とある王国の英雄譚 ―裏切り者と呼ばれた魔導士の献身―
王都シュゼリア。そこにそびえる王城から少し離れた魔術研究棟。
暮らしを豊かにし、国の防衛の要ともなる魔術を研究するその建物は、その存在意義の強さと反して周囲の人々からは嫌煙されていた。
その理由の一つが、週に一度は上がるカラフルな煙。そしてもう一つが日に一度は上がる爆発音だろう。
理解出来ないものは、いくら有益だろうと恐怖の対象となりえる。更に内部の人間達は、その誤解を解けるほどのコミュニケーション能力も他者への興味も持ち合わせていなかった。
かくして半強制的に一握りのエリートが集められた研究棟は、国で一番成果を出している国営施設として、人々から遠巻きに見られていたのである。
そんな魔術研究棟の一番奥。
研究に没頭できるからと、いの一番に場所を決めて研究室を作った責任者、ノワール。
彼はたった今重要な研究をまとめようとしていた。
「あと一欠片。そのほんの少しさえ掴めれば、なせる。ここに繋ぐもの……シデンの疾風は試した。レッカの雫も。それなら、ここに入るのはーー」
「ノワール。研究成果はどうだ?」
あと一歩、目の前に見えたきらめきを捕まえることができれば。そうすれば答えがみつかるかもしれない。
密やかな興奮とともにノワールがそちらに向けて手を伸ばした瞬間、ドスンと物理的な重みがノワールの思考を邪魔した。
頭に乗せられたその重みの正体は、腕。ノワールは自身にもたれかかるようにして腕を乗せる男に対して声を上げた。
「ネレイド様。俺の頭を肘置きにするのは止めてください」
「んー? だって丁度良いじゃないか。私の腕にピッタリだ」
「バカにしてます? 俺、そこまで小さくないですけど」
乗せられた腕を力いっぱいはね飛ばし、ノワールはネレイドを睨みつける。
「大体、こんなところで油売ってていいんですか。先日も泣きながら従者に探されていたでしょう」
「アイツは少し過保護だからな。私は目を離してすぐに迷子になるような幼子ではない」
「幼子でなくとも王子です。王子を見失って、その上怪我でもさせようものなら従者の首が易々と飛ぶんですよ」
ノワールの言葉に、ネレイドは少し眉を持ち上げる。それは王子としての表情というより素に近い、ひどく皮肉めいた表情だった。
「そんなこと私がさせないさ。それに、こんなでかい男を捕まえて随分な事を言う」
「まあでかいのは否定しませんが」
ネレイドの思うところ。それが分からないノワールではない。
かつてのネレイドは虫一匹にすら殺生を躊躇する優しい少年だった。直に一刻を継ぐ王子として、必要であれば人の命すら奪うことに慣れた彼ではあるが、そんな細かい事で気心知れた従者を処罰する様なことはないだろう。
ネレイドの表情は、それを十分に理解しているくせにあえて定型的に突き上げたノワールへの抗議だ。
ただノワールとてそんなことは分かっている。だから小さく苦笑いを零して続くだろう文句を黙殺した。
「もう私は、疑うことを知らぬあの頃とは違うのだから」
「そうだといいですね」
ぽそりと呟くネレイドに、ノワールも呟くように答える。
同時にこの王子を従者に返してやろうと彼の腕を捕まえて、出入り口に向かう。
しかしそれを拒むように立ち止まったネレイドは、そのままノワールを腕に抱き込んだ。
「信じてくれ。今度こそ、お前は私が守る。そのために、これまで私は」
言葉が一瞬途切れ、ふっとため息のように漏れたネレイドの吐息が、ノワールの髪を揺らす。続く言葉を奪うように、ノワールは続けた。
「……俺、確かにネレイド様みたいにでかくはないですけど。それでも弱くはないですよ。それこそ、一人であなたの護衛を任せられるぐらいには」
その言葉の続きは、過去の約束の中に置いてきたのだ。あの日、守れなかったのはノワールの方なのだから。
王国の二人の天才。双剣。そんな風にもてはやされるのを良いことに、ノワールは油断していた。
その油断が、ネレイドに呪いをかけてしまったのだ。
「ああ、知っている。ノワールは頼りになる、我が国一の大魔道士だ」
