放り投げた羊皮紙へと向いた。稚拙に描かれたお尋ね者の肖像画が、淡々とこちらを見つめている。
2500ゴールド。
数字の向こうに、丸焼きにされた猪の脚の幻影が揺らめいた。本物の肉が入った、熱いシチューの幻影。
アッシュは薬草の葉を床に吐き捨てた。
「行こう」
ドレイクは頷いた。アッシュは背を向け甲板へと向かう。背後から、むっとするシチューの匂いがついてきた。
* * *
アヴァロン号が水霧を割り、ポート・ダマリスの水面へと滑り込んだ。
港は巨大な機械の墓場のようだった。錆びついた鉄製のクレーンが動きを止め、空に向かって骨ばった腕を伸ばしている。
工場が絶え間なく吐き出す煙は、空を永遠に癒えることのない灰色に染め上げていた。
川の生臭さ、腐った魚、冷え切った蒸気の匂いが混じり合い、鼻を突く。アッシュは甲板の手すりに背を預け、全ての風景を無心に眺めていた。
ゴンッ――
船体が埠頭にぶつかった。操舵室から出てきたドレイクが、太いロープを手際よく埠頭の杭に巻きつける。
「ちくしょう、停泊税だけで5ゴールドか。お前が吐き出したシチュー一杯が1ゴールドだったってわけだ」
ドレイクの声は、軋む船首のような響きがした。
アッシュは応えなかった。懐から干した薬草の葉を取り出し、口に含む。くちゃくちゃと噛むと、苦い味が舌の根を痺れさせた。
ポート・ダマリスの裏路地は、ねっとりと暗かった。湿った壁を伝って正体不明の汚物が流れ、狭い路地は乾いた空の下でも常に濡れていた。空気には安物の蒸留酒の香りが染み付いている。
影となり、足音を殺して歩いた。後を追うドレイクの重々しい足音が、路地の静寂を重く叩く。
看板一つない店の前で足を止めた。古びた木の扉には、霜の花のような白いひびが入っている。扉を押すと、ギィという音と共に、酸っぱい路地の空気とは全く異なる匂いが流れ出た。
濃い白檀と古い紙、そして微かな埃の匂い。
『蝶の蜘蛛の糸』
情報屋ベラの店だった。
内部はありとあらゆるガラクタが作り出す、混沌の博物館であった。
埃をかぶった歯車の装置、ひびの入った陶器の人形、持ち主の分からない古びた剣と色褪せた地図たち。
全てのものが、あるべき場所を失い永遠に眠りについたかのような空間だった。
その奇妙な静けさの中、カウンターの向こうのランプの灯りだけが、生きているかのように揺れていた。
ベラが、そこにいた。ランプの灯りの下で、銀製の蝶の装飾品を柔らかい布で磨いていた。
人の気配に気づき、顔を上げる。
彼女の視線はドレイクの巨体を軽く通り過ぎ、真っ直ぐにアッシュの元へと突き刺さった。緩く羽織った赤いベルベットのドレスが、起伏のある身体の線に沿って気怠げに流れる。
「灰色の狐さん」
声は、香の煙のように低く漂った。手首の銀の腕輪が、チャリ、と微かな音を立てる。
「こんな所までご足労とは。今度はまた、何をなくされたのかしら」
ドレイクが先に口火を切った。堪え性のない性格が、そのまま滲み出た声だった。
「俺たちがなくしたんじゃねえ。あんたんとこの『竜の涙』を持って高飛びしたアレクトだ。懸賞金2500ゴールドの仕事だよ」
ベラは、なおもアッシュから目を離さなかった。口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「あら、うちの商人団にそんな面白い話があったかしら?」
磨いていた装飾品を置き、ティーカップを取り出すと、見せつけるように息を吹きかけた。
チャリン――
冷たい金属音が、会話を断ち切った。アッシュがカウンターの上に、古びた金貨を数枚、投げ置いた。額は、話にならないほど少ない。金貨はランプの光を受け、しばし煌めいたが、やがて沈黙した。
アッシュの視線は彼女の目ではなく、置かれた銀の蝶の複雑な羽の紋様に留まっていた。待った。
ベラは、ふっと笑った。嘲笑というには、どこか諦めの色が混じっている。
「相変わらず、せっかちね」
ティーカップを再び内側へと押し込んだ。代わりに、軋む引き出しを開け、古びた羊皮紙の地図を取り出す。
「その程度のお金じゃ、本来は噂話しか買えないわよ」
羽ペンを取りインクを浸すと、地図の上の一箇所をトントン、と叩いた。黒い点が滲む。
「閉鎖されたラクリモーサ伯爵の屋敷。私たちが時々、アジトに使っていた場所よ」
情報は、それだけのようだった。アッシュは黙って身を翻す。店を出ようとする背中に、ベラの声が追いすがった。
「その男、貴族狩りなんでしょう? あの屋敷、ただ捨てられたわけじゃないの。最後に住んでいた伯爵夫妻が…惨たらしい儀式で死んだのよ」
声に、影が落ちた。
「気をつけて、アッシュ。過去の亡霊に、足を捕らわれるかもしれないわ」
再び、裏路地の湿った空気が襲いかかってきた。ドレイクが、我慢しきれずに唸る。
「簡単すぎやしねえか? あの女狐、お前にだけはいつも損な商売をしやがる」
アッシュの横顔を睨みつけ、言葉を続けた。
「とにかく2500ゴールドだ。今度こそきっちり終わらせて、エンジンの部品も交換して、てめえの借金も少しは返すぞ。頼むから、何もひっくり返すんじゃねえぞ」
アッシュは歩みを止めなかった。ドレイクの小言は、遠ざかる騒音のように耳を掠めていった。頭の中では、ベラの最後の言葉が木霊していた。
貴族狩り。惨たらしい儀式。過去の亡霊。
瞬間、呼吸が浅くなる。アッシュは無意識に、腰の剣の柄を固く握りしめた。掌に食い込む革の冷たい感触が、幻影から現実へと彼を掬い上げた。
口の中に残っていた薬草のカスを、床に吐き捨てる。苦い味だけが、長く残った。
「…行こう」
短い一言。空っぽの胃袋と同じくらい、乾いた声だった。