04_家を追い出されてしまいました
「見損なったぞ!」
執務室に、父の怒鳴り声が響き渡る。部屋の外までその声は届き、廊下を歩いていたメイドたちはびくっと肩を跳ねさせた。
――バシンッ。
ペリューシアは父に思い切り頬を叩かれて、床に倒れ込む。
「……っ」
ずきずきと痛む頬を押さえながら顔を上げれば、両親が軽蔑を滲ませた眼差しでこちらを見下ろしていて。
ペリューシアは今まで一度だって、父に打たれたことはなかった。父は、娘への怒りと娘に手を上げてしまった罪悪感がせめぎ合っているのか、叩いた手を小刻みに震わせている。
父の隣に立っているのはペリューシアの実母だ。愛人だったロレッタの母親はとうの昔に病死しているが、彼女は『子どもに罪はないから』と、愛人の子であるロレッタも我が子同然にかわいがっていた。
母はペリューシアと似て穏やかで控えめな気質の人だ。彼女は薄い紅を差した唇を開き、重々しく言う。
「ペリューシアから全て聞いたわ。あなたがしてきた嫌がらせの数々に、私がどれほどショックを受けたか分かる? 血の繋がったたったひとりの妹によくもあんなひどい仕打ちを……。今までずっと、あなたのことも自分の子どもだと思って愛情を注ぎ、大切にしてきたつもりよ。なのに、私の想いは何も届いていなかったのかしら……」
母は自分が悪かったのだと責め、じわりと目に涙を浮かべる。
「違うわ、お母様……。全部でっち上げなの。わたくしはお母様を泣かせるようなこと、何ひとつしていないから……っ」
「なら、この証拠はなんだっていうの!? ペリューシアが嘘を吐いているとでも? あの子は誰よりも、嘘を吐くのが下手な素直な子なのよ! それはあの子の傍で育ってきたロレッタならよく知っているはず」
彼女の言う通り、ペリューシアは素直で嘘を吐くのが苦手だ。
(知っているも何も――本人なのだけれど)
だからこそ、賢いロレッタはそれを利用したのだろう。ペリューシアが嘘を吐かないと周囲に信用されているからこそ、次々に嫌がらせの偽の証拠を作って、いじめらているとあちこちで吹聴した。もはや、言い逃れはできない状況である。
母が見せてきたのは、使用人たちの証言を集めた書面。
「これを見てもまだ何か言える?」
「…………」
メイドが入浴を手伝ったら、ペリューシアが痣を作っているのを見つけたり。
シェフが食材からこだわっている食事に大量の虫が混入していたり。
夫婦共同の居間を訪れたセドリックが、刃物で足を切ってうずくまっているペリューシアを見つけたり……。
メイドやシェフは、偽のペリューシアの自作自演にまんまと騙され、一連の嫌がらせがロレッタの仕業と結論付けた。
ペリューシアが使っている私室からは、偽のペリューシアを傷つけた刃物や虫などの見つかっており、もはや言い訳のしようがなかった。姉は巧妙にペリューシア陥れるための罠を仕掛けていたのだ。
「わたくしは、わたくしは……」
身体を乗っ取られていて、今目の前にいるのはロレッタの見た目をしたペリューシアなのだと打ち明けられたら、どんなによかっただろうか。
だが、口にすれば壮絶な苦しみの末に死ぬと脅されているので、真実を話すことができない。言葉を探してまごついていると、父に一蹴される。
「何も言う必要はない。どんな言い訳を並べたところで聞く耳を持つつもりはないからな。お前は幼いころからあらゆる面で優秀で期待していた。だが今回のことで、心底失望した」
「お父様……」
「父とは呼ぶな。もう私はお前の父ではない」
そう言って彼は絶縁状をこちらに叩きつける。
「今をもってお前を、ラウリーン公爵家から除籍する。せめてもの情けとして、学園卒業までの学費は支払ってやるが、二度と顔を見せるな」
「……」
父は触れたら凍えてしまいそうなほど冷たい表情をしており、母は両手で顔を覆いすすり泣いている。
そんな両親の様子を見て、胸が痛くなってくる。
(だめよペリューシア。ここで泣いてはだめ。わたくしは悪いことなどしていないもの)
惨めで、情けなくて、悔しくて、熱いものがこみ上げてくる。
必死に堪えていなければ、涙が溢れてしまいそうだったけれど、なけなしのプライドを掻き集めて、きわめて平然を装う。
