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06_夫婦になるまでの記憶

 

 ペリューシアがセドリックに恋をしたのは、入学してまもないころだった。王立学園の校舎ですっかり道に迷っているところに彼が声をかけてくれたのだ。


(食堂はどっち……? すっかり迷ってしまったわ)


 広い敷地内で、ひとりおろおろとさまよい歩く。


 小道の脇には芝生が生えていて、その向こうに煉瓦造りの壁が続いている。いくつも建物が建っているためどこがなんの建物なのか分からない。

 入学してまもない学園の敷地の広さに、ペリューシアはすっかり混乱していた。


 するとそのとき、シュッという霧吹きのような音が耳を掠め、首筋に冷たいものが触れた。


「冷たっ」


 首筋に手を伸ばすと、わずかに濡れていた。そしてほんのりとジャスミンに似た甘い香りが鼻腔に届いたのと同時に、くらくらと目眩がした。


(立ちくらみ……?)


 雨でも降り出したのだろうかと空を見上げるが、雲ひとつない青空が広がっている。それなら首筋にかかった水はなんだろうかと疑問に思い、くるりと振り返ったとき、目の前に爽やかな青年が立っていた。


「何かお困りかな?」


 長身で、金髪碧眼の端正な顔立ち。優しげな眼差しに射抜かれたペリューシアの心臓が、どきっと大きく跳ねる。


 その瞳に釘付けになって、目が逸らせなくなる。数秒間固まったあとで、はっと我に返り、どうにか喉を鼓舞して質問に答えた。


「あの……ええと……はい。道に迷ってしまいまして」

「ふふ、迷子か。もしよかったら僕が案内してあげるよ」

「よろしいのですか?」

「うん。さ、行こうか」


 彼に手招きされ、ペリューシアはちょこんと隣に並ぶ。

 彼の横を歩いている間、ペリューシアの胸は高鳴りっぱなしだった。心臓の脈拍は勝手に加速していき、全く言うことを聞いてくれない。初めて経験する感覚にペリューシアは戸惑った。


「あなたのお名前は?」

「セドリックだよ」


 花が綻んだような爽やかな笑顔を目の当たりにしたとき、ペリューシアの心臓が弾けた。


(これは……ひと目惚れ)


 そして、セドリックに恋に落ちたと自覚したのである。どきどきとしながら歩くペリューシアの傍らで彼は不敵に微笑み、背中に持っていた謎の液体入りの小瓶をそっと、ペリューシアに気づかれないように――懐にしまった。




 ◇◇◇




 ペリューシアは決して、セドリックに愛されて結婚したわけではなかった。彼からしてみれば、公爵家の婿養子になるというのが主な目的で、ペリューシアはおまけのようなもの。


 貴族同士の結婚は基本的に政略的なもので、愛がないのは珍しいことではなかった。


「セドリック様は、わたくしのことがお好きではないでしょう?」

「……そ、そんなことは」

「ふふ、嘘をつかなくても結構ですわ。政略結婚に愛がないのはおかしいことではないもの」


 セドリックがペリューシアを見る眼差しに、一切恋愛感情は乗っていなかった。ペリューシアといえども、彼の気持ちに気づかないほど鈍くはなかった。彼は基本的に優しいが、最低限の礼儀以上を尽くすことはなかった。


 パーティーではエスコートしてくれるし、誕生日には沢山のプレゼントを贈ってくれる。だが、手を繋いだり、抱き締め合ったり、口づけを交わしたり、恋人同士のスキンシップを取ることは一度もなく。


(セドリック様はわたくしではなく、ラウリーン公爵家の娘と結婚したかっただけ)


 彼に求婚されたときから、彼の思惑は理解していた。全て承知の上で、肩書きだけの妻になり、愛されていないことは誰にも打ち明けなかった。



『ペリューシア。僕はあなたを愛している。あなたの純粋で優しいところに惹かれたんだ。だから、結婚してほしい』



 セドリックは大きな花束を持って、偽りの愛を囁き、ペリューシアに求婚した。花婿としてペリューシアの両親に認められるための演出だったのだろう。


 だから、彼の立場や体裁を守るためにそのまま恋愛結婚だと周囲に思わせておいた方が良いだろうと思い、彼の嘘に気づかないふりをしたのだ。


 セドリックはしばらくの逡巡のあと、決まり悪そうに頷く。


「ごめん。気づいちゃったんだね」

「……ですが、分かっておりますわ。体裁を守るために、このまま愛し合う夫婦のふりをしておくのが無難だということ」

「…………」


 ペリューシアは物分かりが良かった。求婚してきた彼の立場のために、権力欲しさの結婚ではなく、思い合って結婚したという方が明らかに聞こえが良い。


(セドリック様は人当たりも評判もいいけれど……野心家なお方。たったひとりの女の子の恋心を利用する、残酷な人。それでも、わたくしは愛してしまった)


 惚れたもの負けとは、よく言ったものだ。

 正直に打ち明けられた彼の本音に、つきりと胸が痛む。


 愛されていなかったとしても、父は乗り気だったし、ペリューシアに結婚を断る理由はなかった。セドリックにとって自分は、単に条件が良いだけの相手なのかもしれない。けれど、ペリューシアにとって彼は、かけがえのない愛する人だ。


「あなたは、この結婚が嫌だった?」

「いいえ……! わたくしが結婚したい方は、セドリック様以外にはおりません。いつか好きになってもらえるように、わたくしが頑張ればいいだけですもの」

「ペリューシア……。そう。本当に君は、僕のことが大好きなんだね」


 彼はそう言って、不敵に口角を持ち上げる。健気な恋心に応える気も向き合う気も更々なく、どこか他人事のような態度だ。


 ペリューシアは自分の好意を隠すことはせず、惜しみなく『好き』という言葉を伝え続けた。けれど結局、思いが通じ合うことはなかった――。

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