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びしょ濡れの黒猫と左手のヘチマ

作者: 衣のH


田舎の夜は早い。

日が落ちれば明かりという明かりは見つからず、ポツポツと見えたとしても、それは民家から見える僅かな光だ。


しかし、こうも暗いと、窓から入る月明かりが眩しいほどだ。風流だねえ。



湯気が立ちのぼる。けれど、その白さすら、月明かりの中では頼りない。窓の隙間から差し込む光が、波のようにゆらいで湯面を照らしていた。


湯に足を入れた瞬間、肩の力が抜ける。色んな人物と会い、今日はまた一段と疲れた。さっさと寝たいところだが、この大好きな風呂だけは譲れない。



「……ふぃー……きもちぃ……」


今日も、働いた。もう働きすぎだ。十分だ。




── ぽちょん


「……ん?」




水の肌は静かに震え、時おり、ぽちょんと音がする。


その音に目を開けると、浴室の隅に"何か"がいた。




黒い塊。


濡れて艶めく毛並みが、湯気の中で揺れている。




黒猫だ。




しかも、なぜか"びしょ濡れ"の。



「……お前、どっから入った?」

 


そう問いかけながらも、男は驚かない。

驚く気力もないというのが正しい。



猫は風呂のふちにちょこんと座り、じっと男を見ていた。

そして口を開いた。




「……そんなに珍しいかにゃ」


「喋れるのか、お前」


「喋るにゃ」


「まぁ、猫が喋るくらいじゃ、驚かんわ」




男は目を閉じて、肩まで湯に沈んだ。

まるで体中がほどけていくようだった。


男は、猫に喋りかける。



「……そういや昔、うちにも猫がいたなぁ」


男は、懐かしみながらそう語る。


「一緒に風呂入ってくるやつでさ。心配そうにこっち見て」


その話をじっと聞きながら、黒猫はこちらを見ている。




「なぁ、お前も入るか?」


「動物愛護団体に訴えるにゃ」


そりゃあ、勘弁。と、その案を諦めた。 




そうだ、猫と喋れる機会なんぞ、そうそうない!と思いついたことを男は問いかける。




「なぁ、猫って水嫌いじゃないのか?」


「嫌いにゃ。でも、そばにいたいもんだにゃ」



男は笑った。


「優しいやつだったんだな」




湯から出て、体を洗おうと腰を上げる。

もう何年も取り替えてない古びた風呂椅子だ。だが、この風呂椅子ぐらいがちょうどいいんだ。変えが効かない逸品だぞ、これは。うんうん。そう満足げに腰掛ける。



「あれ?俺のへちま、どこだ?」


「左手にあるにゃ」



見ると、左手にはいつものへちま。

「あぁ、そうだったそうだった」

と納得して、ゴシゴシと背中をこする。



「なんか擦りにくいなぁ……」



猫は、じっとこちらを見ていた。



「お前も、へちまで擦ってやろうか?」


「動物愛護団体に訴えるにゃ」



男は笑いながら、再び湯船に沈む。

目を閉じ、湯の音に耳を澄ませる。




……しん、とした静寂。

ふと目を開けると、まだ猫がいる。




「なんでお前、まだいんの?」


「……あんたが、そこにいるからにゃ」


「そうか」


「いつ帰ってくるにゃ?」


「帰ってきてるじゃないか」






猫はぽつりと言った。


「何日も家を空けるから、風呂場を覗いたら……やっと見つけたにゃ」


「……」


「いつ帰ってくるにゃ、じじい」


男は静かに笑った。



「……クロか。お前、まだ待っててくれたのか……」



男は、全てを思い出した。


「……そうだった。世話をかけるな。今そっちに行く。ありがとうよ」





その言葉とともに、男の体は湯の中に溶けるように、ふっと消えた。



猫は短く、にゃおん、と鳴き、男の後を追った。


 


* * * 



「ただいまより、山之内 徹 様の納棺の儀を執り行います」



「お棺の中には、徹様が生前に大切にされていたお品物や、お好きだったものを一緒にお納めいただきます。こうしてお手向けいただくことで、あちらの世界でも寂しくないよう、心安らかに旅立っていただくという意味がございます」



「お花やお米のほかに、思い出の詰まった品、いつも使っておられたものなども、ぜひ一緒に入れてあげてください」


「ご家族の皆さまにとっても、大切な“お別れ”の時間です。どうぞ、徹様に優しく声をかけながら、ひとつひとつ、手渡してあげてくださいね」





棺の中には、眠るような顔をした老人。

まるで、風呂上がりのような、穏やかな笑みを浮かべていた。



「……おじいちゃんの好きなもの入れてあげてね」と、ぐっと涙を堪えながら、震えた声で女性は娘に声をかける。父親の死に耐えられず、すみません……といいながら涙を浮かべている。


「はーい!」


小さな女の子は、おじいさんの左手に、古びたへちまを置いた。




「……コラコラ、お義父さんは右利きだから、右手にヘチマを持たせてあげないと使いにくいだろう」


少女の父であろう男性は、そう娘に注意をした。


しかし、娘はこう返す。


「だいじょうぶ!こっちに猫ちゃんの写真置いたから!これで寂しくないよ、おじいちゃん!」



おじいさんの右手に、写真がそっと置かれる。


おじいさんの当時の写真。





それは、昔飼っていた黒猫を洗っている、おじいさんと猫の思い出の写真だった。


湯に濡れ、びしょ濡れになった黒猫。


もう彼の名前を知る者はいない。





おじいちゃんの顔は、最後まで、幸せそうな笑顔だった。


ホラー、一切書いたことがない人間です……

めっちゃ怖がりです……ひぇっ……


あと、書いてて思ったのですが、テーマの『水』にかけられたか微妙です。ですが、折角書いたので『夏のホラー2025』参加作品として投稿させていただきます。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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