からりと笑って、ネレイドはノワールを腕から解放する。それを合図にして、何事も無かったかのようにノワールは出入り口への歩みを再開した。
「そうですね。だけど今日は非番なので。さっさと城に戻ってください。俺は研究を進めたいので!」
そしてまさに外から開かれようとしていた扉を開ける。と、同時に目の前に立っていた半泣きの従者にネレイドを引き渡した。
******
王都から陸路で三日、加えて海路で二日離れた山の中。
突如暴れ始めた竜の討伐を目的として、ノワールはこの山を訪れていた。
「なんで俺が竜の討伐になんか……」
「そんなもの、私が呼んだからに決まっているだろう」
小さな小さなノワールのつぶやき。しかし僅か数センチ先にあるネレイドの耳には、やはりというか捉えられてしまったらしい。
「それがおかしいんですよね。なんで俺を連れてきたんですか。俺は魔術棟で研究の続きをしたかったんですけど」
「先日の休みにも研究していたというのに……たまには外に出るほうが良いぞ」
「余計なお世話ですよ」
実のところ、ノワールの実力は素晴らしい。現に竜の討伐自体は三十秒で決着してしまった。けれどこれが余剰火力であることは誰の目から見ても確実で。
ネレイドの勅命さえなければ、欠片とてノワールが呼ばれる可能性など無かったというのに。
「それにお前がいないと私も楽しくないからな」
「そりゃどうも」
ふてくされながらのノワールの返答。それにネレイドは至極嬉しそうに笑みを零した。
「何せお前以上にからかいがいのある人間は居ない」
「……バカにしてます?」
「ふむ、そうだなあ」
完全に唇を尖らせてしまったノワールの言葉。笑みを引っ込めたネレイドがちらりと視線を斜め後ろに注ぐ。それは丁度ノワールの顔の位置。
そして絶妙な力加減で先程痛めたノワールの足首を握りしめた。
「いっ!?」
「今はしているかもしれないな。竜を無傷で倒したくせに、何故ここまでの怪我をできる」
ネレイドに背負われている状態のノワールはそれから逃げることができず、身体に力を込めて耐える。思わずネレイドの首を絞めてしまったのはご愛敬だ。
当のネレイド自身が笑っているのだから、すぐ近くでまなじりをつり上げている騎士様達にはどうか落ち着いて貰いたい。
「それは、その。だってあの薬草、すっごく珍しくて」
「薬草に目が眩むところまではまだいい。でもそれで足元を疎かにして、崖から転落死しかけるのはさすがに芸術点高すぎじゃないだろうか」
「自分でもそう思います……」
文字通り痛いところを突かれながらも、どうにかいつも通りの意地を張ろうとしていたノワールも、さすがに今回は分が悪い。
歯切れ悪く答えた直後、ぐったりとネレイドの肩に顔を押し付けると降参とばかりに呻いた。
「もう降ろしてください。普通に考えて魔道士が王子に背負われてるのなんておかしいじゃないですか」
「何心配するな」
しかし情けなさと恥ずかしさでやりきれなくなったノワールの申し出を、ネレイドはからりと笑って却下した。
「お前は小さいからな。少しも負担じゃない」
「バカにすんじゃねえ!」
小さくネレイドの脇腹に蹴りを入れるノワール。その抵抗に対しても嬉しそうに笑い声を上げながら、ネレイドはノワールを背負い山を下っていった。
******
喧騒。血と火薬の匂い。魔法の残滓。
慌てて首根っこを掴んで物陰に引き込んだネレイドの荒い呼吸が、この状況をノワールの脳内に強く印象づけていた。
城が、魔族と手を組んだレジスタンス勢力によって制圧された。
ずっと隠していたはずなのに、どうやらバレていたらしい。
「ネレイド様。どっかで悪い女にでも引っかかったんですか? ダメですよ、いくら美人でもこんな弱点を晒しては」
「……そんなヘマをすると思うか? それに私がそんな弱点を晒すのはお前相手を置いてほかにない」
「なら俺が裏切り者って事ですか」
自嘲気味に笑うノワール。国一番ともいえる魔導士の彼が右腕をひどく損傷している理由は、それだった。
