『茨の秩序』
『無法街』に関する情報はいくつかある。
一つ。『無法街』は地図にも載っていない『とある島』にあるとされる。
一つ。島に辿り着くには、日本列島から南方に広がる『フィリピン海』のどこかで発生する『特殊な潮流』に乗らないといけない。
一つ。『無法街』は大昔、島流しにあった罪人達が発展させた街である。
情報は噂の域を出ないものもあれば、実際に『無法街』を訪ねた旅人の手記に記されたものもある。
『無法街』がいかなる場所か。それは実際にその目で見てみないとわからない。
「で、結局この仕事引き受けたんですね……」
「引き受けちゃった」
色美の隣を歩く眼鏡の女は、ハンディカメラ片手に苦笑いする。他のスタッフの荷物まで運んでいるせいかげっそりしており、快活な印象たるポニーテールが随分萎れて見えた。
あのクソプロデューサーへの恫喝以降、完全に断られる気でいた色美だが、何と製作側がドームでのライブを正式に検討してくれたらしい。
番組が出す条件をクリアすれば、ドーム出演を叶えてもらえる。このチャンスを活かさない手はない。そのために一ヶ月かけて『無法街』の言語や情報をある程度勉強したし、気休め程度の護身術も習った。
「いいんですか、色美さん。ドームの条件って、番組が一気にバズるような悪人達を仲間にする事なんでしょう? それって負担大きくないです?」
「ここまで来たらもう何でもやるよ」
「よくそんな堂々としてられますね……ADの自分が言うのも何ですが、こんな所で仕事するくらいなら無職のまま自宅でゴロゴロしていた方がマシでは……」
「それで夢が叶うならね。でも現実は違う。行動しなきゃ変わらない」
「行動、ですか……」
ロケ地に向かう最中なのに隣の彼女はもう疲弊した様子だ。うなじから流れる汗がシャツの襟にまで侵食している。
色美も汗をかいていた。変に厚手のオシャレコーデにせず、簡単に半袖のトレーナとデニムで揃えたのは我ながらナイスだったかもしれない。
「だから遠藤さんだってこの『無法街』に来たんでしょ?」
「まあ、ADは下積みが命ですから……」
遠藤は路上の端でぐったりと横たわる半裸の男達と、随所に盛り上がったゴミの山を尻目に、僅かに色美との距離を詰める。同行している五、六人の男スタッフよりも色美の方が頼れると判断したのだろうか。
だとすれば期待には応えられそうにない。何せここは『無法街』。先頭を進むギャングのガイドがあるとはいえ、油断ならない環境だ。
廃墟と見紛うほど寂れた家々の前で、本気の殴り合いをする屈強なおっさん達に、路上の隅に敷かれたブルーシートに座って怪しい小瓶を売っている老婆。
ゴミの散らかる地面に刺さった木の杭には、物干し代わりのロープがピンと張られ、ちゃんと洗濯できているかも怪しいくたびれた衣類がぶら下がっている。
頭上を漂う白煙に至ってはどこが発生源で何が含まれているかわからない。
比較的安全と教えてもらった西区でこれだ。目的地の中央区にはどんな混沌が広がっているのやら。
「色美ちゃん、表情硬くない?」
他の男スタッフ達が話しかけてきた。
「言っとくけど今日は下見だからね? 本格的なロケは三日後にやってくる別の班と合流して始まるから」
「いやいや、こんな変な場所に連れてこられて困惑してるんですよ」
「大丈夫です。僕らも緊張してますから」
声をかけてくれるのは嬉しいが、緊張感を共有したってこの恐怖は拭えない。いくら手厚いサポートがあろうと実際に『無法街』の住人に声をかけていくのは色美なのだから。
「お前達、もう着くぞ」
そう言ったガイドのギャングに連れられたのは、西区と中央区の境目だった。錆びついた鉄条網が行く手を塞ぎ、唯一の出入り口であろう扉の付近には黒スーツの男達が集まっていた。
こちらの接近に気づくや、男達の中から金髪のオールバックが前に躍り出た。
「ボス、連れて来ました」
「御苦労」
歳の頃は三十代前半か。荒れ果てた『無法街』のイメージとは違い、上から下までバッチリとスーツを着こなしている。ネクタイの位置を調整し、剃り残しのない綺麗な口元から歓迎の笑みが滲み出る。
「ようこそ『無法街』へ。君達が日本から来たゲストだね」
彫りの深い顔立ちからは想像もつかないほど流暢な日本語だった。
身長一八十はあろうかという長身の男を見上げ、スタッフの一人が上擦った返事をする。
「あ、はい。えっと、あなたが今回ロケに協力してくださるスカラブさんでお間違いないでしょうか……」
「いかにも、僕は『無法街』の中央区を支配するギャング組織『茨の秩序』のボス、スカラブだ。以後お見知りおきを」