わずかに震える手でロレッタに対しての絶縁状を受け取る。そして、一度ゆっくりと深呼吸したあと――美しい淑女の礼を執った。
姉と違って、取り立てて褒めるようなところはないかもしれない。けれど、幼いころから貴族令嬢として曲がりなりにも教育を施されてきたペリューシアにとって、あらゆる相手に最後まで敬意を尽くすことが矜恃である。辛い境遇に立たされ落ちぶれても、その矜恃までは捨てない。
「わたくしが罪を犯していないこと、いずれきっと証明して見せますわ。お父様、お母様……どうかお風邪を召したりしないよう気をつけてください。――お元気で」
「「……………」」
寂しげに微笑んだあと、部屋を静かに出ていくペリューシア。
残された両親は顔を見合わせる。
「今の……見たか?」
「え、ええ。あんなに深くて丁寧なお辞儀するのは――ペリューシアだわ」
ロレッタは他人にへつらうのを嫌い、どんな儀礼でも、どんな相手に対してでも、頭を下げなかった。
しかし今目の前でロレッタは、頬を叩かれたにもかかわらず、両親の身体を案じ、あまつさえ深々と頭を下げた。
それは、ロレッタに比べて優秀ではないが、優しくて思いやりがあり、どんな相手であろうと敬意を持つペリューシアと同じお辞儀だった。
◇◇◇
ロレッタに渡されたボストンバッグの中身だけでは、家の外で暮らすのに不十分だったため、ペリューシアは今後の生活に必要な最低限の荷物をまとめ、一部の財産も持って屋敷を出た。
馬車の停車場に移動していると、庭園のガゼボでロレッタとセドリックが仲睦まじげに話しているのが目に留まった。
ペリューシアが屋敷で身支度を整えている間、彼らはお茶を楽しんでいたようだ。
丸く均等に刈られた茂みに、季節の花が植えられた花壇。
空は嫌味なほど青々としていて、可愛らしい蝶たちが浮遊している。
(少し前まで、わたくしはあの場所にいたのに……)
心地の良い昼下がりに、セドリックとあのガゼボで談笑していた記憶が思い出される。
一見すると、今もセドリックとの会話を楽しんでいるのはペリューシアのように見えるが、それは見た目だけの話で、中身は姉のロレッタだ。
(セドリック様……とても楽しそうになさっていらっしゃるわ。……もう昔に戻ることはできないの?)
ペリーシアは身体を奪われただけではなく、住む家まで奪われようとしている。
楽しげなふたりの様子を見るのが辛くなって、ふいと顔を背ける。
ペリューシアはそのまま馬車に乗り込んだ。
「どちらまでお行きになりますか?」
「伯父のタウンハウスまでお願い」
「ニルソン伯爵ですね。かしこまりました」
ニルソン伯爵は母の兄にあたる。他に頼れそうな人がいないため、ひとまず、彼に追い出された事情を打ち明けて居候させてもらえないか交渉するつもりだ。
御者に指示を出したあと、柔らかな座席に腰を沈め、窓に頭を寄せる。動き出した馬車の車輪が石畳を踏む振動を感じながら、ペリューシアは目を閉じた。
(セドリック様も、誰も……わたくしの入れ替わりに気づいてくださらなかった。わたくしの居場所はもう……ここにはない)
瞼の裏に、先ほどの楽しそうなふたりが浮かび上がる。そして、ペリューシアの姿をしたロレッタのお腹の中に宿るのは、ペリューシアが心から望んでいたセドリックとの愛の証。
両親からの愛情も、住む家も、公爵家の継承権も、セドリックの妻の座も、彼との子も……何もかも、姉に奪われた。あの結婚式の日、幸せなエンディングは姉に壊されたのだ。
「うっ……、ふ…………ぅぅ」
ふいに、ペリューシアの目にじわりと涙が滲む。
唇を引き結んでどうにか堪えようとするが、次から次へととめどなく熱いものが頬を伝っていく。
人前では涙を見せまいと耐えてきたが、高ぶった感情をとうとう我慢できなくなり、両手で顔を覆いながらわっと泣き始めた。
嗚咽を漏らしたところで、車輪の音に掻き消されて御者の耳に届くこともないだろう。ここなら思う存分泣いていい。泣いたところで、涙を拭ってくれる人も、励ましの言葉をくれる人もいないのだけれど。
(どんな形であれ、それがセドリック様の幸せというのなら、わたくしは身を引くまで。お慕いしておりました、セドリック様。わたくしはただあなたの幸せを……願っておりますわ)