敵や魔物相手ならば容赦なく攻撃を仕掛けられるノワールとて、味方に攻撃など放てない。それにいくら自分の的だとしても、彼らは間違いなくノワールが一番守りたいネレイドを守ろうとしてそんな行動に出ていたのだから。
「まあそうですよね、世界最強と謳われた王子が呪いの力で魔力を存分に発揮できなくなってるなんて。そんなことを知ってる、一番疑わしい人間は俺なんですから」
誓って、ノワールは裏切り者などではない。呪いにかけられたネレイドをたぶらかした覚えもないし、国家転覆など願っていない。
ただノワールは親友だったネレイドのために、ひたすら研究に明け暮れていただけの魔術バカだ。
「ノワール、お前は」
「ああ、謝ったりしないでください。別にネレイド様を恨んだりしていないので」
「…………」
言いながら、ノワールは手早く懐に潜ませていたこの五年の成果を取り出す。
糾弾され、身体をズタズタに引き裂かれようと、ここに来たのはこれをネレイドに届けるためだった。最低限の治療を施し、余力を残したのだってこのため。
「さ、ネレイド様。これを使ってください」
「これは?」
「貴方の呪いを解くためのものです。十分もすれば、ネレイド様はあの頃のように力を使うことができるようになるでしょう」
最後の一欠片、ヒジンの吐息を加えて完成させたその特効薬。直前までヘドロを煮詰めた色をしていたそれは、最後の欠片を受けてとろりとした白銀の液体に変化していた。
「寛解までの十分間、相当苦しむことにはなりますが。まああなたならば耐えられますよね」
自身の成果をネレイドへ押し付け、ノワールは立ち上がる。右手の感覚は薄いが、それでも時間稼ぎの魔法を紡ぐのに一切の不都合はない。
何せノワールは目の前の王子と並び立つほどの実力者として、かつて名を馳せていたほどなのだから。
「待て! お前は……お前はどこへ行くのだ?」
分かりきっている問を口にして、ネレイドは声を震わせた。その指先は引き止めるようにノワールのローブの裾を握っている。
しかしその力は力ずくで止めるには到底至らない弱さで。ノワールは思わず苦笑する。
「十分間。無防備なあなたを守ってあげますよ。必要でしょう?」
「止めろ、そんな事をしたらお前が!」
「ふふ、バカにしてるんですか? 俺はこんな形でも国一の大魔道士ですよ」
眼前に迫る敵の数、数十万。あの頃のネレイドとノワールならば苦労もしないだけの敵。
しかしそれは、万全の王子ネレイドとそれに付き従うノワールが二人そろっているからこそで。
「そんな事は知っている! だがそんな消耗した状態で、お前一人では……っ⁉」
ノワールがいなくなってしまう。そんな確信めいた恐怖の予感に、ネレイドは声を荒げようとした。けれどノワールはそれを、自らの唇で受け止める。
「叫んだら見つかっちまうだろ」
「ノワール、だが私はっ――俺は、ただ。お前が、お前だけがいてくれればそれでいい。だから、お前がそんな危険を冒す必要などっ!」
「違うだろ。お前は国を救う。そのために、駒となれる俺は切り捨てるべきだ」
ネレイドの頬に手を添え、ノワールはもう一度彼に口付けをする。これから国を支えていくべき王が、国を捨てるような発言をしてはいけない。
それこそ、ノワールがたぶらかしてしまったみたいではないか。
「じゃあな、俺の王子様」
最後に、ノワールは昔の様に屈託なく笑う。
「止めろおおおおおお!」
叫び、ノワールを引き留めようとするネレイド。しかしその体は駆け出すことなく、くずおれる。その唇には銀の液体が滴っていた。解呪の魔法薬だ。
同じ液体を口の中で転がし、その味に顔を歪めたノワールはふっと空を見上げ、敵の数を数え直す。
「あいつが戻るまで。なるべく数を減らしてやらないとな」
******
その後、国は呪いが解けた王子の力によって救われる。
レジスタンスと魔族が手を組んだこの最悪の反乱。この犠牲者はたった一名だったという。
それが呪いの研究に没頭していた、頭のおかしい裏切り者の魔導士だったということは、未来永劫語り継がれている。
――とある王子の英雄譚より。