スタッフ達からの名刺を受け取りつつも、スカラブの目線は真っ直ぐ色美を射抜いていた。好奇心が顔に出ている。
スカラブは隣に控える初老の男に名刺を預けると、こちらに歩み寄ってきた。
「君が日本のアイドルだね」
「羽路色美です。よろしくお願いします」
「『無法街』でのビジネスを世界に広げたいんだ。上手いPRを頼むよ」
ギャングのボスから『ビジネス』と聞くと、ヤバい想像ばかり浮かんで背筋が震えてしまう。何だか犯罪の片棒を担がされるようで心臓に悪い。
不安を気取られないよう笑顔で握手を交わす。細身にしてはかなりゴツゴツとした掌の感触だ。
「日本語、お上手なんですね」
「『無法街』では珍しくない。元々多言語に溢れた街というのもそうだが、昔この島に流れ着いた日本人が街の発展に貢献してね。その影響を受けてか日本語を話せる住人は割と多いんだ」
あのクソプロデューサ―が言っていた事は本当のようだ。
「しかしここまで来るのは大変だったろう。最低一回は死にかけたと見たね」
「は、はい……。一年に数日しか発生しないっていう『特殊な潮流』に乗って、『無法街』のあるこの島までやって来たはいいんですけど、途中で渦潮に飲まれそうになってしまって……」
「ははっ。ほらチャールズ、やはり死にかけたじゃないか!」
「賭けは儂の負けですかな」
先ほど名刺を受け取った初老の男が、聞き取りやすい日本語で答えた。ポケットから取り出した紙幣をスカラブに渡す。
「わ、私達が死にかけるかどうかで賭けしてたんですか?」
「ああ、気を悪くしたならすまない。この街にいると外のモラルに触れる機会が少なくてね」
何でもない事のように肩をすくめ、スカラブはスーツの内側から小さな巾着を引っ張る。
「お詫びにこれを差し上げよう」
「は、はあ……」
巾着の中身を覗こうとする色美に、ADの遠藤が慌てて耳打ちしてきた。
「し、色美さんっ! 不用心ですよ! もし爆弾だったらどうするつもりなんですか!?」
「流石にないでしょ。そしたらギャングのみんなも吹っ飛ぶじゃん」
警告を無視して開封する。巾着の中は淡く七色に光っていた。爆弾ではない。ビー玉サイズの石ころがいくつも入っており、その一つ一つが赤、青、黄、白などと様々な色に輝いている。
「これは……」
「蓄光石。太陽光を吸収して光を放つ不思議な石さ。外の世界にもあると聞いたが、この島で採れる蓄光石は一級の天然品。たった二、三時間光を蓄えれば、十二時間の発光を可能とする。今は昼だからわかりにくいが、夜になるとかなりの光量を感じるはずだ」
「へぇ……こんな貴重な物貰ってもいいんですか?」
「構わんよ。貴重どころか寧ろ多すぎるくらいだ。『無法街』に暮らす全ての住民がその石を生活に取り入れてるくらいだからな」
スカラブが少々忌々しげに顔をしかめたのが気になったが、とりあえず貰える物は何でも貰っておこう。
改めて蓄光石を眺め、『無法街』の文化の片鱗を味わう。こういう特産品を見るとやはり心が弾む。普段と違う世界に来た実感が湧くのだ。
スタッフらに巾着を渡し、遠藤のハンディカメラで撮影してもらう。番組で使うかどうかは知らないが、撮れるものは何でも撮っておくべきだろう。
スタッフの一人が別のハンディカメラをスカラブに構えると、隣のチャールズが何か別の言語(無法語とでも呼ぶべきか)を囁きながら詰め寄った。スーツの内側に手が伸びる。
「おいおいチャールズ。彼らに撮影の許可は与えてるんだ。そう睨んでやるな」
「失礼ボス。しかしいきなりカメラを向けるのは少々無礼かと。ここは軽く脅して差し上げるのが今後の彼らのためでは」
「相変わらず古い挨拶しか知らんヤツだ。そういうとこ死んだ親父にそっくりだよ。僕の側近ならもっとスマートに立ち回ってもらいたいね。一旦下がれ」
チャールズはたっぷり蓄えた顎髭を摩り、不服そうに引き下がる。睨まれたスタッフは完全に腰を抜かしていた。
ここで協力相手とギスギスするのは良くない。ロケが円滑に進まなくなる懸念が発生する。それどころか相手の機嫌次第で殺される事だって……。
急いでスタッフの代わりに頭を下げると、スカラブは笑って流してくれた。
だが気は抜けない。色美はできるだけ愛想の良い笑みを意識する。
「あ、あの……っ、良かったら今から中央区を案内してもらえませんか?」
「もちろん。我々が護衛するので好きに見て回るといい」
鉄条網に一つしかない鉄扉が、金属の擦れる音を鳴らし開け放たれる。
あれが地獄巡りの入口だ。スタッフ達と目配せし、中央区へと足を運ぶ。